名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

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2-4 おとうさん

 義父の死はエリンを苦しめる棘になった。この痛みを生涯忘れることはないだろう。

 だが、副隊長たちフィリップ隊が生きていてくれたことが唯一の救いだった。共に義父の死を悲しみ、悼んでくれる者たちがそばにいてくれるのだから。

 それ以上は……もう、望めない。時間が巻き戻ることはないのだから。

 俯くエリンに向かい、副隊長が右手を差し出した。大きな手のひらには金色の指輪があった。通常のものより太めの指輪は、翡翠色の宝石が嵌め込まれていた。

 宝石は、翼を広げる鳥の造形に作られていた。まるで自由を求めて空に飛び立つように。

 この指輪にエリンは見覚えがあった。忘れるはずがない。義父の指輪だ。

 

「フィリップからだ。お嬢に渡してくれと頼まれた」

 

 義父が肌身離さず付けていた指輪。

 この指輪はただの装飾品では無い。魔術が込められた特別品だと言う。魔術の名はリターン。念じれば、すぐさまに本拠地に帰還出来る効果がある。

 

 ――かつて、私の祖父が当時のハイライン王から賜った物だ。我が家の家宝でもあるんだぞ。

 

 有事の際はすぐさまに本拠地を守れるようにと。フィリップの祖父の代より代々受け継がれていた品だとエリンは教わった。当主の証として使われているのだと。

 城を守る騎士として王からの絶大な信頼の証でもある。誰よりも早くそばに駆けつけて欲しいという現れでもあるのだ。

 魔術のこもった装飾品は、武器よりも遥かに高価だという。これほどの品を賜るとは、フィリップの祖父がいかに王の信任を得ていたかが窺える。

 過去の出来事を、エリンは知らない。ただ、人づてに語られる思い出話としてしか知り得なかった。

 若き日のフィリップはハイライン王ボルドーに変わらぬ忠誠をこの指輪に誓ったのだろう。祖父に恥じぬよう、王家に命を尽くそうと。もしかしたら、今は乱心のボルドーも良き王を目指して玉座に着いていたのかも知れない。

 エリンは分からない。記憶にあるのは、傲慢に振舞うボルドーに、静かに従うフィリップの姿だった。ボルドーを見るフィリップの目にやるせない色が浮かんでいたのを思い出す。

 

 どうして、こんなことになってしまったのだろう……。

 

 形見の品となってしまった指輪を眺めてエリンはそんなことを思う。きっと、養父も同じことを思っていたのかも知れない。

 

「これは、お嬢が持つべきものだ」

 

 受け取らないエリンの思考を、副隊長は別のものだと読み取ったらしい。エリンの小さな手を優しく取ると、その上に一族の証とも言える指輪をゆっくりと乗せた。ズシリとした冷たい重みが、エリンの手のひらに伝わる。

 血の繋がらぬ娘に、それを託すほどに、義父は愛してくれていたのだ。

 

「他のやつが何を言おうが、アイツはお嬢にこれを託した。どうか受け取ってやってくれ……」

 

 彼の言葉で、鈍く霞んでいた思考がようやく動き始める。忘れていた過去が、ふと脳裏に浮かんだ。

 エリンの母ドナを伴侶として迎え入れる前より、フィリップは婚姻を急かされていた。代々続く騎士の家系を絶やすのかと、王や周囲に散々詰められていたそうだ。

 そんなフィリップが選んだのは、素性の知れない流浪の女。

 病に伏してやつれ、いつ命尽きてもおかしくない体だった。しかも父親の分からない子供まで付いている。

 当然反対の声が上がる。その余波は幼いエリオットやその取り巻きが、エリン母子を見下すきっかけにもなった。

 しかし、フィリップはそれらを全て跳ね除け、ドナを愛した。愛し続けた。

 彼女亡き後も、その子のエリンを我が子として育ててくれた。

 人見知りの激しい幼いエリンを決して見捨てず、穏やかに愛情を注いでくれた。

 

「……お義父さん」

 

 母と婚姻した時分、エリンはフィリップを父と呼べなかった。母が亡くなった後も、しばらくは父と呼ぶことは出来なかった。

 ……怖かったのだ。

 フィリップを父と呼び、彼がそれに応えてくれるのか不安だったのだ。

 迷惑そうにエリンを振り払うのでは無いのか。そう思うと彼女はフィリップを前にして口を噤むしかなかった。

 勇気を振り絞り、初めて彼を父と呼んだ日。恐る恐ると見たフィリップの顔。

 彼は目を見開き驚いていた。それは困惑ではなく、感動によるものだった。

 喜びを噛み締めるのかのようにフィリップは全身を震わせた。そして、大きな体を屈めて小さなエリンの頭を撫でてくれた。破顔して、目尻にはうっすらと涙を浮かべて。

 こんなに別れが早いのならば、もっと早くに「おとうさん」と呼んであげれば良かった。

 もっとたくさん「おとうさん」と呼んであげれば良かった。

 

「……おとうさん」

 

 ――なんだい、エリン?

 

 呼びかけても優しく返事をもらえることは、もう無い。

 エリンの目元に再び熱が籠る。弱い風が彼女の頬を撫でる。その涙を拭うように。

 かつて、義父が幼いエリンを慰めた時のように。

 エリンの掌の上で指輪は陽射しに照らされて静かな光を放っていた。

 

  ◆ ◆ ◆

 

 夕暮れに近づいた頃、ハイライン城の方面で決着が着いたようだった。勝鬨の歓声が風に乗って伝わってきた。

 ノディオン城へと馬を走らせる伝令をエリンたちが見送ると、続々とシグルド軍の兵たちもやって来る。彼らの協力もあり、日が落ちる前には全ての弔いは終わった。

 エリンは、埋葬を終えた死者に改めて祈りを捧げた。義父以外の者たちに親しい思い出はないが、それでも胸は痛む。

 昨日まで存在していた顔見知りがもういないのは、堪えるものだ。きっとハイライン城に戻った時、それをまた実感するのだろう。

 

「エリン!」

 

 凛としたその声の主を、エリンが忘れることはない。

 反射的に顔を上げ、声の方角を見る。こちらに向かい、蹄を鳴らす馬が一頭。それを操るのは騎士姿の男。彼の前に座るのは少女。その金糸の髪が夕日に照らされる紅に煌めく。

 赤い日差しに照らされるあの人が、今のエリンには誰よりも恋しかった。

 

「ラケシス様!」

 

 敬愛する姫君の名を叫んで、エリンは駆け出す。

 エヴァが手綱を引き寄せ、馬を止める。ラケシスは馬術の経験が浅い。ゆえに彼が彼女を馬に乗せていた。

 エヴァの兄弟は城守りで待機をしているのだろう、その姿は無い。

 馬の側まで近寄り、エリンはそのまま跪いた。恥いる気持ちから彼女は首を垂れた。今の己の顔が酷いものだと確認せずとも知っていたからだ。

 父の最期の瞬間から埋葬まで涙が枯れることは無かった。涙が伝った頬が痛む。きっと赤く腫れているだろう。

 馬から降りたであろう、ラケシスの足元が視界に入る。そしてあろうことか、彼女もまた地面に膝をつく。咄嗟に嗜めようとしたエリンをラケシスは強く抱きしめた。

 

 百合のように清らかで甘い――ラケシスの香りが、息を詰まらせた。

 

 その香りに溶けそうになりながらも、エリンはラケシスを引き剥がそうとした。今、自分の体は汚れている。土と血と……涙の痕と。

 それらがラケシスを穢してしまう。無理矢理離そうと腕を上げたが、血に汚れた母の形見が視界に入った。自分が触れてはダメだと警告のように頭に響いた。

 せめてと思い、馬の隣に立つエヴァへと救いの視線を送る。彼はエリンの目線に気付いていた。しかし、その場から動こうとはしない。ただ、痛ましい表情でエリンを見下ろすだけだ。

 己の選択が、いたいけな少女を傷付けてしまった――そんな後悔が滲んでいる。

 彼は優しい。三つ子達の中で、誰よりも。エリンが迷えば、真っ先に手を引いてくれた。その優しさが温かくて好きだった。

 だが、そんなエヴァが今は動けずにいる。苦しげに顔を歪ませて、黙ってエリンを見つめている。

 困り果てたエリンの耳元でラケシスが囁いた。

 

「ごめんなさい、エリン」

 

 届いたラケシスの声は震えていた。彼女の両腕はエリンの背に回され、しがみつくようにしっかりと巻かれている。エリンの鼻先にラケシスの髪が触れる。その柔らかさに泣きたくなる。

 

「貴女を、傷付けてしまった。……私のために」

 

 貴女は何も悪くは無い。

 これは自分で選んだ道。

 後悔なんてない。

 

 そう伝えたかったのに、言葉は空となってエリンの口から漏れ出る。

 目の前の金の髪が小刻みに揺れている。その髪を撫でて差し上げたいと、分不相応に思ってしまう。

 けれど、エリンはそう思うだけだ。手を添えることすら、出来なかった。身体が鉛のように重くて動かない。

 あれほどまでに泣いて、泣いて……涙は枯れ果てたと思った。それなのに目の前がまた歪んでゆく。

 ぼやけた視界はエリンの思考と同じだった。やがて彼女の荒い吐息は嗚咽に変わってゆく。

 もう泣くものかと義父の墓前で誓ったはずなのに。それなのに、次から次へと涙が零れ落ちてゆく。それに耐えようと、必死で呼吸を飲み込む。

 そんなエリンに優しくラケシスは告げた。

 

「いいのよ、エリン。貴女は泣いても、構わないのよ」

 

 それがエリンの強がりを決壊させた。

 守りたいと願った人の腕の中で、エリンは幼子のように泣いた。

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