フィンはエリンを見てくれない。思い詰めたような表情であらぬ方向を睨みつけている。
「……先日」
ポツリとフィンが言った。
「着飾ったきみと、アレク殿が……話しているところを見た」
「――え」
フィンがエリンを見る。冬の空のような青藍の目は、悔しげに歪んでいた。
「親しげに、アレク殿はエリンを褒めていて……きみも、照れたように俯いて――満更でもなさそうだったじゃないか!」
フィンの声が回廊に反響する。朝の冷えた空気を震わせたのは、彼の嫉妬に滲んだ叫びだった。
「それで……それで、二人でそのまま城下へと出かけて行っただろう!」
怒りに駆られながらも、その声音にはどうしようもない痛みが混じっていた。フィンの表情は、傷付けられたかのように悲しみの影を落としていた。
初めてぶつけられたフィンの感情にエリンは戸惑う。同時に疑問が浮かんだ。
「……二人でって」
「エリンとアレク殿のことに決まってるだろう!」
言い切った後に、フィンは我に帰ったようだ。即座にエリンから顔を背ける。
拗ねた、というよりも己の失態を恥じたという素振りだ。
「……ごめん」
フィンの声から怒気が消えた。低い声音に残るのは罪悪感だった。
「きみを責めるつもりは……なかった。ごめん、忘れてくれ」
自戒の念からか、フィンは握られたままのエリンの手を振り解こうとした。が、エリンは逆に強く掴んだ。
「ねぇ、フィン」
行かないで、と訴えるようにエリンは両手でフィンの右手を包み込む。大きく固い手が、怯えたように震えた。
エリンは、じっとフィンの顔を覗く。フィンは目を合わせてくれない。しかし、話を聞いてくれそうだった。身動きをしない。
「私とアレクさんが話してたのって、いつの話?」
問いかけると、フィンは小さな声で答えてくれた。やはり、シルヴィアと一緒にお洒落をした日だった。
「その日、シルヴィも一緒にいたよ」
「え……」
そんなはずは――と、かすかな呟きが聞こえた。しかし、確信が持てないように彼の目は揺れていた。
フィンの記憶は間違っている。
あの日のエリンは、シルヴィアと二人して似た造りの流行りの服を着ていた。そのせいで、フィンは見間違えたのかも知れない。
あのとき喜んでたのはシルヴィアだった。アレクにご馳走してもらえるからと、はしゃいでいた。
しかし、見間違うのは不自然だ。
エリンとシルヴィアの髪色も長さはまるで違う。いくら二人の背丈が同じくらいでも、間違うことはないだろう。
フィンの視力がよほど悪いなら、という言い訳も難しい。
エリンは干した麦藁に似た色合いの金髪。
シルヴィアは鮮やかな若葉に似た色合いの緑髪。
さすがに間違うことはないだろう。
「確かにあの後、アレクさんと食事に行ったけど、二人きりじゃない。私とシルヴィと――あと、デューも合わせて四人で行った」
疑うならシルヴィアやデューに話を聞いてもいい。エリンはそう付け加えた。
フィンは黙ったままだ。ただ、思案するように目を伏せている。
無理に問い詰めることなくフィンを見ていると、彼は何かに気づいたかのように目を見開く。
「あの時、エリンの声が聞こえて……」
フィンは自分の記憶を探るように呟いた。やがて、当日の光景をしっかりと甦らせたのか、彼の目線が忙しなく動き出した。
冷静さは取り戻せていないのか、徐々にフィンの顔が赤く染まってゆく。首筋に浮かんだ血管を伝うように、汗が一筋流れた。
「すまない……!」
きっと両手が自由ならば、フィンは目元を覆っていたのだろう。エリンが握る右手と、包みを持つ左手が動揺を表すように跳ねた。
耳まで赤くなるフィンを見て、エリンは安堵した。
「信じてくれたんだね……」
良かったと胸を撫で下ろす。同時に涙が一つこぼれ落ちた。それを見て、フィンはますます慌て出した。
「違っ……いや、私がそもそも勘違いをしていたから、きみは悪くなくて! あの時、私は――」
あの時、エリンはフィンの姿に気付かなかった。もしかしたら、フィンの位置的にシルヴィアが隠れて見えなかったのかも知れない。
冷静なフィンが状況を読み間違えるのは、珍しいことなのだろうとエリンは思った。だから、こんなに取り乱しているのだろうと――。
「エリンしか見てなかったから!」
一瞬、フィンが何と言ったのか、エリンは理解出来なかった。目を丸くして、彼の顔をじっと見る。
固まるエリンを見て、フィンは何かに気づいたように小さく声を上げた。心中の混乱を表すように、その目が泳いでいる。
その間にも、エリンは反芻するようにフィンの発言を頭に響かせた。そして、その意味を理解した時、彼女の顔が発火した。
「え、えと……フィン、今の言葉って――その……」
確認するように上目遣いで見上げれば、フィンは顔を俯けた。耐えきれない、そんな様子だ。繋いだ手は汗でしっとりと濡れている。
「私だけを見てたって……」
声が震える。唇が乾く。
心臓は跳ね続けて胸が苦しい。頭にも熱がこもり、クラクラと眩暈がする。
それでも――やっぱり答えを聞きたかった。
フィンの右手を強く強く握りしめて、エリンは聞いた。
「……ほんとに?」
フィンは答えない。代わりに肩がびくりと跳ねた。彼の体が震えているのは、恥ずかしさからだろうか。
鼓動が落ち着かない。口から溢れてしまいそうなほど高鳴っている。――でも、不快ではなかった。胸を満たしているのは、むしろ喜びだった。
「うれしい」
ポツリとこぼれた言葉に、フィンが反応する。驚いた顔でエリンに目を向けたのだ。そして、そのまま動かなくなる。
彼の瞳に映るエリンは微笑んでいた。でも、彼女は自分がどんな笑みを浮かべているのか気付いていない。
肩の力を抜いた自然な笑顔。目を細め、頬をほんのりと染め、口元は緩く弧を描く。口付けを待つように、うっとりとフィンを見つめているのだ。
フィンの右手を包むエリンの指先は広がり、彼の指へと絡ませる。指と指の間にある薄い皮膚が触れ合う感触が心地よく、エリンは陶酔するように吐息を漏らす。
息を呑むように、フィンの喉が動く。
知らず知らずに二人の距離は詰められていた。あと半歩も歩み寄れば、互いの体温が触れ合うほどに密着出来る。
熱のこもった呼吸はどちらのものだろうか……。感情に浮かされるまま、エリンはフィンを見つめる。その先を促すように。
息苦しいほどの鼓動は、全身に血を巡らせ顔を火照らせる。しっとりとした熱を帯び、互いの視線が潤んで絡む。
自然と、フィンの左手がエリンの背に回る。そして、そのまま彼は彼女を引き寄せた。
見つめ合う二人の体が近づき、互いのぬくもりが肌に伝わった――瞬間、雰囲気をぶち壊す空腹の音が鳴り響いた。
音の発信源は、エリンからだった。
「……え」
「ごめんなさい!」
即座にエリンはフィンから離れた。突風のような逃げの速さは、フィンが引き止める猶予すら与えない。
名残惜しむように、フィンは左手を掲げたままだった。エリンは当然それに気付かずに、その場へうずくまる。
恥ずかしさで全身が発火しそうだ。
お腹の音を聞かれたこともだが、先ほどまでの自分たちの状態も羞恥心に拍車をかける。もしも、あのまま続けていたら――想像しただけで叫びたくなった。
(でも、もう少しだけ――……何を考えてるの⁉︎)
かすかな欲の声が胸の中で響いて、エリンは両手で頭を抱え込む。騎士としてあるまじき思考だ。常日頃冷静であれと、散々フィリップやアルヴァに教えられていたはずなのに。
あんな、惑わすような仕草をよりにもよって、フィンに見せるなんて――エリンはもう顔を上げられない。彼の足元すら見られない。
再び回廊は沈黙に包まれるが、静寂とは程遠い。己の心音がけたたましいほどに全身を響かせていた。
しかし、このまま停止しているわけにはいかない。時間的に朝食を終えた者たちが出てくるはずだ。こんな場面を目撃されたら、間違いなく噂の種になる。
それを理解しているのに、この場をどうやって切り上げればいいのかエリンには分からない。
途方に暮れる彼女へ向かって、足音が近づいて来た。
「エリン、その……朝食が足りなかったのか?」
分かっている。フィンはエリンに気遣ってくれているのだ。
分かっている。決して、からかっているつもりはないのだ。
――だけど、もうちょっと言い回しに気を遣って欲しかった。エリンは目に涙を滲ませながらフィンへの不満を募らせる。
動かないエリンの前でフィンがしゃがみ込む。そして、左手の包みを差し出す。
「良かったら、これを食べるかい?」
包みが開封され、中身が晒される。
固い丸パン、チーズ、干し肉に干し葡萄。どれも魅力的にエリンの目に映る。
返事は口からではなく、腹から出た。
今すぐこの場から私を消し去ってくれ――そんな破滅的な願いすらエリンは抱く。
◆ ◆ ◆
秋が深くなるにつれ、朝の空気は澄んでひんやりとする。それでもまだ肌寒くはない。清涼な温度が心地良い――はずなのだが、エリンは居心地の悪さしか感じない。
場所は庭園。数日前に、エリンが歌唱披露した場だ。
庭園はアクスティ城の奥向きに配置されており、ついでで人が通る場所ではない。
噴水の音と鳥の囀り、秋風に揺れる木々の梢――開けた場所であるはずなのに、落ち着いた空間に包まれていた。
エリンとフィンは設置されたベンチに並んで座っている。
目の前には、噴水。飛び散る水滴が、朝日に反射して星々のように煌めく。そんな幻想的な風景よりも、エリンの目は膝の上で握られた己の拳を見ている。
「ほら、エリン」
隣に座るフィンに呼びかけられて、エリンはおずおずと彼を見た。
フィンは不恰好なサンドイッチを差し出している。固い丸パンを手で千切り、その中にチーズと干し葡萄を入れてくれたものだ。
「遠慮しなくていいから。食べて」
断ることも出来ずにエリンは恐る恐る手を伸ばす。フィンの指先に触れた瞬間、彼女の頬が赤らむ。
それはフィンも同じだったのだが、互いに指摘することはなかった。
「……ありがとう、フィン」
礼を口にして、サンドイッチを口元まで運ぶ。しっかりとした弾力のパンから放たれる小麦の香りが食欲をそそった。
小さく祈りを捧げて、エリンはパンに齧り付いた。
固めのパンは噛み切るのに少し力が必要だった。ぷつりと音立ててエリンの口に収まる。
咀嚼すれば、密度あるパンの噛み応えを味わえた。それにチーズと干し葡萄が混じり合い、甘塩っぱい味が口中に広がった。
初めての組み合わせだが、悪くはない。新鮮な味付けに、エリンは目を輝かせてまた一口頬張った。
不意に、隣から笑いが溢れる音が聞こえた。横目で見れば、フィンと目が合う。
笑われた意味が分からずに、エリンはパンに頬張ったまま硬直する。頬がまた、熱くなった。
「ご、ごめん。からかったわけじゃないんだ」
フィンが謝罪する。
「その……嬉しそうに食べるんだなと思って」
見つめ合うことに耐えられなくなったのか、フィンの視線は行き場もなく彷徨う。さらさらとした青髪から覗く耳が、鮮やかに赤く染まっている。
意地汚いと思われたのだろうか――そんな不安が過ぎる。エリンの顔色が暗くなりかけた時、フィンが言葉を被せた。
「……可愛らしいと……思ったら、つい」
瞬間、エリンは咽せた。激しく咳き込み、体を折り曲げる。