足音が砂利を踏む音に変わる。土の匂いが夜風に乗って鼻に届く。
月明かりは影を長く落としていた。静謐な光が、夜の鍛錬場をさらに冷えた空間へと変化させる――それでも、エリンの熱は冷めることはなかった。
木剣の切先は真っ直ぐにベオウルフに向けられていた。エリンは彼を睨んだままで口を開いた。
「手加減は、いりません」
対するベオウルフは木剣を構えることはない。肩に担いで、エリンを見下ろしている。
普段のような飄々とした笑みは無い。無表情さが、却ってベオウルフの怒りを表しているようだった。
左手を差し出し、挑発するように手首をくいと折ってみせる。
「構わない。いつでも来な、嬢ちゃん」
頭に血が昇る――同時にエリンは土を蹴った。
一呼吸で敵へと接近する。そのままの勢いで、懐に切り込むように、木剣を横薙ぎで振るう。
冷静さを欠いた焦りの一撃――だが、その剣筋に乱れはなかった。間合いを見切り、確実に攻撃を放つ。
全身を投げ出す一撃を、ベオウルフは一歩も動くことなく木剣で受け止めた。肩も揺らさずに、エリンの太刀筋を見極める。
空気の割く音と木剣の弾く音――それらが同時に鍛錬場に響き渡った。音は止まることなく、連撃が繰り広げられる。
エリンはひたすらに攻め続ける。小柄という不利を打ち消すように、ベオウルフに攻撃の隙を与えない。
しかし、ベオウルフもまた体勢を崩すことはない。最小限の動きで、エリンの攻撃をいなす。
切り込む一撃一撃を正確に見切り、腰をずらすだけで斬撃を外し、時には木剣の一振りで切先を逸らす。
一方的な攻撃は、一見すればエリンの有利に見える。しかし、徐々に体力の差が浮かび上がってきた。
木剣を振るうエリンの息は上がり、剣を交える衝撃から右手に痺れが走り始める。
ベオウルフは汗を浮かべはするものの、呼吸は落ち着いている。
「どうした、もう降参か?」
毒を吐く余裕すら、彼にはある。
「確かに経験不足だな。少しは俺を楽しませてみせろ」
「うるさい!」
苛立ちにより、エリンは突進を行う。血走った目では焦点が定まるはずがない。
だから――足元が疎かになっていた。
エリンの木剣を回避した動作で、ベオウルフは足払いを仕掛けた。
注意散漫になっていたエリンはあっさりと引っかかる。視界の先で、空と地面が反転した。受け身も取れずに地面へと投げ出された。
落下音と共に砂煙が舞い上がる。乾いた匂いと細かい砂が喉を刺し、咳を誘う。
上半身は鎧で守られたが、膝は擦りむき血が溢れた。ジクジクとした痛みに眉を歪ませる。
エリンが転倒するとともに、周囲からざわめきが聞こえた。
鍛錬場には、複数の人物がいた。食堂でエリンとベオウルフの諍いを目撃した者たちだ。彼らの顔には、心配、好奇心、警戒――それぞれの感情が入り混じっていた。
その中にはシルヴィアもいた。涙を浮かべて両手を祈りの形で組んでいる。
彼女の傍らではアーダンが一歩踏み出しかけて、止められた。伸ばしかけた彼の手を隣に立つノイッシュが制したのだ。
ノイッシュは腕を組み、眉間に皺を寄せて決闘の行方を見据えていた。真面目な彼にとって、エリンの無鉄砲さは到底許せないのだろう。
彼らの対面に位置する最前列に立つのは、レヴィンとフュリー。
いつものとらえどころのない姿はそこにない。レヴィンの目はただ一人、エリンだけを追っていた。
助けに入るべきか、見守るべきか――苦悩をその顔に浮かべて歯を噛み締めている。それでも彼の足は、いつでも踏み出せるように緊張を孕んでいた。
その隣で、フュリーは口を結んで様子を見守る。主君の心がそこまで揺れている理由は分からないながらも、年下の少女を案じる気持ちは彼女自身にもあるのだろう。その表情が物語っていた。
多くの視線を浴びながら、エリンはよろめきつつ立ち上がった。振り返れば、ベオウルフは木剣を肩に担ぎ、冷たく彼女を見下ろしていた。
屈辱に頬を赤らめたエリンは睨みつけた。
真剣勝負に足払いなんて卑怯だ――そんな抗議をこめて睨むと、ベオウルフは鼻で笑う。
「手加減するなと言ったのは、嬢ちゃんの方だろ」
正々堂々なんて、戦になったら関係ない。どんな手段を取っても生き延びる――それが傭兵の戦術。
まだ数回の出陣経験しかないエリンなど、容易くあしらわれる。
「猪みたいに突っ込むだけじゃあ、今みたいに足元を掬われる。少しは冷静になったらどうだ?」
指導するような物言いが、ますますエリンを逆撫でた。口に入った砂を唾と共に吐き捨て、また木剣を構える。
ベオウルフは呆れをため息に乗せて、木剣を肩から降ろした。その眼がまた鋭くなる。対峙する相手を射殺すほどに――。
駆け出したエリンは恐れることなく木剣を振りかぶる。それをベオウルフは全て受け止めた。
先ほどと違い、防衛に徹していた彼が今度は反撃に転じる。
エリンの切り込みをいなし、その反動で体勢を崩させる。そこへ重い一撃。
太刀筋はわざと読みやすく放たれていた。だからこそ剣で防げたが、衝撃が両手を痺れさせ、剣を落としかける。
圧倒的だった。
本来のエリンなら相手の力量を察していたはずだ。義父たちに鍛えられた目がある。
だが今は違う。ベオウルフへの憎悪が、それを曇らせていた。
この男を倒す――その思いだけで体を動かす。
だが、限界は近い。荒い呼吸、震える肩、ふらつく足。握る指先さえ意識を失えば力が抜ける。
それでも一太刀。せめてあの余裕の面を砕くまでは。
対するベオウルフは息ひとつ乱れず、わざと隙を晒して誘っている。
ならば、乗る。
エリンは木剣の柄から左手を離し、腰を沈めた。右手の剣を下げ、左手を顔前に掲げる。黒い瞳はベオウルフの喉元だけを見ていた。
一呼吸。
突撃。
駆けながら左手を伸ばし、右手の木剣を大きく振りかざす。
ベオウルフはそれを読んでいた。無駄のない動作で木剣を振り下ろす。
その一撃を――エリンは回避しなかった。
ベオウルフの目に動揺が走る。躊躇いが攻撃の威力を削ぐ。
しかし、勢いまでは殺せない。剣先はそのままエリンの左腕に直撃した。
鈍い衝撃。
重い打撲音。
左腕が無理な角度に弾かれ、力なく垂れ下がる。
悲鳴とどよめきが遠くで響いた。
刹那、エリンの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
痛みは高揚に呑み込まれ、右手の木剣がベオウルフの喉元へと突き出され――。
「この……バカ野郎がッ!」
怒気をはらんだ咆哮と同時に、ベオウルフの左手がエリンの首筋を掴む。
喉を圧迫され、一瞬呼吸が途切れる。抵抗もかなわず、そのまま背中から地面に叩きつけられた。衝撃で息が詰まり、右手の木剣が弾かれて飛ぶ。
ベオウルフも己の木剣を投げ捨て、咳き込む彼女の両手を片手でねじ伏せる。
手首がきしみ、くぐもった悲鳴が洩れた。焼けるような痛みが左腕から襲い、ようやく現実が容赦なく押し寄せてきた。
潤む視界の端で、見物者が飛び出そうと身を乗り出す姿が見えた。だが、瞬時にベオウルフが彼らに向かって吠えた。
「全員、その場から動くな!」
威圧が込められた叫びに、誰もが足を止めた。手を出せば、エリンの身が危ないとでも思ったのだろう。
実際ベオウルフもそのつもりなのかもしれない。エリンの左手を握る手の力を、さらに強くさせる。その度に彼女は苦痛に喘いだ。
全身に脂汗が浮かび、痛みで勝手に涙があふれる。泣き顔を見せたくなくて、呼吸を止め、ただ必死に上にのしかかる男を睨みつけた。
勝負はもう決していた。
それでもエリンの戦意は失われない。
右手で拳を握り、ベオウルフ目掛けて殴りかかる――が、即座に彼の左手で遮られる。そのまま掴まれ、右手も地面に縫い付けられた。
「……いい眺めだな」
わざとらしい下卑た言葉。しかしその瞳は怒りに燃え、狼藉の気配など欠片もない。
だからこそ、エリンはなお反発した。手が駄目なら足がある。必死に蹴り上げる。
だが右脚は膝で、左脚もすぐに押さえ込まれる。四肢を封じられ、もはや抵抗の術はなかった。
振り解こうにも、びくともしない。左腕の痛みがジクジクと広がり、全身から力を奪ってゆく。
「降参しな、嬢ちゃん」
静かな声でベオウルフが言う。
「自分の弱さが理解出来ただろう?」
「いやだ!」
エリンの声には、まだ威勢が残っていた。
「まだ、終わってない! まだ……まだ、戦える!」
動けないのなら、さっきのように隙を作ればいい。拘束から逃れられれば、まだ剣を振える。だって、右手はまだ動けるから。
こんな卑怯な男に、ラケシスを取られたくない。
それがエリンの闘志を消させない。身体を跳ねるように身じろぎを繰り返す。
そんな彼女を見下ろしたまま、ベオウルフは問うた。
「……お前は、この状況で――例えば、落城の危機に遭っても姫さんを守ることが出来るのか?」
「出来る!」
即答した。
あからさまな強がりに、ますますベオウルフは表情を歪ませた。それは怒りというよりも、憐れみに近かった。
ただ、エリンにはそれが侮辱としか受け取れなかった。
「私は……私は、命をかけて……ラケシス様を、守ってみせる……!」
もがきながら、エリンは叫ぶ。本心からの想いを。
ラケシスのためなら、腕がもがれても平気だ。足を折られても平気だ。命を失っても――平気だ。
狂信的な決意を込めて、エリンは宣言した。
「ラケシス様の、ためなら……!」
「そうだな。時間稼ぎにはなるだろう」
突如、ベオウルフが顔を近づけてきた。吐く息が混じるほどの接近。気色悪さにエリンは顔を顰める。
しかし、構わずにベオウルフは言う。
「女なら何でも構わないという輩は多い。嬢ちゃんのような生意気な生娘なら余計に喜ぶ奴らもいるだろう」
それは脅しではなく、現実の話なのだろう。戦いの敗者となった女たちは、悲惨な目に遭わされる。……彼は、それを目撃してしまったことがあるのかもしれない。
それが我が身に振り返るなんて、エリンは想像もしたくない。
だが――それでも彼女は折れなかった。
「それで……ラケシス様を、助けられるのなら……」
愛する姫君を守るためなら、この身を犠牲にしても構わない。だってそれが――騎士という役割なのだから。
ラケシスさえ生き延びてくれるのならば、それでいい。そう思えば、左腕の痛みは和らいだ気がした。
エリンの返答は、ベオウルフの怒りを注いだようだ。みるみるうちに、口元を歪ませて牙をのぞかせる。
ああ、怒鳴られる。男の怒鳴り声は好きではない。
身を強張らせるエリン。しかし、その耳に届いたのは、怒りを噛み殺したような、抑制のきいた声音だった。
「お前が命をかけるのは――姫さんが自害する時間を作るためか?」
想定外の問いかけに、エリンは戸惑う。言葉の意図が分からない。それを隠すことすら忘れて表情に浮かべた。
ベオウルフは笑う。それは悲痛に満ちた笑みだった。
「箱入りの姫さんが、落城してたった一人で生き延びられると思うのか?」
剣を振るうも、戦いに慣れた兵には敵わない。
人を頼るも、悪意を潜めた輩を見抜く目も鍛えられてない。
亡国の姫君ならばと無条件に助ける人間が、果たしてどれだけいるのだろうか?
「……国が滅びた後に、戦うことも知らない姫が、たった一人でどうにか出来た例なんざ聞いたことがねえ」
それは英雄譚の一つならばあり得る話ではあるだろう。落ち延びた姫君が勇気ある若者たちに救われて、国を取り戻す。――なんと美しい物語であるか。
だが、現実は違う。
落人は追手に斬られ、助ける者もいなければ名も残らず消えていく。貴族であろうと平民であろうと、生き延びる術を持たぬ者は等しくただ散るだけだ。
「お前の剣は騎士の戦い方なんかじゃない。死兵のものだ。命を無駄にする戦法だ」
それは守るための剣ではない。
身体に損傷があってでも構わない――死ぬための剣。
「泥水啜ってでも生きて足掻いて――命を投げ出すのなら、主君を託せる相手に辿り着くまで戦うのが騎士じゃないのか? 違うのか? ――答えろ、エリン!」
初めて名を呼ばれた。
普段のような、子供扱いするような嬢ちゃん呼びではない。飄々としている男が、本心からエリンを叱っている。
傭兵のくせに――そう思いたかった。けれど胸に突き刺さる言葉を、否定することが出来なかった。
涙すら止まる。あれほどまでに猛り狂っていた憎悪ですら、掻き消されていた。
ベオウルフはエリンを射抜くように見下ろす。その瞳に宿るのは怒りだけでは無い。命を投げ出す者を留めようとする必死さに溢れていた。
固まる彼女の耳に、愛しい人の悲鳴が届いた。
「何をしてるの⁉︎」