話しかけるのを躊躇したが、それでも礼を伝えねばならない。
「フィンのおかげで、朝食抜きにならなかったよ」
「……本当に、私が通り掛からなかったらどうしてたつもりなんだ?」
言外にアレクと過ごすつもりだったのか、と問い詰めているように聞こえた。そんなはずはない。フィンがそんな、嫉妬めいた感情を抱いてくれるなんて――エリンに都合が良すぎる。
エリンはフィンの顔を見られないままで、答えた。
「とりあえず、水で昼まで誤魔化そうかと」
フィンが小さくため息を漏らした。
「本当に、目が離せない」
吐息混じりのその声が、妙に色っぽくてエリンの心臓がまた跳ねる。動揺を隠したくて、無理矢理話題を切り替えた。
「あの、ごめんなさい。フィンの食事、貰っちゃって」
「……気にしないで。私は食堂で済ませているから」
エリンが話を逸らしたいことを、フィンは当然気付いているだろう。だが、指摘することなく彼女の会話に続けてくれた。
開かれた包みからは、半分に千切ったパンの残りと干し肉が何本か覗いていた。乾燥した肉は堅そうで、噛むとじんわり塩気が広がりそうだった。
「食堂でシアルフィ兵の方々から頂いたんだ」
詳しく聞けば、同卓だった兵たちが食べ物を押し与えてきたそうだ。フィンは細過ぎる――それが彼らの言い分だった。
確かにフィンは線が細い。でも、それは彼らよりも年下だからだろう。鍛え抜かれた彼らから見れば、フィンはまだまだ子供に映るのだろう。
ほんの少し遠くを眺めながら、フィンは説明を付け足した。
「私の隣に座っていたのは、アーダン殿だったんだ……」
即座にエリンは納得した。
アーダンはシグルド軍屈指の巨漢だ。巨大な体躯に、厳つい顔立ち。副隊長と良い勝負が出来る。
そんな彼が隣にいれば、フィンはとても小さく見えてしまうはずだ。
もっと食え、これも食え、あとでこれも食べろ――そんな風にどんどんと食料を差し出されたという経緯だったそうだ。
「だから、エリンが食べてくれて助かった。きみに会わなければ、キュアン様にお譲りしようかと考えていたんだ」
だからフィンはあの時、回廊にやって来たのだ。食堂方面から王族たちが使用する部屋へと続く道のりを。
しかし、小包の食料は簡素な保存食ばかりだ。王族のキュアンに合うのだろうか?
そんな疑問はエリンの表情に現れていたらしい、フィンが少し笑いながら言った。
「あの方はお酒を嗜まれるから、こういった物を好まれるんだ」
言われてみれば、ほとんどが酒の肴になりそうな物ばかりだ。安っぽく味付けの濃い物を、特にキュアンは喜ぶらしい。
「フィンもお酒を呑むの?」
「キュアン様の付き合いで少し」
恥じるようにフィンは目を伏せた。
「……まだ味が分からないんだ」
呑める年齢になっても、すぐに舌は対応出来ないようだ。ワインの美味さよりも、渋みを感じるとフィンは言う。
「レンスターにいた頃はエスリン様も同席されて……。キュアン様はとても楽しそうだった」
エリンは想像する。
レンスターの王城の一室。部屋の内装は落ち着いているのだろう。それでも、王宮らしい豪華さがあるに違いない。実際に見たわけではないが、そう思わずにはいられなかった。
テーブルは蝋燭の光に照らされる赤ワイン。手の込められたつまみ類が丁寧に盛り付けられて並ぶ。
対面で座るのはレンスター王子夫妻。二人とも安らいだ笑顔で、グラスを乾杯させる。穏やかに過ごす夜の一幕。――絵になる風景だ。
キュアンとエスリンが二人だけでいる場面は見たことはないが、それでもきっと愛情に満ちた間柄だろう。お似合いだとエリンは思う。
「エスリン様みたいな方なら良かったのに……」
ポロリとこぼれた本音に、エリンは後悔した。
フィンはエリンの悩みを知っている。そんな彼の前で、このような発言をすればすぐに悟られる。
「……ベオウルフ殿のことかい?」
やはりバレた。
誤魔化すことを諦めてエリンは頷く。
「あんな人、ラケシス様に相応しくない」
それなのにラケシスはベオウルフに恋している。あんな光に満ちた眼差しを、ラケシスは今までどの男にも向けたことはなかった。――実兄エルトシャンを除いて。
ラケシスは口癖のように宣言していた。
――私は兄上のような方でなければ、誰の妻にもならない。
それなのにラケシスは今、ベオウルフにベッタリだ。エルトシャンより年上で、冷たい美貌も権力も地位もない。粗野で飄々としていて掴みどころのない――信用出来ない男に。
共通点になりそうなのは、金髪ぐらいだ。しかし、二人の髪質はまるで違う。
エルトシャンの髪は、ラケシスと同じく滑らかで、陽射しに照らされて艶やかに輝く。髪自体が光を宿しているかのようで、神々しい印象だ。
対して、ベオウルフの髪は日に焼けて赤みを帯び、全体的にパサついている。手入れを気にした素振りもない。
あんな男のどこにラケシスは惹かれたと言うのだ?
キュアンに嗜められた時、ラケシスがベオウルフに懐いた理由はある程度理解できた。だが、恋にまで発展した理由は不明のままだ。
「キュアン様にとってのエスリン様のように、ラケシス様に相応しい方なら良かったのに」
先日、この庭園でエスリンと会話を交わした。わずかな時間だったが、それでも彼女の人柄はしっかりと感じ取れた。
たおやかで心優しい、聖女のような方。
幼いアルテナ姫を抱き、微笑む姿は神聖な彫像のようだった。
王子の妃に相応しい品格と美貌を兼ね揃えた女性――キュアンの伴侶として相応しい人だ。
「……そうだな」
フィンも同意してくれた。やはり彼もラケシスの相手にベオウルフは相応しくないと思ってくれていたようだ。味方が出来て、エリンは少し嬉しくなる。
妙に神妙な顔して、フィンは言葉繋げた。
「ラケシス様のお心を射止めるのが誰であっても、エリンは納得しないように私は思うよ」
「そんなことない!」
振りかぶってエリンは否定した。フィンなら分かってくれるはずだと彼女は思い込んでいた。
「ラケシス様が望まれる、エルトシャン様のような方だったら私は祝福する。絶対に!」
「じゃあ、想像してみてくれ。エリンが思う相応しい男性が、ラケシス様の隣に立つ姿を」
試すような物言いだ。心がささくれるような苛立ちが湧き上がるが、エリンは素直にフィンの言う通りにする。
とは言っても、エルトシャンのような男性はエリンが知る限り存在しない。だから結局、エルトシャンによく似た想像上の男を作り出した。
その男は地位も武力もあり、月明かりのように淡く、整った顔立ちの男だ。どうしてもエルトシャンに引っ張られるので、金髪に黄金の瞳を持つ長身の武人王の造形になる。
そんな男がラケシスに寄り添う。愛おしいという手付きで彼女の頬に触れる。逞しい体躯から伸びだ腕は、ラケシスの華奢な体をすっかりと包み込んでしまう。
ラケシスはそれを微笑んで受け入れる。ベオウルフを見るような、花の蕾のような陶酔する眼差しで。
二人の唇が重なろうとした瞬間、エリンの中に灯ったのは憎悪の感情だった。
「……うそだ」
声に出して否定してしまった。そんなはずはないと。
ラケシスに相応しい男ならば――エリンは諦められると信じていた。
「ちがう、私は……ラケシス様のお幸せを願って……」
両手で顔を覆う。浅ましい己の心を隠すように。
「ベオウルフさんでは――あんな人ではラケシス様を……幸せにできない」
唇の震えが手に伝わる。いや、エリンの手の方が震えているのかもしれない。
「ねぇ、エリン。君はエスリン様にどんな印象を抱いた?」
エリンは素直に答えた。キュアンに釣り合う、お淑やかな女性だと。
フィンが苦笑した。
「エスリン様は、初対面のキュアン様に決闘を挑んだそうだよ」
「……は?」
思わず聞き返す。
「決闘?」
フィンは頷く。
「そうだ」
断言されても、エリンは信じられない。記憶の中のエスリンは慈愛に満ち、華奢で、とてもそんな勇ましいことをする人には見えない。
しかし、フィンは冗談を言うような人間ではない。ましてや、彼の主君の奥方についてだ。貶めるような発言を、たとえ年下のエリン相手だろうがすることはないだろう。
訝しむエリンに、フィンは詳細を語ってくれた。
彼の主君キュアンとシグルド、エルトシャンの付き合いは士官学校から始まる。その縁でキュアンがシアルフィへ訪れた時に、公女エスリンは剣を差し出してこう言った。
――あなたがキュアン王子ね! お手合わせ願ってもよろしいですか?
妹を宥めるシグルドに対して、キュアンは笑って決闘を受け入れたと言う。
「それで、手加減無しにエスリン様を打ち負かしたらしくて」
「打ち負かした……」
そこは手加減して公女に花を持たすべきでは――内心でツッコミを入れるエリンに、フィンはキュアンの当時の心境を教えてくれた。
「エスリン様が真剣だからこそ、全力で相手になったと言われてた。キュアン様のお得意の槍術で――」
キュアンの槍捌きの巧みさは、エリンも知っている。幾人の敵兵に取り囲まれても、槍を旋回させただけで一掃するほどの腕前だ。
その技術を全力で公女に奮ったとは――少々大人気ないように思えてしまう。
しかし、エスリンは泣くことなく自らの敗北を受け入れた。それどころか、キュアンの腕前を褒め称えたと言う。
「キュアン様のように加減なく相手してくれる殿方は初めてだったそうで、エスリン様は大層お喜びになられたと言ってた」
可愛らしい外見をしていても、武人の娘。勇敢なるシアルフィの騎士としての血が確かにエスリンにも流れていた。その気高さにキュアンは心奪われ、即座に結婚を申し込んだ。
「待って、展開早いんだけど」
身分的には問題は少ないだろう。しかし、初対面のその日に求婚は早過ぎる。
これが婚姻の顔合わせならば、まだ理解出来た。だが、話の流れ的に違う。
あのキュアンが、そんなに手が早い人だとは思わなかった。
「私もそう思うんだけど、キュアン様のお言葉通りなんだ」
「エスリン様は求婚をお受けになったの……?」
「さすがに断られたそうだ」
それはそうだろう。エスリンの気持ちもわかる。初対面の男性からそんな風に迫られれば、恐れもするだろう。
「私が全力の貴方に勝てたら結婚すると返した、とエスリン様は誇らしげに仰ってた」
前言撤回。エスリンもかなり変わり者だったようだ。
それから幾度と武を交えて、晴れて二人は夫婦となった――と、フィンは語り終えた。
「今の話を聞いて、改めてエリンはエスリン様をどう思う?」
「どうって……」
言葉に詰まる。エリンの中のエスリン像が、今のフィンの話でガラリと変わってしまった。
ふと、エリンの脳裏にエバンス城でアーダンに言われた言葉が蘇った。
――シグルド様を叱るエスリン様のようで頼もしかったぞ。
あの時は火急であったから流してしまったが、よくよく考えれば違和感のあるセリフだった。頼もしいだなんて、たおやかな王太子妃に向ける言葉ではない。
確かにキュアンとエスリンは似合いの夫婦だ。並んでいる姿も絵になる。麗しく完璧な王太子夫妻。
しかし、フィンによる馴れ初め話を聞いて印象がガラリと変わった。
王族とは思えないほどに破天荒な婚姻だ。
「私は、キュアン様とエスリン様が結ばれて良かったと思う」
歌劇に謳われるような恋愛譚ではない。少女たちが頬染めて憧れる物語でもない。
しかし、確かな愛情で結ばれた間柄。それこそが一番大切なものではないのだろうか。フィンはそう口にする。
「キュアン様のお心を一番に理解し、癒してくださるのはエスリン様だ。あの方がお隣におられるからこそ、キュアン様は強く正しくなられる」
身分が高ければ高くなるほど、孤独との戦いとなる。責任を持つ者は強くあらねばならないと、自他共に求められるからだ。
その重みを和らげ、共に寄り添う相手――伴侶となるに相応しいとはそういうことではないのだろうか。フィンは諭すようにエリンに言い聞かせてくれた。
「きっとラケシス様もそういう相手を求めたのだと思う。……その相手がエリンには気に入らないのかも知れないけど」
フィンの言いたいことは分かる。
本当は分かりたくない。跳ね除けたい。
でも、エリンが見たラケシスの微笑み。ベオウルフだけに見せた、花綻ぶような輝く笑み。
あんなに自然な表情を浮かべるラケシスを見たのは初めてだった。