きっかけは、本当にくだらないものだった。
港の古書市で、戦前の手品の本を見つけた。茶色く灼けた紙の、糸の綴じが半分ほどけかけた一冊で、店の親父はそれを束ねた古雑誌のおまけみたいに俺に押しつけた。帰りの車の中でぱらぱらめくっていたら、後ろの方に妙な章があった。挿絵に、振り子のように懐中時計を揺らす燕尾服の男が描いてあって、その下に「暗示の術」と、いやに大仰な字で説明が刷ってある。読み手の意識を縁まで連れていけば、人は普段隠していることをこぼす──というようなことが、もったいぶった文体で書いてあった。
馬鹿馬鹿しい、と思った。思ったのに、なぜかその頁の角を、指で折っていた。
その日の夜だった。執務室で残りの書類を片づけていると、扉が鳴って、加賀が入ってきた。
「明日の分です。先に出しておきます」
両手で抱えた書類を、机の端に揃えて置く。動作のひとつひとつに無駄がない。報告を終えれば、この人はいつも、用が済んだとばかりにすぐ背を向ける。引き止めたことは、これまで何度かあった。たいていは仕事の口実だった。今夜は──口実すら、用意していなかった。
「加賀。ちょっと、付き合ってくれないか」
呼び止めてから、自分でも何を言うつもりなのか分からなかった。とっさに、机に放り出してあったあの本に手が伸びていた。
「これ。古書市で買ったんだ。催眠術の本」
加賀は戻ってこなかった。扉の前に立ったまま、こちらを見ている。その視線が、本と俺の顔を、一度ずつ往復した。
「……それを、私に試したいと?」
「効くわけないと思うんだけどな」
言い訳のように、俺は笑った。
「でも一回、やってみたくて。馬鹿らしかったら、断ってくれていい。無理にとは言わない」
断られると思っていた。この人のことだ。眉ひとつ動かさずに、子供じみたことを、と切り捨てて出ていく。そう予想して、半分はもう諦めていた。
ところが。
「……いいでしょう」
加賀は、そう言った。戻ってきて、机の前の椅子を引く。意外なほど、あっさりと。
「痛いことはしないから」
「催眠術に痛いも何もないでしょう」
加賀が、わずかに目を細めた。呆れているようでもあり、面白がっているようでもあった。
懐中時計を、鎖から下げる。本の通りに、加賀の目の高さで、ゆっくりと揺らした。声を低くして、ゆっくりと──と書いてあったから、その通りにした。自分の声が、自分のものでないみたいに、間延びして聞こえてくる。
「時計を、見て。……ゆっくり、息を吐いて」
我ながら馬鹿らしい、と思いながら、俺は加賀の目を見ていた。揺れる金属を追う黒い瞳が、左へ、右へ、左へ。最初は硬かったその視線が、何度目かの往復で、ふっと、ゆるんだ。瞼が、重そうに半分まで落ちる。いつも背筋に通っている細い芯みたいなものが、肩のあたりから、すこしずつ抜けていく──そんなふうに、見えた。
──本当に、かかってるのか?
信じられなかった。半分は、嘘だろう、と疑っていた。だが、加賀に限って、こんな子供じみた遊びに調子を合わせて芝居を打つとも思えなかった。この人は、そういうことをしない。冗談を冗談として転がせる器用さとは、たぶん、いちばん遠いところにいる人だ。報告書を読み上げる声で、世辞ひとつ言わない。からかいも、はぐらかしも、知らない。だからこそ──その加賀の瞼が、本当に、ゆっくりと半分落ちていくのを見て、俺は、どこか落ち着かない気持ちになった。
せっかくだから、と俺はいくつか質問をしてみることにした。
「……加賀。聞こえるか」
「……はい」
返ってきた声が、いつもより、すこし低い。けれど、間延びして、角が取れている。普段の、刃物の背みたいなまっすぐさが、ない。
「好きな色は?」
少しの間があって、
「……白」
「へえ。どうして」
「……何も、染まっていないから。これから、何にでも、なれる」
俺は黙った。そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。聞いたことのない言い方だった。
「……好きなものは?」
なんとなく、ただの繋ぎのつもりで訊いた。
「……甘いもの、です。人には、言いませんが。隠れて、食べることが、あります」
加賀の口元が、すこし、ゆるんだ。さっきまでの硬さからは考えられない、無防備な弛み方だった。
「隠れて?」
「……らしくない、と思われたくない、ので」
知らなかった。この人にも、隠れて口にするものがあるのか。それを、こんなに容易く、俺の前でこぼしてしまうのか。
「じゃあ、苦手なものは」
「……辛いもの。どうしても、慣れません。提督は、平気そうに、食べますが」
笑いそうになって──その可笑しさの裏側で、別のものが、静かに目を覚ましつつあった。俺は、この人の、何を知っていたんだろう。ずっと隣に立って、同じ海を見て、同じ甲板を踏んで。それでいて、好きな色も、隠れて食べる甘いものも、辛いものが駄目なことも、何ひとつ。
訊くべきではない、と頭の隅で声がした。これ以上は、ただの遊びの範囲を、超える。分かっていた。分かっていて、俺は──たぶん、本の頁の角を、あのとき指で折った時点で、もう、ここに来るつもりだったのだ。
「……加賀は」
声が、かすれた。一度、唾を飲んだ。
「加賀は、俺のことを……どう、思ってる?」
訊いてしまってから、激しく後悔した。こんなもの、術にかかっているなら本心ではないし、かかっていないなら、こんな問いに律儀に答える人ではない。どちらにしても、まともな答えは返ってこない。返ってこないに決まっている。だから、笑い飛ばせばいい。なんてな、忘れてくれ、と。その台詞を、喉の手前まで、用意していた。
加賀は、すぐには答えなかった。
半分落ちた瞼の奥で、黒い瞳が、ゆっくりと、俺を捉えた。とろりとした、焦点の甘い目だった。その唇が、わずかに開く。
「長く、お側に、いたいと思っています」
時計を、落とした。
床で、硬い音が鳴った。それでようやく、自分の指が、いつのまにか開いていたことに気づいた。心臓が、みっともなく跳ねている。言葉は、聞こえた。意味も、分かる。ただ、それが俺に向けられたのだという、その一点だけが、どうしても像を結ばなかった。何か言おうとして、声が、ひとつも、出てこなかった。
そして。
落ちた時計の、その硬い音に反応したのか。加賀がゆっくりと、瞬きをした。
半分まで落ちていた瞼が、上がる。とろみを帯びていた焦点が、すうっと奥から結ばれていく。さっきまでの──隠れて甘いものを食べると白状したあの無防備な気配が、潮が引くみたいに消えていって、いつもの背筋に細い芯の通った顔が戻ってきた。俺をまっすぐに見るその目には、もうひとかけらのとろみもない。
「……加賀」
呼んでも、返事はない。ただ、まっすぐにこちらを見ている。
何か言わなければ、と思った。あの言葉に、応えなければ。だが──もし、あれが術のせいなのだとしたら。本気で受け取って、本気で返した俺だけが、ひとり、間抜けに取り残される。それが、こわかった。だから俺は、いちばん訊いてはいけないことを、訊いた。
訊いてしまった。
「本当に……催眠に、かかっていたのか?」
加賀は、すぐには答えなかった。
足元に転がった時計に、ちらりと視線を落として、それから、また、ゆっくりと俺に目を戻す。その口の端が、ほんのわずかに、上がった。
見たことのない笑い方だった。柔らかいのに、底が見えない。こちらの足元を、そっとすくい上げるような。世辞ひとつ言わない人だと思っていた。からかいも、はぐらかしも、知らない人だと。ずっと、そう信じて隣に立っていた。その人が、いま、こんな笑い方をしている。
「さあ、どうでしょう」
それだけ言って、加賀は椅子から立ち上がった。
身を屈め、落ちた時計を拾い上げる。何事もなかったように歩み寄って、まだ強張っている俺の手のひらに、それを、そっと握らせた。指先が、一瞬だけ、触れた。冷たくは、なかった。むしろ──と思いかけて、その先を、考えるのをやめた。
「書類の続きは、また明日。……お休みなさい、提督」
背を向ける。いつも通りの、隙のない後ろ姿だった。乱れひとつない。さっきまで、瞼を半分落としていた人と、同じ人とは思えなかった。
扉が、静かに閉まる。
俺は、握らされた時計を見下ろしたまま、長いこと、その場から動けなかった。
かかっていたのか。かかっていなかったのか。あの「お側にいたい」は、縁までほどけた本心が、こぼれ落ちたものだったのか。それとも──術にかかったふりをして、俺をからかっただけ、なのか。
確かめる方法は、たぶん、ない。あの最後の笑みは、答えをわざと俺の手の届かないところに置いていった。明日になれば、この人はきっと、何事もなかった顔で書類を運んでくる。隙のない、いつもの背筋で。そしてきっと、答えを教えてくれることはない。
それでも、と俺は思った。
握らされた時計が、まだ少し、温かい気がした。それが、加賀の手のひらの熱なのか、自分の手のひらの熱なのか──それすらも、もう、分からなかった。
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