「よぉ、嬢ちゃん。いい夜だな」
皮肉のつもりか?
エリンの髪が逆立つ。あからさまに不穏な空気を発してるのに、この男は警戒することもしない。
それどころか、自分のすぐ近くの椅子を引いてエリンを呼ぶ。
「ほら、座りな」
断りの言葉を口にせず、エリンは彼を睨み続ける。
追いついたシルヴィアが心配するように、エリンとベオウルフを交互に見ていた。さすがの彼女も口を挟めない様子だ。
この周辺だけ、話し声が止んでいた。エリンがベオウルフを嫌っているのは、わりと知られているらしい。近くの卓に腰掛ける者たちは耳を澄まして動向を伺っている。食事を取る手が止まっていた。
注目の的であるベオウルフは軽く肩をすくめると、ワインの酒を仰ぐ。
「今日はどうしたんだ? 姫さんが心配してたぞ。嬢ちゃんが一度も顔を見せに来なかったから――」
「ベオウルフさん、私と決闘をしてください」
周囲から息を呑む音が聞こえた。
目の前のベオウルフは呆れたように目を伏せた。そして、子供の癇癪を聞き流す大人の様相で、静かにグラスへワインを注ぎ足した。
「エリィ、何を言ってるの!」
悲鳴のようなシルヴィアの叫び声が食堂に響いた。音楽が止まり、全員の目がこちらに向けられる。
それをエリンは――気にもしなかった。普段ならば、即座に身をすくめるほどの視線の数々。全てを受けても、彼女は堂々と憎き敵の前に立つ。
正常ではない。そんなこと自分でも分かっている。だが、湧き上がる憎悪がエリンを突き動かすのだ。
この男を許さない、と。
ベオウルフは深々とため息をつき、わざとらしく口の端を吊り上げる。
「酔っ払ってるのか? それとも、寝ぼけてるんじゃないか、嬢ちゃん」
「私が勝ったら、ラケシス様から離れてください」
いよいよ周囲からざわめきが上がる。
こちらに向かってアレクが近寄ってくるのが視界の端に見えた。彼が辿り着く前にベオウルフが口を開く。
「無理な話だな。俺はエルトシャンから依頼を受けてる」
傭兵としての仕事をしているだけだと、続ける。
「嬢ちゃんが俺を気に食わないのは知ってる。だからと言って自棄になるな」
聞き分けのない子供をあしらうような言い方だ。この男のこういう余裕めいた仕草が嫌いだ。憎らしいとすら思える。
しかしエリンはそれを表情に出さない。感情が消え去った仮面のような眼差しでベオウルフに見つめる。
隣立つシルヴィアは、必死で止めようとエリンの腕を引っ張っていた。小さな声でやめなよと訴え続けてくれる。
ベオウルフは鼻で息を鳴らした。
「第一、俺が勝っても得はない。子供をいじめたという悪評が付くだけだ」
「あなたが勝ったら――」
アレクが追いついた。彼の手がエリンへと伸ばされる前に、言葉は繋がれた。
「どうぞ私を好きになさってください」
この発言に初めてベオウルフは目を見開いた。余裕を崩すその姿に、エリンは滑稽とすら思う。
ざまあみろ――そんな悪態すら口の中で吐き捨てる。
いよいよシルヴィアは青ざめ、唇を震わせる。エリンの腕を掴む指先が強くなる。じっとこちらを見つめてる彼女の顔を、エリンは見向きもしない。
シルヴィアの存在を意識すれば、罪悪感が押し寄せてしまいそうだから。
「引き受けていただけますか?」
自分はこんなにも冷たい声が出せるのかと、冷静な感想すら浮かぶ。心は怒りに満ちているのに、頭は静かに冷え切っていた。
ベオウルフは面倒くさそうに頭を掻く。
「何を言ってるのか理解してるのか、嬢ちゃん」
「ええ、もちろん。ご不満ですか?」
「……子供をどうこうする趣味はない」
「私も経験が無いからあなたを楽しませることは出来ないでしょうね。それで、それを言い訳にして逃げるんですか?」
いよいよベオウルフは絶句した。論破された訳ではない。ただ、あからさまの挑発にエリンの異常を感じ取ったのだろう。苦々しい顔で彼女を睨む。
対して、エリンは不敵に笑う。しかし、その目は座っている。
周囲の人間は二人を見ながら、互いに顔を見合わせていた。この事態をどう収めれば良いのか、思いつかない素ぶりだ。
そんな中で、エリンの右手首が強く引き寄せられた。視界の端に捉えた、緩やかな緑髪――アレクだろうかとエリンは見上げて驚く。
「何をしてるんだ、お前は!」
眉を吊り上げるレヴィンが、声を荒げた。らしくないほどに激しい怒りを露わにしているように見えた。
アレクが割り込む前に、レヴィンがエリンを掴んだらしい。ほんの少し離れた位置でアレクがこちらに手を伸ばしていた。
ベオウルフに意識を奪われていたせいで、エリンはレヴィンがすぐ近くの卓に居たことに気付いていなかった。
そもそも王族なのに、こんな場所で食事を取るレヴィンが異質なのだ。吟遊詩人と身分を偽っていた頃なら分かるのだが、今は違う。
彼の座っていた席の隣にはフュリーの姿があった。口元を押さえ、白い顔を青ざめさせている。
エリンが黙り込んでいると、レヴィンがまた強く怒鳴った。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか!」
さすが王族だ。覇気のある怒声に、周囲の人間の方が怯んだ。シルヴィアも思わずといった動きで、エリンの腕から手を離した。
しかし、エリンは怯えることなくレヴィンに対峙する。
「あなたには関係のない話です」
「何だと……?」
「部外者は黙っていてください」
反論しながら、エリンはシルヴィアを庇うようにレヴィンの前に出る。友人の心を傷付けた男から守るために。
守ってくれるようなエリンの動きに、シルヴィアは困惑したように息を呑んだ。
レヴィンはますます険しい眼差しをエリンに向ける。威圧が刃となって胸を抉るが、エリンは引く訳にはいかない。
「これは私とベオウルフさんとの話です。レヴィン様が口出しする理由はありません」
「子供が何を言ってるんだ! 強がるのもいい加減にしろ!」
「私は子供ではありません!」
レヴィンと出会って半年も満たない。それなのに、この男はエリンに保護者面をする。まだ知り合いと呼ぶ間柄でしかないのに、ここまで厳しく叱られる謂れはない。
遊び相手として粉をかける振る舞いではない。歳の離れた妹を案ずる兄のように、口煩くエリンを躾けるのだ。
それが気味悪くて――心地よい。そんなことを思ってしまう自分が一番気持ち悪い。
「あなたが私の何を知っているんですか! 他人のくせに!」
「なッ……」
虚を突かれたように、レヴィンが言葉を詰まらす。揺れる瞳孔は、すぐに怒りの光を浮かび上がらせた。
「……他人だと? お前、本気で言ってるのか?」
先ほどとは違い、レヴィンの声が静まる。しかし、声音に込められた怒気はさらに強まっていた。
エリンの手首を掴む彼の手は震えていた。同時に力が籠る。エリンが痛みを覚えるほどに。
力任せにレヴィンの手を振り払う。彼の手は案外あっさりとエリンから離れた。
レヴィンは怒りを剥き出しにしている――はずなのに、その奥に一瞬、傷ついたような表情が滲んでいた。
なぜ彼がそんな顔をするのか、エリンには理解できなかった。理解できないからこそ、それを拒絶するように声を荒げた。
「なんですか? 本当のことでしょう!」
「ふざけるな! 俺はお前の――」
ドン、と大きな音がレヴィンの言葉を遮った。
振り向けば、その音の正体が分かる。
ベオウルフが酒瓶を荒々しく机の上に置いたのだ。彼はグラスのワインを一気に飲み干すと、乱暴に立ち上がる。
普段の気怠げな雰囲気はまるで無い。狼のような獰猛な眼差しで、エリンを見下ろす。
まるで見知らぬ男のようだ。その異様さにエリンの息が詰まる。それでも、指先の震えを隠すことは忘れなかった。
「来な、嬢ちゃん」
吐き捨てるように、彼は言う。
「受けてやるよ、決闘を」
「やめろ、ベオウルフ!」
レヴィンは掴んでいたエリンの手を放し、今度は庇うように前へ出た。
「本気になることは無いだろう!」
「嬢ちゃんは、自分は子供じゃないと断言した。なら、放った言葉に責任は取るべきだ」
この男が怒りを滲ませる姿を初めて見せた。周囲も圧倒されて静止している。
エリンの背後でシルヴィアが震えている。それでも逃げようとはせずに、エリンのそばにいてくれる。
友人の献身を嬉しく思うと同時に、エリンは申し訳ない気持ちを抱く。シルヴィアは巻き込まれただけなのに、怖い思いをさせてしまった。そんな罪悪感が、彼女の背を押した。
恐怖に蓋をして、レヴィンの後ろから前へと踏み出す。
「ええ、私も撤回するつもりはありません」
「決まりだな。場所は鍛錬場で構わないな?」
エリンが小さく頷いた瞬間、レヴィンは堪えきれず声を荒げた。いよいよ焦りを表情に浮かべていた。
「話を進めるな! 私闘は禁じられている、分かっているだろう⁉︎」
これ以上違反を重ねる気か、そう言いたいのだろう。もう謹慎では済まないかも知れない。
私闘は軍律上、重罪とされる。統率を乱す行為は、ただの処罰では済まされない。最悪の場合、軍から追放されることさえあり得る。
エリンよりもレヴィンの方がそれを恐れているようだった。彼の声は震え、叫びというより懇願のようだった。
それでもエリンは引き下がれなかった。
きっと、今日決着を付けなければ一生わだかまりを抱えたままで剣すら振るえなくなる。
ラケシスに素直に仕えられなくなる。
心を殺して生きるのは――耐えられない。
「……もう、いいんです」
「エリン……!」
たとえこれが原因で放逐されても――ラケシスと引き離されても。
エリンの生きる希望は残されていなかった。死ぬことよりも、敬愛する姫君に憎まれることの方が恐ろしい。
義父は叱るだろう、母は嘆くだろう。
だから、両親の形見を身につけなかった。
今のエリンの言動は、騎士として相応しくない行いなのだから。
レヴィンは顔を歪め、近くのアレクへと視線を投げた。
「シグルド公子に、報告を……」
苦渋を飲み込むような声で指示を飛ばす。レヴィンの拳はきつく握られ、小刻みに振るえている。止められないのなら、せめて傷が深くなる前に強制的に決闘を終わらせようと判断したのだろう。
驚きと迷いを一瞬見せたが、アレクはすぐさまに駆け出す。
その背中が見えなくなる前にベオウルフもまた歩き出す。向かう先は鍛錬場。
シグルドらが控える王族の間より距離は近い。アレクが報告を終えるまでに決闘を開始できるだろう。
エリンもそれに続いた――が、右手を引っ張られた。
「行っちゃダメ、エリィ……」
シルヴィアだ。彼女は両手で強くエリンの右手を握りしめている。
大きな目が涙で潤んでいる。愛らしい顔が心痛で歪む。
「ねぇ、今ならまだ間に合うよ。だから、エリィ。やめようよ、こんなこと……」
掠れた声でシルヴィアは必死に訴える。
友人を悲しませたレヴィンを許せないと怒りつつも、エリンも同じことをしている。その事実に胸を痛めたが、もう止まることはできない。
後ろめたさから、エリンはシルヴィアから目を背けた。
「……ごめんね、シルヴィ」
突き放すように、エリンはわざと彼女の手を強く振り払った。その際に、シルヴィアの爪がエリンの皮膚を掠めた。
「エリィ! ダメ……ダメだよ!」
泣き叫ぶシルヴィア。振り向くことを堪えるように、エリンは早足で食堂を後にした。