深夜二時。苺プロダクションの事務所は、わずかなデスクライトの明かりを除いて、深い闇に包まれていた。
立花栞は、ブルーライトに照らされた画面に向かい、淡々とキーボードを叩く。来月のB小町の地方遠征に向けた宿泊先の手配、そして——他グループとの合同フェスの調整。
「……よし、これで一通りは」
栞が軽く首を回した、その時だった。
背後で、カサリと衣擦れの音がした。
「遅いね、栞くん。まだ終わらないの?」
聞き慣れた、けれど今は聞くはずのない声。振り返ると、そこにはパーカーのフードを深く被った星野アイが立っていた。
「アイ? なんでここに……寮に戻ったはずじゃ」
「んー、目が冴えちゃって。栞くんがまだ働いてると思ったら、なんだか会いたくなっちゃった」
アイはふらふらと歩み寄り、栞のデスクの端に腰を下ろした。短いショートパンツから伸びる白い脚が、栞のすぐ傍で揺れる。
彼女の瞳は、深夜特有の危うい光を宿していた。
「勝手に寮を出るなと言っただろう。もし撮られたら——」
「撮られたら、栞くんが責任取ってくれるでしょ? 私の『専属』なんだから」
アイは悪戯っぽく笑いながら、栞が操作していたモニターを覗き込んだ。
その瞬間、彼女の笑顔がぴたりと固まる。
画面に映っていたのは、B小町のスケジュールではない。苺プロが最近売り出し始めた別の新人アイドルの、宣材写真と詳細なプロモーション案だった。
「……これ、何?」
「新人たちの売り出し計画だ。斉藤社長から、彼女たちのサポートも兼任してくれと頼まれてる」
栞が淡々と答える。事務員としては当然の仕事だ。
だが、アイの胸の奥で、冷たい火が灯った。
「ふーん。あの子、可愛いもんね。若くて、素直そうで。……栞くん、あの子たちのことも、私みたいに夜遅くまで面倒見てあげるんだ?」
アイのトーンから、温度が消える。
彼女はゆっくりとデスクから降り、栞の椅子の背もたれに両手を置いて、背後から彼を閉じ込めるように身を乗り出した。
「アイ、仕事の話だ。離れなさい」
「やだ。離さない。ねぇ、栞くん。さっき、あの子の写真見て『いいな』って思った? 私より、あの子の方が扱いやすいって思った?」
「そんなわけないだろう」
「嘘だ! 栞くん、最近私と話してる時も、すぐ時計見るし……さっきだって、私が入ってきた時、ちょっと迷惑そうな顔した!」
アイの声が、微かに震え始める。
自分でも分かっている。これは単なる我儘だ。栞は仕事をしているだけで、自分を嫌いになったわけじゃない。
でも、彼が自分以外の「女の子」のために時間を使っているという事実が、アイの理性を容赦なく削り取っていく。
(嫌だ。私だけを見て。私だけに溺れて。私がいなきゃ生きていけないって言ってよ)
アイは栞の首筋に顔を埋め、服の上からその肩に、強く歯を立てた。
「……っ、アイ、痛い!」
「痛いのは私の方だよ! 心が、ずっと痛いの。栞くんが他の子を構うたびに、私、自分が自分じゃなくなっちゃいそうになるんだもん!」
アイはそのまま、栞の背中にしがみついた。
心臓がうるさい。自分のものか、彼のものか分からないほど激しく響いている。
彼を自分に依存させたい、自分なしではいられないようにしたい。そう思って仕掛けたはずの罠に、一番深く嵌まって、抜け出せなくなっているのは自分なのだ。
「……アイ。顔を上げろ」
栞が静かに、けれど拒絶を許さない声で言った。
彼が椅子を回転させ、アイと正面から向き合う。
アイの瞳からは、大粒の涙が溢れそうになっていた。完璧なアイドル「星野アイ」が、今、無惨に崩れ落ちている。
「君は、俺が他の誰かを担当したら、君へのサポートが疎かになるとでも思っているのか?」
「……そうじゃないけど。でも、一番じゃなきゃ、嫌なの。栞くんの特別じゃなきゃ、生きてる意味がないんだもん」
栞はため息をつき、眼鏡を外して眉間を押さえた。
そして、泣きじゃくるアイの頬を、大きな手で包み込む。
「……馬鹿なことを言うな。俺がこの事務所にいる理由は、あの雨の日から変わっていない。俺が見ている『最高』は、最初から君一人だけだ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、アイの心に深く刺さった。
アイは、彼の掌に自分の顔を押し付け、縋り付くようにその温度を確かめる。
「……本当? 嘘じゃない?」
「事務員に嘘を吐くメリットはない。……ほら、泣き止んで寮に戻るぞ。明日、目が腫れてたら社長に怒られるのは俺なんだから」
栞が立ち上がり、アイの頭を乱暴に、けれど愛おしそうに撫でる。
アイは赤くなった目で、それでも満足げに微笑んだ。
(ああ、やっぱりダメだ。私、この人から一生逃げられない)
彼の一言で、地獄から天国へ引き上げられる。
彼の手の平の上で転がされているのは、結局、自分の方なのだ。
「……うん。戻る。でも、車の中ではずっと手を繋いでてね? あと、明日のお昼、一緒に食べてくれないと、私、また夜中にここに来ちゃうから」
アイは、涙の跡を残したまま、小悪魔のような笑みを浮かべて栞の袖を引いた。
構って欲しいオーラは、収まるどころか、より深く、逃げ場のない執着へと色を変えていく。
深夜の事務所。
二人の影が一つに重なり、夜の闇に溶けていく。
アイの瞳に宿る星は、今夜もまた、たった一人の男だけを、決して離さないと誓うように輝いていた。