アイの瞳は、君だけを映さない   作:can'tPayPay

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第1章:嘘つきなアイドルと、気づかない事務員 第2話:嘘と真実の境界線

ドームを揺らすような歓声が遠ざかり、楽屋へと続く廊下には、アドレナリンの残り香と静寂が混じり合っていた。

ステージを終えたばかりのアイは、肩で息をしながら、真っ先に一人の男の姿を探す。

「お疲れ様。今日も最高のパフォーマンスだったよ」

通路の壁に寄りかかり、栞がスポーツドリンクを差し出す。アイはそれを受け取るよりも早く、彼の懐に飛び込んだ。

「しおりくーーーん! 見ててくれた!? 最後の曲、私、栞くんのことずっと見て歌ったんだよ!」

どさりと、アイの体重が栞にかかる。衣装のラメが栞の地味な事務服に散らばるが、アイは構わずに彼の胸に顔を埋めた。

ライブ直後の彼女は、文字通り「熱い」。肌からは蒸気が上がるようで、心音は栞の胸板にまで伝わるほど激しく打っている。

「……アイ、暑い。それに衣装が崩れる。離れなさい」

「やだ。今離したら、私、このまま溶けちゃうもん。ねぇ、さっきのウィンク、栞くんに届いた?」

アイは顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめる。

彼女は知っている。今の自分は、世界で一番可愛い。数万人のファンを虜にした直後の、無敵の「星野アイ」だ。これだけの熱量で迫れば、どんな男だって理性など吹き飛ぶはずなのだ。

だが、栞は、少しだけ困ったように眉を下げ、彼女の頭にポンと手を置いただけだった。

「届いたよ。おかげでカメラマンさんが驚いて、スイッチングをミスりかけてた。……プロなら、カメラの向こうのファンを見なさい」

「むー……っ!」

アイの頬が膨らむ。

これだ。いつもこれだ。

彼はいつだって、アイを「商品」として、あるいは「守るべき対象」として扱い、一人の「女」として溺れてくれない。

(どうして? 私はこんなに、君がいないとダメになってるのに)

アイは栞の腕を掴む指先に、ぎゅっと力を込めた。

数年前の雨の日。空っぽだった自分の心を、彼は「空っぽのまま」愛してくれた。あの時から、アイの心の拠り所は、ステージの光ではなく、その影に立つ彼の淡々とした声になった。

アイにとって、ファンからの愛は「美味しく食べるための糧」だ。

けれど、栞からの愛は「生きていくための酸素」だった。

酸素が足りない。もっと、もっと彼からの特別な何かが欲しい。

その飢餓感が、アイの行動を加速させる。

ライブの撤収作業が進む中、事務所の送迎車(通称:アイ専用機)の座席で、二人は並んで座っていた。

運転席には別のスタッフがいるが、後部座席との間には遮光カーテンが引かれ、狭い空間は二人きりの密室と化す。

「ねぇ、栞くん。明日、私のオフ、何時からだっけ?」

「明日は昼過ぎから雑誌の撮影が入ってる。午前中は休みだ。ゆっくり寝てるといい」

「……やだ。栞くん、事務所でしょ? 私も行く」

「アイ、休みは休めと言っただろう。君が事務所にいると、他の仕事が止まるんだ」

栞がタブレットでメールを返しながら、素っ気なく答える。

その横顔を、アイはじっと凝視した。

彼は今、自分を見ていない。明日、撮影で会うモデルや、打ち合わせをする編集者のことを考えているのかもしれない。

アイの胸の中に、どす黒い澱(おり)が溜まっていく。

「溺れさせてやりたい」と願う一方で、彼が自分を直視していない一分一秒が、アイを狂わせそうになる。

「……じゃあ、今から栞くんのお家、行ってもいい?」

「ダメだ。不謹慎なことを言うな」

「じゃあ、車降りるまで、ずっと手を繋いでて」

アイは強引に、栞の膝の上にある左手を奪い、自分の両手で包み込んだ。

栞の手は、アイの小さな手よりも一回り大きく、節くれ立っていて、温かい。

「アイ……」

「いいでしょ? 私、今日頑張ったもん。ご褒美、これだけでいいから」

アイは彼の肩に頭を乗せ、繋いだ手に頬を寄せた。

栞はため息をついたが、その手を振り払うことはしなかった。それだけで、アイの心はふわりと浮き立つ。

(あ、また自覚しちゃった。……私、本当に重症だ)

栞の脈拍は安定している。対して、アイの心臓はいまだに暴れている。

自分が仕掛けているつもりの「誘惑」に、自分自身が一番当てられている。

彼が少し優しくしてくれるだけで、体温が上がり、思考が止まる。

「ねぇ、栞くん」

「なんだ」

「……いつか、私が嘘を吐かなくてもいい日が来たら。その時は、栞くんが一番に、私の『本当』を食べてね」

アイの囁きは、走行音にかき消されるほど小さかった。

栞は何も答えず、ただ繋いだ手に、わずかな力を込めて返した。

その微かな反応だけで、アイは満足だった。

今はまだ、この歪な「アイドルと事務員」の距離感でいい。

彼を自分に依存させるための罠を仕掛けているつもりが、自分自身が逃げられない檻に閉じ込められていく感覚。

アイは目を閉じ、彼の手の温もりを、記憶の奥底に深く刻み込んだ。

明日もまた、嘘を重ねるために。

そして、いつかその嘘が、この男の手によって真実に塗り替えられる日を、密かに待ち焦がれながら。

 

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