「……それだけですか?」
「そうだ」
それ以上、彼は求めなかった。ただ、決闘の夜とは違い、椅子をエリンのために引いてはくれない。あくまでエリンが自主的に動くよう促している。
少し躊躇いつつ、エリンは椅子を引くが座らない。
「食事、取ってきますね」
エリンが給仕所まで行こうとすると、ベオウルフがフォークを止めて言った。
「待て。俺のを分けてやる。どうせ食い切れねぇ」
「いえ、そんな……」
遠慮するエリンに、ベオウルフは手招く。
「いいから座れ。……ああ、飲み物が無いか。嬢ちゃんは何を飲むんだ? ワインはまだ早いから、蜂蜜酒でいいか?」
「昼間に飲酒なんて、しませんよ」
少しだけ、非難を込めて言ってみる。だが、ベオウルフは別段、気を悪くした様子もなかった。
「真面目だなぁ」
くつくつとベオウルフが喉を鳴らす。そんな彼に、呆れた素振りを見せてからエリンは言った。
「そもそも、私はお酒なんて飲んだことありませんし」
成人した日に祝いだと副隊長に一杯振る舞われたが、義父フィリップがそれを止めた。まだ早いと。
それを過保護だと義父の部下たちが笑っていた。暖かい記憶に鼻の奥が痛む。
そんなエリンに、ベオウルフはからかうように言った。
「酒の味も知らない子供が【なんでもする】なんて、口にするもんじゃねぇ。悪い大人に食われるぞ」
釘を刺されてしまった。しかも食堂中に響くような声量で。
それは決してエリンを侮辱するためではないのだろう。
公衆の面前で、はしたない提案を行った彼女を守るためだ。あわよくばを狙う男たちへの牽制でもあったのだろう。
こんな子供に手を出すな――と。
粗野な振る舞いをする男のくせに、こういうところは気が回る。そしてエリンは今更ながらに認めてしまう。
ラケシスは、この包容力に惹かれたのだと……。
「……心掛けます」
悔しいとエリンは思う。
未熟な自分では、ラケシスを守るように包み込むことが出来ない。むしろ、逆に守られている状態だ。
ラケシスを守る力も、腕も――ベオウルフと比べれば何もかもが足りない。
それでも、エリンはもう彼を憎いとは思わなかった。
好きにはなれない。それでも、ベオウルフという男は悪い人ではないのだと――ようやく分かった。
◆ ◆ ◆
思いのほか穏やかな食事のひとときであった。
話してみれば、ベオウルフは驚くほど博識で、人の話を引き出すことにも長けていた。
最初は遠慮がちだったエリンも最終的には会話を弾ませていた。それを見透かすように笑うベオウルフに対して、してやられた感はあったが。
ともあれ、あれほど強くエリンを苛んでいたわだかまりは、すっかりと消え去っていた。これならもうベオウルフを威嚇するように睨むこともなくなるだろう。
きっとラケシスもその方が喜ぶはずだ。
足取り軽やかにエリンはラケシスの部屋へと向かう――はずだった。
ここはアグスティ城の庭園。以前、エリンが歌唱披露した場所であり、フィンにサンドイッチを振る舞ってもらった場所だ。
庭園の中央に設置された噴水は、変わらず清涼めいた煌めきを音と共にこの空間を癒しの場にしてくれる。
それを前にして、エリンはベンチに座っていた。さきほどまでの柔らかな表情は影もない。彼女は、緊張したように表情を引き締めていた。膝の上に乗せられた拳は、わずかに震えている。
エリンの隣に座る人物は、じっと彼女を見つめていた。決して熱を帯びた視線ではない。むしろ、問いただすような眼差しだ。
それが心配からくるものだというのは、エリンも理解している。だが、それでも気まずさから彼を直視出来ないでいた。
癒しを施す水音だけが、庭園に響いている。――エリンには全く効果はないのだが。
やがて、彼――フィンが口を開いた。
「どうして、あんなことをしたんだ?」
フィンの声は低く抑えられていた。だが、その奥には明確な怒りがあった。それが、心配から来るものだとエリンは理解している。
理解しているからこそ、怖く感じる。
きっとフィンは知っている。決闘に至るまでのエリンの言動を。だからこそ、怒っているのだ。
言葉を探したが、どれも言い訳にしかならなかった。沈黙が痛いほど重くのしかかる。
散々悩んで、エリンは小さく言った。
「……ごめんなさい」
掠れた声は震え、彼女の怯えを表していた。誰に叱られるよりも、フィンに幻滅されるのが、どうしようもなく怖かった。
ラケシスに見限られるのと同じくらいに。
いつの間にかエリンの中で、敬愛する姫君と同等なほどにフィンを占める割合が増えていたのだ。それは恋を自覚してからますます強くなっている。
フィンが小さく息を漏らす。その動作に、エリンの肩がビクリと震えた。
きっと咎めの言葉を言われるだろう――そう予測して身を縮める。
しかし、いつまで経っても沈黙は破られなかった。
俯くエリンは気付かない。フィンは何か言いかけて、そのたびに喉の奥で言葉を止めていた。眉間に皺を寄せ、視線を落とし、行き場のない怒りと嫉妬を握った拳に込めて震えている。
和やかな昼下がりの庭園に、二人の沈黙が不協和音のような緊張を漂わせていた。
隣に座るフィンの苛立ちがヒシヒシと伝わり、エリンの目元が潤み出す。しかし、必死でそれが溢れるのを堪えた。
涙で誤魔化すのは卑怯だ。だから、絶対にフィンの前で泣きたくなかった。下唇を噛みしめ、心を落ち着けようとする。
湿った吐息を漏らすエリンの耳に、フィンの声が届く。
「……あの時……怪我に気付かなくて、ごめん」
「え……」
謝罪されるのが意外すぎて、エリンは思わず顔を上げた。そして、フィンと目が合う。
瞬間、エリンの心臓が速まる。
青藍の瞳は揺れていた。怒りと焦燥と――後悔の感情がせめぎ合う。その奥にある、嫉妬を宿す暗い光も、わずかに見え隠れしていた。
そして、その全てを抑え込むようにフィンは言う。
「あの時、私がエリンを部屋へ送り届ける前に――治療室へと連れていけば……きっと、君が寝込むことは無かったはずだから」
決闘の後、エリンはフィンに部屋へと送られた。処罰を待つ間、左腕が激しく痛みだし、そのまま発熱して床に倒れてしまった。
それを発見したのが、処罰の決定を伝えに来たラケシスだった。
即座に騒ぎとなり、エリンは医師により応急処置をされて寝台へと寝かされた。そして、彼女が眠りについたままで謹慎が始まった。
その時、フィンはようやく事情を知ったらしい。
「私の誤った判断のせいだ……本当に、悪かった……」
「フィンは悪くないよ!」
己を責めるフィンに黙っていられずに、エリンは身を乗り出す。
「私が悪いの。考えなしに、たくさんの人に迷惑をかけてしまったから……」
シルヴィアを泣かせてしまった。
ベオウルフへ多くの侮辱を行ってしまった。
レヴィンに心配かけされてしまった。
アレクを傷つけてしまった。
ラケシスを追い詰め、悲しませてしまった。
そして、フィンに罪悪感を負わせてしまった。
彼ら以外にも多くにエリンは多大な迷惑を与えてしまったのだ。悔やんでも悔やみきれない。
「ごめんなさい、フィン……」
瞬きと同時に涙が溢れる。慌ててそれを手で拭うが、次から次へと涙はこぼれ落ちてゆく。フィンに、子供じみていると思われたくなかった。それでも涙は、意志に逆らうようにこぼれ落ちた。
それでも嗚咽を漏らさないようにと耐えてると、フィンの手がエリンの頬に触れた。かつてと同じように、清潔な手巾で彼女の涙を拭いてくれた。――アンファニー城で慰めてくれた時のように。
「……君の涙を拭くのは二回目だな」
吐息のように呟かれた声音は、静かで優しい。
あの時、フィンは取り乱したエリンを前にして酷く慌てていた。気の利いた慰めも出来ずに、強行突破で彼女の涙に触れた。
その辿々しい手つきを、過去のエリンは振り払った。だが、今は違う。
頬を撫でるように触れるフィンの手を、エリンは黙って受け入れる。それが心地良くて、また涙が溢れ落ちる。
「フィン……フィン、ごめんなさい……」
しゃくりあげる自分の声は幼くて醜い。こんな声をフィンには聞かせたくない。
だけど、エリンの心はフィンを求めている。
伝えたいことがある。口にすれば壊れてしまいそうな言葉が、胸の奥で震えていた。
「ハンカチ、返せなくて……ごめんなさい……すぐに、返すって……約束、したのに」
「いいよ、気にしないで」
「だ、だけど……だって、私、フィンと会えなくなるの、イヤだったから……だから……ごめんなさい……」
返す機会が無かったというのは言い訳だ。それを懺悔すると、フィンは目を丸くさせる。
そして、エリンの言葉の意味を反芻した仕草を取ると、フィンの頬が赤く染まった。
「じゃあ、あのハンカチは君にあげるよ」
フィンの声は、わずかに上擦っていた。しかし、泣きじゃくるエリンには彼の発言がそのままの意味でしか通らない。
きっとフィンは呆れたのだと思い込み、エリンの胸はさらに締めつけられた。
繰り返すように誤り続ける彼女に、フィンは慌てることなく言葉を繋ぐ。
「私の代わりだと思って、エリンが手元においてくれ。そうしたら、もう無謀な真似はしないだろう?」
どういうことだろう。そんな風に上目遣いでエリンはフィンを見る。
フィンは頬を染めていた。しかし、目を逸らすことなく、エリンを見つめている。
その目の奥に、抑えきれない熱が宿っていた。
それをエリンは恐ろしいとは思わなかった。惹きつけられるように、彼女もまたフィンを見つめ返す。
フィンは、ふっと愛おしげに微笑んだ。そのまま自然に、両手でエリンの頬を包み込む。――宝物に触れるように。
「あの日――私が食堂に居合わせたのなら、きっとエリンを止めてた。どうしてあの時、私はあの場にいなかったのだろうと……君に会えない間、ずっと後悔していた」
それは違う。
フィンが、いなかったからこそだ。彼が食堂に訪れないことを確信していたから、エリンはあんな手段をとった。
後ろめたさから彼女は目を逸らす。そのわずかな仕草に、フィンの眉が揺れた。
「……まさか、私がいない時を選んだのか?」
見抜かれたと同時にエリンは目を閉じた。しかし、それが言葉よりも雄弁な返答となる。
エリンの頬に触れるフィンの手は、怒りとも悲しみともつかぬ震えを帯びていた。
「どうして、そんなことを」
悔しさが滲み出るフィンの声に、エリンは己の選択を悔いた。嘘でも否定すべきだったのだ。
フィンを傷付けたのだと、頬に伝わる彼の熱が教えていた。
「ごめんなさい……」
伏せた睫毛を震わせて、エリンは謝る。
「フィンが、いたら……私、きっと、あんなことしなかった……」
「だったら、何故?」
フィンの声に熱が籠る。
「私を気にかけるのなら、そう思う気持ちがあるのなら……あんな無謀な真似をしないでくれ」
そうして、彼の視線がエリンの左腕へと落ちる。負傷の痕跡は残っていない。しかし、今でも傷が残っているかのように、フィンは痛ましげに目元を歪ませた。
「私は耐えられない」
彼は強く断言した。
「君の体が……尊厳が――他人によって傷付けられるのを」
そして、ためらいののち、彼はそっと額を寄せた。
祈るように。願い、求めるように。
互いの呼吸が重なる。
突然のフィンの行動に、エリンは驚き目を揺らす。沈着な彼の面影は微塵もない。
こんな風に迫ってくることなんて、決してしない人だと思っていたのに。
だけど、嫌じゃない。恐れも抱かない。ただ、胸の鼓動だけがエリンの中で忙しなく動く。
囁きのようにフィンは乞う。
「もう、ああいった真似はしないでくれ」
それは懇願にも似た声だった。
これほどまでに互いの距離が近いのに、フィンは目を閉じてはいなかった。真っ直ぐに、エリンを直視したままだ。
その先に、もっと別の何かを抱いているかのような錯覚を覚えてしまう。
エリンの指先が震える。恐怖よりも、もっと衝動的な何かが胸の奥から湧き上がる。
想いは溢れ、膨らみ――やがて、彼女の体を突き動かす。
言葉よりも先に、エリンの腕はフィンの背へと回されていた。
どちらも鎧や帷子の類を身につけてはいない。だからこそ好いた男のすべてが、以前の触れ合いよりも生々しく伝わってくる。鍛えられた筋肉の逞しさも、清潔な香りも、心地よい体温も――すべて衣服の向こうからにエリンには届いた。
フィンの体がわずかに震えた。しかし、振り解こうとはしない。エリンの頬から離れた両の手は、当てもなく宙に浮いている。身動きせずとも、彼の鼓動が速まっていた。
その振動がエリンにも伝わってくる。彼の音が愛おしくて、彼女は縋り付くように身を預けた。
好きだ――そう思った。