この人が好きだ。真面目で厳しくて、優しくて――真剣な眼差しも、その青藍の色も、低く落ち着いた声も、細身に見えるのに鍛えられた体付きも、落ち着いた香りも、何もかもに、どうしようもなく惹かれてしまう。
フィンの首筋にエリンは鼻先を擦り付ける。
「……好き」
ポツリと呟かれた告白は、囁くよりも小さい。
フィンの体がびくりと跳ねた。きっと彼の耳にも届いたことだろう。
伝えてしまったら、もうエリンの唇を塞ぐものはなかった。さらに深くを求めるように、腕を絡めて体を密着させる。
「フィンが、好きなの……」
好きという言葉を伝えたのは何度目だろうか。
フィンの人間性が好ましくて、幾度もエリンは無意識にそれを伝えた。その度に否定した。決して恋慕的な意味合いではないと。下心なくエリンはフィンを人として好感を抱いてた。
しかし、今は違う。
彼を異性として愛し始めていた。
求めたい、求めて欲しい――そんな願いが胸の中を占めて苦しい。
同じ気持ちで抱きしめ返して欲しくて、エリンは急かすように、彼の胸元に自身の頬を寄せた。耳に届くフィンの鼓動が、大きく響く。まるで直接彼の心に触れているようだった。
少女の髪を揺らす青年の息は荒く、熱を帯びていた。苦しげに、切なく、彼は呼吸を繰り返す。
「エリン……」
フィンの腕が動いた。その手が、エリンを包むように回されて――。
「エリン!」
第三者の叫びによって、フィンの腕が制止した。驚きと共に、彼の体が強張る。
エリンも我に帰って、フィンから離れる。距離をとって、声の出所へと目を移した。
庭園の入り口から、見覚えのある男が駆けてきた。彼は分かりやすいほどに焦りの色を顔に浮かべている。
「アレクさん……?」
アレクが目の前まで駆け寄ってきて、ようやくエリンは気付いた。
彼の顔色は、青ざめるを通り越して白い。汗を拭うことすら忘れて、肩で息を繰り返す。
――病気が悪化してるだけだ。
不意に、ノイッシュの声が蘇る。
確かに今のアレクは苦しそうだ。普段は柔和な光を放つ彼の目が、今は動揺したように揺れている。記憶の中のアレクよりも、少しやつれたようにも見えた。
思わずエリンは声をかけてしまう。
「あの、大丈夫ですか?」
「え……あ、ああ。大丈夫だ」
その声にも艶がない。
朗々と歌うように響いていた、あの艶のある声――その面影はまるでなかった。
やはり体調を崩しているのだ。エリンは確信する。
アーダンは彼を元気だとは言っていたが、とてもそうには見えない。もしかしたら、他の兵の前では無理して普段通りに振る舞っているのかも知れない。
付き合いの長い同僚二人はそれを見抜いており、弱音を吐かないアレクに苛立ちや心配を抱いたのではないだろうか。そう考えると、彼らの反応も腑に落ちる。
心配が上回り、エリンがアレクに声をかける――前にフィンが身を乗り出した。まるで彼女を庇うように。
「何か御用でしょうか?」
その声は硬く、冷ややかだ。まるで敵と対峙するかのような、拒絶めいた色が露わになっている。
礼節を忘れないフィンが、ここまで敵対心を明け透けにしたことにエリンは驚く。
そして、同時に気付く。
決闘の後、彼女はアレクの引き留めを嫌がって泣いていた。涙の理由はそれだけでは無いのだが、その場面をフィンは目撃している。彼からすれば、アレクがエリンに狼藉を働いたように映ったのだろう。
その誤解を、エリンはまだ解いてはいない。結果的にアレクに対するフィンの印象は最悪のままなはず。
だから、悪漢を前にしたような態度を取っているのだ。
慌てて、エリンはフィンに話しかける。
「フィン、違うの。あの時、アレクさんは私を心配して――」
口に出してから彼女は己の失敗を悟る。
エリンを見るフィンの目が、傷付いたような形を取ったからだ。
反対に、アレクは嬉しそうな表情を見せたのだが、フィンに意識を向けているエリンは気付くことはなかった。
ともあれ、エリンは同時に気付いた。フィンと最初に仲違いしかけた理由を。
あの時も確かアレクが原因だった。
シグルドの使いでやって来た彼の手を取った瞬間から、フィンとの距離が出来た。その前のやりとりで、エリンは散々フィンの手を取ることを拒んでいたからだ。
エリンにとっては、恥じらいからの拒否だった。しかし、フィンにはそうは映らなかったのだろう。嫌がられていたのだと判断したのかも知れない。
今、同じことが繰り広げられようとしている。だから、慌ててエリンはフィンの手を取った。今度こそ誤解をさせたくなかったのだ。
アレクの登場のせいなのか、フィンの指先はひどく冷たくなっていた。それを温めるように、エリンは己の指を絡める。
男たちの反応は対照的だ。
フィンは戸惑うように、また頬を赤らめる。
アレクは目を見開き、たちまちにまた顔を白くさせる。
エリンは真っ直ぐにフィンだけを見つめる。
「私が一番好きなのは、フィンだけなの……お願い、信じて」
熱を、想いを、全てを捧げるようにエリンは宣言した。
冷たかったフィンの指先に熱が宿る。彼は愛を受け入れるように、エリンの手を握った。
それが嬉しくて、エリンは微笑む。頬を薄らと桃色に染め、柔らかな唇が柔和に弧を描く。黒曜石に似た輝きを持つ、その瞳は愛する人だけしか映していない。瞬きを忘れたかのように、うっとりとした眼差しを送る。
彼女の目の前のフィンも、満更でもなさそうに笑みを返してくれた。
もしかしたら、同じ気持ちを抱いてくれているのかもしれない。期待に胸が熱くなる。
そんな彼女の耳に、アレクの声が届く。
「――ろ……」
息も絶え絶えな弱々しい声音。正確に何を言ったのかまでは分からない。しかし、咎めるような内容だった気がする。
それがエリンの熱を冷まさせた。フィンと二人きりではないのだと思い出させたのだ。
名残惜しむようにフィンの手から指を離す。彼の硬い指先が未練げにエリンの皮膚を撫でた。まるで手放すのを惜しむかのように。
エリンは改めてアレクに向き合う。彼女の目には、前方に立つ男の具合が悪いままに映る。
普段は丁寧に梳かれている緑髪も、今日は乱れている。額に汗も浮かび、唇すら白い。あの快活な彼が、まるで別人のように見えた。
だから、エリンは素直に心配を抱いた。
「アレクさん、その……何か御用でしたか?」
体調を気遣えば、彼はきっとまた大丈夫だと強がるだろう。なら、少しでも早くに休ませるべきだ。エリンに用事があるのなら、その用件を先に聞き出す方がいいだろう。
隣のフィンは未だアレクに対して警戒を向けている。少しでも不穏を嗅ぎ取れば、すぐにでも身を乗り出してエリンを守れるように体勢を整えていた。
「そ、そうだな……」
アレクは逡巡する仕草を見せた。フィンの態度に戸惑っているのだろうか? それとも、目眩でも起こしているのだろうか……。
不安になり、エリンは立ち上がる。
「どうぞ、座ってください」
自分の座っていた場所を譲ると、アレクは小さく首を横に振った。
「いや……いいよ、遠慮する」
そう言ってアレクは笑みを浮かべてくれたが、その顔色は悪い。何か言いたげに、彼はエリンとフィンを見比べる。
いったいどうしたことだろうか。
エリンは困惑し、フィンはますます不審を露わにアレクを睨む。
三人の沈黙を突き抜けるように、陽気な少年の声が響いた。
「あ、いたいた! おーい、フィン!」
大きく手を振りながら、デューが庭園へと軽やかに足を踏み入れた。陽の光のように明朗な彼は、重々しい三人に気にもせずに口を開く。
名指しされたフィンは戸惑うように、デューへと視線を移す。あまり交流の無い相手に呼ばれたため、ほんの少し顔に戸惑いの色を浮かべて。
「私に何か……?」
「キュアン様が呼んでたよ」
主君の名が上がり、たちまちにフィンの表情が引き締まる。
その変化にエリンは見惚れた。頬を染める彼女をアレクが見つめていることには気付かない。
騎士の顔付きで、フィンはデューに問いかける。
「キュアン様は、何と?」
「南の鍛錬場で待ってるってさ。ほら、あの大きいところ」
アグスティ城の南側にある主鍛錬場。馬上試合もできるほどの広さを誇り、設備も整っている。ハイラインやノディオンでも、ここまで豪華な施設では無い。
昼下がりの兵たちの多くが鍛錬する場は、そこであった。エリンも何度か利用したことがある。
フィンがキュアンから稽古を受けるときは、いつもこの鍛錬場が使われた。
キュアンの指導は厳しくも的確だ。何度も槍を弾かれながらも、怯むことのないフィンの姿――努力を怠らない彼を、エリンは鍛錬の合間にこっそりと目で追っていた。
流れる汗を手で拭い、槍を振るうフィンはエリンの心をときめかせた。彼のようになりたいと、憧れすら抱いたのだ。
共に鍛錬出来れば、どれほどに剣の腕が熟練出来るだろうか――想像しただけでエリンの口元が緩む。
エリンの内心をよそに、フィンとデューの会話は進む。
「じゃ、伝えたから、オイラは行くよ」
「ああ、ありがとう」
フィンが礼を言えば、デューは満面の笑みを返す。そして、そのまま奥に佇むアレクへと手を振った。
「アレク! こないだは、ご馳走様。次はオイラが良い店探しておくよ」
先日の奢りの話だろう。抜け目なく次の約束を取り付けようとしている。あわよくば、アレクにまた奢らせようとでも考えているのかもしれない。
それを見抜いたらしく、アレクも苦笑を浮かべた。
「あ、ああ。楽しみにしておいてやる」
「任せとけ! エリンも一緒に行こうなー」
言うだけ言って、デューは突風のように去っていった。
懐っこい彼は軍内で顔も広い。先ほどのように伝言を頼まれることも多い。もしかしたら、次の言伝を届けに行ったのかもしれない。
明るいデューが去れば、庭園はまた静かな空間へと戻る。
フィンがエリンへと向き直った。その表情は躊躇いの色が濃く刻まれている。
「エリン、私はキュアン様の元へ行くから……」
言葉を切り、彼はアレクを一瞥する。途端にピリピリとした緊張感がエリンのうなじに走った。
厳しい目のままで、フィンがエリンへと近寄る。
彼はそっと手を伸ばし――だが、その指先は途中で止まり、静かに下ろされた。一瞬、目を伏せ、一呼吸してから口を開く。
「きみが良ければ、一緒に行こう」
「え……」
共に鍛錬場へ行っても、エリンは武装禁止中だ。たとえ素振りであっても剣を振るうことはできない。
見学させてもらうのも悪い気がした。きっと今の自分は、フィンを食い入るように見つめてしまう――。邪魔立てするつもりはないが、それでは彼も鍛錬に集中できないだろう。
それに――アレクの体調も気がかりだ。
体の具合が悪いのに、エリンに用件を伝えに来てくれた。そんな彼を放っておくのは良心を咎めた。
「ありがとう、フィン。だけど、ごめんなさい」
アレクが心配だからと口に出してはいけない気がした。
「鍛錬場に行ったら、私はきっと剣を握れないのが悔しくなるから」
嘘ではない。
ラケシスのための騎士であろうという決意は薄れていない。かつてのような妄執は薄れたが、それでも騎士を目指す志はエリンの軸だ。自分のせいとはいえ、剣を振えぬことに苛立ちすら抱くだろう。
「だから、今はやめておくね」
「そうか……でも」
断られたのが心外だったのか、フィンの表情は渋い。なんとしてもエリンを庭園から引き離そうと苦心してるようにも見えた。
だが、こうしている間にも、キュアンを待たせている。本来なら、すぐにでも鍛錬場へ足を運びたいはずだ。
結果的にフィンを引き止めてしまっている気がして、エリンの方が焦る。
「私もすぐにラケシス様に会いの元へ行くから。だから、フィンはキュアン様の元へと行って」
「なら、途中まで送る」
「そんな、悪いよ。反対方向だもの」
兵たちの鍛錬場と王族の私的区間は、分離されている。
アグスティ城でラケシスに当てがわれた私室は、北塔の上階だ。対してキュアンがフィンを待つのは南側の主鍛錬場。
「私は大丈夫だよ」
「しかし――」
言い淀むフィン。彼の視線はエリンの背後へと向いている。眉を顰めるその顔は、敵意を発していた。
対峙するエリンの方が怯むほどに。
戸惑う彼女の後ろから、アレクが口を開いた。
「――主君を待たせていいのか?」
その声音は穏やかでありながら、どこか嘲るような響きを含んでいた。普段のような軽快さを取り戻したかのように。
「キュアン様がお怒りになられるぞ。……早く行かなくていいのか?」
フィンの瞳が険しく細まる。反論しようと口を開くが、言葉が出なかったようだ。悔しさを表すように、唇を噛んでいる。
そんな彼にエリンは強く言う。
「フィン、早く行って!」
焦りが声音に乗る。
エリンはキュアンの厳しさを知っているからこそ、それがフィンへと向けられるのを恐れた。
あの冷たい眼差しで、低い声で、フィンが叱られてしまう。しかも、エリンが引き留めたせいで――そんなの、耐えられない。
「フィンは悪くないのに、叱られちゃうのは――嫌だよ」
震える声で訴えれば、フィンは拳を握りしめた。
エリンの背後で小さく嗤い声が響いたが、彼女の耳には入らない。フィンを急がせようという想いで必死なのだ。
フィンは何も言えず、アレクを睨みつけている。そして、悔しげに顔を俯けた。
「エリンも、なるべく早くにラケシス様の元へ」
絞り出すような声だ。怒りを噛み殺すような、そんな声。
「う、うん……分かった」
フィンを怒らせてしまったのだと、エリンは思い込んでしまった。彼の怒りの矛先は、自分に向いたのだと判断したのだ。
表情に影を落とす彼女を見て、フィンは目を見開いた。そして、今度こそ彼はエリンの右手を握った。
突然の接触で、エリンは思わず身を強ばらせた。
「フィン……?」