最近艦これ短編を書き殴ることにハマっており、投稿しないのも勿体ないと思ったのでこちらで投稿をさせていただきます。
大体ヒロインは加賀さん。

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距離

 執務室の窓から差し込む朝の光が、書類の山を白く染めていた。

 私の机の上には、今日も今日とて、決裁を待つ書類が山積している。出撃許可、補給申請、編成変更、損耗報告、人事考課──鎮守府を回していくというのは、要するに紙を捌くということだと、提督に就任して以来、私はしみじみと理解するようになった。

 そして、その紙の山を一緒に捌いてくれる存在が、私の左隣の机に座っている。

「提督、こちらは演習報告です。ご確認を」

「ああ、ありがとう」

 差し出された書類を受け取る。加賀の所作には、無駄というものがない。書類を寄こす角度、こちらが受け取りやすいよう傾けられた向き、指の添え方。何度も繰り返してきた動作のはずなのに、毎回、僅かに同じではない。日々の疲労や、その日の体調、季節の湿度、そういったものが、ほんのわずかに彼女の動きに揺らぎを与える。

 それを見ているのが、私はたぶん、好きだった。

 加賀は私の秘書艦に就任して、もう一年半になる。最初の頃の彼女は、文字通り能面のような顔で執務をこなしていた。私の言葉に返事をするときも、必要最低限の音節しか発さなかった。それが、季節を二つ三つ越えるうちに、少しずつ、ほんの少しずつ、表情というものを見せるようになってきた。

 笑うことは、ほとんどない。しかし、たとえば私が冗談を言ったとき、加賀の眉尻が一ミリだけ動くことがある。あれが、おそらく加賀の「笑み」なのだと、私は最近になって理解した。

 ──理解してしまって、いるのだ。

 私は手元の書類に署名する。ペン先がわずかに掠れた。インクを足そうと、机の隅のインク瓶に手を伸ばす。

 その時、ふと、視界の隅に加賀の指先が映った。

 加賀は、自分の机で別の書類を整えている。その指先が、彼女の前髪をそっと耳にかける動作をした。ただ、それだけのことだった。

 それだけのことなのに、私はインク瓶の蓋を開ける手を、わずかに止めてしまった。

 ──いかんな。

 私は内心で苦笑する。職務中だ。秘書艦の何気ない仕草に目を奪われている提督など、論外である。私はインクを足し、ペン先を整え、再び書類に向かう。

 しかし、こういうことが、最近、増えた。

 加賀がお茶を淹れて持ってきてくれるとき、湯気の向こうに見える彼女の睫毛。書類を受け取るときに、ほんの僅か触れそうになる指先。ふとした拍子に漂う、彼女の髪の香り。それらの一つ一つに、私の意識は知らず引き寄せられている。

 そして、たぶん、加賀も気づいている。

 気づいているのに、互いに、何も言わない。私は提督で、彼女は秘書艦で、そういう関係であることの心地よさを、二人とも壊したくないからだ。あるいは、壊した先に何が待っているのか、確証が持てないからかもしれない。

 ──意気地のないことだ、と思う。

 しかし、と私は自分に言い訳をする。加賀という艦娘は、信頼を裏切られることに、おそらく人一倍敏感な性格をしている。だからこそ、慎重でなければならない。一時の感情で踏み込んで、彼女の中の何かを損なうことは、絶対にしたくない。

 

 私は次の書類を取り上げ、署名する。

 

 ◇◆◇

 

 加賀は、自分の机に積まれた整理済みの書類を、種別ごとに分けながら、隣の気配を意識から外そうとしていた。

 外そうとして、外せていないことを、加賀自身が一番よく知っていた。

 提督の万年筆がペン先を走らせる音。書類を捲るときの、わずかに節のついた指。たまに小さく息を吐く、その息遣い。それらの一つ一つを、自分は今日も拾ってしまっている。仕事に集中していないわけではない。集中している。集中したまま、しかし、もう一つの意識の層で、提督の存在をずっと感じ取り続けている。

 これが何という状態なのか、加賀には、もう分かっていた。

 分かっていて、認めない、ということを、加賀は選んでいた。

(──私は、秘書艦)

 それが、加賀が自分に課している唯一の、しかし絶対の縛りだった。

 提督は良い人だ、と思う。穏やかで、艦娘たちを大切にし、戦果よりも被害を減らすことを優先する判断ができる人だ。一年半そばで見てきて、その評価は揺るぎようがない。揺るぎようがないからこそ、自分のような艦娘が、職務以上の何かを差し挟んではいけないのだ、と加賀は思っている。

 提督の隣に立つというのは、責任のある場所だ。私情で乱してはならない。

 そう、自分に言い聞かせてきた。

 それなのに──最近、その言い聞かせが、少しずつ、効かなくなってきている。

 提督の何気ない言葉。「加賀、ありがとう」。「加賀、今日は冷えるな」。「加賀、君がいてくれて助かる」。一つ一つは、秘書艦への通常の労いの範囲を出ない。出ないのに、加賀の胸の奥は、その都度、僅かに揺れる。揺れていることを、自分は提督に気取られていないだろうか、と気にしてしまう。

 気にしている、ということ自体が、もう、職務の領分を超えている。

 加賀はそっと息を吐き、書類の山を持ち上げた。種別ごとの分類が終わったので、棚に戻さなければならない。戦果報告は、上段、左から二番目。

 そう、それだけのこと。

 それだけのことを、淡々とこなせば、また一日が過ぎていく。

 

 ◇◆◇

 

「提督、戦果報告は、上段でしたね」

「ああ、左から二番目だ」

「承知しました」

 加賀は書類束を抱え、棚の前に置かれた踏み台に向かう。私はそれを横目に確認しつつ、再び自分の書類に視線を戻した。

 棚の上段は、加賀の身長では踏み台がなければ届かない。鎮守府の建物というのは、なぜか天井が無駄に高く、棚もそれに合わせて作られている。設計した人間に文句の一つも言いたいところだが、まあ、そうも言っていられない。

 ペンを走らせる。今日は朝から書類が多い。午後の艦隊会議までに、最低でもあと三十枚は捌かなければならない計算だった。

 その時、ふと、加賀の動きが目の端に映った。

 書類束を抱えたまま、踏み台に上る。一段、二段。最上段に足をかけ、爪先立つようにして手を伸ばす。棚の上段は、加賀のつま先立ちでも、ぎりぎりの位置だった。書類束を片手に持ち替え、もう片手で棚に差し込もうとする──

 その瞬間、踏み台が、わずかに軋んだ。

 ぎ、という、ささやかな、しかしはっきりとした音。

 私の手が止まった。

 加賀の身体が、傾いだ。書類の束が宙に放られ、彼女のつま先が踏み台の縁を擦るのが、妙にゆっくりと目に映る。加賀の表情が、初めて崩れた。常の整った無表情が、わずかに見開かれ、唇が「あ」の形に動きかける。

 私は、考えるより先に動いていた。

 椅子を蹴倒し、机を回り込む。床を蹴った瞬間、視界の端で書類が舞い散るのが見えた。距離にして三歩。されど三歩。間に合え、と歯を食いしばる。指先を伸ばす。加賀の身体が、重力に身を委ねきる、その寸前──

 腕の中に、加賀がいた。

 衝撃というほどのものではなかった。ただ、思っていたよりも遥かに軽い、しかし確かな、一人の人間の重みが、私の両腕に収まっていた。とっさに片腕を彼女の背中に回し、もう片腕で肩を支える。加賀の片手が反射的に私の肩を掴み、もう片方の手は、私の制服の胸元を縋るように握っていた。

 落ちた書類の最後の一枚が、ふわりと床に滑り落ちる。

 ──その音だけが、執務室に響いた。

 私は息を止めていた。

 

 加賀の睫毛が、こんなにも長いことを、私は初めて知った。普段は能面のように整っている彼女の顔が、いま、手を伸ばせば触れられるどころか、伸ばす必要すらない距離にある。鼻先と鼻先の間に、わずかに数センチ。彼女のわずかに開いた唇から、震えた小さな吐息が漏れ、私の頬にかかった。

 その吐息が、温かい、と思った。

 そう思ってしまった瞬間、自分の心拍が、急に耳の奥でうるさく鳴り始めた。加賀を抱き留めるために動いたはずの心臓が、いま、まったく別の理由で打っている。それを彼女に気取られているのではないかと思うと、余計に脈が早まる。

 加賀の頬が、ゆっくりと、しかし確実に、朱に染まっていく。白い肌の上に、淡い紅が滲んでいくのを、私は息を呑んで見つめた。

 ふわりと、彼女の髪の香りがした。何の香りなのか、私には分からない。ただ、清潔で、静かで、しかしどこか甘やかな、加賀という艦娘そのもののような匂いだった。

 離せ、と頭の片隅で誰かが囁く。離せ。今は職務中だ。彼女は秘書艦で、自分は提督で、こんな距離は許されない。一秒でも長く抱いていれば、それは確かに、ただ抱き留めただけの距離ではなくなってしまう。

 それなのに、腕は動かなかった。

 加賀も、動かなかった。

 私の制服を握った彼女の指先が、ほんのわずかに、ぎゅっ、と力を込めるのを、私は確かに感じた。

 

 

 ◇◆◇

 

 ──どうして。

 加賀の頭の中は、その一語で埋め尽くされていた。

 踏み台の感触が消えた瞬間、覚悟したのは床への衝撃と、それに伴う羞恥だった。秘書艦ともあろう自分が、書類の片付け程度で足を滑らせるなど、あってはならない失態である。

 それなのに今、自分は床にいない。提督の腕の中にいる。

 頭では理解できる。提督が抱き留めてくれた。事実関係としては、ただそれだけのこと。

 それなのに──なぜ、自分の頬はこんなにも熱いのか。

 提督の体温が、制服越しに伝わってくる。書類仕事ばかりしているはずなのに、しっかりとした腕だと思った。自分一人くらい、何でもないとでも言うように、軽々と支えている。

 そして匂い。男のひとの匂い、というものを、加賀は不意に意識した。日々の執務で隣にいるはずなのに、こんな距離で嗅いだことは、当然、なかった。紙とインクと、それから何か──表現しがたい、けれど確かに、提督という個人の匂い。

(……離れなさい)

 そう自分に命じる。命じるのに、提督の肩を掴んだ手が動かない。胸元を握った指先が、解けない。それどころか、無意識のうちに、わずかに力を込めてしまった自分に気づいて、加賀は内心で小さく悲鳴を上げた。

 何をしているのか、自分は。

 これまで一年半、ずっと自分に言い聞かせてきたではないか。私は秘書艦、私は秘書艦、と。職務の領分を超えてはならない、と。

 それなのに、たった数秒のこの距離で、その縛りが、こんなにも容易く緩んでしまう。

(──もし、これがもう少し、続いたら)

 そんな考えが、ふと頭をよぎってしまって、加賀は息を呑んだ。

 何を、何を考えているのか。

 そう自分を叱責する間にも、心臓は勝手に高鳴り続けている。提督の肩越しに見える執務室の天井が、いつもより遠い。時間が、まるで止まったように、ゆっくりと流れている。

 提督の瞳が、すぐそこにある。何か言いたげに、しかし言葉にならず、ただ自分を見つめている。その瞳の中に、ひどく赤い顔をした自分が映り込んでいた。

 止まったままで、いいのに──

 そう思いかけた、その時だった。

 

「提督さーん、赤城さんから伝言なんですけ──」

 執務室の扉が、軽い調子で開いた。

 瑞鶴である。

 書類を片手に、何の屈託もない顔で入ってきた彼女は、二歩進んだところで足を止めた。視線が、抱き合うような姿勢で固まっている私と加賀を捉える。

 数瞬の沈黙。

 そして瑞鶴の口元が、ゆっくりと、それはもうゆっくりと、三日月のように吊り上がっていった。

「……ごゆっくり~」

 ニマーッ、という擬音が聞こえてきそうな笑顔と共に、瑞鶴は私たちに背を向けた。扉が閉まる動作が、妙に丁寧で、妙に静かで、それが余計に厄介な予感を私に抱かせた。

「ちょっと待て、瑞鶴!」

 我に返って声を上げる。しかし、扉の向こうから聞こえてきたのは、軽快な足音と「いやー、邪魔しちゃ悪いっしょー」という呟きだけだった。

 時、既に遅し。

 私の腕の中で、加賀がそっと身を起こす。私も慌てて手を離す。互いに視線を合わせられないまま、しばし沈黙が落ちた。

「……怪我は」

 ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「ありません。提督のおかげで」

 加賀の声もまた、いつもより一段低かった。彼女は俯きがちに、散らばった書類を拾い始める。私もそれに倣う。

 無事でよかった、と思う。本当に、それだけは間違いなく、そう思う。

 それなのに、しゃがみ込んだ加賀の項が、まだほんのり赤いことに気づいてしまって、私は再び、視線の置き所を失った。

 

 ◇◆◇

 

 それからの執務は、控えめに言って、捗らなかった。

 私は出撃許可書に押す印鑑の向きを二度間違えた。加賀は補給物資の数量欄に、ありえない桁の数字を書きかけて、自分で気づいて訂正した。互いに、互いの視線を避けるように手元だけを見ていた。

 時計の針が、やけにゆっくりと進む。

 ペンを置く。私は深く息を吐いた。

「……加賀」

「はい」

「昼食に行かないか」

 加賀の手が、ぴたりと止まった。彼女は顔を上げ、しかし私の目までは見ず、私の肩のあたりに視線を留めた。

「……そうですね。少し、休憩しましょう」

 そういうことにしておこう、という暗黙の了解が、二人の間に成立した。流れを変えなくてはならない。このまま執務を続けていたら、明日の出撃指示書に妙な誤字が混じる。それは鎮守府の運営上、由々しき事態である。

 ──というのは、半分は本当で、半分は言い訳だった。

 

 ◇◆◇

 

 食堂の喧騒は、いつも通りだった。

 昼時の食堂は艦娘たちで賑わい、味噌汁と焼き魚の匂いが立ち込め、そこかしこで笑い声が弾けている。私と加賀は配膳を受け取り、空いている席を探して歩き出した。

 その時、一際よく通る声が、私の耳に飛び込んできた。

「──でね、でね、私見ちゃったんだって!」

 瑞鶴の声である。

 声のする方を見れば、食堂の一角、長テーブルの中央に瑞鶴が座っていた。その周りには、駆逐艦の響と電、それからゴシップに目がない青葉が、身を乗り出して聞き入っている。青葉の手には、ご丁寧に手帳まで握られていた。

「提督さんと加賀さんがね、執務室で抱き合ってたの! 抱き合って! もう、めっちゃいい雰囲気でさー!」

「スクープ! 詳しく、もっと詳しく聞かせてほしいです瑞鶴さん!」

「へぇ……司令官と加賀さんが、抱きしめ合い……?」

「電もびっくりなのです……」

 ──終わった。

 隣を、ちらりと窺う。

 加賀の顔から、表情が消えていた。

 正確には、消えた、というのも違うのかもしれない。彼女の顔は、いつもの加賀の顔だった。能面のように整った、感情を読ませない、秘書艦としての加賀の顔。

 しかし、私は知っている。本当に怒っているときの加賀は、こういう顔をする。

 そして気のせいだろうか。彼女の周囲だけ、空気の温度が二、三度ほど下がったような気がする。実際に下がっているわけはないのだが、私の背中には確かに寒気が走った。

 加賀は無言で歩き出した。配膳トレーを片手に、まっすぐ瑞鶴の背後へ。

 長テーブルで聞き入っていた艦娘たちが、最初に気づいた。響が、何かを察した顔で、すいっと椅子ごと隣のテーブルに移動した。電が、慌てて自分の食器を持って後を追う。青葉に至っては、手帳をエプロンのポケットにしまい込みながら、「あ、青葉、急ぎの取材を思い出しちゃった」と呟いて、すり足で離脱していった。

 瑞鶴は、まだ気づいていない。

「だから提督さんったらさー、加賀さんを、こう、ガッと──」

 瑞鶴の身振り手振りが、ふと止まった。

 周りの席が、空いている。

 さっきまで身を乗り出して聞いていたはずの艦娘たちが、いつの間にか、向こう側のテーブルで何事もなかったかのように食事を続けている。誰一人として、瑞鶴と目を合わせない。

 そして、背後から感じる、静かな、しかし圧倒的な、何か。

 ギ……ギギ……。

 瑞鶴の首が、軋むような動作で、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 そこに、加賀がいた。

「瑞鶴」

「は、はい」

「今、何の話をしていたの? 」

 加賀の声は、穏やかだった。穏やかすぎた。

「い、いやぁ……お二人の、仲が良くて、羨ましいなぁ、という話を……アハ、アハハ……」

 乾いた笑い声が、誰にも拾われずに食堂の天井に消えていく。

「そう」

 加賀は、ふっと微笑んだ。

「ところで瑞鶴。今日の演習は、何時からだったかしら」

「えーっと、15時、かな」

「ちょうどいいわね」

 加賀の微笑みが、深まる。

「今日の相手は、私が務めます」

「え゛ッ」

 瑞鶴の声が、明らかに艦娘のものではない音を出した。彼女の視線が、救援を求めるように周囲を彷徨う。しかし、先ほどまで聞き入っていた艦娘たちは、誰一人として、瑞鶴と目を合わせようとしない。響は焼き魚を食べることに全集中している。電は味噌汁の具を熱心に観察している。青葉に至っては、もはや別のテーブルで他の艦娘とにこやかに談笑を始めていた。早い。仕事が早すぎる。

「で、でも、そんな急な変更、提督さんも、認めないんじゃないかなー、って!」

 瑞鶴の助けを求める目が、こちらに振り向く。

 加賀の視線も、私に向いた。

 微笑みは、変わらない。変わらないが、その目は何も笑っていない。

「いいですよね、提督」

 ──ああ。

 私は、自分の生存本能が、極めて正しく作動するのを感じた。

「……ああ、うん、いいぞ」

「提督さぁぁぁん!?」

 瑞鶴の悲鳴が、食堂に響き渡る。しかし、誰も振り向かない。

 

 ◇◆◇

 

 食事を終えた瑞鶴が、何とか逃亡を図ろうとしたのは、自然の摂理であった。

 しかし、加賀の手はそれより早かった。

 瑞鶴の襟首をひっつかむと、加賀はそのまま彼女を引きずるようにして食堂の出口へと歩き出す。瑞鶴の足が、床にズルズルと擦れていく音だけが、妙にはっきりと聞こえた。

「ちょ、待っ、加賀さん!? 演習場、こっちじゃ──あ、ちょ、ホントごめんって! もう言いふらさないから! 」

「ええ、もう言いふらせないようにしてあげます」

「ヒィッ」

 加賀の歩みに、容赦はない。瑞鶴は襟首を掴まれたまま、半ば引きずられ、半ば滑るようにして出口へと運ばれていく。

 そして、その瑞鶴が、最後の悪あがきとばかりに、叫んだ。

「だ、だって加賀さん! 提督さんに抱きしめられて、嬉しそうな顔してたじゃん!」

 ──食堂が、静まり返った。

 味噌汁をすすっていた者は手を止めた。醤油を取ろうと伸ばしていた手は宙で固まった。さりげなく耳をそばだてていた青葉の手帳が、ぱさり、と床に落ちた音さえ聞こえた気がした。

 私自身、息を呑んだ。

 加賀の足が、止まった。

 ほんの一瞬。瞬きほどの時間。しかし確かに、加賀の歩みは止まった。

 そして、私の位置からは、加賀の横顔がよく見えた。

 ──耳まで、真っ赤だった。

 ぴき、と、加賀の手元で何かが軋む音がした。瑞鶴の襟首だった。

「……瑞鶴」

 加賀の声は、もう穏やかですらなかった。

「演習、二本に増やすわよ」

「えっ!? 待っ、ちょ、加賀さん!? さっきのナシ! なかったことに──あ、痛い痛い痛い! 襟絞まってる! 絞まってるって!」

 加賀は答えなかった。ただ、無言のまま再び歩き出した。先ほどよりも、明らかに、速い足取りで。瑞鶴の足が床を擦る音が、ガガガガ、と機関銃のような勢いに変わった。

 そして、食堂の扉に手をかけた、その瞬間。

 加賀の視線が、ちらりと、私のほうへ向いた。

 目が合った。

 ほんの、コンマ数秒。

 加賀はすぐに視線を逸らし、扉を押し開けて出ていった。瑞鶴の悲鳴が、それに引きずられて遠ざかっていく。

 扉が、ぱたん、と閉まる。

 

 ◇◆◇

 

 食堂に、ようやく日常の喧騒が戻ってくる。

 戻ってくる、はずだった。

 しかし、しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 味噌汁をすすっていた者は、ゆっくりと味噌汁に視線を戻した。醤油を取ろうとしていた者は、結局醤油を取ることなく、自分の魚をぼんやり眺めていた。青葉が、そっと床に落ちた手帳を拾い、何事もなかったかのように制服のポケットにしまった。

 そして、誰からともなく、再び会話が始まった。それはどこか、慎重で、小声で、しかしじわじわと食堂の空気を温め直していった。

 私は、自分のトレーの上の、すっかり冷めかけた焼き魚を見下ろした。

 胸の奥に、何かが残っている。

 それは、加賀を抱き留めたときの、彼女の身体の確かな重みであり、頬にかかった吐息の温度であり、項のわずかな赤みであり、そして「いいですよね、提督」と言ったときの、あの、何も笑っていない瞳であり──そして、最後に扉の前で、ちらりとこちらを見た、あの一瞬の視線であった。

 あの視線は、何だったのだろう。

 問いかけだったのか。それとも、何かを許してほしいという、無言の懇願だったのか。あるいは──

 考えるのは、やめておいた。

 考えてしまったら、もう、戻れなくなる気がした。今はまだ、戻れないところまでは、行かないほうがいい。私にも、加賀にも、おそらくそれぞれの理由で、まだその時ではないのだろう。

 私はそれを、どう処理したらいいのか、わからない。

 おそらく、加賀も。

 箸を取る。冷めかけた魚は、しかし、思ったよりも、悪くない味がした。

 

 ──遠くで、瑞鶴の悲鳴が聞こえた気がした。

 

 


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