「エリン! 大丈夫か⁉︎」
即座にフィンは自身のポーチから皮袋を取り出す。
「水を飲んで、早く――」
「も、持ってる! 私、持ってる、から……!」
咳き込みつつ、エリンは慌てた。
「ある、から……だ、大丈夫……!」
左手で己のポーチから水筒用の皮袋を探る。しかし、動揺のせいか上手く取り出せない。
その間にも、フィンは自分の皮袋の栓を開けてエリンの口元へと運んでくれた。
「ほら、早く。喉に詰まらせてしまう」
「う……」
拒もうとしたが、唇は素直に受け入れていた。飲み口から注がれる水を、コクコクと喉へと通す。
二、三口ほどの量だが充分であった。喉に詰まる苦しみは消えた。
だがしかし、別の苦しみがエリンを襲っている。
そんなことには気付かないフィンは、安堵したように息を吐いた。
「ゆっくり食べないと、駄目だよ」
元々フィンが悪いのに……。そんな気持ちからつい、エリンは反抗してしまった。
「フィンが、可愛いなんて言うから……」
恨めし気に言うと、びくりとフィンの体が大きく揺れた。直前までの年上振った表情から一気に崩れる。
無意識に可愛いと口にしたのか? そう思ったら、エリンは少し腹立たしくなった。自分はこんなにも動揺したのに、フィンにとっては取るに足らない単語だったのか?
きっとあの時のシルヴィアもこんな気持ちだったのだろう。彼女がレヴィンを怒った理由がよく理解出来た。その気もないのに惑わせないでほしい。
「水だって……私、自分の持ってるって言ったのに、また……」
以前の記憶が蘇り、頬が熱を帯びる。エリンの声は次第に掠れていった。
これで二回目だ。フィンと間接的に口付けるのは。
あの時もそうだった。フィンはエリンの身を心配するだけで、全く意識していなかった。動揺するのは自分だけで、そのことが悔しくて……悲しい。
フィンにとって、エリンは同じ見習い騎士で、手のかかる年下ぐらいにしか見えてないのだろう。今までのやりとりを思い返しても、そうとしか思えない。
好きが込められていない【可愛い】なんて嬉しくない。ズキズキと胸が痛む。
手の中のサンドイッチが鉛のように重く感じた。胸が苦しくて、空腹がどこかへ行ってしまった。
フィンにだけは、中身のない可愛いだなんて言われたくなかった。そんなことを思う自分が強欲で嫌いだ。ちっとも可愛くなんてない。
でも、自分ばかりが意識してるのが辛い。フィンにとっては取るに足らないことでも、エリンにとっては――。
「ごめん……」
フィンの声が揺らいでいた。低くなった声が、不安定に掠れている。
その声音があまりにも不自然なので、エリンは思わず彼の方を見て――目を丸くした。
顔を覆い隠すようにフィンは右手を当てている。隠しきれない肌は、林檎よりも赤かった。
「わ、わざとじゃないんだ……! その……恥をかかせるつもりなんて、そんなこと、なくて……!」
しどろもどろとフィンは言う。まるで言い訳をするみたいに。
エリンの方を全く見ない彼の額には、玉のように汗が浮かんでいた。隣に座っているのに、フィンの熱が伝わってくるほどだ。
「エリンが、心配だったからで……その――ごめん! あの時も本当に何も気付いてなくて……!」
ついには、フィンは両手で頭を抱え込んだ。
「嫌がっていたことに……後から気付いて、それで……その……あああ……」
悶えるようにフィンはうめき声を上げた。限界を突破したらしい、そのまま動かなくなる。
エリンも硬直していた。フィンが何を言っているのか、よく理解出来なかった。
「フィン……?」
呼びかけてもフィンは頭を下げたまま唸っている。よほど恥ずかしいらしい。
とりあえず彼の謝罪は皮袋による間接キスのことだろう。そこまではエリンは把握出来た。そして、フィンは羞恥で落ち込んでいる。それはつまり――。
「フィンは嫌だったってこと……?」
やっぱりフィンにとっては迷惑だったのだろう。エリンだけが勝手に意識していたのだ。あんなに恥ずかしい思いをしたのに、フィンにとっては疎ましい記憶だったと――。
「ち、違うっ!」
フィンが爆ぜるように顔を上げた。そして、真っ直ぐにエリンを見つめて叫んだ。
「私は嫌じゃない!」
庭園中に響き渡る声量だ。木々で戯れていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
「あ……いや、違う! わざとじゃない! エリンに、私の皮袋に、口を付けて貰いたくてやったわけでは……なくて……」
だんだんと声に勢いが無くなってゆく。最後の方は独り言に近い大きさだ。肩を落とし、フィンは気まずそうに横目を向く。
「く……口付けを……強要させたかったわけじゃ、ないんだ……」
そうして、またフィンは頭をがくりと下げた。両手で頭を押さえ込み、爪を立てる。己の失態を責めているようだった。
エリンは突然のフィンの慌てぶりに、目を丸くしていた。
「嫌じゃなかったの……?」
鸚鵡返しのように問い返せば、フィンの肩が跳ねる。項垂れたままでエリンを見てくれない。
フィンの頬の赤らみはいよいよ強くなり、触れば火傷してしまいそうだ。
「……嬉しかったの?」
嫌じゃない、ならば……そういうことなのか?
確認したくて問いかけると、フィンがまた唸り声をあげた。
「……きみは、本当に……意地悪だ……」
恨めしそうな言葉だが、その声に嫌悪の色はない。むしろ、その逆に思えた。
指の隙間からフィンの目が覗く。熱を帯びて潤んだ、青藍の瞳。明るい夜空を思わせるような、濃い青色。星が瞬くように光が揺れている。
耳まで赤くし、耐え難いと震えるフィンの姿。
それを――愛らしいとエリンは思ってしまった。
「かわいい……」
ポツリとそんな言葉を溢してしまった。
瞬間、フィンが完全に崩れた。
「また……きみは、本当に……!」
フィンの嘆きで、エリンは己の失言に気付いた。年頃の青年に、しかも年下の自分が可愛いと言うのは侮辱だろう。
さらに、先ほどエリンは怒ったばかりなのだ。気軽に可愛いと言って欲しくないと。
それなのに、自分でも同じことをしてしまった。仕返しと取られても言い訳が出来ない。
「ご、ごめんなさい! 私、その……フィンをからかったわけじゃなくて」
じゃあなんだと問われれば、答えられない。弱ったフィンの姿にときめきを覚えたなどと、さすがに口には出来ない。
必死に頭を回転させて、良い理由を思いつく。
「……フィンのこと、好きだから」
言い切った瞬間、胸の奥が少しすっきりした。これなら悪口じゃない、と自分に言い聞かせる。
けれど、フィンは顔を上げない。両手の間から覗く耳まで真っ赤で、肩が小さく震えていた。
エリンは自分がまた失敗したのかと、不安になった。
「フィン……あの」
「一つ、きみに尋ねたい」
被せるようにフィンが問いかけてきた。
「エリンは……そういうことを、他の人にもよく言うのか?」
「そういうこと?」
意図が組めずに、エリンは首を傾げる。
フィンが上半身を起こした。両手も顔から外して、膝の上に置く。
顔の赤らみは薄れていないが、それでも何かを決意したかのように眉を吊り上げている。
彼はじっとエリンを見つめる。熱が込められた眼差しに、エリンは息苦しさを覚えた。それなのに、その視線を逸らせない。
フィンの薄い唇が動く。
「好き、なんて……誰にでも言えるものなのか?」
息を呑んだ。胸が跳ねて、喉が急に渇く。
「え……」
そして、エリンも赤面した。
返答に詰まる彼女に対して、フィンはさらに踏み込んだ。
「例えば……アレク殿にも、同じことを?」
「言ってないよ!」
反射的に叫んでいた。疑われるのがたまらなく嫌で、胸が締め付けられる。
そもそも何故、アレクの名前が出るのか。
「しかし、ここで以前……君は――」
即座にエリンはフィンの言いたいことを汲み取れた。
「シルヴィは友達だもん! そういう意味じゃないよ!」
確かに、あの時はシルヴィアを元気付けたい一心で好きだと伝えた。決して、誰彼構わずに愛を振り撒いているわけではない。
フィンにだけは疑われたくない。手元のサンドイッチを強く握りしめる。
焦るエリンをフィンは見つめている。何かを求めるように、その目力は強い。
「じゃあ、私は……?」
ポツリと問われた。
「私を――好きだと言ったのは、何故?」
エリンは答えに詰まる。
返答は決まっている。フィンを異性として好きだからだ。しかし、口に出せない。
それはもう、愛の告白だ。彼と未来を誓えたら、どれほどに幸せだろうか!
だが、臆病がエリンに覆いつくす。
もしもフィンに拒絶されれば、エリンは立ち直れない。こんなにも胸を焦がす想いを抱いたのは初めてだった。この人が欲しいと願ったのは初めてだった。
初恋はとうに済ませている。しかし、それは憧れのような淡い想いだった。失恋しても、さほど苦しむことは無い。相手の幸せを願う余裕すらあった。
だが、フィンは――この恋だけは失えば、エリンはしばらくは立ち直れないだろう。彼の隣に立てなくなることを思うと、胸が裂けそうだった。
玉砕することが恐ろしくて、エリンは俯く。手の中のサンドイッチは、強く握られた結果潰れていた。
フィンの顔を見られない。見たら言わなくてはいけない。エリンのこの想いを――。
鳥の囀りが空から響く。若い二人を囃し立てるように。
やがて、フィンが口を開いた。
「……ごめん」
エリンの心臓が大きく跳ねた。フィンが彼女の心中を汲み取ったのかと驚いたからだ。
ごめん――その一言で胸が潰れた。終わった、としか思えなかった。視界が熱を持って歪んだ。
「……私のほうこそ……ごめんなさい」
泣き声になってしまった。仕方ないだろう、感情が抑えられないのだから。
この場には逃げ出したい。これ以上、未練を募らせたくない。……泣き顔をフィンに見られたくない。
駆け出そうとしたエリンの足を止めたのは、やはりフィンの声だった。
「エリンを困らせるつもりじゃなかったんだ……」
気落ちしたようにフィンは言う。
「ただ……私だって、きみに好きだと言われたら……その、勘違いしてしまう」
驚きの勢いでエリンはフィンを見た。
フィンの顔は変わらずに赤い。だが、彼はエリンから視線を逸らしてなかった。
決して逃げない、逃がさない――あの時と同じ眼差しをエリンに送っている。
静かになろうとしていた心臓がまた、やかましくなる。フィンの熱が伝染したかのように。
「好きだなんて言葉……エリンには、気軽に振りまいて欲しくない。私以外に……誰であっても」
フィンが手を伸ばしてきた。エリンは思わず身を縮めた。彼の熱がこもった眼差しに耐えきれなかったからだ。こちらだって勘違いしてしまいそうになる。またサンドイッチが手の中でさらに潰れて具がはみ出た。
震える指先は、エリンの頬に触れようとして――そのまま降ろされる。
フィンはエリンから目を逸らした。
「……ごめん、ただの我儘だ」
気まずい空気が二人の間に漂う。エリンが踏み込めば、話を続けられるかもしれない。フィンが自分をどう思っているのか……だが、怖くて踏み出せない。
誤魔化すために、エリンは潰れたサンドイッチを口いっぱいに頬張った。味は甘塩辛いはずなのに、心のざわめきがそれをかき消す。苦味のように感じられるのは、緊張と不安のせいだろう。それでも、エリンは食べるのをやめない。沈黙を保つために、そして自分の動揺を隠すために。
全て胃の中に収めると、今度こそ自分の皮袋で水分を補給した。以前の失敗から、エリンは必ず持ち歩くようになっている――また同じことを繰り返してしまったのだが。
二度目の間接的な口付けを思い出して頬が赤くなる。胸の高鳴りに気付かないふりをして小さく食後の祈りを捧げる。
しばし逡巡した後、エリンはフィンの膝元を見て言った。
「……ありがとう、フィン」