「社長、来月からのB小町の現場、基本的には全部俺が同行します。アイの精神的なケアも含めて、その方が効率的だと判断しました」
深夜の事務所。栞が提出した新たなスケジュールと人員配置の書類を見て、斉藤社長は煙草を咥えたまま、ふうと煙を吐き出した。
「お前がそこまで言うなら構わねぇが……。栞、アイに変な風に振り回されてるわけじゃねぇだろうな? あいつは、人を惹きつける『嘘』の天才だ。プロとして一線は引いておけよ」
「分かっています。彼女は我が社のトップタレントですから」
淡々と答える栞の背後、応接用のソファから、ひょっこりと二つの星が覗いた。
大きめのパーカーに身を包んだアイが、クッションを抱きしめたまま、満足げに目を細めている。
「社長、栞くんは私の『専属』だもん。心配しなくても、私、栞くんの言うことなら何でも聞くよ?」
(……嘘。聞くわけないじゃん。私が、栞くんに言うことを聞かせるんだから)
アイは心の中でそう毒づきながら、社長が部屋を出ていくのを笑顔で見送った。
パタン、とドアが閉まり、ついに二人きりになる。
「アイ。約束通り、現場の同行は増やす。だからもう、あんな風に怯えるな」
「うん! ありがと、栞くん!」
アイはソファから飛び起きると、書類を整理している栞の背中に、ノーモーションで抱きついた。
彼の背中の温もり、洗剤の匂い、そして自分に向けられる呆れたような溜息。そのすべてが、アイの乾いた心に染み渡っていく。
「離れなさい。まだやることがある」
「やーだ。さっき社長も言ってたでしょ? 精神的なケアが必要なの。今、私のココロは、栞くんで満たされないと壊れちゃう仕様になってまーす」
アイは栞の首筋に顔を埋め、わざとらしく熱い吐息を吹きかけた。
栞の身体が、微かに強張る。その僅かな反応すら、アイにとっては至高の快感だった。
(もっと、私を見て。私に困らされて。私なしじゃ、仕事も手につかなくなっちゃえばいいのに)
アイは彼を自分に依存させたいと強く願う。
けれど、背中に回した自分の手が、微かに震えていることに気づいていた。
彼が現場にいない数時間、自分の世界は完全に停止していた。歌っていても、踊っていても、ファンに「愛してる」と微笑みかけていても、頭の片隅では常に「栞くんは今、何をしてるの?」「誰と話してるの?」ということばかりが渦巻いていた。
相手を自分の檻に閉じ込めているつもりで、その檻の鍵を彼に預け、自ら進んで閉じこもっているのは、自分の方だ。
「ねぇ、栞くん」
「なんだ」
「……もしもね。もしもの話だよ?」
アイは栞の肩に顎を乗せ、彼の横顔をじっと見つめた。その瞳の星は、いつになく真剣で、どこか物悲しい光を帯びている。
「私が、明日急にアイドルをやめちゃうって言ったら、どうする?」
「……急にそんなことを言われても困るな。違約金やスケジュールの調整で、俺は徹夜することになる」
「あはは、現実的すぎる! そういうことじゃなくて!」
アイは彼の脇腹を軽く小突いた。
「私がアイドルじゃなくなって、ただの『空っぽの女の子』に戻っても……栞くんは、私の隣にいてくれる?」
静寂が、深夜の事務所を支配する。
アイは自分の心臓の音が、うるさいほどに脈打つのを感じていた。
もし彼が「それは仕事だから無理だ」と言ったら、自分はどうなってしまうだろう。アイドルとしての星野アイしか愛せないと言われたら、きっと自分は本当に、中身のない偶像として死んでしまう。
栞は、キーボードを叩く手を止めた。
そして、ゆっくりと振り返り、至近距離でアイの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……忘れたのか? 君を空っぽのまま認めて、ここに引っ張ってきたのは俺だ」
「あ……」
「君がアイドルだろうが、そうでなかろうが、俺のやることは変わらない。君が空っぽなら、俺の時間をいくらでも分けてやる。だから、そんなくだらない仮定の話をしてないで、明日のドーム公演の最終確認をするぞ」
栞の手が、アイの頭を乱暴に、けれど包み込むように撫でる。
その瞬間、アイの目から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ちた。
嬉しくて、愛おしくて、そして——あまりの重さに、胸が締め付けられる。
(やっぱり、溺れてるのは私だ。……もう、この人なしじゃ、息もできない)
「……うん。確認、しよっ。でも、私の隣に座ってやってね?」
アイは涙を拭い、これまでで一番、可愛らしくて、そして執念に満ちた「本物の笑顔」を咲かせた。
嘘を武器にのし上がってきた究極のアイドル。
だが、彼女の心は今、たった一人の事務員の腕の中で、完全に囚われていた。この歪で、甘やかで、逃げ場のない共依存の終わりがどこにあるのか、二人はまだ知らない。
第3章の予告:『双子の秘密と、永遠の契約』
物語は、アイの人生の最大の転換期——「妊娠と出産」へと突入する。
アイドル生命の危機。その裏で、アイは双子の父親ではなく、事務員である栞に「私の全てになって」と、さらなる狂気の依存を見せる。
秘密を共有する二人だけの、閉ざされた生活が始まる。