「お義父さん!」
後先を考えることなく、エリンは声を張り上げて義父の元へと駆けた。
周囲からざわめきが広がる。
困惑や静止の声を振り切って、エリンはフィリップにしがみついた。目を見開くシグルドには見向きもせずに。
この場に割り込むことは危険だと分かっている。決闘の邪魔立てをするような真似だ。妨害する者は射る。そういう条件の一騎打ちだ。
それでもエリンは動いた。動いてしまった。首が落とされる義父の姿なんか見たくはなかった。
義娘の出現に、フィリップは驚きの表情を見せた。しかし、すぐさまにそれを隠す。咳き込み、血の泡を吐きながらも彼はうめくような声でエリンに問う。
「エリン……なぜ」
「お義父さんに会いたかったから!」
間髪入れずにエリンは叫ぶように答えた。
理解していたはずだった。ハイライン城を離れた時点で義父と剣を交える未来を免れないと。どちらかが力尽きることとなっても、後悔してはいけないと。
だが、そんな決意など一気にかき消された。目の前で血に塗れる義父の姿がエリンの理性を全て剥ぎ取った。
「ごめんなさい、お義父さん。私……私、お義父さんにずっと助けてもらっていたのに! それなのに、こんな――ごめんなさい!」
どくどくと血液が漏れ出してゆく。抱きつくエリンの空色の鎧にも血が移る。大切な母の形見も血で染まる。それでもエリンは離れない。ただただ涙を流して青白い顔の義父に謝罪する。
義父の体温が失われてゆくのが怖かった。
義父の声が聞こえなくなるのが恐ろしかった。
義父と共に過ごせない日々が訪れるのが悲しかった。
彼女の両手は自然とフィリップの傷口を覆うように合わせられる。止血のために。だが、エリンの小さな手では無意味でしかない。
縋るように彼女は動かないフィリップ隊の面々を見た。そして、大きく叫んだ。
大勢に自分の大っ嫌いな声を聴かれても、エリンは構わなかった。それよりも、義父の死が迫っていることの方に恐怖したのだ。
声が裏返ろうと、泣き声になろうと気にしなかった。喉が裂けても構わない、その勢いで声を張り上げる。
「お願い! お義父さんを助けて! 血が止まらないの!」
しかし、誰も動かない。ただ、苦しみに耐えるように唇を噛み締めるだけだ。痛ましさからか、目を背ける者もいた。
部隊の中央で震えながら立つ強面の騎士の姿をエリンは捉えた。副隊長だ。すぐさまにエリンは彼に向かって乞う。
「副隊長! お願い、お義父さんを助けて! お義父さんが死んじゃう! お願い、お願いだから!」
副隊長は反応を示さない。一歩も踏み出さず、岩のような拳を強く握り締めていた。何者にせがまれても、彼の主に触れることは赦されない。フィリップにそう命じられていたのだろう、鬼のような形相で、副隊長は耐えていた。
エリンは知っている。動けない副隊長やフィリップ隊の気持ちを。彼らの主への忠義を。エリンの叫びに応えたいと、どれほど願っているのかを。
知っているのだ。知っているが――感情は別だ。両手から溢れる義父の血の勢いは徐々に失われていく。手に伝う鮮血はこんなにも熱いのに、義父の体温は段々と冷えてゆく。
恐怖から浅い呼吸を繰り返すエリンを、義父は瞼を半分閉じながら悲しそうに眺めていた。フィリップはゆるゆると右手を上げ――そのまま降ろした。己の手が既に血に塗れていたことを思い出したのだろう。エリンの頭を撫でることに躊躇した動きだ。
指先を微かに震わせて、彼は義娘の名を呼んだ。
「エリン……」
その声は、すでに力が失われていた。耳を立てなければ、聞き取れない。風の音でもかき消されてしまいそうな、そんな小さな声。
それでもフィリップの声音は、普段のように、慈しむ響きがあった。
「……ありがとう――」
血の繋がらない自分を父と慕ってくれたこと。
柔らかくも穏やかな日常を共に過ごしたこと。
身の危険を省みず、自分の元へ会いにきてくれたこと。
語るには時間が足りない。だからその全てを一言に乗せて。
その言葉を遺して、フィリップの時は止まった。
彼の目は完全に閉じられる。その表情は苦痛とは程遠い優しげなものであった。苦しみの気配はなく、ただいつものような微笑を浮かべていた。
涙が止まらぬエリンを安心させるように、微笑みを浮かべて彼は事切れた。
「あ……ああ、あ」
フィリップの身体はエリンの腕から、ずしりと重みを残して崩れ落ちた。地面に背をつけても、エリンが何度も揺さぶっても、もう動くことはない。何度耳を寄せても、呼吸も、鼓動も――何も聞こえなかった。
義父は、死んだ。
「お義父さん……おとうさんッ!」
周囲に目もくれずにエリンは泣き叫ぶ。声を荒げ、必死に義父を呼ぶ。動かぬ骸に縋り付く。
幼いエリンが涙を流せば、義父は慰めるために頭を撫でてくれた。その感触が、暖かさが、エリンは好きだった。
でも、義父の手は動かない。もう二度と、エリンを慰めてはくれない。
彼女の慟哭を、誰も遮ろうとはしなかった。
◆ ◆ ◆
一騎打ちを終えると、シグルドは号令を出した。フィリップとエリオット隊は手厚く葬るように、と。
とはいえ、軍は日が暮れる前にハイライン城を攻めねばならない。シグルド軍の軍師役はこの戦を短期決戦で計画したのだろう。ハイライン城だけでなく他のアグストリア諸国が、主無きノディオン城に攻め込ませない……いわば見せしめのために。ノディオンに手を出せば、ハイラインのようになるのだと。
城攻めを優先した結果、わずかな人数――フィリップ隊の面々が弔いに回ることになった。前線の戦況が落ち着いたら、こちらに人数を回すとシグルドは約束してくれた。
勝利を確信したかのような指示だが、実際にそうだろう。今現在ハイライン城に残るのはボルドー王とわずかな兵、そして非戦闘要員である文官や侍従たちだけだろう。士気の高いシグルド軍の敵にはなるはずはない。日が傾ききる前には、ハイラインは落城するだろう。
そんなことを思いながらエリンは黙って汚れた手で土を埋めた。
虚ろに腫れた目は膨らんだ土山を見つめている。その山の頂に突き立っているのはフィリップの槍だった。槍の飾り布が風にたなびく。深い紺色だったその布は乾いた血に染まり、所々に擦り切れていた。
そのわずかな揺れが、エリンには義父の呼吸の残響のように思えた。
「お嬢、こっちはあらかた終わったぞ」
副隊長が遠慮がちに声をかけてくれた。
相変わらず気遣いの出来る人だ。それを指摘すればガラじゃねぇよと照れくさそうに笑う男だ。その豪快さを義父は気に入っていた。
副隊長も他の兵たちも、きっともっと早くにほとんどの埋葬を終えていたのだろう。
振り返ったエリンの視界からはそれが確認出来ない。彼女の近くで眠るのは義父ただ一人だけだ。
踏み荒らされた広い草原は、ただ穏やかな風が吹いている。ハイライン城は今も戦闘中であろう、時折風に乗って鬨の声が響いてくる。それなのに空はどこまでも静かで、灰色の雲がゆっくりと流れていた。
「ありがとうございます。私も……エリオット様たちを弔いに行きます」
ぼんやりとした思考のままで、エリンはゆるゆると立ちあがろうとした――が、足に力が入らずに中途半端に膝を立てるしか出来なかった。立ち上がり方を忘れてしまったかのようにエリンの体は弛緩している。
そんな彼女の目前で、副隊長は静かに膝を折った。大きな影が彼女を包み込み、荒い息づかいだけが近くで聞こえる。
「いや、お嬢の手を借りるまででも無ぇよ。……俺たちは体力が有り余ってたからな」
フィリップ隊は名目こそ捕虜だったが、シグルドは彼らをエリンの護衛に組み入れた。これはシグルドの温情である。
彼らが生き長らえたのは、フィリップの遺言があったからだ。
フィリップはシグルドに一騎打ちを申し出る前、自分の兵たちを集め、深々と頭を下げたという。騎士としてその命を散らそうと奮い立たせる兵たちを宥めるように、こう告げたそうだ。
――その命は、義娘を守るために使ってほしい。
――国に殉ずる騎士の矜持は、お前たちの分もすべて私が背負う。
「副隊長は――」
どうして義父を止めてくれなかったの?
そう問いかけようとしてエリンは口を噤んだ。
その場にいなくとも、エリンには分かる。きっと副隊長は猛反発しただろう。彼と義父は義兄弟と互いに称するほどに信頼し合っている。命を投げ捨てるような真似をする義父をどうにかして止めようとしたに違いない。
「……ごめんなさい」
エリンが口にせずとも、通じてしまったようだ。副隊長は目を伏せていた。
自分は傭兵上がりだと、かつてエリンは酔っ払った副隊長自身から聞いた。フィリップと剣を交えて意気投合し、金よりも忠誠を選んだと豪快に笑いながら教えてくれた。アグストリア出身でもない根無草の自分に騎士としての心得を叩き込んでくれたのだと。
――変わったヤツだろう、フィリップは! あんな真っ直ぐなバカは見たことねぇよ!
――それを、本人の目の前で言う馬鹿がどこにいる。
軽口を叩き合い、酒を酌み交わす二人の姿は本当の兄弟のようにエリンには映った。
そんな副隊長が父の最期に手出し出来ずにいたのは、どんなに辛かっただろうか。助けを求めたエリンの声に、どれほど応えたかっただろうか。
副隊長は古傷の残る自身の頬を軽く掻く。
「フィリップはな、シアルフィ公子の言葉を聞いて決意したんだ」
シグルドは、武人として名乗るよりも先に、エリンの無事を自分たちに知らせてくれた。だからこそ、フィリップは彼を信じることにしたのだと。
「……止めたさ。皆で必死に、掴みかかって。でもあの野郎、聞きやしねぇ……」
副隊長は唇を噛み、わずかに声を震わせる。
「頑固なんだよ、昔っから。……あのバカは」
自分たちの願いを聞き入れようとしないフィリップに、たまらずに副隊長は彼の肩に掴んで叫んだそうだ。
――誇りの欠片もない傭兵だった俺を、騎士にしてくれたのはお前だろう!
わずかにフィリップは目を見開くが、すぐに首を横に振った。それでもお前たちは生きていて欲しい、と。
「すまねぇ、お嬢。本当に、すまねぇ……」
副隊長は肩を震わせていた。それ以上の感情を、彼は表に出さなかった。しかし、自らの感情を無理矢理押さえ込んで堪えているのだろう。エリンを前にしているから。
「……お義父さんの願いを、叶えてくれてありがとう」