第1章:嘘つきなアイドルと、気づかない事務員
第1話:ステージ裏の特等席
「アイ、次の出番まであと十分。水分補給して、衣装のハナを直してもらいな」
ライブハウスの熱気が扉の隙間から漏れ聞こえる楽屋。いちごプロダクションの事務員、**立花栞(たちばな しおり)**の声は、騒乱の中でも驚くほど涼やかに響いた。
彼は手元のタブレットに視線を落としたまま、事務的に、けれど決して冷たくはないトーンで指示を出す。
「はーい! 栞くんは今日もマジメだねー」
鏡の前でポニーテールを揺らし、星野アイがくるりと振り向いた。その瞳には、すでに数千人のファンを熱狂させるための「星」が宿っている。だが、彼女が栞に向ける笑みは、ステージで見せる完璧なそれとは、どこか温度が違っていた。
「……じっとしてて。リボンが浮いてる」
栞が歩み寄り、アイの腰回りに手を伸ばす。至近距離。アイの甘い香水の匂いが鼻をくすぐるが、栞の手元に迷いはない。
その瞬間、アイの呼吸がわずかに止まった。
(……近い。もっと、近ければいいのに。いっそ、そのまま抱きしめてくれてもいいのに)
アイは心の中で、自分でも制御しきれない毒を吐く。
彼が衣装を整えるために指先を滑らせるたび、その感触が肌に焼き付くような錯覚に陥る。栞はあくまで「事務員として」完璧に仕事をこなしているだけだ。アイを特別な異性として意識しすぎないよう、あえて一定の距離を保っている。それがアイにはたまらなく、もどかしい。
「ねぇ、栞くん。さっきのMC、どうだった? 私、ちゃんと可愛かった?」
アイは栞の顔を覗き込むようにして、下から視線をぶつける。普通の男なら、この至近距離で「究極のアイドル」に見つめられれば、心拍数の一つも乱れるはずだ。アイは、彼が自分に溺れる瞬間を、今か今かと待ち望んでいた。
「ああ、いつも通り完璧だったよ。会場のボルテージも最高潮だ」
「いつも通り、かぁ……。もっとこう、『アイ以外、何も見えなくなった』とか、情熱的な感想はないわけ?」
アイはわざとらしく唇を尖らせ、栞のシャツの裾を指先でクイ、と引いた。
「構って欲しい」というサイン。彼女がファンには絶対に見せない、剥き出しの甘え。
「俺はスタッフだからね。君を客観的に見てなきゃいけないんだ」
「ふーん。……つまんないの」
アイは栞の腕に、自分の体重を預けるようにして寄りかかった。衣装のラインが崩れるのも構わず、彼という支柱を確かめるように。
アイがここまで彼に執着するのには、理由があった。
それは、数年前。アイがまだ「B小町」としてデビューしたばかりの、ひどく雨が降る夜のことだ。
当時、いちごプロに入ったばかりの栞は、まだ右も左もわからない新人事務員だった。
一方のアイも、センターとしての重圧と、自身の生い立ちからくる「愛」への欠乏感に押しつぶされそうになっていた。
あの日、アイは誰にも言わずに事務所を飛び出した。
行くあてもなく、ただ夜の街を彷徨い、公園のベンチでずぶ濡れになっていた彼女を見つけたのが、栞だった。
「星野さん。探しましたよ。……風邪を引きます。戻りましょう」
傘を差し出した栞に、アイは最悪の気分で、最悪の「嘘」をぶつけた。
「放っておいてよ! 私のことなんて、誰も愛してないんだから。社長だってファンだって、私の『顔』と『才能』が好きなだけでしょ!? 私の中身なんて、空っぽなんだから!」
叫んで、泣いて、ひどい言葉を並べ立てた。
並の大人なら引くか、あるいは必死に「そんなことないよ」となだめる場面だ。
だが、栞は違った。
彼は雨に濡れたアイの瞳を真っ直ぐに見つめ、淡々と言ったのだ。
「……そうですね。確かに君の中身は、今のところ空っぽに見えます」
アイは絶句した。生まれて初めて、自分の絶望を肯定されたのだ。
「でも、空っぽなら、これから詰めればいい。嘘でもいいから愛を語って、それを本当にしていくのが君の仕事でしょう? 少なくとも、俺は君が空っぽのまま舞台に立つのを、事務員として全力でサポートします。……だから、立て。仕事の時間だ」
その声は冷たく響いたが、差し出された手は驚くほど温かかった。
「この人は、私の嘘を暴こうとしない。空っぽの私を、空っぽのまま認めてくれた」
その瞬間、アイの中で何かが弾けた。
(あの時からだ。私が、栞くんに『溺れた』のは)
アイは今、楽屋で栞の腕にしがみつきながら、当時のことを思い出して自嘲気味に微笑む。
相手を自分に依存させ、自分なしではいられないように調教してやりたい――。そう目論んでいるつもりだった。でも、実際はどうだ。
朝、事務所で彼の淹れたコーヒーの香りを嗅ぐだけで安堵し、夜、彼に送迎される車内でしか深く眠れない。他のスタッフと彼が楽しそうに話しているだけで、胸の奥がどす黒い独占欲で塗りつぶされる。
(溺れてるのは、私の方じゃん。……本当、かっこ悪)
アイは瞳の奥の星をギラリと光らせ、栞の腕を掴む手に力を込めた。
彼を自分の色に染めたい。でも、彼という「普通」の色彩に、一番救われているのは自分なのだ。その矛盾が、アイの愛をさらに歪な形へと変えていく。
「アイ、そろそろ時間だ」
栞がタブレットを閉じ、彼女を促す。
アイは彼の耳元に顔を寄せ、ファンには決して聞かせられない、低く、熱を孕んだ声で囁いた。
「ねぇ、栞くん。……今日のライブが終わったら、私だけの『ご褒美』、ちょうだいね?」
それはお願いではなく、拒絶を許さない命令だった。
栞がわずかに困ったように眉を下げて頷くのを確認し、アイは満足げに、そして「完璧なアイドル」の笑顔を張り付けて、光溢れるステージへと飛び出していった。
舞台袖で見守る栞の後ろ姿。
アイの瞳は、数千人の観客を見ているようで、その実、たった一人の事務員だけを、逃がさないように捉え続けていた。