TCGで全てが決まる世界に転生した物語 作:国家公務員K
土曜日の朝は、やけに静かに感じられた。それもそのはず。末子は普段よりも二時間も早く起きたのだ。
休日特有のだらけた空気というよりも、街全体がまだ完全に目を覚ましていない鈍い沈黙がある。カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の勿忘草色の家具達をぼんやりと浮かび上がらせていた。
末子は、鏡の前に立っていた。
寝巻き姿ではない。制服姿でもない。
選ばれたのは、上品に整えられたコーディネートであった。色は白と淡い水色。余計な装飾は一切ない。だが、布の質は明らかに学生服のそれではなく、百貨店のフォーマル売り場でしか見かけないような、高級感と緊張感を併せ持った素材だった。
動きやすくは無いだろう。
されど、あらゆる意味で崩れていない服装だ。
末子の母親はその様子を、キッチンの方からちらりと見ていた。
「ソレは良い男なの?」
「違うわ」
末子はリップクリームを唇に滑らせた後、アッサリと答える。
母親の憶測を無視して鏡の中の自分を確認する事に集中した。
血色の良さはほとんど変わらない。ただ少し潤った印象が少しだけ増える。
「じゃあ何」
「知らない世界に行く」
母親は一瞬だけ間を置いて、それから小さく笑った。
「あら、いつも通りじゃない」
その言葉は褒めているのか、からかっているのか分からない。ただ少なくとも、心配はしていなかった。
末子もそれ以上は何も言わなかった。
家を出ると、空気は思ったよりも冷たかった。
駅へ向かう道は見慣れているはずなのに、今日は少し違って見える。歩いている人間の数は普段と同じなのに、それぞれが微妙に違う方向へ意識を向けているような、そんな違和感がある。
着飾った自分は普段に増して圧倒的な上位存在。そう思い込んでいる末子は有象無象に対する評価を下方修正しながら歩み続ける。
連合会本部は東京・千代田区。
わざわざ言うまでもなく、そこはこの国の中心だ。
行政の中心でもあり、経済の中心でもあり、そして神札遊戯という、この世界の奇妙な前提そのものを管理する中心でもある。
電車の中では、誰もが彼女を二度は振り返った。
それは安心でもあり、少しだけ不満でもあった。自分の事を気にもかけないような超越的存在が自身の周囲には居ないことに対する贅沢な悩みの表れとも言えよう。
東京都心へ向かう電車の窓に映る自分の顔を見ながら、末子はぼんやりと境界線という概念を考えていた。
窓の外を流れる景色は、住宅街からビル群へと変わっていく。その移り変わりに特別な意味があるわけではない。
車内は平日午前特有の曖昧な混雑で、スーツ姿の大人と学生が同じ空間に押し込められている。その服装や身分の違いに何の境界線があるのだろうか。
そのどちらもがスマートフォンに視線を落とし、自分の世界に閉じ篭っている。
やがて電車が千代田区方面へ近づくにつれ、車窓の景色は徐々に硬質なものへ変わっていく。観光や生活の気配が薄れ、代わりに官庁街特有の均質な建築物が増えていく。建物の表面は無駄な装飾を排し、ただ機能のためだけに存在しているようだった。
遂に目的の駅に到着した。
電車の中から自動ドアを通じて外へ飛び出ると、空気が変わっている事に気が付いた。
音が整っている。
車の走行音、信号の切り替わる電子音、人の足音。それらが雑音ではなく、設計された背景音のように収まっている。
街並みの輪郭も整っている。
個性溢れる建物群が一箇所に纏まっているのにも関わらず、見事に調和が取れている。
否、この異質な調和こそが東京というデザインなのかも知れない。
連合会本部は、その一角にあった。
外観だけ見れば、巨大な公共施設という印象に過ぎない。特別な象徴性や宗教的な荘厳さは薄く、むしろ行政機関と文化施設の中間のような、曖昧な立ち位置に収まっている。ガラスと石材が均等に組み合わされた正面は、訪問者を拒絶するでも迎え入れるでもなく、入場する意志のある者だけには扉を静かに指し示している気がした。
入口前の広場には、予想していたような厳戒態勢はない。警備員はいるが、軍事施設のような緊張感はなく、むしろ美術館や大規模ホールの受付に近い穏やかさがある。訪問者の年齢層もばらばらで、スーツ姿の大人もいれば、制服姿の学生もいた。
その光景を見て、末子はほんの少しだけ拍子抜けした。
もっと異質な場所だと思っていた。公安の施設のような、沈黙が支配する空間か、あるいは宗教施設のような、説明のつかない空気に満ちた場所か。
だが実際には、そこにあるのは極めて普通の公共施設の延長線だった。
ただし、その普通さが逆に不気味でもあった。
何故なら、ここに集まっている人間の多くは、あの闇遊戯という現象に何らかの形で触れているはずだからだ。
にもかかわらず、誰も特別な表情をしていない。恐怖でも、畏怖でもなく、単なる日常の延長としてそこに立っている。
その違和感を抱えたまま、末子は巨大な石碑の横を通り、自動ドアを抜けた。
ロビーは広かった。
吹き抜けの天井。静かに流れる空調。
床は光を抑えた石材で、足音が必要以上に響かないように設計されている。
人は多い。
だが、混雑しているという印象にはならない。
それぞれが別の目的を持って動いているからだ。
受付、相談窓口、案内板、待合スペース。
すべてが機能ごとに分離されていて、その役割の境界線には曖昧さがない。
末子は一度だけ立ち止まった。
一切の抵抗感無く聴き流せるBGMの存在に初めて気が付く。
どこへ行けばいいのか分からないが、どこにでも行って良い気がした。
何気なく案内板を見る。記載された内容はとても丁寧で、記号も少ない。だが情報量は多い。被害者支援、資格講習、競技登録、生活相談、精神ケア、保護者同伴窓口。
まるで保険と教育と競技と医療を全部混ぜたような一覧だった。
「……何これ」
小さく漏れる。
その声は誰にも届かない。
結局のところ、末子は受付へ向かった。
そこは銀行窓口に似ていた。あるいは役所の総合窓口に近い。
ガラス越しに座っている職員は、派手さのないスーツ姿だった。目が合うとその職員は朗らかな笑顔を向けた。均衡の取れたパーツの配置。骨格からして美しい顔だった。
末子は少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「案内状が届いたのでこちらまで来ました」
一拍。
職員は端末を操作しながら案内状の提示を求める。
末子が書類を取り出した瞬間、端末の入力音がわずかに変わった気がした。
ほんの一瞬だけ、空気が静かになる。
だがそれは錯覚に近い。
すぐに元に戻る。
「確認できました。こちらへどうぞ」
何事もなかったように、案内が続いた。
「では、あちらのエレベーターから四階へ行って頂き、右手にございます第八ホールへとお進みください。間もなく第一回の説明会が始まります」
職員は何一つ淀みのない滑らかな動作で受付票を差し出してきた。
末子はそれを受け取り、促されるままにエレベーターへと乗り込む。
四階に到着すると、案内通り、第八ホールへと向かう。そこは大学の大きな階段教室を思わせる、扇型の巨大な講堂だった。最も、末子は大学を知らないので中学の体育館のように感じられたがその違いは誤差の範囲だろう。
既に何十人もの先客が席を埋めている。
見渡す限り、どこにでもいる普通の人々であった。
あの日、校庭で震えていた自分の同級生のような学生。
買い物袋を足元に置いた主婦。
疲れ切ったスーツ姿の会社員。
年齢も性別もバラバラな彼らの共通点はただ一つ。
───あの不条理な怪異や闇遊戯とやらに巻き込まれ、日常を侵された被災者であるということだけだ。
末子は、中段のやや端寄りの席に、音を立てずに腰を下ろした。
周囲を見観察する。
怯えている者、退屈そうにスマートフォンを弄る者、お互いの無事を静かに確認し合う家族。
そのどれもが、末子からすれば感情で動く矮小な有象無象の範疇を出ない。
やがて、壇上の照明が落とされ、スクリーンにスライドが投影された。
始まったのは、驚くほど事務的で、だからこそ圧倒的な説得力を持つ講習だった。
教壇に立った初老の講師は、まるで教科書を読み上げるだけの教師か、安全衛生の講習を行う役人のような平坦な口調でマイクに向かって話し始める。
『エー、皆様、この度は大変な災難でございました。神札遊戯連合会では、皆様の精神的ケア、および神域災害に伴う実質的な損害の補償手続きについて、アー、法に基づき一元的にサポートを行ってまいります。エー、まずは、お手元の資料の三ページをお開きください。アー、こちらはですね、闇遊戯遭遇後の、初期の心理的フラッシュバックに対するガイドラインです……』
淡々と進む講習。
それは、あの悍ましい闇遊戯や怪異という世界の脅威を、この国がどれほど完全に日常的に存在する災害して飼い慣らし、マニュアル化しているかという現実の証明そのものだった。
神札遊戯は、裁判であり、企業交渉の中にあり、学校教育にすら組み込まれている。
ならば、その過程で生まれる被害者の処理もまた、こうして公共インフラとして冷徹に、均質に、効率よく処理される。
「はぁ……。本当に、ただの講習会じゃない」
もう何度吐いたか分からないため息をついた末子はら肘を突きながら冷ややかにスクリーンを見つめていた。
特別なことは何もない。自分は、その他大勢の被害者の一人として、この巨大な社会の歯車に綺麗に噛み合わされている。
あの過呼吸を起こした夜の恐怖が、丁寧な説明が付属したテキストによって、ごく稀に発生する不運な災いとして薄められていく感覚。それは少しだけ彼女の肩の力を抜かせ、同時に、たまらなく退屈だった。
二時間にも及ぶ全体講習が終わり、再び第八ホールの照明が点いた。
『──以上をもちまして、第六百八十二回闇遊戯被害者相談会を終了いたします。これより、皆様の個別の状況や、保障に関する具体的なお話を伺うため、個別面談を行います。お一人ずつお名前をお呼びいたしますので、案内を受けられた方は、講堂を出て右手の個別相談ブースへお進みください』
アナウンスに従い、前方の席の人間から順番に名前が呼ばれ始める。
一人、また一人と、席を立って第八ホールの後ろの扉から出ていく。
銀行の資産運用相談に呼ばれるような、あるいは役所のマイナンバーカードの発行を待つような、どこまでも普通の、ありふれた順番待ちの光景。
末子は、自分の爪を眺めながら、その静かな移動を観察していた。
呼ばれていく人々の足取りは軽い。
講習会が終わった安心感からか、それとも単に長時間拘束された解放感からかまでは分からない。
少なくとも、会場へ入ってきた時の強張りは既に消えていた。
どちらかと言えば、ただ面倒な手続きを早く終わらせたいという、日常の顔に戻っていると感じた。
「――五十六番、穂刈末子様。五十六番、穂刈末子様、いらっしゃいますか」
スピーカーから、自分の名前がノイズ混じりに流れた。
聞き慣れたはずの苗字である。
それにも関わらず、この巨大な本部施設の中で呼ばれると、どこか他人事のような違和感があった。
「はい」
末子は小さく声を発すると、百貨店仕立ての、白と淡い水色のフォーマルな服の裾をそっと整え、席を立った。
有象無象の視線を背中に浴びながら、階段状の通路を滑らかに下りていく。
第八ホールの外へ出ると、受付腕章を付けた若い女性職員が一礼した。
「穂刈様でいらっしゃいますね」
「ええ」
「ご案内いたします」
職員の後ろを歩き始めたところで、不意に別方向から声が掛かった。
「失礼いたします」
振り返る。
五、六十代ほどの男性職員だった。
落ち着いた灰色のスーツ。
渋い装飾ながら高級感が有る時計。
胸元には連合会本部職員を示す職員証。
彼は案内役の女性へ何かを耳打ちする。
女性職員は一瞬だけ目を瞬かせ、
「あ、失礼いたしました」
と小さく頭を下げた。
「穂刈様につきましては、担当部署から別途ご案内があるとのことです」
「……担当部署?」
思わず聞き返す。
闇遊戯の被害者など、この建物に何十人も居るはずだ。
自分だけ何が違うのか。
男性職員は穏やかな笑顔を崩さない。
「はい。先日の件について少々確認事項がございまして」
「確認事項?」
「お時間は取らせませんので」
丁寧な説明だった。
丁寧過ぎる、とも言えた。
少なくとも此方側に断る権利は無さそうだった。
末子は微かに眉を顰める。
何となくだが、自分だけ別の列へ並ばされたような感覚がある。
学校であれば教師に呼び出される時の空気に近い。
別に悪い事はしていない。
それでも、何となく落ち着かない。
「こちらへ」
男性職員に促され、末子は廊下の奥へ視線を向けた。
他の相談室が並ぶ区域から少し離れた場所。
そこにある一室だけが妙に静かだった。
末子は表情を崩さないまま、分厚い扉の前に立った。
周囲の個別相談ブースからは、他の被害者たちの、
「保険金の申請が──」
「体調不良の診断書が──」
「勤務先への報告が──」
等といった、生活感のある声が微かに漏れ聞こえている。
だが、自分が案内されたこの扉の向こうからは、一切の音がしなかった。
完全な、静寂。
末子は覚悟を決め、細い指先をノブにかけ、ゆっくりと、その扉を押し開いた。
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