反射的に声の方向へと顔を向けた。
血相を変えたラケシスがこちらに向かって駆けてくる。その後ろから、追うようにアレクもやって来た。
エリンの両手首に握るベオウルフの手が緩んだ。さすがにこの状況を姫君に見せるのはよろしくないと判断したのだろう。
それはエリンも同じだ。
ベオウルフが退くと同時に半身を起こそうとした時だった。――彼の体が突き飛ばされた。ラケシスがそうしたのだ。
非力な姫君では、大した威力はないはずだ。それなのに、ベオウルフは大袈裟にエリンの上から退いた。
呆然とするエリンをラケシスが抱き起こす。白百合のような清らかな香りが、エリンを包み込む。
「エリン……ああ、可哀想に……」
頬擦りをするように労ってくれるラケシス。甘美な慰めの言葉に、エリンは引っかかりを覚える。薔薇の棘が、指先に深く突き刺さったかのように。
ラケシスはベオウルフよりもエリンを抱きしめてくれた。それは嬉しいはずなのに、喜ばしいはずなのに。……何よりも望んでいたはずなのに。
勝ち誇る気持ちは微塵も湧いてこなかった。
だからこそ、違和感は胸の奥を鋭く抉る。
小さく掠れた慰めの声は情に満ちて、そして――憐憫が込められていた。
何も言えないエリンを、ラケシスはどう思ったのだろうか。
黄金の瞳がみるみると憤怒の形を取る。そして、すぐ近くで座り込むベオウルフを睨み付けた。
「私のエリンを……こんな、か弱い子を虐めないで!」
瞬間、エリンは息を飲んだ。
抱きしめられて暖かいはずなのに、指先まで凍りつく。心地良いと感じたはずのラケシスの清楚な芳香ですら、感じ取れない。
周囲のざわめきも、風の渡る音も――全てからエリンは切り離される。
「……姫さん、それは駄目だ」
咎めるようなベオウルフの声ですら、何の感慨も湧かない。
「黙って! エリンに……こんな、酷い辱めをするなんて……!」
怒りを露わにするラケシスの震えですら、何も感じない。
音も、熱も、色も――何もかもエリンは失う。
決闘の昂揚も、とうに消え去っていた。
汗や泥に塗れたエリンの身体を、ラケシスは嫌悪も見せずに抱きしめている。それを畏れ多いとも思えなくなっていた。
まばたきもせずに、エリンは黙り込んでいた。氷の彫刻のように。
抱きしめられるラケシスの温もりも、柔らかさも、清純な芳香も――何も心を揺らすことなかった。
俯くこともできないエリンに、ラケシスは優しく言う。
「安心して、エリン。私が守ってあげるから――」
言葉が途切れた。
エリンの顔を見るラケシスは驚きのままに息を呑む。揺れる金の瞳孔に、エリンの表情が映る。
小さな騎士は泣くことも怒ることもできず、虚な顔で硬直していた。
黒曜石のようなエリンの瞳に光は無く、人形のように生気が無い。
「エリン……?」
恐る恐るとラケシスが名を呼んだ。しかし、エリンはそれに何の反応も示さない。
少女たちを見守る者たちも、やるせない表情を浮かべていた。
ただ一人、ラケシスだけはエリンの異変の原因を理解できないでいる。唇は開いたまま、吐息だけが零れ落ちた
そんな彼女に、エリンはゆっくりと口を開く。
「……ラケシス様」
普段のような冷静さを装う声では無い。途方に暮れた、迷子の子供のような響きがあった。
取り繕うことを放り出し、エリンはラケシスに問う。
「シグルド様は、なんと仰っておられましたか……?」
食堂でレヴィンはアレクに指示した。シグルドへ報告するようにと。
そのアレクが、ラケシスと共にこの場にやって来た。なら、シグルドからの伝言も承っているはずだ。
騒動を起こしたエリンへの罰を。
「ラケシス様……」
「そんなこと、いいの!」
現実をかき消すように、ラケシスは叫ぶ。
「何も考えなくてもいいのよ、エリン。心配しないで、私があなたを守ってあげるから」
きっとラケシスは、またエリンを庇うつもりなのだろう。
自分の責任だと。自分がエリンを見てあげなかったのが原因だと――そうシグルドに訴えるのだろう。今までと同じように。
「アレクさん」
いつの間にか、すぐそばにいたアレクを、エリンは見上げる。
彼は決闘の全てを目撃していない。しかし、弱々しいエリンの姿に察することがあったようだ。普段の軽薄さが鳴りを潜めている。
「シグルド様は、なんと……?」
アレクはすぐには答えない。僅かに眉根を寄せ、言葉を選ぶように息を詰めていた。
しかし、やがて決心したのだろう。薄い唇から、普段よりも低い声を発した。
「二人とも自室に戻るようにと……。それぞれの処罰は、これから話し合って決めるそうだ」
やはりベオウルフも罰せられてしまうようだ。普段のエリンなら溜飲が下がるのだが、今は申し訳無さが先立つ。
ゆるゆると彼女はベオウルフを見た。
彼はずっと、こちらを見つめていた。目が合えば、困ったように肩をすくめてみせた。その唇が小さく動く。
――気にするな。
まるで声に出されたかのように、確かにそう聞こえた気がした。
謝罪を受け取るつもりはないのだろう。それは決して突き放す意味合いではないことを、エリンは悟った。
なら、この場での彼との対話は終わりだ。
エリンはゆっくりと立ち上がる。ラケシスの腕は緩められていたから、あっさりとその抱擁から抜け出せた。
名残惜しむようにラケシスの指先が、エリンへと伸ばされる。しかし、エリンはそれを無視した。傷付いたように瞳を揺らす敬愛する姫を見ないふりして。
今更左腕が痛み出す。だけど、それでいい。でなければ、胸を刺す苦しさで泣き叫んでしまいそうだった。
静かに、ゆっくりと歩き出す。
「待って、エリン!」
ラケシスが呼び止める。しかし、エリンは振り返らない。
立ち止まりはした。だが、それだけだ。
背後でラケシスが近寄る気配がした。それを留めるように、エリンは言う。
「私は……シグルド様の指示に従います」
それでもラケシスはエリンを見捨てない。背後から足音が近付く。
「だったら、一緒にお部屋まで行くわ! ねぇ、そうしましょう?」
必死に訴える愛する人の言葉を――今はやはり、受け入れることができなかった。
「頭を冷やしたいんです。どうか、一人にさせてください」
発した声は拒絶の色を濃く表していた。
ラケシスに向かって、こんな声を聴かせる日が来るなんて思わなかった。
傷付いたように息を飲む音が耳に届く。
耐えきれなくて、エリンはついに駆け出した。
走って走って――ラケシスが後を追ってくれないことに安堵して、同時に悲しく思って、混ぜこぜになった感情に息苦しさを覚える。
――私のエリンを……こんな、か弱い子を虐めないで!
ラケシスがベオウルフに放った言葉が頭から離れない。
気づいてしまった。気付きたくなかった。
ラケシスはエリンに騎士としての働きを期待してなかったのだ。
いや、そもそも最初からエリンに騎士の役割を彼女は求めていなかった。
幼いラケシスは、友人となったエリンをノディオンに引き留めたかった。その理由付けとして、騎士という目的を提案してくれただけなのだ。そばにいるのなら、騎士でなくても良かったのだ。
エリンの努力なんか、関係なかった。
これまでの厳しい訓練の数々。
手に血が滲む痛み。
髪を伸ばすことすら、諦めた。
だが、それらを乗り越えたのは、全てラケシスのためだった。憧れのお姫さまに相応しい騎士となるためだけに生きてきた。
それが無意味だったと、今になって気付く。
ラケシスの望むのは、ただ飾りの騎士。見せかけだけの存在であれば、それで良かったのだ。
エリンに役割は必要ない。ただ、そばにいてくれればいい。――それはなんて優しく、幸福な願いだろう。
痛みも悩みも、何も考えることなくラケシスの隣にエリンは控えていればいいのだ。剣を振るって傷付くこともなく、ただ、愛する姫君と穏やかな日々を過ごす。
……だけど、それはエリンの望みではない。
不意に、足が止まる。
左腕の痛みよりも、胸が苦しい。呼吸の仕方を忘れたように、息ができない。瞬きをすれば、溢れた涙が溢れ落ちそうだ。
廻廊を照らす蝋燭の灯りがゆらりとぼやける。いつか見た恐ろしい夢の中にいるようだ。嗚咽のような吐息が、静寂を震わせた。
そんなエリンに向かって、足音が近付いた。振り向きもしない彼女を支えるように、背後の人物は手を伸ばして来た。
「大丈夫か?」
気遣う言葉を吐きながら、アレクはエリンを抱き寄せる。顔を顰めるエリンには気付くこともなく、彼は無遠慮に背中を撫でてきた。
鼻先を掠めるのは、柑橘の甘さを帯びた香料の匂い。その中に肉感的な濃厚さが混じっていた。牙を潜ませるような、不安がざわめきとなってエリンを襲う。
「悪かった。あんたの側にいられなくてさ」
まるで親しい人を慰めるような言い回しだ。囁く声に熱が籠っていることを、エリンは気付かない。安心よりも不快感が勝っていた。
「俺が傍にいたら、あんな目に遭わせなかったのに」
レヴィンの指示さえなければ――そんな風に責めるような言い回しだ。優しさの中に、どこか軽薄さが潜んでいる。声音の端に、不似合いな弾みが混じっていた。
エリンの哀しみを、挫折を――好機だと捉えているようだった。
被害妄想の可能性もある。しかし、エリンは素直にアレクの厚意を受け入れる気にならない。
髪を撫でる男の手を、右手で払いのけた。
「離して、ください……」
弱々しい拒絶。声に涙が混じっていた。
アレクはそれを強がりだと捉えたのだろう。口元がわずかに釣り上がる。
「落ち着くまでこうしてやるよ。不安なら、どこか空き部屋にでも――」
「離して!」
叫ぶと同時に、エリンはアレクを突き飛ばした。左腕はすでに動かなくなっていたため、右手一つで。
不意を突かれたアレクの体が揺らぐ。
拘束が緩まった隙に、エリンは彼の腕の中から逃れた。そのまま後退り、距離を取る。
震えるエリンに対し、アレクは動揺を見せなかった。困ったように片眉を下げて、なお笑みを崩さない。
アレクの腕が、ためらいなくまた伸びてきた。
「エリン。ほら、おいで」
「いや!」
明確に拒絶を声に出してもアレクは顔色ひとつ変えなかった。子供の癇癪とでも思っているのだろうか。
それがますますエリンを追い詰めた。
「一人にしてよ! 私に触らないで!」
「でも、エリン――」
「来ないで!」
取り繕う敬語も失われていた。エリンはそれに気付かない。叫ぶ彼女の目からはポロポロと涙が溢れていた。
早く一人になりたかった。誰にも見られないで、声を上げて泣きたかった。
涙で滲む視界から、世界の全てが消えてしまえばいいと願った。
肩を揺らし、しゃくりあげるエリン。拒絶されても尚、慰めようとしたのだろう、アレクが足を踏み出した――その時だった。
「エリン!」
名を呼ぶ声に、エリンは顔を上げた。
振り向けば、フィンがこちらへと駆けて来る。泣いてる姿に気付いた瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
それを見て、エリンの中で最後の強がりが崩れ去った。押さえ込んでいた様々な感情――悔しさも、痛みも、孤独も――全てが波となって弾けて溢れる。
「……フィン!」
アレクに見向きもせずに、エリンはフィンに抱きついた。縋るように彼の上着にしがみ付く。
上着からわずかに香る石鹸の香り。香料を付けていない、その素朴な匂いに安らぎを覚えた。
そのまま心を預けるように、声を上げて泣き出す。
みっともないと思う理性がわずかに残っていた。だが、もう抑えきれない。胸の奥のものを涙に託して、エリンは慟哭した。
フィンはそれを咎めることなく、彼女を抱きしめた。痛ましい表情で、小麦色の髪を撫でる。蝋燭の灯りに照らされ、その髪は蜂蜜色にきらめいた。
そして、顔を上げる。フィンの睨む先には、アレクがいた。
常に余裕を纏った色男は、酷く狼狽していた。笑みを浮かべることすら忘れて、抱き合う二人を前にして瞳が揺れていた。宙に伸ばした指先が、何も掴めずに彷徨っている。
「アレク殿、エリンに何をしたのですか?」
フィンの声は冷静であったが、確かな怒りが込められていた。エリンを抱く腕にも、力が込められる。
アレクは何も答えない。責められたことを後ろめたく感じてる様相ではなさそうだ。何か、彼の想定が崩された――そんな戸惑いを露わにしている。
廻廊に響くのはエリンの泣き声だけだ。それを受け止めるのは、フィンだった。アレクではない。
フィンは無言のままのアレクに見切りをつけた。そっとエリンに話しかける。
「行こう。部屋まで送るよ」
優しく背を叩くフィンの手のリズムが、エリンの胸の震えを鎮めていくようだった。
涙を流しながらも、エリンはフィンの提案に頷いた。いつまでもこの場で泣き喚いているのは良くない。感情の波に溺れながらも、彼女の理性はわずかに残っていた。
フィンはエリンの頭をもう一度撫でると、そのまま彼女の肩へと腕を回す。そして、支えるように歩き始めた。エリンが落ち着くように、ゆったりとした歩調で。
涙を拭いながら、エリンはなすがままにフィンと歩みを共にした。寄り添う彼のぬくもりが慰めになる。
去ってゆく二人を、アレクは見つめることしか出来ない。
「……嘘だろ」
小さく呟いた彼の声は、決してエリンに届くことはなかった。