あべこべ世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話 作:フェルナンデス
小鳥遊 栞(たかなし しおり)
蛇喰 巳波(じゃばみ みなみ)
〈小鳥遊視点〉
朝、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井、カーテンの隙間から差し込む朝の光、 枕元の時計。
見慣れた自分の部屋なのに、妙に現実感がなかった。
昨日のことが、あまりにも現実離れしていたからだ。
校舎裏の出来事、催眠、 悪魔、そして契約。
本当は夢だったんじゃないか。いつも通り学校が終わって、一人で真っ直ぐ家に帰って、学校が楽しいと親に嘘をついて、憂鬱な気持ちで眠りにつく。
そう思いかけた、その時だった。
『起きた?』
びくっと身体が跳ねた。
耳元じゃないし、部屋のどこかでもないが、近くでもない。
頭の奥だった。
「っ……!?」
飛び起きて 勢いよく周りを見回すが誰もいない。
机。 カーテン。 制服。 昨日脱ぎ捨てた靴下。
いつもの朝の景色しかない。
『失礼だなぁ』
くすっと笑う声。
間違いなかった。
昨日の、あの声。
布団をぎゅっと握りしめた。
「……どこ」
『どこって?』
楽しそうだった。
『君の中』
「……は?」
『契約したでしょ?』
ひどく軽い口調だった。
まるで「昨日コンビニ行ったよね?」くらいの軽さだ。
昨日の記憶がよみがえる。
悪魔が笑いながら耳元で囁いた声。
その時。
額に触れられた気がした。
ひやっと冷たくて何かが頭の奥に滑り込んできたような、気持ち悪い感覚。気付いた頃には、悪魔の姿はなかった。
あれは錯覚じゃなかった。
「……ほんとに?」
『ほんとに』
「……勝手に入ってこないでください」
『やだ』
即答だった。
『安心して』
悪魔が笑う。
『今のところ、勝手に身体を動かしたりはしないから』
今のところ。その言葉に、背筋が冷えた。
「……今のところ?」
『うん。気分が変わったら分かんないけど』
「最悪……」
『契約したじゃん』
それを言われると何も言えない。
私は深くため息をついて、制服に着替え始めた。
『へぇ。真面目だね』
「学校あるので」
『休めば?』
「無理です」
『蛇喰くんも朝倉くんもいるのに?』
手が止まった。
悪魔がくすっと笑う。
『顔ひきつってるよ?』
最悪だった。
───
登校しても、ずっと落ち着かなかった。
靴箱で靴を履き替えていても。 廊下を歩いていても。ずっと頭の奥に誰かがいる。
気持ち悪い。
『そんな嫌がらなくても』
「黙って」
小さく呟くと、通りすがりの生徒に変な目で見られた。
『あは』
笑ってる。
最悪だ。
教室の扉を着くと、私は深呼吸をして扉を開けた。
朝倉くんがいた。
普通に。
昨日のことなんてなかったみたいに、友達と話して笑っている。
『ほら』
悪魔が囁く。
『ちゃんと忘れてる』
私は立ち尽くした。
本当に?
昨日あんなことがあったのに?
その時。
朝倉くんがふとこちらを見た。
一瞬だけ、目が合う。
その瞬間。
ほんの一瞬、朝倉くんの顔が強張った。
それからすぐ、目を逸らした。
『見た?』
悪魔が楽しそうだった。
「……なんで」
『ん?』
「覚えてないんじゃ……」
『覚えてないよ』
「じゃあなんで」
『身体が覚えてるんじゃない?』
軽い声。
『怖かったんでしょ』
何も言えなかった。そんなこともあり得るのか。いや、悪魔が言ったことだ。本当は全部嘘なんじゃないか。
『ああ、そうだ』
悪魔が思い出したように言う。
『朝倉くんにはもう一つ催眠かけてるし』
「……え?」
『一回だけ』
楽しそうだった。
『蛇喰くんに逆らうようにしてある』
私は足を止めた。
「……は?」
『面白いじゃん』
ぞっとした。
「そんなこと……」
私は言葉を失った。
『楽しみだね』
悪魔がくすっと笑う。
───
「小鳥遊さん」
聞きたくない声に私は肩を跳ねさせた。
蛇喰巳波。
朝の光の中でも、相変わらず綺麗だった。
整った顔。 白い肌。 きっちり着こなした制服。
女子たちが妄想する、理想の男子像を体現したような人。
芸能事務所の人が見たら、絶対放っておかない顔だと思う。性格さえまともなら。
正直、そこらのアイドルよりよっぽど整っていると思う。そう思ってしまうのが悔しかった。
「大丈夫?顔色悪いよ?」
優しい声にドキッとするが、私は昨日の笑顔を知っている。
『ほら』
悪魔が囁く。
『君の標的』
蛇喰が少し首を傾げた。
「どうしたの?」
蛇喰が私のところに向かってくる。近い。近すぎる。
男の子とこんな距離で話したことなんて、ほとんどない。
ふわっと甘い香りがして、頭が真っ白になる。
私は反射的に一歩下がった。
蛇喰の目が、ほんの少しだけ細くなる。
『あ』
悪魔が笑う。
『君がそんな態度とるから嫌われたと思ってる』
蛇喰はすぐに笑った。
「ごめん、近かった?」
何も知らないみたいな顔が余計に怖かった。
───
昼休み。
私はできるだけひとりでいたかった。
でも悪魔は静かにしてくれない。
『話しかけなよ』
「無理」
『試してみようよ』
「嫌」
『小さくでいいから』
「怖い」
『君、昨日より冷たくない?』
うるさい。
その時だった。
「朝倉くん、お手洗いに行こう?」
蛇喰の声だ。
男子って、どうしていつも連れ立ってお手洗いに行くんだろう。 私にはずっと分からない。
朝倉くんが反射的に立つ。
でも、途中で止まった。
朝倉くん自身も、驚いた顔をしている。
蛇喰が瞬きをする。
「……朝倉くん?」
朝倉くんの顔が歪む。
何かと戦っているみたいだった。
そして。
「……一人で行けば?」
言った瞬間、朝倉くん自身が一番驚いた顔をした。
そして、蛇喰の笑顔が一瞬だけ消えた。
本当に一瞬だけ。
でもその顔は、 “驚いた”じゃなかった。
“不快”だった。
自分の思い通りにならないものを見る顔だった。
『入ってるねぇ』
悪魔が嬉しそうに笑っている。
蛇喰はすぐに微笑むと、
「そっか」
優しい声。
「そうだね」
でも、私は見た。
目だけが、笑っていなかった。
朝倉くんの顔が真っ青になる。
その瞬間初めて思った。
蛇喰の世界が、ほんの少しだけ揺れたのかもしれないと。
──
昼休みの職員室は、思っていたよりずっと騒がしかった。
電話の音。コピー機の音。先生たちの会話。
誰かが部活動の予定を確認していて、別の先生はパンを急いで食べている。
教師ってもっと静かに仕事をするものだと思っていたけど、実際は全然違う。
毎日が戦場みたいだった。
それでも私──佐伯 ひかりは、少し楽しかった。
忙しくて、覚えることばかりで、失敗も多くて。 毎日反省ばかりしているけど。
それでも、“先生”って呼ばれるのは、まだ少し嬉しい。
「佐伯先生」
隣の席の先輩教師が笑った。
「すごい顔してるよ?」
「えっ」
思わず自分の頬を触る。
「そんなひどいですか?」
「初々しいって意味」
からかわれて、思わず笑ってしまう。
「いや〜……もう毎日必死です」
「最初はみんなそうよ」
優しく言われて、少しほっとする。
私はお茶をひと口飲んでから、ふと思い出したように言った。
「でも、助けられてることもあるんです!」
「へぇ?」
「蛇喰さんっているじゃないですか」
先輩が「ああ」と笑った。
私は思わず少し身を乗り出した。
「すごくしっかりしてません?提出物ちゃんとしてるし、授業態度も落ち着いてるし……」
それだけじゃない。
「あの子、すっごく優しいんですよ!この前、女子たちがちょっと騒がしくなった時も」
あれを思い出す。
初めて教壇に立ったとき、女子たちが盛り上がっていて、なかなか静かにならなかった。 私はどう注意しようか迷っていた。
強く言いすぎても空気が悪くなる。 でも放っておくのも違う。
そんな時。
蛇喰くんが、小さく困ったように笑って、
『もう、みんな。先生困ってるよ?』
そう言っただけで、女子たちが一気に静かになった。
正直、驚いた。
私が言ってもああはならなかったと思う。
「すごいなって思って」
つい本音が出る。
「ちゃんと周り見てるんだなって」
その時だった。
「あの子?」
低い声がした。
振り向くと、学年主任の三浦先生が立っていた。
五十代後半。 背は高くないのに、不思議と存在感のある人だった。
いつもきっちり髪をまとめていて、生活指導の先生らしい隙のなさがある。
怒鳴るタイプじゃない。
でも、この人に静かに名前を呼ばれる方がよほど怖い、と生徒たちはよく言っていた。
私は少し背筋を伸ばす。
「はい。蛇喰くんです」
三浦先生は少しだけ眉を上げた。
「……へぇ」
何だろう。 その反応。
私は少し首を傾げる。
「すごくいい子ですよね?」
そう言うと、三浦先生はコーヒーをひと口飲んでから静かに言った。
「新任のうちは、ああいう子に助けられるのよ」
私はぱっと明るくなる。
「ですよね!」
ほっとした。
やっぱりそうなんだ。
「でもね、“助かる”と“信用していい”は別」
私はきょとんとした。
「え?」
三浦先生は私を見る。
「ああいう“できすぎた子”は少し気をつけなさい」
意味が分からなかった。
「蛇喰くんが、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
だって、本当にそう見えない。
三浦先生は肩をすくめた。
「本当にいい子なら、それでいいのよ」
少し間を置く。
「でも、中には違う子もいる」
三浦先生はコーヒーを置いた。
「大人の前では完璧な優等生」
「礼儀正しくて、気が利いて、空気が読める」
静かな声だった。
「でも、見えないところでは“まさか”ってことを平気でする子もいるの」
ぞくっとする。
「……蛇喰くんが、ですか?」
思わず聞いてしまう。
三浦先生は肩をすくめた。
「知らないわよ」
即答だった。
「証拠なんてない」
「ただ——」
少し目を細める。
「私は、ああいう“できすぎた子”を最初から信用しすぎないようにしてるだけ」
「ああいう子ってね」
「大人に褒められる方法を知ってるのよ。どう振る舞えば安心されるか。どんな顔をすれば“いい子”に見えるか。それを、考えなくてもできる子がいる」
私は戸惑った。
正直、ちょっと極端だと思った。
そこまで言う?
たしかに完璧すぎる感じはあるけど。
でも、それだけでそんなふうに疑うのは。
……勘ぐりすぎじゃない?
そう思ってしまった。
午後。
プリントを持って廊下を歩いていた時だった。
「佐伯先生」
柔らかい声だった。
顔を上げると、蛇喰くんが立っていた。
思わず足が止まる。
……やっぱり、整っている。
毎日学校で見かけているはずなのに、ふとした瞬間に驚かされる。
女子生徒たちが騒ぐのも無理はないと思った。
芸能人みたい、というのは少し安っぽい気がする。 もっとこう、作り物みたいに整っている。
白い肌。 癖のない綺麗な髪。 すっと通った鼻筋。 柔らかい自然な笑顔。
“美少年”なんて言葉、現実で使うことがあるんだ、と一瞬思ってしまう。
教師として、それはどうなんだろうとも思う。
でも、そう見えるものは仕方なかった。
「お疲れさまです」
にこっと笑う。
自然すぎる笑顔だった。
「あ、お疲れさま」
声がほんの少し上ずる。
自分で気づいて、内心で慌てた。
生徒に対してお疲れさまなんて、普通いわないでしょ!
蛇喰くんの視線が、私の持っているプリントに落ちる。
「配布物ですか?」
「うん、一組に」
「大変ですね」
少し困ったように笑う。
「女子、騒がしいですよね。すみません」
「え?」
「最近みんな元気で。先生、ちゃんと注意しようとしてるの分かるんですけど」
その言葉に、胸がちくっとした。
そんなところまで見てくれていたんだ。
「あ……」
うまく言葉が出ない。
蛇喰くんが少し首を傾げる。
女子たちが騒ぐ理由が、少しだけ分かってしまって嫌だった。
ああいう仕草が、全部自然なのだ。
「先生」
少し近づく。
ふわっと、男子特有の甘く清潔な香りがした。
生徒にこんなことを思うなんておかしい。
でも、不意打ちだった。
「最近ちゃんと寝れてます?」
「え?」
「顔に出てるから」
柔らかく笑う。
どくん、と心臓が跳ねた。
本当に、一瞬だった。
でも確かに跳ねた。
何それ。私は教師だ。相手は生徒だ。
そういう意味じゃない。 絶対に違う。
ただ、不意を突かれただけ。
そう自分に言い聞かせる。
「だ、大丈夫!」
思ったより大きい声が出た。
蛇喰くんがくすっと笑う。
「ならよかった」
「佐伯先生」
蛇喰くんが、妙にしおらしい。
それから、まっすぐ私を見て言った。
「先生のこと、好きです」
思考が止まった。
……え?
一瞬、本当に時間が止まった気がした。
心臓がどくっと大きく跳ねる。
え、ちょっと待って。
今、なんて?
好き?
好きって、あの、そういう?LOVEっていうあれ?
顔が熱くなるのが自分でも分かった。
いやいやいやいや。
何考えてるの私。
相手は生徒。 しかも男子高校生。俗に言うDKだ。
ありえない。
絶対に違う。
そう思った次の瞬間。
蛇喰くんがふっと笑った。
「いつも頑張ってるから」
「……あ」
一気に力が抜ける。
そういう意味。
そりゃそうだ。
当たり前だ。
何を勘違いしてるんだ私は。
……なのに。
ほんの一瞬だけ。
少しだけ、残念だと思ってしまった。
――いやいやいや!?
待って待って待って。
ダメでしょ!!
私は教師!! 相手は生徒!!
何考えてるの本当に!?
自分で自分に全力でツッコミを入れる。
蛇喰くんは、そんな私の内心なんて知るはずもなく、くすっと笑っている。
その笑顔が妙に余裕たっぷりに見えて、少し悔しかった。
蛇喰くんは軽く会釈して去っていく。
私はその場でひとり、意味もなく背筋を伸ばした。
……危ない。
いや、何が?
自分でもよく分からない。
でも、少しだけペースを乱された気がした。
そう思った、その時だった。
少し先で、蛇喰くんが立ち止まる。
視線の先には、小鳥遊さん。
蛇喰くんの口元が、ゆっくり動いた。
それは笑顔に見えたけと、さっき私に向けていたものとは違った。
ぞくり、とした。
優しい笑顔じゃない。
もっと、意地の悪い。
獲物を見つけたみたいな。
そんな笑みだった。
ほんの一瞬だった。
気のせいかもしれない。
でも。
さっきまで私の前にいた“いい子”と、同じ顔には見えなかった。
まるで、小さな虫を瓶に閉じ込めて、じっと弱っていくのを眺める子どものような。
三浦先生の言葉が頭をよぎる。
"ああいうできすぎた子は少し気をつけなさい"
私は、その場からしばらく動けなかった。