ドームを揺らすような歓声が遠ざかり、楽屋へと続く廊下には、アドレナリンの残り香と静寂が混じり合っていた。
ステージを終えたばかりのアイは、肩で息をしながら、真っ先に一人の男の姿を探す。
「お疲れ様。今日も最高のパフォーマンスだったよ」
通路の壁に寄りかかり、栞がスポーツドリンクを差し出す。アイはそれを受け取るよりも早く、彼の懐に飛び込んだ。
「しおりくーーーん! 見ててくれた!? 最後の曲、私、栞くんのことずっと見て歌ったんだよ!」
どさりと、アイの体重が栞にかかる。衣装のラメが栞の地味な事務服に散らばるが、アイは構わずに彼の胸に顔を埋めた。
ライブ直後の彼女は、文字通り「熱い」。肌からは蒸気が上がるようで、心音は栞の胸板にまで伝わるほど激しく打っている。
「……アイ、暑い。それに衣装が崩れる。離れなさい」
「やだ。今離したら、私、このまま溶けちゃうもん。ねぇ、さっきのウィンク、栞くんに届いた?」
アイは顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめる。
彼女は知っている。今の自分は、世界で一番可愛い。数万人のファンを虜にした直後の、無敵の「星野アイ」だ。これだけの熱量で迫れば、どんな男だって理性など吹き飛ぶはずなのだ。
だが、栞は、少しだけ困ったように眉を下げ、彼女の頭にポンと手を置いただけだった。
「届いたよ。おかげでカメラマンさんが驚いて、スイッチングをミスりかけてた。……プロなら、カメラの向こうのファンを見なさい」
「むー……っ!」
アイの頬が膨らむ。
これだ。いつもこれだ。
彼はいつだって、アイを「商品」として、あるいは「守るべき対象」として扱い、一人の「女」として溺れてくれない。
(どうして? 私はこんなに、君がいないとダメになってるのに)
アイは栞の腕を掴む指先に、ぎゅっと力を込めた。
数年前の雨の日。空っぽだった自分の心を、彼は「空っぽのまま」愛してくれた。あの時から、アイの心の拠り所は、ステージの光ではなく、その影に立つ彼の淡々とした声になった。
アイにとって、ファンからの愛は「美味しく食べるための糧」だ。
けれど、栞からの愛は「生きていくための酸素」だった。
酸素が足りない。もっと、もっと彼からの特別な何かが欲しい。
その飢餓感が、アイの行動を加速させる。
ライブの撤収作業が進む中、事務所の送迎車(通称:アイ専用機)の座席で、二人は並んで座っていた。
運転席には別のスタッフがいるが、後部座席との間には遮光カーテンが引かれ、狭い空間は二人きりの密室と化す。
「ねぇ、栞くん。明日、私のオフ、何時からだっけ?」
「明日は昼過ぎから雑誌の撮影が入ってる。午前中は休みだ。ゆっくり寝てるといい」
「……やだ。栞くん、事務所でしょ? 私も行く」
「アイ、休みは休めと言っただろう。君が事務所にいると、他の仕事が止まるんだ」
栞がタブレットでメールを返しながら、素っ気なく答える。
その横顔を、アイはじっと凝視した。
彼は今、自分を見ていない。明日、撮影で会うモデルや、打ち合わせをする編集者のことを考えているのかもしれない。
アイの胸の中に、どす黒い澱(おり)が溜まっていく。
「溺れさせてやりたい」と願う一方で、彼が自分を直視していない一分一秒が、アイを狂わせそうになる。
「……じゃあ、今から栞くんのお家、行ってもいい?」
「ダメだ。不謹慎なことを言うな」
「じゃあ、車降りるまで、ずっと手を繋いでて」
アイは強引に、栞の膝の上にある左手を奪い、自分の両手で包み込んだ。
栞の手は、アイの小さな手よりも一回り大きく、節くれ立っていて、温かい。
「アイ……」
「いいでしょ? 私、今日頑張ったもん。ご褒美、これだけでいいから」
アイは彼の肩に頭を乗せ、繋いだ手に頬を寄せた。
栞はため息をついたが、その手を振り払うことはしなかった。それだけで、アイの心はふわりと浮き立つ。
(あ、また自覚しちゃった。……私、本当に重症だ)
栞の脈拍は安定している。対して、アイの心臓はいまだに暴れている。
自分が仕掛けているつもりの「誘惑」に、自分自身が一番当てられている。
彼が少し優しくしてくれるだけで、体温が上がり、思考が止まる。
「ねぇ、栞くん」
「なんだ」
「……いつか、私が嘘を吐かなくてもいい日が来たら。その時は、栞くんが一番に、私の『本当』を食べてね」
アイの囁きは、走行音にかき消されるほど小さかった。
栞は何も答えず、ただ繋いだ手に、わずかな力を込めて返した。
その微かな反応だけで、アイは満足だった。
今はまだ、この歪な「アイドルと事務員」の距離感でいい。
彼を自分に依存させるための罠を仕掛けているつもりが、自分自身が逃げられない檻に閉じ込められていく感覚。
アイは目を閉じ、彼の手の温もりを、記憶の奥底に深く刻み込んだ。
明日もまた、嘘を重ねるために。
そして、いつかその嘘が、この男の手によって真実に塗り替えられる日を、密かに待ち焦がれながら。