そんな彼女の心中など、アレクは知る由も無い。上機嫌のままで言葉を紡ぐ。
「エリンと二人で行きたいんだ。……いいだろう?」
よくない――そんな冷たい言葉を即座に放ちかけた。ぐっと息を飲み込んで、エリンは断るための理由を必死に考える。
「……城下に行くなら、許可を取りに行く必要がありますよ」
申請して、それが認められるまでの間に朝市は終わってしまうだろう。開催時間が短いし、品数も限定されている。評判の屋台はすぐに売り切れるはずだ。
無駄足となるのなら、流石にアレクも諦めるだろう。エリンはそう読んだ。
しかし、アレクは表情を崩さない。真面目だなぁと軽く笑う。
「コッソリと行こう。すぐに出て帰ってくればバレやしないさ」
とんでもないことを言い出してきた。
アレクはシグルド付きの騎士として、それなりに地位のある身分である。そんな男が規則破りを提案してきたのだ。
模範となるべき存在としてあるまじき発言。エリンの眉間に皺がよる。
しかし、彼女は声高にアレクを咎めることは出来ない。軍令違反二回に謹慎処分という負の実績がある。お前はどうなのだと問われれば、返す言葉がない。
エリンの沈黙を、やはりアレクは都合よく受け取る。
「どうせなら、鎧なんか脱いじまえよ。せっかくだし、俺がエリンに似合う服を選んでやるぜ?」
肩に腕を回してそう囁かれれば、いよいよエリンの顔は蒼白となる。
冗談とも本気とも取れる声音だ。アレクは口角を上げて笑っていたが、瞳が爛々とエリンを見据えている。
助けを求めて周囲に視線を彷徨わせども、人通りは無い。
この回廊は元々人の往来が少ない場所だ。王族の個室へと繋がる渡りなのだ。要件がなければ立ち寄る者も少ない。
平時なら侍従らが仕事のために行き交うこともあっただろう。しかし、軍行中であるためか、シグルド軍は使用人を多く連れていない。
そして、元々アグスティ城に勤めていた使用人たちは、シャガール王と共にマディノ城へと移っていた。現状、この城は使用人よりも兵士の方が圧倒的に多かった。
人通りが少ないため、アレクにこれほど親しげにされても変な噂を立てられる心配は無さそうだ。しかし、この窮地を脱する手段がない。
誰でもいい。
例え顔見知りでなくとも、この場に誰か現れて欲しい。
例え後々不名誉な噂が流されようが、今の状況から逃げ出したい。
指先を震わせるエリンの目に、見知った青年の姿が見えた。心臓が大きく跳ね上がる。
こちらへと向かって歩く彼は、エリンと目が合うと即座に逸らした。見てはいけないものを目撃したかのような反応だ。
それに傷付くよりも先にエリンは声を上げた。
「フィン!」
アレクの腕を振り解いて、エリンはフィンの元へと駆け寄った。そして、驚きに目を見開く彼の右手を取る。フィンは、左手には何か包みを持っているので、キュアンの遣いの帰りなのかもしれない。
彼の仕事の邪魔するのは心苦しかったが、今は早くアレクから逃れたかった。
「ごめん! 待ち合わせに遅れちゃったよね!」
「……え?」
フィンの眉がわずかにひそまる。何が起きたのか、理解できてない様子だ。
そんな彼に、エリンは目で必死に訴えた――今は、助けてほしい。
エリンの心情は果たしてフィンに伝わったのだろうか? それが分かる前に背後からアレクがからかってきた。
「おいおい、先約があったのか?」
相変わらず声は軽いのに、何かを探るような響きがある。
「そ、そうです!」
もちろん嘘だが、もう押し通すしかない。動揺を隠すために、らしくなくエリンは声を張り上げた。
「朝食の後に、フィンと一緒に鍛錬をするって約束してて……」
だから急いで走っていた。それでアレクとぶつかったのだとエリンは嘘を組み立てた。咄嗟だったが、彼女にしては珍しく真実味のある嘘になった。
バレないようにと祈る気持ちと同時に心臓が駆け出す。
無意識にフィンの右手を握る指先に力がこもった。彼が息を呑む音ですら、今のエリンには聞こえない。
とにかくアレクから逃れたい一心だった。エリンは思い詰めた表情でフィンへと顔を向けた。
「そうだよね、フィン!」
フィンが違うと言えば、即座に破綻する嘘だ。果たして彼は話を合わせてくれるのだろうか――今更になってエリンの不安が湧き上がる。
開拓村救援以来、フィンとまともに目を合わせていない。会話だって皆無だ。
きっとフィンはエリンを嫌っている。それほどの侮辱を彼に行なってしまった。
そんな彼が、果たしてエリンに協力してくれるだろうか?
嘘つきだと糾弾し、ますますエリンを嫌悪する可能性が高い。もしも、フィンに冷たい眼差しで見られたら――想像だけでも胸が痛い。
フィンは何も言わない。困ったように口を噤んでいる。きっとエリンに幻滅したのだ。
不意に視界が滲んだ。フィンの表情がぼやけて霞む。彼に嫌われたのだと自覚した瞬間に、息苦しさを覚える。
もうだめだ。
誠実なフィンに、嘘を強要したことが間違いなんだ。
心が折れ、エリンが謝罪の言葉を口にしようとしたその時だった。エリンの手をフィンの右手が握り返した。
驚き、目を見開くエリンの耳にフィンの声が届く。
「うん。きみを迎えに来たんだ」
その瞬間、エリンの胸の奥で固まっていた恐怖が一気にほどけていった。
フィンの声は、落ち着いて優しい。もう心配はない、エリンへそう言い聞かせるように。
「待ち合わせ場所に全然来なかったらから、心配したよ」
笑いかけてくれるフィンを見たのは、久しぶりだった。不安は消え去り、繋いだ手から全身が暖かくなった気がした。
「……ありがとう」
エリンが礼を言えば、フィンはまた手を握り返してくれる。
助かった。そんな安堵に満たされたエリンだが、アレクはまだ諦めてなかった。
「鍛錬に付き合うなら、フィンより俺の方が適任じゃないか?」
アレクの足音が近寄ってきた。ゆったりとした足取りだが、どこか威圧感を思わせる。
振り向くのが怖くて、エリンの顔はフィンに向けられたままだ。みるみる青ざめるエリンを見てフィンは何を思ったのだろうか、不意に手を離された。
再び不安がエリンを包み込む。一気に体温が冷え下がった。やはりフィンは嘘をつくのが嫌だったのか……?
落ち込むエリンの背に、フィンの右手が当てられる。そのまま、彼はエリンを己の背後に隠した。アレクからエリンを庇うように。
驚いたエリンは顔を上げ、気付いた。フィンはまた背が伸びている。
ハイライン城滞在時はエリンの目線より少し上ぐらいだった。今は顔を上げて見上げるほどの差が生まれていた。
広くなった背中を見て、エリンの頬に熱が籠る。
アレクが軽く口笛を吹く音が聞こえた。
「お熱いねぇ……。澄ました顔してる癖に手が早いんだな、あんた」
「そういうわけではありません」
反論するフィンだが、エリンを守る体勢は崩さない。
「確かにアレク殿に比べれば、私は未熟でしょう。ですが、エリンは私に槍術を習いたいと願ってきたのです」
アレクの得手は、シアルフィの剣術。
フィンの得手は、レンスターの槍術。
「へぇ、エリンから……ねぇ」
エリンが槍術が不得手なのは、アレクも知っている。フィンの言い分はエリンの生真面目さを考えると不自然な嘘ではないはずだ。
どうか納得してくれ――フィンの背後でエリンは祈る。冷や汗が止まらない。それでも指先が震えないのは、彼が守ってくれているから。
沈黙の後、アレクはわざとらしいため息を漏らした。
「先約があるのなら仕方ないな。今日は俺が引き下がるよ」
さほどがっかりした様子はない。むしろ駆け引きを楽しんでいるかのような声音だ。
胸を撫で下ろすエリンに、アレクは声をかけた。
「次は二人きりで出かけような、エリン」
びくりと体が震えた。フィンの背に隠れているから、アレクの目には見えなかったはずだ。それなのに、アレクは愉快そうな笑い声を上げる。
こちらに向かってくる足音がする。咄嗟にエリンはフィンの背中に縋り付く。フィンの肩がわずかに跳ねた。その揺れから彼の緊張が伝わってくる。
「じゃあ、邪魔者は退散するよ。またな、エリン」
そのままアレクは食堂方面へと去って行った。すれ違いざまにエリンの頭を撫でて行く。エリンの背筋に寒気が走る。
フィンの背中に顔を埋めていた彼女には、アレクがどんな表情を浮かべていなのか分からなかった。
やがて足音は遠ざかり、何も聞こえなくなる。それでも残されたエリンとフィンは動かず、沈黙のままだった。
時間にすればわずかな間だが、エリンには長い長い時を耐えているような錯覚を感じていた。
「……もう大丈夫だと思うよ」
小さな声でフィンが話しかけてきた。
「まだ動けない?」
「……ううん、平気」
ゆっくりとフィンの背中から額を離す。ぬくもりが離れることが惜しいと、エリンは思ってしまった。
エリンが離れると、フィンがこちらへと体を向き直す。対面した状態になるが、エリンはフィンの顔を見られないでいる。
「ごめんなさい。フィンを巻き込んじゃって……」
しかも庇うための嘘まで作らせたのだ。申し訳なさから、エリンの視線は足元へと向く。
「いや……私のことは別に、いい」
フィンもまた、エリンを見ない。彼の頬もエリンと同じく赤くなっていた。その目は水面が乱れるように揺れている。
互いに言葉が続かない。もっと話したいことがあるのに、どうしても気後れしてしまう。
仲直りをしたいとエリンは願っているのに、いざフィンを前にすれば臆病になってしまう。それどころか、彼にまた迷惑をかけてしまったという申し訳なさに口を噤む。
エリンの視線は無意識にフィンの右手に向けられていた。
前に触れた時よりも、彼の手は大きくなった気がする。見た目は骨が浮き出て硬そうだ。鍛錬により、皮膚も硬くなっている。義父たちと同じ、大人の騎士の手に近付いている。無骨な男の手に――。
それなのに、フィンに手を取られた時、温かさと同時に柔らかさを感じたのだ。エリンの小さな手を、心地良く包み込んでくれる。
以前はあの手を取ることが怖かった。触れることによって自分が変わってしまいそうで……。
だが、今は違う。手を離された時、胸の奥を締めつけられるような痛みが走ったのだ。さらには、あの手にまた触れたいという欲すら疼く。
己のはしたなさを恥じて、エリンはますます顔を俯けた。もっと触れたい、触れてほしい――そんなことを思う自分がいやらしくて悍ましい。
「……アレク殿と、喧嘩でもしたのか?」
ポツリと問われた言葉は、小さくて聞き取りづらかった。それでもエリンの耳には、はっきりと届いた。
「してない……たぶん」
要領の得ない返答だ。だけど、エリンはそれを気にしてる余裕はない。
フィンに対して抱いてしまった浅ましい欲求を、隠すのに必死だ。彼は、エリンのことを気遣ってくれているのに。
口籠るエリンを、やはりフィンは直視出来ずにいる。時折せつなげな眼差しをエリンに向けるのだが、彼女はそれに気付かない。
気もそぞろなエリンに、またフィンは問いかける。
「私のせいで、エリンはアレク殿と……仲違いをしてしまわないか?」
「え?」
突拍子も無い質問に、エリンは思わずフィンを見てしまった。
フィンは失言した、とでも言いたげに目を伏せていた。眉間に皺が寄っている。
エリンの視線に耐えきれなくなったのか、フィンは苦しげに言葉を続けた。
「さっきだって、きみを庇ったせいでアレク殿に誤解させてしまうかもしれない。それでも……私は――」
「待って、フィン!」
とんでもない勘違いをされていることに気付き、エリンは慌てて口を挟んだ。
「違うの、アレクさんは……ただからかってるだけ!」
こういった話題に鈍いエリンでもさすがに分かった。フィンは、アレクとエリンを恋仲だと誤解している。
よりにもよって、フィンにそんな風に思われてしまうとは――エリンは焦りのあまり、フィンへと距離を詰める。彼が驚きと戸惑いからか、反射的に一歩下がる。しかし、逃さないとばかりにエリンは両手でフィンの右手を握りしめた。
「私とアレクさんは、別に何も無いの! さっきだって……きっと、アレクさんも本気じゃないはずだよ!」
アレクの悪癖は軍内で有名だ。日替わりで違う女性に粉をかけているのを度々見かける。
今日はたまたまエリンだっただけだ。
「お願い、信じて……」
エリンの声は震え、涙が混じる。フィンにだけは信じて欲しかった。……いや、他の誰であってもエリンとアレクの間に何も無いと信じて欲しいのだが。
それでも、フィンに勘違いされるのが一番嫌だとエリンは思ってしまう。
朝の回廊は静かで、二人の息遣いしか響かない。窓の外から、鳥の囀りが時折届く。