あべこべ世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話   作:フェルナンデス

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登場人物は高校2年という設定です。
男女の服装も逆転しています。


悪魔と契約したので美少年を堕とします

 

〈小鳥遊視点〉

 

放課後の教室は、いつも通り騒がしかった。

机を引く音。鞄のファスナーを閉める音。誰かの笑い声。

その全部が、私だけを置いて流れていく。

 

授業中、私はずっと先生の声が頭に入らなかった。

ノートを取るふりをして、何も書けなかった。

 

蛇喰巳波は、今日も教室の中心にいた。

男子用の制服の裾をきれいに揃え、椅子に浅く腰かけている。膝にかかるスカートのラインも、黒いタイツの包まれた細くて長い足も、白いシャツの襟元も、何もかもが妙に整っていた。

 

男子は美しく、清楚で、軽々しく肌を見せない。

 

それが、理想の男性像だった。

だからこそ蛇喰は目立つ。

守られる側であるはずの男子なのに、あの人だけは、守られているというより、周りを従えているように見えた。

いつも通り女子たちに囲まれて、女子たちの武勇伝を聞いている。

 

「それでさ、昨日の練習試合、マジで三人抜きしたんだって!」

 

「絶対盛ってるって!」

 

「ほんとだって! 巳波くん信じてよ~」

 

「えー」

 

蛇喰が頬杖をついて笑う。

 

「どうしよっかな」

 

それだけで女子たちがきゃっと笑う。

 

「ひどっ!」

 

「でも見てほしかったな〜。最後の一本、めっちゃよかったんだから」

 

「それ言うなら私の方がすごかったし!」

 

「はいはい、張り合わないの」

 

蛇喰が軽くたしなめると、また笑いが起こる。

 

女子たちはみんな、蛇喰に見てほしそうだった。

褒められたくて、笑ってほしくて、少しでも自分を印象づけたくて。

 

この世界では、別に珍しいことじゃない。

綺麗な男子は、愛でられる。

強い女子が、選びに行く。

それが普通。

 

でも蛇喰は、少し違った。

愛でられているのに、主導権はいつも蛇喰にある。

誰に笑うか。誰を近くに置くか。誰を少しからかうか。

全部、蛇喰が決めている。

 

私は鞄を抱えた。

昼からずっと、胸の奥に石みたいなものが詰まっている。

息を吸うたび、それが少しずつ重くなる。

なくなった筆箱のことを考えると、指先が冷たくなった。

 

「小鳥遊さん」

 

背中が固まった。

振り返る前から、誰か分かった。

 

朝倉くんだった。

蛇喰の取り巻きのひとり。整った顔立ちで、愛想よく笑うのが上手い男子。蛇喰のそばにいるだけの見た目は持っている。けれど、蛇喰ほど目を引くわけではない。

その後ろに、女子が二人いた。

二人ともニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。

 

「ちょっと話そ?」

 

断れない。

断れば、もっと面倒になる。

ここで騒げば、明日もっとひどくなる。

私は小さくうなずいた。

 

教室を出る直前、ふと視線を感じた。

蛇喰と一瞬だけ目が合った。

蛇喰は全部分かっている顔をしていた。

私がどこへ連れて行かれるのかも。

この後、何が起こるのかも。

 

それなのに、何も言わない。

ただ、女子たちに囲まれたまま、ふっと笑った。

楽しそうに。

まるで、これから始まる劇を見送る観客みたいに。

私はその笑顔から逃げるように、教室を出た。

 

連れて行かれたのは、校舎裏だった。

人の気配がない。

遠くで部活動の声が聞こえるのに、ここだけ世界から切り離されたみたいに静かだった。

朝倉くんが壁にもたれる。

 

「昼さぁ」

 

軽い声。でも目は冷たい。

 

「空気悪くしたよね」

 

女子たちが笑う。

 

「巳波くん困ってたし〜」

 

「被害者ぶるの上手いよね」

 

私は俯いた。

 

「……すみません」

 

反射だった。謝れば終わるかもしれない。

そう思ってしまう自分が嫌だった。

朝倉くんが、わざとらしく首を傾げる。

 

「で、何だっけ。筆箱?」

 

心臓が跳ねる。

 

「……返してください」

 

朝倉くんは笑った。

 

「あー、無理」

 

「……え?」

 

「もうないし」

 

耳の奥で、音が遠くなる。

朝倉くんは楽しそうに続けた。

 

「近くの川に投げちゃった!」

 

女子たちがくすくす笑う。

 

「めっちゃ流れてったよね(笑)」

 

「小鳥遊さん、ああいうの大事にしてそうだったし」

 

頭が真っ白になった。

あれは、ただの筆箱じゃなかった。

小学生の頃、おじいちゃんが買ってくれたものだった。

病室で、白い布団に沈むように寝ていたおじいちゃん。

それでも私が行くと、いつも笑ってくれた。

 

『栞は、こういう落ち着いた色が好きやろ』

 

そう言って渡してくれた、小さな包み。

開けたら、少し大人っぽい筆箱が入っていた。

嬉しかった。

私の好きなものを分かってくれたことが、嬉しかった。

おじいちゃんは、それからしばらくして亡くなった。

だからずっと大事にしてきた。

角が擦れても。ファスナーの動きが悪くなっても。

新しいものを買えばいいと言われても。

捨てられなかった。

それを。

 

「なんで……」

 

声が震えた。

 

「なんで、そんなこと……」

 

朝倉くんは肩をすくめる。

 

「え、そんなに大事だったの?あのボロボロの筆箱が?」

 

女子たちが笑う。

 

「うわ、泣きそうじゃん」

 

朝倉くんが顔を寄せる。

 

「でもさぁ」

 

にやっと笑う。

 

「そんな顔されても困るんだけど」

 

その瞬間、何かが切れた。

気づいた時には、私は朝倉くんを突き飛ばしていた。

 

「っ……!」

 

朝倉くんがよろける。

女子たちの笑いが止まった。私も息が止まった。

やってしまった。

朝倉くんが、ゆっくり顔を上げる。

笑っていない。

それから、わざとらしく目を丸くする。

 

「え、ちょっと待って」

 

信じられないみたいな顔。

 

「さいてーなんだけど」

 

女子たちを見る。

 

「見た?男の子に手出したよ、この人」

 

女子がざわつく。

 

「えー……それはちょっと」

 

「引くかも」

 

私は息が苦しくなる。

違う。そうじゃない。でも言えない。

 

この世界で、男の子に手を上げるということがどう見えるか、私だって分かっている。

男の子は守られる側だ。軽々しく傷つけていい存在ではない。

だからこそ、朝倉くんはそれを分かっていて、その顔をしている。

 

朝倉くんが一歩近づく。

 

「僕、傷ついたんだけど?」

 

一方的な被害者みたいな顔。

でも目は笑っていない。

腕を掴まれる。痛い。

 

「やめ……」

 

「自分からやったんじゃん」

 

怖い。思わずぎゅっと目を閉じた。

 

その時だった。

 

「それはダメかな」

 

静かな声がした。

朝倉くんの手が止まり、私は恐る恐る目を開けた。

 

そこに、ひとり立っていた。

筆箱がとられたとき、教室で私に「どうしたの?」と声をかけた人だった。

 

長身で、制服を少し着崩している。

ネクタイはゆるく、片手をポケットに入れていた。

女の人だ。

整った顔をしていて、綺麗、というより、かっこいい。

同性から憧れられ、男子からはきゃあきゃあ言われるタイプで、私にとって蛇喰と同じで雲の上の存在だ。

 

でも、何かがおかしい。

目だ。

笑っているのに、奥がまるで笑っていない。

獲物を見つけたみたいな、ぞっとする目。

それなのに、口元だけは軽く笑っている。

まるで、この状況全部を"面白い遊び"のように思っている

みたいだった。

 

突然の登場に、朝倉くんが眉をひそめる。

 

「誰?」

 

その人は笑った。

 

「通りすがり?」

 

「えー、何そのノリ(笑)」

 

朝倉くんが困ったように笑う。

まだ“いい子”の顔だ。

 

「関係ないならやめてほしいな。僕、今ちょっと怖いし」

 

女の子は、くすっと笑った。

 

「可愛いね」

 

朝倉くんが一瞬固まる。

 

「……は?」

 

「私の目を見て」

 

自然な声だった。

命令というより、ただ呼んだだけみたいな。

でも。

朝倉くんは、困惑した表情で、女の子を目を見た。

 

目が合う。

ほんの数秒だった。

たぶん、本当に数秒。なのに、すごく長く感じた。

 

朝倉くんの顔から、朝倉くんがいなくなった。

そんな感じだった。

さっきまであった、笑顔も、困惑も、被害者ぶった甘さも。

全部なくなった。

目の焦点が合っていない。

立っているのに、人形みたいだった。

 

「……え?」

 

女子のひとりが、小さく声を漏らす。

その人は、楽しそうに笑った。

 

「あ、入った」

 

軽い声。

まるで、何かの機械がうまく起動したのを確認するみたいな口調だった。

 

「な……何したの?」

 

私の声は、自分でも分かるくらい震えていた。

 

「催眠」

 

あっさり言う。

 

「え?」

 

「人って、案外単純なんだよね」

 

楽しそうだった。

 

「入口さえ見つければ」

 

そう言って、朝倉くんを見る。

 

「右手あげて」

 

すっと右手が上がる。

 

「止まって」

 

ぴたり。

 

女子たちの声が重なる。

 

「朝倉?」

 

「ねぇ、ふざけてる?」

 

「笑って」

 

朝倉くんの口角が、にたりと上がる。

でも目は死んでいる。

笑っているのに、何もない。ぞっとした。

 

「その場で一回転」

 

くるり。

 

男子用制服の裾が、ふわっと揺れる。

 

「拍手」

 

ぱち。

ぱち、ぱち。

 

無表情のまま拍手する。

気味が悪い。本当に気味が悪い。

思わず女子たちが後ずさった。

 

「なにこれ……」

 

「無理無理無理」

 

「やばいって」

 

女の子は楽しそうだった。

 

「ね?」

 

私を見る。

 

「面白いでしょ?」

 

まるで、無邪気な子どもがおもちゃを自慢するかのようにその人は言った。

 

面白いなんて思えなかった。

怖い。

ただ、それだけだった。

 

「朝倉、返事」

 

その人が呼ぶ。

 

「はい」

 

朝倉くんが答えた。

女子たちが小さく悲鳴を上げる。

女の子は少し考えるふりをした。

 

「じゃあ……おすわり」

 

朝倉くんが、その場にすっと正座した。

 

「かわい」

 

くすっと笑う。

女子たちは完全に青ざめていた。

 

「朝倉!しっかりしてよ!もうやだ…」

 

「な、何これ…」

 

「意味わかねーよ!」

 

女の子が、少しだけため息をついた。

 

「うるさいな」

 

声は軽い。でも、その一言で空気が凍った。

女子たちが黙る。

 

「君たち、邪魔」

 

にこっと笑う。

その笑顔が、妙に怖かった。

 

「今日ここで見たこと、全部忘れて」

静かな声だった。

女子たちの目が、ぼんやりする。

 

「……え?」

 

「帰っていいよ」

 

「……うん」

 

「帰る……」

 

私は呆然と見ていた。

二人は、本当に何事もなかったみたいに歩いていく。

一度も振り返らない。

さっきまであれだけ騒いでいたのに。

その背中が見えなくなってから、女の子は小さく笑った。

 

「はい、これで静かになった」

 

それから私を見る。

 

「ここからが本番」

 

その笑顔に、背筋がぞくっとした。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「小鳥遊さんにちゃんと謝ろうか」

 

朝倉くんは、正座したままこくりと頷いた。

 

「土下座して」

 

朝倉くんが迷いなく膝を折り、両手を地面につく。

男子用の制服の裾が汚れる。

さっきまで私を見下していた人が、今は私の前で頭を下げている。

 

「謝って」

 

女の子の声は優しかった。

朝倉くんの額が地面につく。

 

「小鳥遊さん」

 

普段なら絶対に使わないような、妙に丁寧な声だった。

 

「あなたの大切な持ち物を捨ててしまい、申し訳ありませんでした」

 

胸がぎゅっと痛む。

おじいちゃんの顔が浮かんだ。

 

「あなたが嫌がると分かっていて、面白がりました」

 

淡々としている。

感情がないため余計に怖い。

 

「あなたを見下していました」

 

喉が詰まる。

 

「傷つけて、すみませんでした」

 

私は何も言えなかった。

嬉しいわけじゃない。

スッとしたわけでもない。

なのに。

胸の奥のどこかで、ほんの少しだけ、

 

いい気味だ。

 

と思ってしまった自分がいた。

最低だ。

そんなことを思うなんて。

 

「へぇ」

 

女の子が私を見る。

 

「嬉しくない?」

 

「え……」

 

「こういうの」

 

くすっと笑う。

 

「嫌いじゃないでしょ?」

 

顔が熱くなる。

 

「ち、違……」

 

「ふふ」

 

全部見透かされているみたいだった。

女の子は立ち上がり、朝倉くんを見下ろした。

 

「じゃあ次。自分のこと、どう思ってる?」

 

「蛇喰ほど可愛くありません」

 

即答だった。

 

「女子が本気で見るのは蛇喰です」

 

「僕は、そのついでです」

 

「比べられるのが嫌です」

 

「でも媚びれば近くにいられるので我慢しています」

 

私は思わず顔を上げた。

こんなこと普段の朝倉くんなら絶対に言わない。

女の子は楽しそうだった。

 

「素直だね」

 

それから。

 

「蛇喰くんのこと、本当は?」

 

「怖いです」

 

「ムカつきます」

 

「でも逆らえません」

 

「嫌われたくありません」

 

「だから媚びています」

 

女の子が満足そうに頷く。

 

「いいねぇ」

 

ここからは、蛇喰への批判が続いた。

 

「性格悪いです」

 

私は息を呑む。

 

「自己中です」

 

「自分が世界の中心だと思っています」

 

女の子が思わず吹き出す。

 

「うわ(笑)」

 

朝倉くんは止まらない。

 

「ぶりっこです」

 

「自分が可愛いって分かってます」

 

「女子の前だと声が少し高くなります」

 

「寝る時ぬいぐるみ抱いてました」

 

私は固まった。

 

「……え?」

 

朝倉くんは淡々と続ける。

 

「去年の宿泊行事で見ました」

 

沈黙。

 

女の子が肩を震わせる。

 

「待って、それマジ?」

 

「はい」

 

「高二で?」

 

「はい」

 

私は顔が熱くなる。

なんでそんな情報聞かされてるんだろう。

女の子が笑いを堪えている。

 

「やば(笑)」

 

「嫌いな相手にも笑えます」

 

女の子が楽しそうに頷く。

 

「まだある?」

 

「距離感がおかしいです」

 

「気軽に袖を引っ張ります」

 

「首を傾げます」

 

「上目遣いします」

 

「分かってやってます」

 

女の子が笑いをこらえる。

 

「最悪じゃん(笑)」

 

朝倉くんは淡々と続ける。

 

「僕の好きな人を二回取られました」

 

「僕が先に話していました」

 

「頑張って仲良くなろうとしていました」

 

「でも、蛇喰が笑ったら終わりました」

 

「女子の前ではいい子ぶります」

 

「先生の前でもです」

 

私はぞっとする。

 

女の子が目を細める。

 

「結構たまってるねぇ」

 

朝倉くんの口が動く。

 

「蛇喰の笑顔、嫌いです」

 

「嘘っぽいから」

 

「でも女子は騙されます」

 

「ムカつきます」

 

それからも朝倉くんによる蛇喰への批判は続いた。

よく男子社会は陰湿だと聞いていたけど、ここまで陰湿だとは思っていなかった。

 

女の子は少し考えたあと、わざとらしく首を傾げる。

 

「……うーん、せっかくだし」

 

嫌な予感がした。

 

女の子が、朝倉くんの顎を指先で持ち上げる。

 

「君さ」

 

優しい声。

 

「さっき、男の子に暴力って言ってたよね」

朝倉くんは無表情に答える。

 

「はい」

 

「ちゃんと使ってるじゃん」

 

「守られる側の特権」

 

私は息を呑んだ。

 

それは、この世界では確かに通じる言葉だった。

 

男の子は、守られる側。

 

愛でられ、選ばれ、大切にされる存在。

 

軽々しく傷つけていいものじゃない。

 

だから朝倉くんは、さっきそれを使った。

 

"被害者の男の子"として。

 

女の子は楽しそうに言った。

 

「なのにさ」

 

朝倉くんの頬を軽く叩いた。

 

「弱いオスのくせに、強いメスに乱暴しようとするんだ?

本気を出したメス相手には泣くことしかできないくせに、特権を利用して調子にのるんだ?」

 

ぞくっとした。

 

朝倉くんは答えない。

 

「かわいくないなぁ」

 

女の子は笑った。

 

「じゃあ、可愛くしてみようか」

 

嫌な予感が強くなる。

 

「スカート、上げて」

 

意味が、ほんの一瞬だけ分からなかった。

 

朝倉くんの指が、自分の制服の裾にかかる。

そこで理解し、血の気が引いた。

 

男子が、自分から異性の前でそんなことをする。

それは、ただ服を乱すのとは違う。

男性としての尊厳を、自分で投げ捨てるようなものだ。

朝倉くんの指が、ためらいなく布をつまむ。

白い脚が、ほんの少し見える。

息が止まった。

やめて、と思った。

本当に。

 

でも。

ほんの一瞬だけ。

目が離せなかった。

男子の脚を、こんな近くで見るなんて。

そんな自分に気づいて、ぞっとする。

最低だ。

 

「やめて!!」

 

気づいたら叫んでいた。

朝倉くんの指が止まる。

沈黙のあと、女の子がゆっくり私を見た。

それからにやっと笑った。

 

「へぇ」

 

一歩、近づく。

 

「止めるんだ」

 

吐息がかかりそうな距離だった。

 

「……当たり前です」

 

声が震える。

 

女の子は、少しだけ目を細めた。

それから、くすっと笑う。

 

「……あーあ」

 

軽い声。

 

まるで、面白いおもちゃを途中で取り上げられたみたいな。

「そこで止めちゃうんだ」

 

女の子は朝倉くんを見る。

 

「今日ここであったこと、全部忘れて」

 

「はい」

 

「起きて」

 

朝倉くんの目に、ふっと光が戻る。

 

「……え?」

 

きょろきょろする。

 

「僕、なんでここ……?」

 

本当に覚えていない顔だった。

 

女の子はにこっと笑う。

 

「帰っていいよ」

 

「……あ、うん」

 

朝倉くんは困惑したまま去っていく。

私は、その背中を見つめたまま動けなかった。

 

「どう?」

 

女の子が隣に立つ。

 

「便利でしょ?」

 

私は答えられなかった。

怖かった。

でも。

蛇喰の綺麗で残酷な顔が浮かんだ。

もし。もし、この力が蛇喰にも効くなら。

そんな考えが、胸の奥で静かに芽を出していた。

 

「あなたは……何なんですか」

 

ようやく声を出す。

女の子は、少し考えるふりをしたあと、

 

「何だと思う?」

 

「……人間、じゃないんですか」

 

「鋭いね」

 

笑う。

 

「悪魔、って呼ばれることが多いかな」

悪魔。

 

冗談みたいな言葉なのに、なぜかすんなり納得できてしまった。

 

「どうして……私を助けたんですか」

 

そう聞くと、悪魔はきょとんとしたあと、くすっと笑った。

 

「助けた?」

 

まるで変なことを言われたみたいに。

 

「違うよ」

 

「……え?」

 

「君じゃない」

 

悪魔は、嬉しそうに言った。

 

「蛇喰くん」

 

心臓が跳ねる。

 

「昔から見てたんだ。小学生の頃から」

 

背筋が冷たくなる。

 

「泣いてる子をさらに追い詰めて」

 

「先生の前ではいい子ぶって」

 

「自分より弱い子を選んで遊ぶ」

 

目が細くなる。

 

「昔から、可愛い悪い子だった」

 

「でも、そんな悪い子には相応のお仕置きが必要だと思わない?」

 

私は息を呑み、やっと声を出した。

 

「じゃあ……」

 

「あなたがやればいいじゃないですか」

 

悪魔は一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。

 

「私がやっても、つまらないよ」

 

「……つまらない?」

 

「蛇喰くんに一番効くのは、君だから」

 

「私……?」

 

「そう」

 

悪魔は私の前に立つ。

 

「見下してた相手」

 

「どうでもいいと思ってた相手」

 

「泣かせて遊んでた相手」

 

目が細くなる。

 

「その子に負けるのが、一番効く」

 

私は黙りこんでしまった。

蛇喰の笑顔が浮かぶ。

川に流された筆箱。

おじいちゃんの声。

朝倉くんの笑い声。

蛇喰の、あの楽しそうな目。

胸の奥が熱くなる。

でも同時に怖かった。

こんな力を使っていいのか。

人の心を曲げていいのか。

それは、蛇喰たちと同じことではないのか。

 

「契約しようか」

 

悪魔が言った。

 

「……契約?」

 

「うん」

 

「代償は……?」

 

悪魔は少しだけ目を細める。

 

「私を楽しませて」

 

「……それだけ?」

 

その瞬間、悪魔の笑みが深くなった。

 

「それだけ?」

 

ぞっとした。

 

「人間って面白いね。魂とか寿命とか、取られると思った?」

 

声は優しかった。でも、全然優しくない。

 

「そんなもの、いらないかな」

 

悪魔は私の耳元で囁く。

 

「高いところにいる子がさ、初めて足を滑らせる瞬間ってあるでしょ?」

 

ぞくっとした。

 

「自分はずっと喰う側だと思ってた捕食者が」

 

微笑む。

 

「もっと大きな何かに、喰われる瞬間。そういうの、綺麗で好きなんだ」

 

悪魔は私を見る。

 

「君がやるんだよ、小鳥遊栞」

 

私は拳を握った。

 

怖い。

 

間違っている。そう思う。

 

でも。

もう一度、蛇喰の笑顔が浮かんだ。

あの綺麗で、残酷な笑顔。

 

「……本当に」

 

声が震えた。

 

「蛇喰にも、効くんですか」

 

悪魔は、嬉しそうに笑った。

 

「もちろん」

 

夕方の校舎裏で、私は初めて思った。

逃げる以外の選択肢が、あるのかもしれないと。

そしてそれはきっと、取り返しのつかない選択肢だった。

 

 

〈蛇喰視点〉

 

 

正直、退屈だった。

 

「それでさ、最後の1本がほんと神で!」

 

知らない。興味もない。どうでもいい。

どうして女子って、自分の武勇伝をそんなに聞いてほしがるんだろう。

 

「へぇ、すごいね」

 

小さく笑って少し首を傾げる。こうしておけば勝手に喜ぶ。

みんな素直で助かる。少し笑ってあげるだけで、ちゃんと嬉しそうな顔をする。

 

「うんうん、それで?」

 

こうすると、みんな勝手に続きを話し出す。

 

で?ボールを蹴ったとかどうとか、その話の何が面白いの?

 

「でも見てほしかったな〜。最後めっちゃかっこよかったんだから!」

 

知らないし、別に見たくない。なんでそんなに自信が

あるのか。

 

「それ言うなら私の方がすごかったし!」

 

うるさいな…張り合わないでよ、みっともない

 

「はいはい、張り合わないの」

 

くすっと笑う。

その一言で、またみんなが嬉しそうな顔になった。

 

女子って本当に扱いやすい。少し甘い顔をして、少し笑ってあげれば、それだけで勝手に寄ってくる。

少し優しくすると、すぐ懐く。

少し冷たくすると、必死になる。

そういうところが面白い。

 

視界の端で、小鳥遊が朝倉たちに連れて行かれる。

ちらりと見るが、別に止める理由はない。

少し怖い思いをして、またあの顔をしてくれればいい。

あの子は面白い。

ちょっと意地悪をすると、すぐ顔が曇る。

困る。怯える。泣きそうになる。でも、ぎりぎり泣かない。

あの顔が好きだった。

 

どんな顔して戻ってくるのかな?

 

「で、そのあとどうなったの?」

 

適当に相槌を打つ。本当にどうでもいい。

 

 

〈朝倉視点〉

 

 

気づいた時、教室の前に立っていた。

夕方の廊下は、オレンジ色に染まっていた。 窓ガラスに反射した光が妙に眩しくて、何度か瞬きをした。

 

……何してたっけ。

 

頭の中に、薄い霧がかかったみたいだった。

隣を見ると、女子二人が立っている。 さっきまで一緒にいたはずなのに、二人とも妙に静かだった。 

 

「……え」

 

ひとりが、小さく声を漏らす。

 

「私たち……何してたっけ?」

 

思わず眉をひそめた。

 

「知らないよ」

 

言ってから、自分でも変な感じがした。

知らない?

いや、おかしい。

確か、小鳥遊を連れて行った。

そこは覚えている。

筆箱のことを笑った。 あいつが泣きそうな顔をしてた。 少しスカッとして。

その先が、ない。

ぷつん、と途中から切れている。

ぞわっと鳥肌が立つのを感じた。

 

「え、ちょっと待って」

 

もうひとりの女子が青ざめる。

 

「こわ……」

 

「なんか気持ち悪いんだけど」

 

同じだった。

気持ち悪い。

でも、それ以上に嫌な予感がする。

理由は分からない。

分からないのに、"まずい"と思った。

教室の扉を開けた瞬間、その理由が分かった。

蛇喰巳波が、こっちを見ていた。

頬杖をついて、女子たちに囲まれたまま。

いつもの綺麗な顔。

いつもの、柔らかい笑顔。

それなのに。

背筋に、すっと冷たいものが走る。

やばい。本能みたいにそう思った。

 

「おかえり」

 

ふわっとした声。

甘くて優しい、いつもの蛇喰の声だった。

女子二人が明らかに強張る。

反射的に笑顔を作った。

 

「……うん」

 

うまく笑えている自信がなかった。

 

蛇喰が首を傾げる。

 

「どうだった?」

 

どう、って。

 

……何のことだ?

 

「……え?」

 

言った瞬間、しまったと思った。

蛇喰の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。

本当に、一瞬。

でも僕は、それを見逃さなかった。

あ、やばい。何かを間違えた。

蛇喰は、すぐにまた笑う。

 

「え?」

 

くすっと笑う。

怒ってない。

全然怒ってない。

なのに、喉が急に乾いた。

 

「小鳥遊」

 

優しい声。

 

「ちゃんと泣いた?」

 

その瞬間、頭の奥がざわついた。

小鳥遊。

そうだ。

あいつを泣かせに行った。そこまでは覚えてる。

でもその先がない。

 

「……その」

 

声がうまく出ない。

女子のひとりが慌てて口を開いた。

 

「な、なんか変だったの!」

 

声が裏返っていた。

 

「ほんと! 気づいたら戻ってて……!」

 

蛇喰はその子を見て、にこっと笑う。

 

「そうなんだ」

 

責める声じゃない。

優しい。

なのに、その子の顔がみるみる歪んでいく。

 

「ご、ごめ……」

 

泣きそうだった。

もうひとりの女子が慌てる。

 

「ちょ、泣くなって!」

 

でも本人も顔色が悪い。

蛇喰は少し目を丸くした。

 

「え?」

 

本当に不思議そうな顔。

 

「なんで泣くの?」

 

優しい声だった。

それが逆に怖かった。

泣きそうだった女子が、とうとうぽろっと涙をこぼす。

 

「だ、だって……っ」

 

「なんか、怖くて……」

 

胃がぎゅっと縮む。

蛇喰は、そんな彼女を少し見つめてから、くすっと笑った。

 

「変なの」

 

その言い方が優しすぎて、余計に怖い。

蛇喰の視線が、また僕に戻る。

 

「朝倉くん」

 

甘い声。

それだけで、心臓がどくっと跳ねた。

「覚えてない?」

僕は、小さくうなずいた。

蛇喰は少し目を丸くする。

 

「へぇ」

 

本当に不思議そうだった。

 

「珍しいね」

 

蛇喰は静かに立ち上がった。

その動きだけで、全身が強張る。

近づいてくる。

ゆっくり。

逃げる理由なんてない。

なのに、逃げたくなる。

蛇喰は目の前で止まった。

近い。

ふわっと甘い香りがした。

綺麗だ。

こんな時なのに、そう思ってしまう。

悔しいけど、誰だって見惚れる顔だった。

女子たちが夢中になるのも分かる。

でも今は、その綺麗さが怖かった。

蛇喰は少しだけ首を傾げる。

それから、僕の顔を下から覗き込むようにして、じっと目を見た。

 

「……ほんとに覚えてないの?」

 

優しい声だった。

僕は息を止めた。

逃げたい。

でも目を逸らしたら、もっとまずい気がする。

蛇喰は、僕の顔を観察するみたいに見つめる。

 

「嘘ついてる顔じゃないね」

 

くすっと笑う。

その言い方が、妙にぞっとした。

 

「僕、君のこと結構好きだったんだけどな」

 

頭が真っ白になる。

 

好き。

 

その言葉に、一瞬だけ胸が浮く。

でも次の瞬間には、もっと深いところに沈む。

全然嬉しくない。むしろ、ぞっとする。

蛇喰は優しく続ける。

 

「可愛いし、気が利くし、僕が何してほしいかちゃんと分かってくれる子だと思ってた」

 

褒められている。

そのはずなのに。

肩が、小さく震えている。

怒鳴られる方がマシだった。

責められる方がまだ分かりやすい。

でも蛇喰は怒らない。

優しい。

優しいまま、じわじわ締めてくる。

 

「ちゃんとやるつもりだったんだよね?」

 

僕は反射でうなずいていた。

 

「……うん」

 

蛇喰が安心したように笑う。

 

「そっか。よかった」

 

その一言に、少しだけ救われる。

けれど。

 

「じゃあ」

 

蛇喰が柔らかく続けた。

 

「どうしてできなかったの?」

 

呼吸が止まる。

分からない。

本当に分からない。

なのに、それを言うのが怖かった。

蛇喰は、ただ不思議そうに見ている。

その顔が、一番怖かった。

 

 

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