あべこべ世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話 作:フェルナンデス
眠れない。
時計を確認すると、時刻は1時30分だった。しばらく目を閉じる。何度目かの寝返りを布団の中で打ち、再び時計を確認する。2時ちょうど。全然時間が進んでいないじゃないか。
「羊が一匹、羊が二匹、蛇喰が三匹、蛇喰が…だめだ、全く眠れない…」
……本当に上手くいくのだろうか?昨日、朝倉くんたちにかけた催眠は解けないのか?解けないとして、朝倉くんたちはちゃんと言われた通りに動くのだろうか?先生は信じるのか。蛇喰はどんな反応をするんだろう?
…だめだ、考えるな。とにかく今は眠らないといけない。…無理だった。興奮が覚めない。遠足前の小学生みたいだ。いや、違う。これは嫌な興奮だ。期待と不安がぐちゃぐちゃに混ざっている。
『いろいろ思いつつ、楽しみなんでしょ?』
暗闇の中で悪魔が笑った。
「…違う」
『じゃあ怖いんだ?』
「…怖いよ」
『あらら、図星だった(笑)ま、怖いのも当然だよ。でもね、もっと気楽に構えなよ。きっと楽しい1日になるよ。…君と私の目標はもうすぐだ。最後まで駆け抜けようじゃないか』
胸がどくりと鳴った。…見たい。
蛇喰が困る顔を。
蛇喰が泣く顔を。
後悔する顔を。
そして、私が受けた痛みを知ってほしい。
『ね?復讐したいんでしょ?じゃあ早く寝なよ。大事なところを見逃しちゃうよ?』
悪魔は楽しそうに言うが、私は遊びでやる訳じゃない。
でも、蛇喰の焦る顔を想像すると、少しだけ気持ちが軽くなった。
その夜、結局ほとんど眠れなかった。
〈蛇喰視点〉
朝はいつも通りだった。鏡の前に立ち、寝癖を整えながら鏡に微笑みかける。
…うん、今日も可愛い。
「みなみー、早く食べないと遅れるよー!」
キッチンからパパの声が聞こえた。
「はーい!今行くー」
今日も完璧だ。
朝の満員電車は、不快な熱気と湿気に満ちていた。
学校指定のブレザーにスカート。
周囲の男子生徒たちと何一つ変わらない制服を身に纏っているはずなのに、僕へ向けられる視線だけはいつだって異質だった。ガタゴトと鈍い音を響かせながら電車がホームへ滑り込みドアが開く。
人の波が吐き出される。
その雑踏の中で、一人の中年女性と目が合った。
…またか
女性の視線が僕の顔で止まる。そこから首筋へ。肩へ。
ブレザー越しの身体のラインへ。
まるでショーケースの商品でも眺めるような目だった。
僕が少し身を翻して並び直すと、今度は背中、そして尻へ視線が移る。
見なくても分かる。こういう視線にはもう慣れた。
高校へ入学し、電車通学が始まったばかりの頃は嫌悪していた。気持ち悪かった。けれど。
人間というのは不思議なもので、どんな環境にも慣れてしまう。今では何も感じないし、むしろ理解している。
この顔は強力な武器だ。
世の中には様々な才能がある。
頭脳。運動神経。話術。芸術的才能。
その中で僕は、人を惹きつける容姿を持って生まれただけ。
それだけの話だった。
好きなだけ見ればいい。どうせお前じゃ届かない。
不快感が消えたわけじゃないが、それ以上に優越感の方が大きかった。女性はおそらく会社員だろう。
毎朝同じ電車に乗り、同じ会社へ向かい同じような日々を繰り返している。無意味な人生だ。
一方で僕は違う。学校へ行けば誰もが僕を見る。先生は信頼する。生徒は慕う。
敵対する人間はいても、最後には僕の方が上へ立つ。
そういう人生だった。
だから僕は視線を無視して堂々と背筋を伸ばした。
授業は退屈だった。窓の外では体育でソフトボールをしている。そっちのほうが面白そうだ。黒板には数式を佐伯先生が一生懸命板書している。もっとも、内容そのものは塾で一か月以上前に終わっているから、今さら聞く必要もない。
「えっと……ここ、大事だから線引いておいてください」
…無能教師
塾の講師の方がよほど分かりやすい。
こんな授業で給料を貰えるんだから楽な仕事だ。
適当に相槌を打ちながら時間が過ぎるのを待つ。
ふと前の朝倉を見ると、珍しく静かだった。いや、静かというよりどこかぼんやりしている。
昨夜遅くまで彼女と電話でもしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、朝倉がゆっくり振り向き、こちらを見た。それが少し不気味だった。
いつもならもっと感情がある。
ふざけた顔や面白がる顔、媚びる顔。
でも今は違う。何もない。空っぽだ。まるで人形みたいだ。
「……?」
僕は小さく眉をひそめる。
その瞬間。
ガタン。
椅子が倒れそうな勢いで引かれた。
突然のことに、教室中の視線が朝倉に集まった。
朝倉がゆっくり立ち上がっている。
先生も驚いていた。
「えっと…朝倉くん?どうかした?」
朝倉は先生を見ると、感情のない声で言った。
「先生。お話があります。」
教室の空気が変わる。
「…?どうしたの?何か分からないところがあったのかな?」
「蛇喰巳波についてです」
いきなり僕の名前が出てきて、クラス中の視線が僕に集まった。
…なんだろう。急に。
嫌な予感がした。朝倉はこちらを見ず、ただ前だけを向いている。そして静かに口を開いた。
「僕は今から蛇喰巳波がやってきたことを全部話します」
…は?いきなり何を言い出すかと思ったら、朝倉は頭がおかしくなったのか?意味不明な冗談だ。
「と、突然何言い出すの?朝倉くん?大丈夫?」
先生が朝倉を心配するが、朝倉は無表情のまま続けた。
「一年の6月。購買のメロンパンを、先に取っていた田中から奪いました」
……は?
ぷ、と誰かが噴き出した。何人かがくすくす笑い出す。
なんだそれ。
僕も少し拍子抜けしていた。朝倉が大げさに椅子を引いて立ち上がるからどんなことかと思ったら。先生も困った顔をしている。
「え、えっと……朝倉くん、それは確かに良くないけど、今ここで急に……」
「8月の林間学校で、蛇喰に言われて他の班の食材を少し使いました。田村班のカレーのじゃがいもと、玉ねぎです」
「「それうちらのカレーじゃん!!」」
女子二人が同時に立ち上がった。教室がどっと湧く。笑い声。誰かが「マジかよ」と言い、また笑いが起きる。
……余裕だ。
僕は内心で息を吐いた。この程度なら笑い話で終わる。むしろこんなことで騒いでいる連中の方が幼稚に見える。朝倉も馬鹿だ。何が目的か知らないが、僕を売るつもりらしい。それならたかが知れている。そう思っていた。
ところが。
「一年の10月、白井波瑠を孤立させました」
その名前に出た瞬間、教室の笑いが、すうっと引いた。
白井波瑠。その名前を覚えている生徒は多かった。突然学校に来なくなった生徒だ。だってそいつは……
「蛇喰の指示で、学校中から嫌われるよう噂を流しました。援交している、女漁りが激しい、万引きをしている。そういう噂です。理由は蛇喰が気に入らないからです」
……白井
別に怖くはない。あいつはもういない。学校にも来ていない。証拠もない。朝倉が噂を流したと言っても、指示したという証拠がどこにある。そう、頭では分かっていた。
でも、教室の空気が変わるのが分かった。さっきまでカレーの話で笑っていた連中が、誰一人声を出していない。
白井波瑠という名前には、そういう重さがある。
あいつが来なくなってからもうしばらく経つ。でも覚えている生徒は多い。なぜなら白井は——友達が多かった。賑やかで、目立って、自然と人を寄せ付けるような、そういう存在だった。だから消した。うざかったから。目障りだったから。
たったそれだけの話だ。後悔はない。
……そう。
ないはずだった。
でも今、朝倉が「気に入らないから」と言った瞬間、数人がこちらを見た。その目が、さっきまでと違った。
面白がる目じゃない。引いている。
……別にいい。どうせ証拠はない。
でも笑顔が作れなかった。
「二年の4月。蛇喰に言われて、伊藤さんがカンニングしているのを見たと瀬川先生に報告しました。嘘です。僕は見ていません。蛇喰に報告する内容を教えてもらって、そのまま話しました」
教室の温度が、また一段下がった。
伊藤。その名前に、数人が息を飲む音がした。去年、カンニングの疑いで部活の大会に出られなかった。ずっと本人は否定していた。
「先生への嘘の報告は僕がやりました。でも指示したのは蛇喰です」
「ちょっと待って」
気づいたら、声が出ていた。
教室中が僕を見た。いつの間にか、僕は立ち上がっていた。自分でも気づかなかった。
……まずい。感情的になるな。いつも通りにしろ。
「朝倉くん」
僕は笑顔を作ろうとしたが、できているかどうか分からなかった。
「それ、僕が頼んだって、証明できるの?」
朝倉はこちらを見なかった。何か言いもしない。
そうだ。証明できない。全部朝倉の言葉だけだ。
僕は少し息を整えて、笑顔を作った。今度はちゃんと作れた気がした。
「嘘つくのはやめてもらえるかな?僕に何か恨みでもあるの?」
教室がざわつく。数人が僕を見て、朝倉を見て、また僕を見た。
そう。これでいい。朝倉が一方的に喋っているだけだ。おかしいのは朝倉の方だ。
流れが戻ってくる感覚があった。
「先生も聞いてましたよね。証拠も何もない話を急に——」
ガタン!椅子が引かれる音がした。それも一つじゃない。見ると、朝倉に続いて何人かの女子が立ち上がっている。
今度はいったいなんなんだ…?
「私も見てました」
その顔を見て、僕は息を飲んだ。
空っぽだった。
朝倉と同じだ。感情がない。いつもなら僕の顔色を読んで、僕が不快そうにすれば黙る子だ。なのに今は、まるで僕が見えていないみたいに、ただ前だけを向いている。
「伊藤さんのこと。朝倉くんが先生のところに行く前に、蛇喰くんと話してるの聞こえてました」
また音がした。
「白井くんに対して噂を流すよう指示する蛇喰くんを見たことがあります。LINEにも指示がきたので証拠は出せます」
今度は別の女子が証言をする。
一人、また一人。
僕は立ったまま、その光景を唖然と見ていた。
笑顔が、もう作れなかった。これ以上、自由に喋らせるわけにはいかない。
「…先生」
僕は先生を見た。声を落ち着かせるように、ゆっくりと。
「なぜ止めないんですか。朝倉くんたちの様子がおかしい。保健室に連れていった方がいいと思います」
先生は明らかに困惑していたが、それでも職務的に朝倉の方へ歩き始めた。
「そ、そうだね……みんな、一旦落ち着こうか。先生と一緒に——」
「先生も聞いてください」
朝倉が先生をまっすぐ見た。
空っぽの目で。
「先生に関係することも、あります」
先生の足が止まった。
「……え?」
「一年の終わり。蛇喰は瀬川先生の風俗通いを見つけて、それをネタに成績を操作させました。僕はそのやり取りを隣で聞いていました」
先生の顔から血の気が引いた。
教室が完全に静まり返った。
終わりだ、先生も使えない。
もうこの場に味方はいない。
もう取り繕う余裕はなかった。朝倉の腕をつかんで、無理やり黙らせようとした。
その瞬間。
強い力で手を払いのけられ、そのまま体ごと押し返された。
足がもつれ体勢を立て直せなかった。
ごん、と鈍い音がした。
冷たい床に頬がついている。激しい痛みを感じ体を起き上がらせると何かが、こめかみのあたりから頬を伝うのが分かった。
ぽたりと、赤い雫が床に落ちた。
「——っ、蛇喰くん!?」
「血!血が出てる!」
「先生!早く!」
悲鳴が遠くに聞こえた。
その時。
目の前に小鳥遊の机が見えた。そして、視線を感じる。
顔を上げると小鳥遊がいた。
騒然とする教室の中で彼女だけが静かに席に座っていた。
驚いていないし慌てもしていない。
まるでこうなることを知っていたみたいに。
その瞬間。馬鹿げてると思うのに、胸の奥で何かが警鐘を鳴らしていた。
そして。
小鳥遊栞という存在を怖いと思った。
小鳥遊…まさか、こいつが…?…いや、ありえない!
しかし、僕はどうしてもこいつが無関係だと思えなかった。