「……栞くん、遅いよ」
栞がスタジオの下見を終えて事務所に戻ったのは、予定を三十分ほど過ぎた頃だった。
日が落ち、薄暗くなったエントランスの階段に、ポツンと人影があった。星野アイだ。彼女は膝を抱えて座り込み、スマホの明かりで自分の顔を照らしていた。
「アイ? なんでこんなところに……ボイトレは?」
「終わったよ。終わって、ずっと待ってた。栞くんが『すぐ戻る』って嘘ついたから」
アイが顔を上げる。その瞳は、いつもの星が嘘のように消え、深い闇が溜まっているように見えた。
栞は彼女の様子が明らかにおかしいことに気づき、歩み寄ってその隣に腰を下ろした。
「悪かった。機材の確認に手間取って……。それより、どうしたんだ。何かあったのか?」
栞が問いかけると、アイはびくりと肩を揺らし、そのまま彼の腕に縋り付いた。指先が震えている。
「……変なファンがいたの。駐車場の裏で、ずっと私のこと見てて。私が一人になった瞬間、名前呼んで、手を掴もうとして……」
「なんだって!? 社長には報告したのか? 怪我は!?」
栞の声に焦りが混じる。彼はアイの体を調べようと肩に手を置いたが、アイはその手を自分の首筋に誘導し、強く押し当てた。
「怪我はないよ。……でも、怖かった。すごく怖かったんだよ、栞くん。ねぇ、私がいなくなっちゃったら、栞くんは困る? 悲しくて、死んじゃうくらい泣いてくれる?」
アイの言葉は、熱を孕んで栞の耳元に注がれる。
実は、ファンとの接触は事実だったが、アイは持ち前の機転ですぐにスタッフのいる方へ逃げていた。恐怖がなかったわけではない。けれど、彼女はこの出来事を「利用」した。
彼をもっと自分に引き寄せ、離れられなくするための武器として。
「当たり前だ。君がいなくなったら、俺の仕事も、……俺自身の日常も、全部めちゃくちゃになる」
栞の誠実な答え。それは事務員としての責任感から出た言葉かもしれない。
けれど、アイにとってはそれこそが欲しかった「執着」の証拠だった。
「じゃあ、守ってよ。事務所にいる時も、現場にいる時も。私の半径一メートル以内に、ずっといて。私だけを見て、私だけを考えて……」
アイは栞の胸に顔を埋め、彼のシャツをぎゅっと握りしめる。
アイは自覚していた。自分は今、最低な嘘を吐き、彼の同情と責任感を煽っている。
でも、そうでもしなければ、彼を自分の「檻」の中に閉じ込めておけない。
彼を自分に依存させたいと願いながら、その実、彼の腕の中でしか呼吸ができないほどに、自分の方が「立花栞」という毒に侵されている。
「……分かった。これからは、可能な限り俺が現場にも同行するよう社長に掛け合う。だから、もう泣くな」
栞の手が、優しくアイの背中を撫でる。
そのリズムが心地よくて、アイは彼に抱きついたまま、小さく舌を出した。
(あは。栞くん、やっぱり優しい。私のこと、放っておけないんだね)
アイの瞳に、再び鋭い星が宿る。
恐怖という「嘘」を媒介にして、彼女は栞の時間を、思考を、人生を、確実に侵食していく。
「ねぇ、栞くん。私、今日一人で寝るの怖いな。……今日は、事務所のソファでいいから、一緒にいてくれる?」
「……。一晩だけだぞ」
栞の妥協を引き出し、アイは勝利の笑みを浮かべた。
相手を溺れさせているつもりが、自分もまた、彼の体温なしでは夜を越せないほどに溺れている。
この共依存の泥沼が深ければ深いほど、アイは心地よさを感じていた。
「大好きだよ、栞くん。……これは、嘘じゃないからね?」
夜の帳が下りた事務所で、アイは彼の首に腕を回し、自分でも気づかないほど深く、彼という存在を貪り始めた。