熱が下がり二日目の夜。
エリンの部屋にノックの音が響いた。遠慮がちな叩き方は、ラケシスの来訪の合図では無い。
寝台からゆっくりと起き上がり、ドアの前まで足を忍ばせて進む。そして、ほんの少しの警戒心を込めてエリンは声を放つ。
「……誰?」
「私だよ、エリィ」
潜められた声は、まだあどけなさの残る少女のものだった。その声の主を、エリンは知っている。
鍵を開けてドアを開ける。その先には、想像通りの人物が佇んでいた。
回廊を照らす蝋燭は消えていた。やがて見回りの兵が巡ってきて、灯りを替えるだろう。そのわずかな闇の合間を縫うように、シルヴィアはやって来た。
人目を偲ぶためなのか、彼女は黒いローブに身を包んでいた。髪を解いているのか、首元から緩やかな緑髪が一房流れていた。そのせいか、普段よりも大人びて見える。
部屋に招き入れると、彼女は申し訳なさそに眉を下げる。
「ごめんね、エリィ……」
「ううん、私の方こそごめんなさい」
決闘の一部始終をシルヴィアは目撃していた。必死に止める彼女の手を振り払ったことをエリンは後悔していた。
シルヴィアの泣き顔が忘れられなかった。だからこそ、今宵の来訪に嬉しく思える。
「エリィの熱が下がったって聞いて、どうしても会いたかったの」
「そうなんだ。ありがとう……」
シルヴィアのいじらしさが可愛らしい。喜ぶエリンに彼女は、見舞いがこんな夜遅くになった理由を教えてくれた。
謹慎期間はラケシス以外の人間がエリンの部屋に訪れることを禁止している、と。
「え……」
驚き固まるエリン。そんな話は聞かされてなかった。
ラケシスから伝えられたのは、謹慎と武装禁止のみだ。面会制限まで付けられているとは、知らされていない。
なぜ教えてもらえなかったのか――そんな疑問も湧くが、それよりもエリンはシルヴィアを心配した。
面会を禁止されているのに、こっそりと会いに来れば彼女だって罰を受けるだろう。
不安が顔に現れるエリンを見て、シルヴィアは小さく微笑んだ。
「大丈夫。誰にも見つからなかったから……それに、すぐ帰――」
シルヴィアの言葉が詰まる。
彼女の視線の先はエリンの左腕だ。ベオウルフの一撃を直に受けたそこは、醜い青痣が大きく広がっていた。
「本当に大丈夫なの……?」
不安そうに問われれば、エリンは笑って見せた。
「うん。痛みは、もう引いたよ」
わずかに痺れは残っているが、日常生活に支障はないため、エリンは平気だと笑って見せた。
しかし、周囲はそう思えないだろう。
現にラケシスがそうだ。看病を終えても、彼女はこの部屋でエリンと共に食事を行っている。負傷は利き手でないのに、ラケシスはエリンに給餌を行う。必要ないと告げても、聞き入れて貰えない。
面会制限の理由はこれだろうか、とエリンは推測する。
確かに、知らぬ者が見れば、驚くほどに痛々しい。周囲への配慮としての制限なのかも知れない。
それ以外に理由もあるだろうが、一番はこれだろうとエリンは思い込んだ。ラケシスは慈悲深い姫君だから。
「ねぇ、シルヴィ」
泣きそうな目を向けるシルヴィアに向かい、エリンは言う。
「謹慎が開けたら、また私に踊り教えてほしいな」
「……もちろん、良いに決まってるよ」
シルヴィアは一歩踏み出して、留まった。きっとエリンに抱きつこうとしたのだろう。だが、エリンの左腕の青痣がその足を引き止めたのだ。
どこまでも優しい友人に、エリンの胸は暖かくなる。だから、彼女の方からシルヴィアを抱きしめた。
風呂上がりなのか、シルヴィアの髪から石鹸の香りがする。いつもの華やかな香りも彼女らしいが、何も付けなくともシルヴィアは良い匂いがした。
シルヴィアは涙を呑み込むと、エリンを抱きしめ返してくれた。
◆ ◆ ◆
その翌日。朝食を終えてしばらく経った後に、エリンの部屋を訪れたのはエスリンであった。
驚き、目を見開くエリンに向かい、エスリンは朗らかに笑いかける。
「ふふ、そんなに怖がらないで。今日はお忍びなんだから」
エスリンの衣装は、娘らしい華やかなワンピースだ。普段は一つにまとめている髪も、今日は高く結い上げている。化粧はしているが、目立つほどでは無い。
こうしていると、年頃の娘そのものだ。とても一児を持つ王太子妃には見えない。
部屋へ立ち入ったエスリンに椅子を薦め、エリンはその近くで跪く。すると、エスリンはそれを止めるように片手をあげた。
「楽にしていいのよ、エリン。まだ本調子じゃないでしょう?」
「ですが、不敬になります」
「だからお忍びなの。ほらほら、遠慮しないであなたも座って!」
わざわざ寝台までエスリンに手を引かれてしまった。そのままエリンはそこに座らされる。
エリンの対面になるよう、自ら椅子を引いたエスリンも座る。始終笑顔のエスリンと違い、エリンは居心地が悪い――というよりも、緊張に包まれている。
シルヴィア曰く、エリンへの面会はラケシス以外は禁止となっている。
もしやエスリンもシルヴィアと同じようにこっそりとやって来たのか? いくらシグルドの妹でも、禁止されていることをすれば罰を受けるだろう。心配からエリンは少し身を引く。
彼女の疑問を読み取ったかのように、エスリンが口を開く。
「ラケシス様にはお話をしてあるわ。エリンのお見舞いをしたいって」
しかし、ラケシスの姿は無い。その理由もエスリンは教えてくれた。
「ベオウルフの謹慎が終わるから、その話をしに行ってるのよ。本当はラケシス様も一緒にあなたに会いに来たかったみたいだけどね」
よほどエリンのことを大切に想っているのね、とエスリンはしみじみと感想を述べる。
ラケシスは同行できない代わりの条件を二つ付けた。一つは大人数で押し掛けないこと。もう一つは長時間の滞在はしないこと。どちらもエリンを気遣ってのものだ。
だからなのか、エスリンは侍女も付けていなかった。それでも護衛騎士を一人でも付けるべきではないのかとエリンは思う。
彼女はシグルドの妹であり、キュアンの妻だ。例え城内であろうとも、警戒すべきではないのか?
先日、庭園で出会った時はフィンがその任に就いていた。
そこまで思い至った時、エリンの顔が曇った。
フィンは、どこまで知っているのだろうか。そんな不安が胸を締め付ける。
「お兄様もキュアンも、エリンを心配していたのよ」
エスリンの声は落ち着いたものだ。我が子に向けるようなゆったりとした声音に聞こえる。
「いけないことをしたけど、それでもエリンが怪我をしたことには変わりないもの。二人とも気にしてたわ」
「そんな……私の自業自得ですから」
「フィンも心配してたわ」
エリンの全身が強張る。息が詰まり、目が泳ぐ。
動揺を露骨に見せる彼女を見て、エスリンは何かを確信したように頷いた。
「あんなに落ち着かないフィンを見たのは初めて。エリンが寝込んでから――いいえ、あなたがベオウルフに決闘を挑んだって報告を聞いた時から……」
語るエスリンの表情は、穏やかな慈愛に満ちている。それは年頃の娘ではなく、母となった女のものだ。
彼女の夫キュアンは、フィンを自分の弟のように接している。ならば、きっとエスリンも同じなのだろう。
彼らの間に繋がる暖かな絆を感じ取れた。それは、次に紡がれたエスリンの発言によって確実なものとなる。
「フィンはね、今日はアルテナの相手をしてもらってるの。あの子は最近、フィンにとても懐いてるのよ」
我が子の成長を喜ぶ母の顔で、エスリンは微笑む。
その笑みに、自らの母ドナの姿をエリンは重ねる。
幼いエリンが一つ、また一つと出来ることが増えるたびにドナは大変喜んでくれた。大袈裟とも思えるほどに。
――すごいわ、さすが私の宝物!
そう言って抱きしめてもらうたびに、エリンは心の奥底から幸せだと感じた。
母の柔らかな温もりと優しい香り。その記憶が月日が経つごとに、少しずつ薄れていく。
それが悲しくてエリンは俯いた。
過去を名残惜しむように、彼女は右手で左手首を撫でた。そこには、形見の腕輪は無い。
決闘の日から、腕輪は棚に飾りっぱなしだ。
母の腕輪が無いからこそ、エリンはあんな無茶を行った。守るべき物が無いから、彼女は捨て身の防御を行った。
己の腕がへし折れても構わない。ベオウルフに一矢報いるためならば、どれほど傷付いても構わない。……本気でそう思っていた。
結果はこれだ。周囲に迷惑と心配をかけている。左腕の青痣に目を落とした瞬間、母の顔が脳裏をかすめた。
今のエリンを見たら、ドナはどれほど多くの涙を流すだろうか。想像しただけで胸が締め付けられた。
黙り込むエリンの耳に、くすぐるような笑い声が届く。
「ねぇ、エリン」
エスリンが、優しく語りかける。
「エリンが思う以上に、あなたを想う人たちは、たくさんいるのよ。……だから、自分を傷付けるような真似をするのは、おやめなさいな」
ドナが叱る時と同じ声音だった。諭すように、嗜めるように――何よりもエリンのために。
懐かしい響きに彼女の目に涙が溜まる。
お母さん、そんな言葉を口に出しかけて留まる。
ドナは、もういない。だからこそ、母の想いを――娘を想ってくれた彼女の気持ちを忘れてはいけない。
涙を拭うエリンの頭を、慈悲深い王太子妃は撫でてくれた。そのゆったりとした手つきは、まさにドナと同じもので――エリンは甘えるように泣いた。
◆ ◆ ◆
謹慎期間を終えた翌日。
部屋で朝食を終えたエリンの元を訪れたのは、レヴィンとフュリーだった。
「もう二度と、こんな無茶はするな」
部屋に入るなり、開口第一にレヴィンはそう言った。
「今回はこの程度で済んだが、いつか命を落とす羽目になるぞ。跳ねっ返りも程々にしろ」
淡々と叱るレヴィンの言葉を、エリンは黙って聞き入れる。彼も決闘の日、食堂でエリンを止めようとしたのだ。彼には怒る権利がある。
レヴィンの背後では、困ったような表情のフュリーが佇んでいた。見舞いのつもりだろう、小さな花束を両手で握りしめている。力が込められたために、鮮やかな包み紙がくしゃくしゃになっていた。手渡す機を逃していたのだ。
エリンは反抗せずに、レヴィンの説教を一つ一つ受け入れた。そして、一区切りしたところで深々と頭を下げる。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「なら、もう心配をかけさせるな」
レヴィンの声が和らぐ。彼は右手を伸ばしてエリンの頭を撫でた。
「頼むから……もう少し、自分を大事にしてくれ。お前に何かあったら、俺は――」
まるで口説き文句のようにも聞こえる。しかし、色気など微塵もなく、ただ心からエリンの身を案ずる響きだった。
麦藁色の髪を撫でてくれるレヴィンの手が心地良い。力を込めず、ゆっくりとさすってくれる。もっと欲しくて、エリンは目を閉じて身を任せた。
レヴィンの小さな笑い声が耳に届き、すぐに我に帰る。
「……子供扱いしないでください」
頬を赤くさせて、エリンは目を逸らす。相変わらずレヴィンの前では、心がほどけてしまう。
恥じらいもあるのだが、フュリーの前というのが良くない。
明言こそしていないが、彼女はレヴィンを好いている。仕草が、眼差しが、彼女の想いをありありと語っていた。
今の場面だって、きっとフュリーは胸を痛めていることだろう。そう思いつつ、彼女へと視線を移してエリンは困惑する。
フュリーは躊躇いの表情のままで、こちらを見つめていた。
それは決してエリンを敵視する目ではない。彼女の深緑の瞳は、苦悩を飲み込むように揺れていた。抱えきれない秘密に耐えられない――そんな目をしている。
なぜフュリーがそんな顔をするのか、エリンには理解出来ない。困惑する彼女の前に、レヴィンは左手で何かを差し出した。
小瓶の中に、乳白色の小粒な飴が詰められていた。日差しを受けたひと粒が、琥珀色に煌めいた。
宝石のような輝きにエリンは目を奪われる。陶酔するように息を漏らすと、レヴィンが笑いかける。
「お前のために買ってきた。見舞いの品として受け取ってくれ」
「でも……」
「好きだろう、これ」
だから何故断言するのだ。
飴で機嫌が取れる子供だと言いたいのか――それとも、本当にレヴィンは過去にエリンと接点があったのだろうか……。疑惑は膨らむが、それを明確にするのが怖い。慎重ではなく、臆病がエリンにためらいを与えたのだ。
そして、かつてエリンを虐めた幻聴がどうしても気にかかる。
母に似た声を持つ女……あの魔女は、シレジアの人間に気を許すなと強く言い放った。思い返すだけでもエリンの背筋が震えた。
俯くエリンの唇の前に、レヴィンの手が差し出された。反応する間もなく、指先に摘まれた飴が口内へと押し込まれる。
「んん⁉」
抗議の唸り声と共に、口内に濃厚な蜜の味が広がった。飴は繊細に溶けていく。
シャリ、と細やかな結晶が舌の上で踊る。鼻先に、ふわりと花の香りを残して消えてしまった。
舌に残る甘さで、ようやくそれが蜂蜜だと気づく。
初めての食感なのに、どうしてか懐かしい気持ちになる。
上品な甘さはエリンの心をも溶かすようだ。自然と綻ぶように笑みが浮かぶ。
レヴィンの言う通りなのが癪だが、好みの品だ。悔しいけれど、気に入ってしまった。
顔を上げれば、レヴィンと目が合う。
彼もまた微笑んでいた。愛おしいものを眺めるように。
エリンの心臓が跳ねる。
その眼差しを知っているような気がした。その笑みを求めていたような気がした。
気まずさから、エリンはレヴィンの手に握られたままの小瓶に指を突っ込む。飴を一つ取り出して、彼の口に突っ込んだ。
突然の反撃に目を丸くさせるレヴィンに、エリンは澄まし顔で言う。
「お返しです」
「……お前なぁ」
恨めしげな言い回しだが、レヴィンは愉快そうだ。喉を鳴らして笑う。
エリンもつられて笑う。
既視感の理由はわからない。ずっと胸の内に燻る不確かな疑問。
今は蓋をしておこう――そう思いながら、口内の甘味を堪能する。
仲睦まじい二人を、やはりフュリーは複雑そうな表情で眺めていた。