名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

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8-8 全員、その場から動くな!

 足音が砂利を踏む音に変わる。土の匂いが夜風に乗って鼻に届く。

 月明かりは影を長く落としていた。静謐な光が、夜の鍛錬場をさらに冷えた空間へと変化させる――それでも、エリンの熱は冷めることはなかった。

 木剣の切先は真っ直ぐにベオウルフに向けられていた。エリンは彼を睨んだままで口を開いた。

 

「手加減は、いりません」

 

 対するベオウルフは木剣を構えることはない。肩に担いで、エリンを見下ろしている。

 普段のような飄々とした笑みは無い。無表情さが、却ってベオウルフの怒りを表しているようだった。

 左手を差し出し、挑発するように手首をくいと折ってみせる。

 

「構わない。いつでも来な、嬢ちゃん」

 

 頭に血が昇る――同時にエリンは土を蹴った。

 一呼吸で敵へと接近する。そのままの勢いで、懐に切り込むように、木剣を横薙ぎで振るう。

 冷静さを欠いた焦りの一撃――だが、その剣筋に乱れはなかった。間合いを見切り、確実に攻撃を放つ。

 全身を投げ出す一撃を、ベオウルフは一歩も動くことなく木剣で受け止めた。肩も揺らさずに、エリンの太刀筋を見極める。

 空気の割く音と木剣の弾く音――それらが同時に鍛錬場に響き渡った。音は止まることなく、連撃が繰り広げられる。

 エリンはひたすらに攻め続ける。小柄という不利を打ち消すように、ベオウルフに攻撃の隙を与えない。

 しかし、ベオウルフもまた体勢を崩すことはない。最小限の動きで、エリンの攻撃をいなす。

 切り込む一撃一撃を正確に見切り、腰をずらすだけで斬撃を外し、時には木剣の一振りで切先を逸らす。

 一方的な攻撃は、一見すればエリンの有利に見える。しかし、徐々に体力の差が浮かび上がってきた。

 木剣を振るうエリンの息は上がり、剣を交える衝撃から右手に痺れが走り始める。

 ベオウルフは汗を浮かべはするものの、呼吸は落ち着いている。

 

「どうした、もう降参か?」

 

 毒を吐く余裕すら、彼にはある。

 

「確かに経験不足だな。少しは俺を楽しませてみせろ」

「うるさい!」

 

 苛立ちにより、エリンは突進を行う。血走った目では焦点が定まるはずがない。

 

 だから――足元が疎かになっていた。

 

 エリンの木剣を回避した動作で、ベオウルフは足払いを仕掛けた。

 注意散漫になっていたエリンはあっさりと引っかかる。視界の先で、空と地面が反転した。受け身も取れずに地面へと投げ出された。

 落下音と共に砂煙が舞い上がる。乾いた匂いと細かい砂が喉を刺し、咳を誘う。

 上半身は鎧で守られたが、膝は擦りむき血が溢れた。ジクジクとした痛みに眉を歪ませる。

 エリンが転倒するとともに、周囲からざわめきが聞こえた。

 鍛錬場には、複数の人物がいた。食堂でエリンとベオウルフの諍いを目撃した者たちだ。彼らの顔には、心配、好奇心、警戒――それぞれの感情が入り混じっていた。

 

 その中にはシルヴィアもいた。涙を浮かべて両手を祈りの形で組んでいる。

 彼女の傍らではアーダンが一歩踏み出しかけて、止められた。伸ばしかけた彼の手を隣に立つノイッシュが制したのだ。

 ノイッシュは腕を組み、眉間に皺を寄せて決闘の行方を見据えていた。真面目な彼にとって、エリンの無鉄砲さは到底許せないのだろう。

 

 彼らの対面に位置する最前列に立つのは、レヴィンとフュリー。

 いつものとらえどころのない姿はそこにない。レヴィンの目はただ一人、エリンだけを追っていた。

 助けに入るべきか、見守るべきか――苦悩をその顔に浮かべて歯を噛み締めている。それでも彼の足は、いつでも踏み出せるように緊張を孕んでいた。

 その隣で、フュリーは口を結んで様子を見守る。主君の心がそこまで揺れている理由は分からないながらも、年下の少女を案じる気持ちは彼女自身にもあるのだろう。その表情が物語っていた。

 

 多くの視線を浴びながら、エリンはよろめきつつ立ち上がった。振り返れば、ベオウルフは木剣を肩に担ぎ、冷たく彼女を見下ろしていた。

 屈辱に頬を赤らめたエリンは睨みつけた。

 真剣勝負に足払いなんて卑怯だ――そんな抗議をこめて睨むと、ベオウルフは鼻で笑う。

 

「手加減するなと言ったのは、嬢ちゃんの方だろ」

 

 正々堂々なんて、戦になったら関係ない。どんな手段を取っても生き延びる――それが傭兵の戦術。

 まだ数回の出陣経験しかないエリンなど、容易くあしらわれる。

 

「猪みたいに突っ込むだけじゃあ、今みたいに足元を掬われる。少しは冷静になったらどうだ?」

 

 指導するような物言いが、ますますエリンを逆撫でた。口に入った砂を唾と共に吐き捨て、また木剣を構える。

 ベオウルフは呆れをため息に乗せて、木剣を肩から降ろした。その眼がまた鋭くなる。対峙する相手を射殺すほどに――。

 駆け出したエリンは恐れることなく木剣を振りかぶる。それをベオウルフは全て受け止めた。

 先ほどと違い、防衛に徹していた彼が今度は反撃に転じる。

 エリンの切り込みをいなし、その反動で体勢を崩させる。そこへ重い一撃。

 太刀筋はわざと読みやすく放たれていた。だからこそ剣で防げたが、衝撃が両手を痺れさせ、剣を落としかける。

 

 圧倒的だった。

 

 本来のエリンなら相手の力量を察していたはずだ。義父たちに鍛えられた目がある。

 だが今は違う。ベオウルフへの憎悪が、それを曇らせていた。

 この男を倒す――その思いだけで体を動かす。

 だが、限界は近い。荒い呼吸、震える肩、ふらつく足。握る指先さえ意識を失えば力が抜ける。

 それでも一太刀。せめてあの余裕の面を砕くまでは。

 対するベオウルフは息ひとつ乱れず、わざと隙を晒して誘っている。

 

 ならば、乗る。

 

 エリンは木剣の柄から左手を離し、腰を沈めた。右手の剣を下げ、左手を顔前に掲げる。黒い瞳はベオウルフの喉元だけを見ていた。

 一呼吸。

 突撃。

 駆けながら左手を伸ばし、右手の木剣を大きく振りかざす。

 ベオウルフはそれを読んでいた。無駄のない動作で木剣を振り下ろす。

 

 その一撃を――エリンは回避しなかった。

 

 ベオウルフの目に動揺が走る。躊躇いが攻撃の威力を削ぐ。

 しかし、勢いまでは殺せない。剣先はそのままエリンの左腕に直撃した。

 

 鈍い衝撃。

 重い打撲音。

 左腕が無理な角度に弾かれ、力なく垂れ下がる。

 

 悲鳴とどよめきが遠くで響いた。

 刹那、エリンの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。

 痛みは高揚に呑み込まれ、右手の木剣がベオウルフの喉元へと突き出され――。

 

「この……バカ野郎がッ!」

 

 怒気をはらんだ咆哮と同時に、ベオウルフの左手がエリンの首筋を掴む。

 喉を圧迫され、一瞬呼吸が途切れる。抵抗もかなわず、そのまま背中から地面に叩きつけられた。衝撃で息が詰まり、右手の木剣が弾かれて飛ぶ。

 ベオウルフも己の木剣を投げ捨て、咳き込む彼女の両手を片手でねじ伏せる。

 手首がきしみ、くぐもった悲鳴が洩れた。焼けるような痛みが左腕から襲い、ようやく現実が容赦なく押し寄せてきた。

 潤む視界の端で、見物者が飛び出そうと身を乗り出す姿が見えた。だが、瞬時にベオウルフが彼らに向かって吠えた。

 

「全員、その場から動くな!」

 

 威圧が込められた叫びに、誰もが足を止めた。手を出せば、エリンの身が危ないとでも思ったのだろう。

 実際ベオウルフもそのつもりなのかもしれない。エリンの左手を握る手の力を、さらに強くさせる。その度に彼女は苦痛に喘いだ。

 全身に脂汗が浮かび、痛みで勝手に涙があふれる。泣き顔を見せたくなくて、呼吸を止め、ただ必死に上にのしかかる男を睨みつけた。

 勝負はもう決していた。

 それでもエリンの戦意は失われない。

 右手で拳を握り、ベオウルフ目掛けて殴りかかる――が、即座に彼の左手で遮られる。そのまま掴まれ、右手も地面に縫い付けられた。

 

「……いい眺めだな」

 

 わざとらしい下卑た言葉。しかしその瞳は怒りに燃え、狼藉の気配など欠片もない。

 だからこそ、エリンはなお反発した。手が駄目なら足がある。必死に蹴り上げる。

 だが右脚は膝で、左脚もすぐに押さえ込まれる。四肢を封じられ、もはや抵抗の術はなかった。

 振り解こうにも、びくともしない。左腕の痛みがジクジクと広がり、全身から力を奪ってゆく。

 

「降参しな、嬢ちゃん」

 

 静かな声でベオウルフが言う。

 

「自分の弱さが理解出来ただろう?」

「いやだ!」

 

 エリンの声には、まだ威勢が残っていた。

 

「まだ、終わってない! まだ……まだ、戦える!」

 

 動けないのなら、さっきのように隙を作ればいい。拘束から逃れられれば、まだ剣を振える。だって、右手はまだ動けるから。

 

 こんな卑怯な男に、ラケシスを取られたくない。

 

 それがエリンの闘志を消させない。身体を跳ねるように身じろぎを繰り返す。

 そんな彼女を見下ろしたまま、ベオウルフは問うた。

 

「……お前は、この状況で――例えば、落城の危機に遭っても姫さんを守ることが出来るのか?」

「出来る!」

 

 即答した。

 あからさまな強がりに、ますますベオウルフは表情を歪ませた。それは怒りというよりも、憐れみに近かった。

 ただ、エリンにはそれが侮辱としか受け取れなかった。

 

「私は……私は、命をかけて……ラケシス様を、守ってみせる……!」

 

 もがきながら、エリンは叫ぶ。本心からの想いを。

 ラケシスのためなら、腕がもがれても平気だ。足を折られても平気だ。命を失っても――平気だ。

 狂信的な決意を込めて、エリンは宣言した。

 

「ラケシス様の、ためなら……!」

「そうだな。時間稼ぎにはなるだろう」

 

 突如、ベオウルフが顔を近づけてきた。吐く息が混じるほどの接近。気色悪さにエリンは顔を顰める。

 しかし、構わずにベオウルフは言う。

 

「女なら何でも構わないという輩は多い。嬢ちゃんのような生意気な生娘なら余計に喜ぶ奴らもいるだろう」

 

 それは脅しではなく、現実の話なのだろう。戦いの敗者となった女たちは、悲惨な目に遭わされる。……彼は、それを目撃してしまったことがあるのかもしれない。

 それが我が身に振り返るなんて、エリンは想像もしたくない。

 だが――それでも彼女は折れなかった。

 

「それで……ラケシス様を、助けられるのなら……」

 

 愛する姫君を守るためなら、この身を犠牲にしても構わない。だってそれが――騎士という役割なのだから。

 ラケシスさえ生き延びてくれるのならば、それでいい。そう思えば、左腕の痛みは和らいだ気がした。

 エリンの返答は、ベオウルフの怒りを注いだようだ。みるみるうちに、口元を歪ませて牙をのぞかせる。

 ああ、怒鳴られる。男の怒鳴り声は好きではない。

 身を強張らせるエリン。しかし、その耳に届いたのは、怒りを噛み殺したような、抑制のきいた声音だった。

 

「お前が命をかけるのは――姫さんが自害する時間を作るためか?」

 

 想定外の問いかけに、エリンは戸惑う。言葉の意図が分からない。それを隠すことすら忘れて表情に浮かべた。

 ベオウルフは笑う。それは悲痛に満ちた笑みだった。

 

「箱入りの姫さんが、落城してたった一人で生き延びられると思うのか?」

 

 剣を振るうも、戦いに慣れた兵には敵わない。

 人を頼るも、悪意を潜めた輩を見抜く目も鍛えられてない。

 亡国の姫君ならばと無条件に助ける人間が、果たしてどれだけいるのだろうか?

 

「……国が滅びた後に、戦うことも知らない姫が、たった一人でどうにか出来た例なんざ聞いたことがねえ」

 

 それは英雄譚の一つならばあり得る話ではあるだろう。落ち延びた姫君が勇気ある若者たちに救われて、国を取り戻す。――なんと美しい物語であるか。

 だが、現実は違う。

 落人は追手に斬られ、助ける者もいなければ名も残らず消えていく。貴族であろうと平民であろうと、生き延びる術を持たぬ者は等しくただ散るだけだ。

 

「お前の剣は騎士の戦い方なんかじゃない。死兵のものだ。命を無駄にする戦法だ」

 

 それは守るための剣ではない。

 身体に損傷があってでも構わない――死ぬための剣。

 

「泥水啜ってでも生きて足掻いて――命を投げ出すのなら、主君を託せる相手に辿り着くまで戦うのが騎士じゃないのか? 違うのか? ――答えろ、エリン!」

 

 初めて名を呼ばれた。

 普段のような、子供扱いするような嬢ちゃん呼びではない。飄々としている男が、本心からエリンを叱っている。

 傭兵のくせに――そう思いたかった。けれど胸に突き刺さる言葉を、否定することが出来なかった。

 涙すら止まる。あれほどまでに猛り狂っていた憎悪ですら、掻き消されていた。

 ベオウルフはエリンを射抜くように見下ろす。その瞳に宿るのは怒りだけでは無い。命を投げ出す者を留めようとする必死さに溢れていた。

 固まる彼女の耳に、愛しい人の悲鳴が届いた。

 

「何をしてるの⁉︎」

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