「寂しい、寂しい……」
その声は、耳の奥の最も不快な領域に、じっとりとこびり付くような粘り気を持っていた。
夜の帳が降りる頃、アイギル大陸の西端に位置するこの寂れた街ダス・リヒトには、海から這い上がる湿った霧とともに、奇妙な風が吹き込む。風が運んでくるのは、潮の匂いではない。古びた布地が腐敗していくような、あるいは、久しく陽の光を浴びていない地下室の床板が放つような、陰惨な拒絶の匂いだ。
街人たちはそれを「迷い子の泣き声」と呼び、日没とともに重い木製のシャッターを閉め、幾重にも閂(かんぬき)をかける。酒場の喧騒も、この声が聞こえ始める時間には嘘のように静まり返り、人々はただ暖炉の火が爆ぜる音にさえ怯えながら夜をやり過ごすのだった。
私は外套の襟を深く立て、錆びついた街灯が落とす僅かな光の斑点を踏みしめながら、声の主を探して街の外れへと足を向けていた。
(ただの迷子ならいい。だがこの肌にまとわりつく空気の重さからは、テラ母神の慈愛をまるで感じない)
私の名はアルト。この界隈で小奇麗な看板を出している、ただの私立探偵だ。普段の依頼といえば浮気調査や家出人の捜索、あるいは精霊石の紛失といった、世俗的でいくらか牧歌的な、安全なものばかりだった。しかし今回の依頼は違った。街の執政官直々の特命。ここ数週間で夜間に外出して戻らない者が三人。いずれも、あの「寂しい」という声を追うようにして姿を消した。
肺の奥に溜まる空気は、吸い込むたびに凍えるように冷たく、喉の粘膜をチリチリと灼くような錯覚を覚える。私は無意識のうちに、腰のベルトに固定された短剣の柄に触れた。使い込まれた湿った革の感触が、指先にわずかな安心感を与える。しかし、それが単なる気休めに過ぎないことを、私の本能は既にに察知していた。
街の境界線、すなわち生者と死者を分かつ境界には、不自然なほど静まり返った墓地が広がっている。
ここから先は天光神アウレウスの恩恵も届かない夜の領域だ。
時折、突風が立ち枯れた木々を揺らす音が、まるで背後から誰かが名前を囁いたかのように聞こえ、そのたびに心臓が肋骨の裏側を強く叩いた。私は足を止め、周囲の闇に目を凝らす。
ダス・リヒトの墓地は、大昔の戦禍で命を落とした名もなき兵士たちの骨が埋もれている場所であり、今では誰も弔いに訪れる者はいない。
「……あそこに、いるのか」
月光が雲の切れ間から歪に射し込んだ。その青白い光が照らし出したのは、墓地の最奥、ひときわ大きく聳え立つ立ち枯れた大樹の影だった。
そこには小さな人影がうずくまっていた。
自分の膝の高さほどしかない、本当に小さな少女だ。ボロ布のような、泥に汚れた灰色の服を纏い、小さく丸まって肩を小刻みに震わせている。その姿はいかにも不憫で、親とはぐれて行き場をなくした哀れな犠牲者のように見えた。
しかしながら私はその憐憫の情を誘う風貌が、釣りの餌と重なったのだ。
「おい、大丈夫か。こんな場所で何を……」
「ママとパパ、いなくなっちゃったの……」
返答が返ってきて、私はほっと胸を撫で下ろした。五感を支配していたあの不吉な予感が、単なる取り越し苦労であったかのように思えたのだ。だがそれと同時に、脳の裏側で冷徹な理性が鳴り響く。
(近付くな。何かがおかしい。影の形を見ろ)
月光は上空から射し込んでいるはずだった。それなのに子供が地面に落とす影は、子供の身体のサイズに対して、あまりにも不自然に長く、そして蠢くように歪んでいた。影の先端はまるで生き物の触腕のように、大樹の根元へと這いずり回る。
だが探偵としての奇妙な義務感と、ここで引き返せば次の犠牲者が出るという焦燥感が、私の強張る脚を一歩、また一歩と前へと踏み出させた。テラ母神の教えにある「迷える者への救いの手」という言葉が、呪詛のごとく頭の中で反芻させて。
私は子供の隣に膝をつくと
「なら、両親を探そうか」
と優しく声をかけて、その小さな、泥にまみれた右手を優しく握り締めた。
子供の手はひんやりとした、まるで氷細工のような肌の冷たさだった。人間の体温ではない。それは冬の底に放置された石碑の冷たさに似ている。
(やはり、この子は何かおかしい……)
と頭が危険信号を送った瞬間、私のすべての思考が一斉に停止する。
「……っ!?」
指先から腕へ、そして脳へと突き抜ける、凄まじい衝撃。
握ったはずの、折れそうなほど細かった少女の手。それが突如として、鉄鉱石を凝縮するかのような万力そのものと化す。
骨が軋んでミシミシ、ミシミシ……と私の手の甲の骨が砕ける不快な音が闇に響き渡る。あまりの激痛に視界が白く爆ぜ、肺の中の空気が一瞬で吐き出された。喉の奥から悲鳴がせり上がるが、痛みによるショックで声にならない。
(放せ。手が、完全に潰れる。なんだ、この力は……!?)
私は必死に自由な左手で腰の短剣を抜こうと足掻いた。しかし私の腕を掴む「力」は、単に握り潰すだけにとどまらなかった。それはじわじわと、だが圧倒的な質量をもって、私の身体全体を地面の泥へと押し潰していく。重力そのものが数倍になったかのような錯覚。指一本動かせない。
(つ、潰される!)
私は恐怖に引き攣り、涙と脂汗で歪んだ顔をどうにかして上げた。
そこにいたのは、もう子供ではなかった。
「……寂しいの。ずっと、ずっと、寂しかったの」
声のトーンが変わっていた。先ほどまでの子供らしい、哀愁を帯びた甲高い呟きではなかった。それは、何十人もの人間の叫喚や慟哭を同時に重ね合わせ、激しく擦り合わせたような絶望の不協和音。
月光を全身に浴びながら、少女の身体が異様な速度で「伸長」していく。
人間の肉体からは決して鳴ってはならない、関節が外れ、靭帯が引き千切れ、骨が急速に増殖していく湿った破砕音が、静寂の墓地に響き渡る。
私の背丈の半分ほどしかなかった幼い影は、一瞬のうちに私の身長を追い抜き、さらに上へ、上へと伸びていく。二メートル、三メートル……最終的には、私の二倍を軽く超え、立ち枯れた大樹と肩を並べるほどの巨躯へと変貌を遂げた。
引き伸ばされた首は、蛇のように不自然にうねり、月光の下で異常に白く発光している。顔のパーツは中央に凝縮され、耳まで裂けた口からは、黒い粘液がボタボタと地面の苔に滴り落ちる。何よりも悍ましいのは、不自然に長い四肢。私の手を掴む腕は、まるで干からびた大樹の枝のように細長く、しかしその強度は今まで触れてきたどの金属をも凌駕する。
歪んだ顔には、もはや知性も、生命の尊厳もない。かつてこのアイギル大陸を恐怖の底に陥れたという、深淵王ヴァニタスが世界に産み落とした、夜の理そのもの。すなわち病老死苦が形を成した悪夢だったのだ。
「ひ、あ、が……っ!」
喉の奥が完全に潰れ、血の混じった絶叫ともつかない音が漏れる。
見上げた先にある天を突くような怪異の巨影が、私の視界を覆い尽くした。
肌を撫でる不快な温度は、もはや氷の冷たさですらなく、絶対的な「無」だ。あらゆる熱量、生者の記憶、魂の灯火、そして希望を根こそぎ吸い尽くす、死そのものの拒絶。少女だったものの裂けた口が、歓喜に震えるように大きく開かれる。そこには底の見えない暗黒の深淵が果てしなく広がり、まるで異世界を眺めるような錯覚を覚えた。
「ヒッ、ヒャアァァ……」
ダス・リヒトの墓地の静寂を切り裂くように、あまりに短い悲鳴が響き渡る。
それは肉体がこの世ならざる強大な力によって一瞬で圧縮され、破壊されたときに生じる、生の最後の痕跡だったのかもしれない。
私の意識は壮絶な激痛とともに、果てのない闇の中へと音もなく沈んでいった……
街の閉ざされた窓から、あるいは堅牢なベッドの中でかすかな叫びを聴いた人々は、一斉に身体を強張らせる。彼らは布団の中で震えながら、天光神に向けて届くはずもない祈りの言葉を途端に唱えはじめた。
また一人、あの少女に誘われ、闇に取り込まれたのだと確信しながら。
探偵アルトが消息不明になってから数日が経過後。
襲ってくる猛烈な眠気をこらえ、暖炉でとある老夫婦が、ダス・リヒトの街に流れる噂を話の種に言葉を交わす。
「なぁ、婆さんや。この手の怪談でいつも不思議に思うんじゃが、なんで消えた探偵さんの被害の詳細が広まっとるんじゃ?」
「……そんなの決まっとるじゃないですか、爺さん。その夜の混沌自身が探偵さんの末路を吹聴しとるんですよ……」
夜から生まれ出で、朝日と共に姿を消すヴァニタスの眷属。だが人の心に差す影に巣食い、芽生えた恐怖を贄とする魔なる者にとって、時間帯が昼夜かなど些末な問題だ。恐怖とは時に好奇心を生み、時に蛮勇の呼び水となり、時に最高の加味にも変化する。
ダス・リヒトの夜に未来永劫、安寧が訪れることはない……