名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

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8-4 きみは、本当に……意地悪だ

「エリン! 大丈夫か⁉︎」

 

 即座にフィンは自身のポーチから皮袋を取り出す。

 

「水を飲んで、早く――」

「も、持ってる! 私、持ってる、から……!」

 

 咳き込みつつ、エリンは慌てた。

 

「ある、から……だ、大丈夫……!」

 

 左手で己のポーチから水筒用の皮袋を探る。しかし、動揺のせいか上手く取り出せない。

 その間にも、フィンは自分の皮袋の栓を開けてエリンの口元へと運んでくれた。

 

「ほら、早く。喉に詰まらせてしまう」

「う……」

 

 拒もうとしたが、唇は素直に受け入れていた。飲み口から注がれる水を、コクコクと喉へと通す。

 二、三口ほどの量だが充分であった。喉に詰まる苦しみは消えた。

 だがしかし、別の苦しみがエリンを襲っている。

 そんなことには気付かないフィンは、安堵したように息を吐いた。

 

「ゆっくり食べないと、駄目だよ」

 

 元々フィンが悪いのに……。そんな気持ちからつい、エリンは反抗してしまった。

 

「フィンが、可愛いなんて言うから……」

 

 恨めし気に言うと、びくりとフィンの体が大きく揺れた。直前までの年上振った表情から一気に崩れる。

 無意識に可愛いと口にしたのか? そう思ったら、エリンは少し腹立たしくなった。自分はこんなにも動揺したのに、フィンにとっては取るに足らない単語だったのか?

 きっとあの時のシルヴィアもこんな気持ちだったのだろう。彼女がレヴィンを怒った理由がよく理解出来た。その気もないのに惑わせないでほしい。

 

「水だって……私、自分の持ってるって言ったのに、また……」

 

 以前の記憶が蘇り、頬が熱を帯びる。エリンの声は次第に掠れていった。

 これで二回目だ。フィンと間接的に口付けるのは。

 あの時もそうだった。フィンはエリンの身を心配するだけで、全く意識していなかった。動揺するのは自分だけで、そのことが悔しくて……悲しい。

 フィンにとって、エリンは同じ見習い騎士で、手のかかる年下ぐらいにしか見えてないのだろう。今までのやりとりを思い返しても、そうとしか思えない。

 好きが込められていない【可愛い】なんて嬉しくない。ズキズキと胸が痛む。

 手の中のサンドイッチが鉛のように重く感じた。胸が苦しくて、空腹がどこかへ行ってしまった。

 フィンにだけは、中身のない可愛いだなんて言われたくなかった。そんなことを思う自分が強欲で嫌いだ。ちっとも可愛くなんてない。

 でも、自分ばかりが意識してるのが辛い。フィンにとっては取るに足らないことでも、エリンにとっては――。

 

「ごめん……」

 

 フィンの声が揺らいでいた。低くなった声が、不安定に掠れている。

 その声音があまりにも不自然なので、エリンは思わず彼の方を見て――目を丸くした。

 顔を覆い隠すようにフィンは右手を当てている。隠しきれない肌は、林檎よりも赤かった。

 

「わ、わざとじゃないんだ……! その……恥をかかせるつもりなんて、そんなこと、なくて……!」

 

 しどろもどろとフィンは言う。まるで言い訳をするみたいに。

 エリンの方を全く見ない彼の額には、玉のように汗が浮かんでいた。隣に座っているのに、フィンの熱が伝わってくるほどだ。

 

「エリンが、心配だったからで……その――ごめん! あの時も本当に何も気付いてなくて……!」

 

 ついには、フィンは両手で頭を抱え込んだ。

 

「嫌がっていたことに……後から気付いて、それで……その……あああ……」

 

 悶えるようにフィンはうめき声を上げた。限界を突破したらしい、そのまま動かなくなる。

 エリンも硬直していた。フィンが何を言っているのか、よく理解出来なかった。

 

「フィン……?」

 

 呼びかけてもフィンは頭を下げたまま唸っている。よほど恥ずかしいらしい。

 とりあえず彼の謝罪は皮袋による間接キスのことだろう。そこまではエリンは把握出来た。そして、フィンは羞恥で落ち込んでいる。それはつまり――。

 

「フィンは嫌だったってこと……?」

 

 やっぱりフィンにとっては迷惑だったのだろう。エリンだけが勝手に意識していたのだ。あんなに恥ずかしい思いをしたのに、フィンにとっては疎ましい記憶だったと――。

 

「ち、違うっ!」

 

 フィンが爆ぜるように顔を上げた。そして、真っ直ぐにエリンを見つめて叫んだ。

 

「私は嫌じゃない!」

 

 庭園中に響き渡る声量だ。木々で戯れていた小鳥たちが一斉に飛び立った。

 

「あ……いや、違う! わざとじゃない! エリンに、私の皮袋に、口を付けて貰いたくてやったわけでは……なくて……」

 

 だんだんと声に勢いが無くなってゆく。最後の方は独り言に近い大きさだ。肩を落とし、フィンは気まずそうに横目を向く。

 

「く……口付けを……強要させたかったわけじゃ、ないんだ……」

 

 そうして、またフィンは頭をがくりと下げた。両手で頭を押さえ込み、爪を立てる。己の失態を責めているようだった。

 エリンは突然のフィンの慌てぶりに、目を丸くしていた。

 

「嫌じゃなかったの……?」

 

 鸚鵡返しのように問い返せば、フィンの肩が跳ねる。項垂れたままでエリンを見てくれない。

 フィンの頬の赤らみはいよいよ強くなり、触れば火傷してしまいそうだ。

 

「……嬉しかったの?」

 

 嫌じゃない、ならば……そういうことなのか?

 確認したくて問いかけると、フィンがまた唸り声をあげた。

 

「……きみは、本当に……意地悪だ……」

 

 恨めしそうな言葉だが、その声に嫌悪の色はない。むしろ、その逆に思えた。

 指の隙間からフィンの目が覗く。熱を帯びて潤んだ、青藍の瞳。明るい夜空を思わせるような、濃い青色。星が瞬くように光が揺れている。

 耳まで赤くし、耐え難いと震えるフィンの姿。

 それを――愛らしいとエリンは思ってしまった。

 

「かわいい……」

 

 ポツリとそんな言葉を溢してしまった。

 瞬間、フィンが完全に崩れた。

 

「また……きみは、本当に……!」

 

 フィンの嘆きで、エリンは己の失言に気付いた。年頃の青年に、しかも年下の自分が可愛いと言うのは侮辱だろう。

 さらに、先ほどエリンは怒ったばかりなのだ。気軽に可愛いと言って欲しくないと。

 それなのに、自分でも同じことをしてしまった。仕返しと取られても言い訳が出来ない。

 

「ご、ごめんなさい! 私、その……フィンをからかったわけじゃなくて」

 

 じゃあなんだと問われれば、答えられない。弱ったフィンの姿にときめきを覚えたなどと、さすがに口には出来ない。

 必死に頭を回転させて、良い理由を思いつく。

 

「……フィンのこと、好きだから」

 

 言い切った瞬間、胸の奥が少しすっきりした。これなら悪口じゃない、と自分に言い聞かせる。

 けれど、フィンは顔を上げない。両手の間から覗く耳まで真っ赤で、肩が小さく震えていた。

 エリンは自分がまた失敗したのかと、不安になった。

 

「フィン……あの」

「一つ、きみに尋ねたい」

 

 被せるようにフィンが問いかけてきた。

 

「エリンは……そういうことを、他の人にもよく言うのか?」

「そういうこと?」

 

 意図が組めずに、エリンは首を傾げる。

 フィンが上半身を起こした。両手も顔から外して、膝の上に置く。

 顔の赤らみは薄れていないが、それでも何かを決意したかのように眉を吊り上げている。

 彼はじっとエリンを見つめる。熱が込められた眼差しに、エリンは息苦しさを覚えた。それなのに、その視線を逸らせない。

 フィンの薄い唇が動く。

 

「好き、なんて……誰にでも言えるものなのか?」

 

 息を呑んだ。胸が跳ねて、喉が急に渇く。

 

「え……」

 

 そして、エリンも赤面した。

 返答に詰まる彼女に対して、フィンはさらに踏み込んだ。

 

「例えば……アレク殿にも、同じことを?」

「言ってないよ!」

 

 反射的に叫んでいた。疑われるのがたまらなく嫌で、胸が締め付けられる。

 そもそも何故、アレクの名前が出るのか。

 

「しかし、ここで以前……君は――」

 

 即座にエリンはフィンの言いたいことを汲み取れた。

 

「シルヴィは友達だもん! そういう意味じゃないよ!」

 

 確かに、あの時はシルヴィアを元気付けたい一心で好きだと伝えた。決して、誰彼構わずに愛を振り撒いているわけではない。

 フィンにだけは疑われたくない。手元のサンドイッチを強く握りしめる。

 焦るエリンをフィンは見つめている。何かを求めるように、その目力は強い。

 

「じゃあ、私は……?」

 

 ポツリと問われた。

 

「私を――好きだと言ったのは、何故?」

 

 エリンは答えに詰まる。

 返答は決まっている。フィンを異性として好きだからだ。しかし、口に出せない。

 それはもう、愛の告白だ。彼と未来を誓えたら、どれほどに幸せだろうか!

 だが、臆病がエリンに覆いつくす。

 もしもフィンに拒絶されれば、エリンは立ち直れない。こんなにも胸を焦がす想いを抱いたのは初めてだった。この人が欲しいと願ったのは初めてだった。

 初恋はとうに済ませている。しかし、それは憧れのような淡い想いだった。失恋しても、さほど苦しむことは無い。相手の幸せを願う余裕すらあった。

 だが、フィンは――この恋だけは失えば、エリンはしばらくは立ち直れないだろう。彼の隣に立てなくなることを思うと、胸が裂けそうだった。

 玉砕することが恐ろしくて、エリンは俯く。手の中のサンドイッチは、強く握られた結果潰れていた。

 フィンの顔を見られない。見たら言わなくてはいけない。エリンのこの想いを――。

 鳥の囀りが空から響く。若い二人を囃し立てるように。

 やがて、フィンが口を開いた。

 

「……ごめん」

 

 エリンの心臓が大きく跳ねた。フィンが彼女の心中を汲み取ったのかと驚いたからだ。

 ごめん――その一言で胸が潰れた。終わった、としか思えなかった。視界が熱を持って歪んだ。

 

「……私のほうこそ……ごめんなさい」

 

 泣き声になってしまった。仕方ないだろう、感情が抑えられないのだから。

 この場には逃げ出したい。これ以上、未練を募らせたくない。……泣き顔をフィンに見られたくない。

 駆け出そうとしたエリンの足を止めたのは、やはりフィンの声だった。

 

「エリンを困らせるつもりじゃなかったんだ……」

 

 気落ちしたようにフィンは言う。

 

「ただ……私だって、きみに好きだと言われたら……その、勘違いしてしまう」

 

 驚きの勢いでエリンはフィンを見た。

 フィンの顔は変わらずに赤い。だが、彼はエリンから視線を逸らしてなかった。

 決して逃げない、逃がさない――あの時と同じ眼差しをエリンに送っている。

 静かになろうとしていた心臓がまた、やかましくなる。フィンの熱が伝染したかのように。

 

「好きだなんて言葉……エリンには、気軽に振りまいて欲しくない。私以外に……誰であっても」

 

 フィンが手を伸ばしてきた。エリンは思わず身を縮めた。彼の熱がこもった眼差しに耐えきれなかったからだ。こちらだって勘違いしてしまいそうになる。またサンドイッチが手の中でさらに潰れて具がはみ出た。

 震える指先は、エリンの頬に触れようとして――そのまま降ろされる。

 フィンはエリンから目を逸らした。

 

「……ごめん、ただの我儘だ」

 

 気まずい空気が二人の間に漂う。エリンが踏み込めば、話を続けられるかもしれない。フィンが自分をどう思っているのか……だが、怖くて踏み出せない。

 誤魔化すために、エリンは潰れたサンドイッチを口いっぱいに頬張った。味は甘塩辛いはずなのに、心のざわめきがそれをかき消す。苦味のように感じられるのは、緊張と不安のせいだろう。それでも、エリンは食べるのをやめない。沈黙を保つために、そして自分の動揺を隠すために。

 全て胃の中に収めると、今度こそ自分の皮袋で水分を補給した。以前の失敗から、エリンは必ず持ち歩くようになっている――また同じことを繰り返してしまったのだが。

 二度目の間接的な口付けを思い出して頬が赤くなる。胸の高鳴りに気付かないふりをして小さく食後の祈りを捧げる。

 しばし逡巡した後、エリンはフィンの膝元を見て言った。

 

「……ありがとう、フィン」

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