「でも……身分差がある」
ラケシスは、ノディオン王家の姫。
ベオウルフは、ただの傭兵。
二人が結ばれることは不可能に近い。もし結ばれたとしても、周囲から強い反発を受けるだろう。
それは、かつて義父フィリップと母ドナの間にもあったことだった。
身元の怪しいドナを、ハイラインの王族たちは疎んだ。それに倣って、貴族たちも堂々と冷遇を行なった。
フィリップは、その全てからドナとエリンを守ろうとしてくれた。けれど、防ぎきれるものではなかった。
結婚から一年も経たぬうちに、ドナは死んだ。もとより身体が弱っていたが、精神的に追い詰められたことも原因のひとつだろう。
だから――同じ不幸を、ラケシスには味わわせたくない。
愛する彼女が、人々の好奇と悪意によって傷つけられる姿を見たくない。
たとえベオウルフが庇ったとしても、それが返って人々は中傷の材料とする。
いや、それよりもラケシスの兄エルトシャンが許さないはずだ。友人とはいえ、地位のない傭兵に大切な妹姫を嫁がせるはずがない。
そうだ、そうに決まっている。
このまま二人が結ばれたら、将来的にラケシスは不幸になってしまう。結ばれなくとも、心が完全に奪われてしまってからでも遅い。
「ラケシス様とあの人は、キュアン様とエスリン様とは違う……いつかきっと、破綻してしまう」
そうなる前に引き裂かねばならない。ラケシスのために、ラケシスの心を守るために――。
「エリン」
フィンが名を呼んだ。彼女の暗い思考を踏み止ませるように。
体ごとエリンに向けて、真剣な眼差しを送ってくる。
「そんなに思い詰めたら駄目だ」
「ダメじゃない!」
拳を握りしめてエリンは叫ぶ。
朝の静寂は切り裂かれ、再び彼女の心に仄暗い闇が差し込んだ。胸の奥のざわめきが焦燥感を駆り立てる。それを表すように、エリンの拳がカタカタと震えた。
「私はラケシス様が心配なの! 手遅れになってからじゃ遅いの!」
己を正当化させるために、エリンは必死にフィンへと訴える。声に力がこもり、冷静さは微塵もなかった。
冷気を纏う秋風が、エリンの不安をさらに駆り立てた。胸の奥で憎しみが渦巻き、思考を支配してゆく。
今やベオウルフは、撃つべき敵としてエリンは認識していた。
目を血走らせ、戦地に赴くように殺気立てている。好意を抱くフィンの前だと言うのに、エリンはもうなりふり構っていられない。
身分差なんて言い訳だ。不幸になる未来なんて確定してもいない。
しかし、許せないという気持ちでベオウルフを認めることは出来なかった。
エリンは荒々しく肩で呼吸を繰り返す。怒りで気を失ってしまいそうだ。
フィンはそんな彼女を、なんとも言えない顔で見つめている。青藍の瞳に射抜かれ、エリンは思わず息を呑んだ。憐れむようなその光を正視できず、気まずそうに顔を伏せる。
取り乱したでは済まされない。醜い心の内を曝け出してしまった。
エリンは唇を噛む。こんな失態をフィンには見られたくなかった。
「……少し頭を冷やした方がいい」
静かに放たれたフィンの声に、エリンは身を震わせた。
せっかく仲直り出来そうだったのに、また元に戻ってしまった。当たり前だ。主君を想うがゆえとはいえ、暴言に近い言葉を吐きつけた。
幻滅どころか嫌悪の対象となるだろう。フィンは忠誠心の厚い青年だ。きっとそうに違いない。
俯くエリンは自分の膝の上に乗る拳を見る。左手首の腕輪が咎めるように緑石を光らせていた。
その光を遮るように、フィンの手が伸びてきた。男のものになりつつある手のひらが、彼女の拳を優しく包み込んだ。
鼓動が大きく高鳴ると同時に、エリンの体も大きく跳ねた。
フィンの手は温かく、冷えたエリンの指先を温もりを伝える。
「部屋まで送るよ」
「でも、私は――」
躊躇うエリン。視線を揺らすが、フィンの手からどうしても離れられない。
こんな時なのに、フィンの手を握り返したいという欲すら芽生えてしまう。どうして彼を求める自分がこんなにも強くあるのか、怖くなった。
黙り込むエリンに、フィンは静かに話しかける。
「このままだと、またエリンは暴走しそうだから。……心配なんだ」
すでに軍令違反二回の前歴がある。そのどれもが、ラケシスを想うが故の衝動によるものだ。その時と近しい状態である今のエリンは危うい。
まだ納得出来てない。まだ怒りを収めたくない。それでも、フィンに手を握られると、少しずつ心が落ち着いていく。
「……ごめんなさい」
小さく謝る。叱られた子供のように。
フィンは優しく微笑んでから、エリンの手を引いて立ち上がった。
◆ ◆ ◆
目覚めると、もう夕暮れであった。
寝台近くの小窓から届く赤い日差しに、エリンは目を細める。随分と長い時間、眠りについてしまった。
あの後、フィンに部屋へと送ってもらった。手を繋いだまま、二人で歩く。誰かに見つかれば噂になる恐れがあるのだが、エリンは振り解くことはなかった。
幸い誰にも見つかることはなく、部屋へとたどり着いてしまう。
道中、会話は無かった。それを寂しく思いつつも、フィンがあえて黙っていてくれたことにエリンは感謝する。口を開けば、また失言をしてしまいそうで怖かった。
フィンの手の温かさだけが、エリンの心を支えてくれる。ただ、指先を絡めることは出来なかった。
求めればフィンは応じてくれるかもしれない。しかし、自分にはそんな資格はないとエリンは思っていたのだ。
部屋の前でフィンと別れ、室内に入る。そして、すぐにエリンは装備を外した。
鎧や剣、両親の形見――習慣から丁寧にそれらを棚に置いてからふらふらと寝台へと向かい……そこから記憶がない。きっとすぐに眠りに落ちたのだ。
ここ数日、エリンの眠りは浅い。さらには寝付きも悪く、睡眠不足気味だった。
原因は考えなくとも分かる。――ラケシスに疎まれたことだ。
暗い部屋の中、一人でいるとどうしても悪い考えばかりが頭を占めてしまう。
瞼を閉じれば、微笑み一つ向けてくれないラケシスの顔を思い出して悲しくなる。このままの状態がずっと続くのだろうかと想像しただけで、エリンの目に涙が浮かぶ。
そんな夜をずっと過ごしていた。
フィンに手を握られたことで、ほんの少し不安が和らいだのかも知れない。
ぼんやりとした頭で、エリンは窓の外を見つめる。
夕焼けは徐々に沈んでゆき、茜色の空が紫へと移り変わってゆく。夜が近づいているのだ。
赤く染まった雲の奥に、朧げな月の形が見える。今宵は満月だ。
欠け一つもない、美しい月が空を彩るだろう。
満たされないエリンとは正反対の、美しい夜の景色。
「……私は、ラケシス様の騎士になるんだ」
ポツリと呟いた言葉は、冷え切った部屋に淡く響く。
その宣言は、臆病なエリンを勇気付ける魔法の言葉であった。
どんなに辛くとも、どんなに理不尽な目に遭おうとも、その決意だけで彼女は何度でも立ち上がれた。
身分も地位も、騎士としての才覚も何もない。唯一のよすがは、ラケシスと交わした誓いだけだった。
――エリンが、私の騎士になればいいのよ!
幼いラケシスの提案に、小さなエリンも応じた。
そうすれば、ずっとラケシスと一緒にいられるから――それだけを希望の糧として、生きてきたのだ。
太陽が沈むと共に、室温も冷えてゆく。それに合わせてエリンの思考も巡りだす。
窓から視線を右奥の棚へと移す。空色の鎧と細身の剣が、暗がりの中でひっそりと置かれていた。
義父がエリンのために用意してくれた、騎士装束。
鎧の色は、ラケシスの騎士になりたいと義父に宣言した日の空の色。鮮やかで、どこまでも澄み渡る青空の色。
寝台から立ち上がり、エリンは棚へと足を進める。手を伸ばし、鎧に触れる。ひんやりとした金属の感触。
「……お義父さん、ごめんなさい」
目を伏せ、小さく謝罪の言葉を口にした。
きっと義父が生きていたら、エリンを叱るだろう。静かに、諭すように。――ああ、そうだ。フィンの叱り方は義父とよく似てる。
だからかもしれない。フィンの声が心地よく感じるのは。
エリンは手際良く鎧を纏う。初めて装着した時は、副隊長が手伝ってくれた。
鎧の重みに慣れたのはいつだったろうか。今では動作に影響なく剣を振るうことが出来る。騎士として少しずつ、体が慣れ始めている。
それに反して、ラケシスへの想いが拗れてゆく。
幼子のように思い通りにならなければ、エリンは自己を見失ってしまう。……義父が死んだ、あの戦いからずっとそんなことばかりだ。
――だから、決着を付けるのだ。
棚には両親の形見がある。
義父の指輪。
母の腕輪。
そのどちらも、エリンは眺めるだけで手は伸ばさない。今から行うことは、両親に顔向けの出来ないことだ。二人はきっと悲しむ――そう思うからこそ、触れられない。
形見の品の横には手巾がある。アンフォニー城でフィンから借りた物だ。返す機会をずっと見失っていた。
送ってくれた時に返却すれば良かった。だけど、その時は思いつきもしなかった。他のことで頭が占められていたからだ。
いや、それは言い訳だ。
この布を返したら、もうフィンと接点がなくなるのが怖かった。
それが一番の理由だと、今更に気付く。
少し悩んで、エリンは布を手を伸ばし――やめた。
この後の行動で、せっかく清潔にしたこの布が汚れてしまうのを躊躇ったからだ。
先にフィンへ返しに行くことも考えたのだが、そうしたらきっと彼に気付かれてしまうだろう。彼に問い詰められたら、エリンは素直に伝えるしかない。好きな人に嘘をつきたくない。
そして――きっと止められる。そんな無謀な真似をしては駄目だと、言われるはずだ。
あの青藍の目に見つめられて。フィンの眼差しを受けたら、エリンの決意は揺らいでしまう。……それは嫌だ。絶対に。
棚に背を向けて、エリンは部屋を出た。
時刻は夕餉時。
食堂へと続く回廊は蝋燭が灯らせている。穏やかな橙の光がゆらめいて、エリンの影を床に伸ばす。
響く足音は、目的地へ近づくに連れてざわめきにかき消される。賑やかな笑い声、手拍子、音楽。食欲を唆る香りが濃くなる。
しかし、全てエリンの決心を鈍らせるものではない。明るい空気を打ち壊すような表情で、エリンは食堂へと足を踏み入れた。
「エリィ!」
真っ先に声をかけてくれたのはシルヴィアだった。踊っていたのだろうか、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
満面の笑みで彼女はエリンへと近寄ってきた。抱擁するように両手を大きく広げて。
「ねぇねぇ、一緒に踊ろ! 今ね、楽器を持ってる人たちが――」
エリンの顔を見て、シルヴィアは声を詰まらせる。深緑の瞳が大きく見開かれ、やがて気遣うように細まった。
「何かあったの?」
潜めた声は、喧騒にかき消されそうな程に小さい。シルヴィアの心配が有難い。が、エリンは首を横に振った。
「大丈夫だよ」
笑顔を作ってみせる。不自然ではないはずなのに、シルヴィアはますます困ったように眉を下げた。
彼女の背後からエリンに向かって手を振る男がいる。アレクだ。同卓にはノイッシュとアーダンもいる。
アレクはこちらに向かって手招きする仕草をした。口もそれに合わせて動く――こちらへおいで、と。
隣に座るノイッシュの顔が歪んでいる。アレクの軽薄さにうんざりしているようだ。
アーダンはエリンに背を向けて座っていたため、表情は見えない。だが、アレクに対して何か言ってるように背中が揺れている。
アレクを無視して、エリンは食堂内を見渡す。入り口から遠い、最奥の卓に男が――ベオウルフがいた。
彼は酒を飲みたいからという理由で、夕餉は必ず兵たちの食堂に現れる。今宵も彼は一人で静かにグラスを傾けている。手の動きに合わせて、グラスの中の赤ワインが妖しく揺れた。
もう一度、エリンは食堂内に視線を彷徨わせる。そして、青色の髪の青年がいないことを確認して安堵の息を漏らす。
フィンはきっと普段と同じようにキュアンたちと夕食を共にしているのだろう。彼がこの時間に食堂へ現れることは滅多にない。……だから、エリンの歯止めはもう抑えられなかった。
話しかけてくるシルヴィアに謝って、エリンは真っ直ぐに食堂の奥へと進む。
様子がおかしいエリンに焦燥感を覚えたのか、シルヴィアは後をついてきた。背後から聞こえる鈴の音に、エリンは罪悪感を抱くも気付かないふりをする。
その途中でアレクたちの卓を素通りする。困惑するように彼は呼びかけてきたが、返事はしない。
エリンの黒い瞳は、ベオウルフだけを見ていた。
ある程度接近すれば、彼はエリンに気付く。普段通りに気怠げな雰囲気で片手を上げた。