あべこべ世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話 作:フェルナンデス
朝のホームルームが始まる前だった。
「ねぇ聞いた?今日蛇喰くん来るらしいよ」
近くの席の男子が小声で言った。
「え?まじ?」
「まじまじ。友達が駅で見かけたらしい。でも何か雰囲気ヤバかったらしいよ」
話はあっという間に教室に広まった。教室のあちこちで同じ名前が呟かれる。
蛇喰巳波が1ヶ月ぶりの登校。私は席に座り、何気ない顔でその話を聞いていた。聞いていないふりをしながら。
『楽しみだね』
「……別に」
『またまた』
「楽しみじゃない」
本当だった。少なくとも、自分ではそう思っていた。
この1ヶ月は本当に平和だった。陰口を言うために集まるグループもない。誰かの鞄が消えることもない。みんなが普通に笑っていた。だから正直に言うと、蛇喰がこのまま学校に来なければいいのにと思った。もう終わったことにしたかった。悪魔は退屈そうだったけど。けれど。あの日からずっと、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。蛇喰の怪我は私の催眠のせいだ。だから、学校に来ることが分かって少しだけほっとしている自分がいた。
蛇喰が教室に入ってきたのは、ホームルームの直前だった。
最初に気付いた子が小さく息をのんだ。それが伝染するように、教室の空気が変わった。
蛇喰は痩せていた。1ヶ月前よりも明らかに。頬が削げて、首が細くなって、制服が少しだけ浮いて見えた。肌の白さだけは変わらないのに、血の気がなくて蝋みたいだった。目は以前みたいな自信も、余裕も、傲慢さもない。ただ、暗い光だけが残っていた。
そして、こめかみに残る、一本の線。あの日の傷だ。きれいな顔に、薄い桃色の線が、白い肌を切り裂くように走っていた。
蛇喰は前を向いたまま、誰とも目を合わせず、まっすぐ自分の机へ歩いた。そして、椅子を引いて座る。それだけだった。
『あの傷、残ったんだ』
悪魔が静かに言った。私は何も答えなかった。答えられなかった。あの傷を見るたびに。胸の奥が少しだけ痛んだから。
ホームルームが終わると、朝倉くんが蛇喰の席へ向かった。
恐る恐る、まるで野生動物に近づくみたいな歩き方だった。
周囲の生徒たちも気付いていたけれど、誰も口を挟まない。
みんな遠巻きに様子を見ていた。朝倉くんが何かを言う。
距離があったから聞こえない。でも、蛇喰の反応は見えた。
驚くほど穏やかだった。
怒りも、恨みも、責める様子もない。
ただ静かに首を横へ振る。そして何かを言った。
その瞬間、朝倉くんの肩から力が抜けた。
今までずっと張り詰めていたものがようやく解けたみたいに。
朝倉くんは小さく頭を下げ、蛇喰も小さく頷いた。
たぶん、謝ったんだと思う。
心配をかけてごめん。あるいは、気にしなくていい。
そんな言葉だったのかもしれない。
朝倉くんはしばらく話したあと、自分の席へ戻った。
席に着くと、一度だけ目元をこすった。
泣いているようにも見えた。私はそれを、自分の席から見ていた。
ただ。少しだけ分からなくなっていた。本当に私が知っている蛇喰巳波はどちらだったのだろうと。
昼休みになった。教室が一気に騒がしくなる。椅子をひく音や、弁当箱を開ける音、誰かの笑い声。いつもほぼ変わらない昼休みだった。違うのは一つだけ。蛇喰が孤立しているということだった。
私は自分の席からその様子を見ていた。
蛇喰は席に座ったまま動かない。弁当箱も開けていなかった。ただ、ぼんやり外の景色を眺めている。
以前なら違った。昼休みになると自然と人が集まり、いつも中心には蛇喰がいた。それが当たり前だったが今は違う。
誰も蛇喰に近づこうとしない。まるでそこに壁があるみたいに、不自然に人が避けている。
『あはは。すごいね(笑)誰も近づこうとしないじゃん』
悪魔が楽しそうに笑っている。私はなにも言えなかった。
私には、蛇喰が必死に我慢しているように見えた。なぜなら、
机の下に置かれた右手だけが、ゆっくりと握られていくのが見えたから。
白い指先が、わずかに強張る。それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
ああ、もう蛇喰は全部分かっている。もう、自分の周りには誰もいないのだと。
放課後になった。私はいつもより早く荷物をまとめた。理由は一つ、蛇喰だ。今日1日蛇喰は不気味なほど静かだった。朝倉くんと話してるときも、昼休みに一人でいるときも。誰にも怒らなかった。ただ静かに座っていた。
『怖いの?(笑)』
「別に」
『嘘つけ(笑)』
もう返事はしなかった。
そそくさと教室を出て、廊下を早歩きで進む。とにかく急いで学校を出たかった。蛇喰は学校に戻ってきた。これで終わるはずがない。
昇降口が見えてきた。あとは靴を履きかえて帰るだけだ。あと少し、あと少し。そのときだった。
「小鳥遊さん」
背後から声がした。
心臓が跳ねた。振り返らなくても誰か分かった。蛇喰だ。
私は足を止めた。逃げようと思えば逃げられる。聞こえなかったふりもできる。
でも、それはダメなような気がした。逃げ回るだけじゃ何も変わらないだろう。覚悟を決めて、ゆっくり振り返る。
やはり、そこには蛇喰が立っていた。
痩せた顔、こめかみに残る傷。弱っていることが一目で分かる。でも、悔しいほどきれいだ。
「ちょっとだけ時間もらえる?」
穏やかな声だった。怒っていない、責めてもいない。だから、余計に怖い。
私は小さく息を吐いた。
「……分かった」
蛇喰は小さく頷き、「ありがとう」それだけ言って歩き出す。
私は少し遅れて後を追った。
夕方の校舎は静かだった。
部活動へ向かう生徒たちの声が、窓の外から遠く聞こえる。
蛇喰は一度も振り返らない。
ただ前だけを見て歩いていた。
長い廊下を曲がり、人気のない階段を上がる。使われていない特別教室棟に向かっているようだ。
一ヶ月前なら、絶対に二人きりになりたくない相手だった。
怖いけど、今は違う。
『逃げる?』
悪魔が笑う。
「逃げない」
『そっか』
蛇喰が空き教室の前で足を止めた。
「入って」
「…うん」
空き教室に入ると、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
蛇喰が扉を閉めた。
二人きりになった。蛇喰を初めて知ったときの自分には考えられない状況だろう。
蛇喰は窓際に寄りかかって、私を見た。
逆光で、顔が少し陰になっていた。
「まず、謝らないといけないと思って」
「……何を?」
「色々と、迷惑かけたから」
静かな声だった。本当に申し訳なさそうだった。
あの蛇喰が。
「……いいよ」
「よくないよ」
蛇喰は首を振った。
「僕、ひどいことしてたから。小鳥遊さんにも、他の人たちにも」
私は黙って聞いた。
「ただ」
蛇喰が、少し間を置いた。
「一個だけ聞いていい?」
「……何?」
「あの日のこと」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
「朝倉くんたちが急に立ち上がって、あんなことをしたのって」
蛇喰の目が、真っ直ぐ私を見た。
「前にも朝倉くんたちの様子がおかしかったことがあった。まるで別人みたいで」
私は息を、そっと止めた。
「小鳥遊さん、何か知ってる?」
「……何のこと?」
「そのままの意味」
蛇喰は微笑んだ。
一ヶ月前より、少しだけ哀しみに近い微笑みだった。
「……気のせいじゃない?」
「気のせいじゃない」
静かに、でも確信を持って言った。
「ずっと考えてた。一ヶ月間。朝倉くんたちをあんな風にできる人間が、いるとしたら誰だろうって」
私は答えなかった。
「小鳥遊さん」
蛇喰くんが、まっすぐ私を見た。
「あの日のこと。小鳥遊さんがやったんでしょ」
心臓がバクバクとなっている。
「……何の話?」
「朝倉くんたちのこと。あのときも、今回も」
蛇喰は目を逸らさなかった。
「目を見て言って」
「……」
「小鳥遊さんじゃない、って」
私は、蛇喰の目を見つめ返した。
でも、耐えきれず逸れた。逸らしてしまった。
ほんの一瞬だった。それだけで、十分だった。
蛇喰の口元に、静かな笑みが浮かんだ。
『あー、やっちゃった(笑)まあいいんじゃない?ここからが本番だよ』
「ねえ、小鳥遊さん」
蛇喰の声が、少し柔らかくなった。
一段階、トーンが変わった。
「その不思議な力、僕に分けてくれない?」
「……え?」
「お願い」
一歩、近づいた。
「僕、変わりたいんだよね。本当に。この一ヶ月、ずっと考えてた。自分がやってきたこと。間違ってたって、分かった」
声が揺れていた。思わず同情しそうになる。
「その力があれば……もっとちゃんとできる。ちゃんと、人と向き合える気がする」
また一歩、近づいた。
距離が、吐息が触れるほどになった。
顔が、すぐそこにあった。
間近で見ると、綺麗だった。
一ヶ月前より削げた頬、血の気のない白い肌、伏せられた長い睫毛。
蛇喰の手が、私の手に重なった。
指先が、私の指の間に絡んだ。冷たかった。
「僕、一人じゃ無理なんだよね」
囁くような声だった。
もう一方の手が、私の頬に触れた。
そっと、壊れ物に触れるみたいに。
「小鳥遊さんだけが、僕にもう一度やり直すチャンスをくれる気がする」
蛇喰の目が、真っ直ぐ私だけを見ていた。
世界に私しかいないみたいな目に胸が、どくりと鳴った。
蛇喰の顔が、さらに少し近づいた。
額が触れそうな距離だった。
『ねえ、今ドキってした?』
悪魔が囁いた。
「……してない」
声が上ずった。
『してたじゃん』
「してない」
蛇喰が、小さく微笑んだ。その微笑みが、また綺麗だった。
頬に触れた手が、少し動いた。
私の耳元に、髪をかける仕草。
私は、視線を逸らした。
だめだ。
この顔に、騙されるな。
そうだ。
この顔は知っている。
泣きそうな目も、震える声も、全部。
人を標的にした時の、蛇喰巳波の顔だ。
道具が変わっただけだ。
武器が怒りから涙に変わっただけで、やっていることは同じだ。
「……力を渡すには」
私は静かに言った。
「波長を合わせないといけない」
蛇喰の目が、きらりと光った。
「波長?」
「リラックスすること。心を開いて、力を受け入れる準備ができた時に初めて渡せる」
「……どうすればいい?」
前のめりになっていた。
一ヶ月間、この瞬間を待っていたみたいに。
「椅子に座って。目を閉じて。ゆっくり息をして」
蛇喰は言われた通りにした。近くの椅子に座って、目を閉じた。長い睫毛が伏せられる。
「力が抜けてきたら教えて」
「……うん」
静かな声だった。
しばらく待った。蛇喰の肩が、少しずつ下がっていった。
「……抜けてきた、かも」
「そう」
私は蛇喰の前に立った。
「じゃあ今から渡すね」
目を閉じたまま、蛇喰は頷いた。
しばらく経った。
「……何も、起きない」
蛇喰が目を開け、そのまま固まった。
視線が、私の顔に向いていた。
逸らそうとしている。でも、逸れない。
「……あれ」
蛇喰の眉が、わずかに歪んだ。
「なんで」
目だけが、私を見たまま動かなかった。
まばたきだけが、やけに早くなっていた。
「……ねえ、小鳥遊さん。もしかして——」
「もうかかってるよ」
蛇喰の顔が止まった。
「……え?」
「さっきから」
「……嘘」
「嘘じゃない」
蛇喰は、もう一度視線を逸らそうとした。
机を見ようとした。窓を見ようとした。
でも、目はすぐに私の顔へ戻ってきた。
意志に反して。
「……っ、なんで」
声が、震えていた。
「……解いて」
静かな優しい声だった。
「お願い。解いてくれない?」
「嫌」
「……小鳥遊さん」
「…嫌だ」
蛇喰の目が、私を見たまま、わずかに揺れた。
「……お願い。こんなの、おかしいよ…」
声が、少し高くなった。
「目が、ずっと——勝手に、小鳥遊さんから離れない。気持ち悪いよ…。早く、解いてよ」
「嫌だって言った!」
「……はぁ?」
蛇喰の表情から、優しさが剥がれた。
さっきまでの弱々しい笑顔がすっと消える。
代わりに現れたのは、私が知っている顔だった。
冷たい目で誰かを見下す時の顔が現れた。
「ねえ、分かってる?僕が今、頼んでるんだよ?」
椅子から立ち上がった。
ガタッと音がして、椅子が倒れた。
「僕が、お願いって言ったんだよ。普通そこで頷くよね?」
蛇喰は小さく肩をすくめた。
「あ、もしかして勘違いしてる?何か頼んでるって思ってる?」
「……」
「違うよ。チャンスをあげてるの」
距離を詰めてきた。
「僕にこんなことした人間、今まで一人もいなかったんだよね。それを、今は許してあげようとしてる。どう?優しいでしょ?」
「……」
「だから、さっさと解いて。これ以上僕に手間取らせないでよ」
私は、何も言わなかった。
「……ねえ」
少し、声が低くなった。
「聞いてる?」
「…聞いてるよ」
「じゃあ解いてよ」
「嫌」
蛇喰の目が、見開かれた。
「……は?」
「嫌だって言ってるの!」
「……っ!ふざけてんの?」
声が、跳ねた。
「僕に向かって、その態度?」
「……」
「分かってんの?僕が誰だか」
蛇喰が、一歩近づいた。
「僕が今まで何して——ううん、何かしたことなんてないけど。僕はただ、僕の世界を守りたかっただけ。なのに——」
言葉が、止まった。
「……なのに、なんでこんな…!」
目が、また私の顔に戻ってきた。
意志に反して。
「全部話して。やってきたこと、全部」
蛇喰の顔が歪んだ。
──────────
最初は強気だった蛇喰にも催眠が、じわじわと効いてきたのか、言葉が少しずつ零れ始めた。
白井くんのこと。
伊藤さんのこと。
瀬川先生のこと。
そして、私のこと。
声が震えていた。
泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。
全部言い終わった時、蛇喰は俯き、肩で息をしていた。
「……これで、満足?」
低い声だった。
「…言わせたかったんでしょ。誰かにでも話すつもり?だから——」
「謝って」
蛇喰の言葉が、止まった。
「……は?」
「ちゃんと、誠意を込めて謝って」
「……何が」
「自分がやったこと、ちゃんと分かってるならできるでしょ。今まで傷つけてきたことを謝って」
蛇喰は私から目を逸らせない。
意志に反して。
その目に、最初に浮かんだのは、嘲りだった。
「……僕が?あんたに?」
「私だけじゃない。白井くんにも、伊藤さんにも…今まで傷つけてきた全ての人に、誠心誠意、謝罪して」
「…いないじゃん、ここに」
「私が代わりに聞く」
蛇喰は黙ったあと、声を立てて笑った。
「あはは!僕を誰だと思ってるの?」
唇の端が、上がっていた。
「蛇喰巳波だよ?…今まで誰も、そんなこと——」
身体が、わずかに前に傾いていた。
「!?……っ、ちょ─—!?」
両手が、床についた。
「や、やだ!何これ——なんで——!」
額が、床に近づいていく。
「やだ、待って、なんでこんな——!」
声が、震えていた。
「うぅぅ…!僕が、こんな——」
止まらなかった。
額が、床についた。
蛇喰巳波が、床に額をつけていた。
「……っ、う……」
くぐもった声が、聞こえた。
それは、嗚咽だった。
しばらくして、声が震えながら言葉になった。
「……っ……ぐ、う……!」
何度か、息を吸う音だけが聞こえた。
喉の奥から、声を引き出そうとしているみたいだった。
「……っ……!……ま、誠に……」
そこで、止まった。
歯を、噛みしめるような音がした。
「……誠に……っ……」
身体が、小さく震えていた。
「……誠に……も、申し訳……でした…!…ぅ」
絞り出すような声だった。
額をつけたまま、肩が大きく震えた。
「……っ……」
もう一度、同じ言葉を言わせられているみたいだった。
「……誠に、申し訳…ございませんでした……くぅ…!」
声が、掠れていた。
それきり、何も言わなくなった。
ただ、肩だけが、震えていた。
プライドが身体に追いつけないまま、そこに転がっていた。
私は、それを見ていた。
望んでいたはずのものを。なのに、虚しさだけが残った。
「……もういいよ」
私は静かに言った。
「もう、終わり」
私は、催眠を解いた。
蛇喰の身体から、ふっと力が抜けた。
一瞬の、静止。
それから。
「……っ」
声が、漏れた。
「あ……あ、ぁ……!」
肩が、大きく震えた。
額をついたまま、蛇喰は泣いていた。
「えぐっ……えぐっ……」
子供みたいな泣き声だった。
教室に、それだけが響いていた。
私は、それを見ていた。
何も、感じなかった。
ただ、見ていた。
もう終わった。蛇喰は二度と人をいじめることは出来ないだろう。何かある度に今日のことを思い出す筈だ。
私は迷いながら声をかけその場を後にすることにした。
「…蛇喰くん。もうこれで終わりにしようね。ちゃんと謝れたんだから、それでいいよ。…このことは他の人には言わないから安心して。じゃあね」
蛇喰は変わらず土下座の姿勢のまま泣き続けている。一人にするのは可哀想だが、今の姿を見られつづけるのも可哀想だ。
教室を出て、誰もいない静かな廊下を歩く。
長かった復讐はようやく終わった。
悪魔とであった日を思い出す。
『契約しようか』
悪魔はそう言った。
まるで、今日の晩ご飯でも聞くみたいに。
私は藁にもすがる思いで手を伸ばした。
その結果がこれだ。
蛇喰は壊れた。そうなると、取り巻きたちも大人しくなるだろう。私は復讐を果たした。悪魔も望む結果を得ることができた。もう満足だろう。
「もう契約は終了でいいよね…?」
『うーん…』
なぜか悪魔は考え込んでいる。
「どうしたの?まだ何か必要?」
『…いや、君はもう終わった気でいるけど、蛇喰くんはまだやる気みたいだよ?』
…?意味が分からない。この悪魔は何を言いたいんだ…?
そのときだった。さっきまでいた教室の扉が勢いよく開き、中からふらふらと蛇喰が出てきた。両手は何がを掴んでいる。よく見てみると、包丁だった。
蛇喰は私を見つけると、包丁を体の前に構えた。
「……小鳥遊さん」
掠れた声だった。
逃げたいのに足が動かない。
「ねぇ」
「僕さ」
「全部失ったんだよ」
「友達も」
「信頼も」
「居場所も」
「なのに」
声は穏やかだった。
「お前はこれからも普通に生きるんだね」
ぞくりとした。
蛇喰は笑っていた。
泣き顔でもなく、怒り顔でもない。
壊れたみたいに笑っていた。
「それだけは」
蛇喰が一歩踏み出す。
「許せないなぁ」
その言葉と同時だった。
蛇喰が地面を蹴った。
「ああああああああ――ッ!!」
絶叫。
さっきまでの穏やかな声が嘘みたいだった。
包丁を握り締めたまま、一直線に私へ向かってくる。
でも。
怖いのに、不思議と頭は冷えていた。
蛇喰の足元がふらついているのが見えた。
一ヶ月まともに学校へ来ていなかった。
食事もろくに取っていなかったのだろう。
体力がかなり失われているようにみえた。
今の蛇喰は力任せに突っ込んできているだけだ。
それでも包丁は本物だ。当たれば痛いし死ぬかもしれない。私は息を覚悟を決めた。
蛇喰が包丁を振り上げる。
夕日に照らされた刃が、一瞬だけ赤く光った。
そして振り下ろされる。
私は反射的に踏み込み、右手で蛇喰の手首を掴む。
「――え?」
蛇喰の目が見開かれた。
予想していなかったのだろう。
私が逃げると思っていたのかもしれない。
私はそのまま腕を捻り上げた。
「っあ!」
乾いた悲鳴。
指が開き包丁が床に落ちた。
甲高い金属音が廊下に響く。
それでも蛇喰は止まらず、空いた手で私の肩を掴む。
爪が食い込む。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が目の前にあった。
「返せ!!」
何を返してほしいのか。
友達か。
信頼か。
居場所か。
それとも、以前の自分か。
蛇喰自身にも分かっていないようだった。
私は蛇喰の身体を押した。その体はとても軽かった。
バランスを崩した蛇喰が廊下に倒れる。
鈍い音が響いた。
「――っ!」
すぐに起き上がろうとするが、起き上がれない。
私はそのまま蛇喰に馬乗りになり両手首を押さえつけた。
蛇喰が暴れる。
必死に足をばたつかせる。身体を捻る。泣きながら叫ぶ。
「あああああ――!!」
でも、私の身体はびくともしなかった。女と男では力が全く違う。本気を出した女に、男は全く歯が立たない。
蛇喰はそこで初めて気付いたみたいだった。
自分より力の強い相手がいることに。
今まで見下していた相手が今、自分を押さえつけていることに。
「なんで……」
声が掠れた。
「くそ…なんでだよ……」
抵抗が少しずつ弱くなり、肩で荒く息をしている。
汗と涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
私はそんな蛇喰を見下ろした。
胸の奥には、達成感も、喜びもなかった。
ただ…ひどく疲れた。
「蛇喰くんってさ…力、弱いんだね」
そう言うと、蛇喰は怯えたように目を見開いた。
その目を見て、私は少しだけ悲しくなった。
『うーん。正直飽きちゃったからここで終わりにしようか』
〈蛇喰視点〉
僕は床に押さえつけられたまま呼吸を繰り返していた。
「はぁっ…はぁっ…」
肺が苦しい。胸が痛い。体に力が入らない。
この僕が小鳥遊ごときに押さえつけられている。悔しくて堪らなかった。ただ、これで諦めるつもりはない。絶対にこの屈辱を小鳥遊にも味わせてやる…!
そのときだった。
「あーあ」
声がした。でも、小鳥遊の声じゃない。
そこに、何かがいた。
人みたいな形をしているが、人じゃない。小鳥遊の隣にするりと立って僕を見下ろしている。
「……何、お前」
声が、掠れた。
「悪魔だよ」
笑いながら答えた。
「…悪魔?そんなわけ——」
そんなものが、いるはずない。
「まだ頑張るの?」
悪魔を名乗るやつがしゃがみ込んで僕の顔を覗き込んだ。
まるで子供を見るみたいに。
「……来るな」
「うんうん」
「来るな……」
「怖いよね」
僕は首を振る。
「違う……」
「そうだね」
「違う……」
「怖くなんてないよね」
悪魔は優しく笑った。
「疲れたでしょう?」
身体が僅かに震える。
「眠れてないもんね」
「……」
「ご飯もあんまり食べてない」
「……」
「ずっと一人で考えてた」
僕は返事をしない。
全部当たっていたからできなかった。
「苦しかったね。誰も分かってくれなかった。辛かったね」
「……うるさい」
「うん。辛かったね」
まるで父親が子供をあやすみたいだった。
なぜか甘えたくなって、僕は目を閉じる。
「頑張ったね。本当に頑張った」
「……」
その瞬間、何かが揺らいだ、
怒りでもないし恐怖でもない。
もっと奥。懐かしくて暖かくて、でもずっと固く閉じていた場所。
「もう頑張らなくていいよ。蛇喰くんは男の子なんだから、もう戦わなくていいだよ」
「……いや」
「うん」
「いや……だ」
「そうだね。でも疲れたでしょう?」
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「……つかれた」
「知ってるよ。ずっと疲れてた。だからもう休もう」
僕は首を振ろうとする。
でも、思ったほど動かない。
「……だめ」
「どうして?もういいんだよ。考えなくていい。苦しまなくていい。全部終わったから」
目から涙が落ちたが、これは怒りの涙じゃない。悔しさでもない。
ただ疲れていた。本当に疲れていた。
「いい子だね」
悪魔が頭を撫でる。気持ちよくて拒絶できない。
「ほら力を抜いて」
「……うん」
「大丈夫。怖くない」
「……うん」
「いい子」
「……うん」
「寂しかったね」
「……さびしかった」
「苦しかったね」
「……くるしかった」
「もう大丈夫」
悪魔の声は完全に子守歌だった。
「これからは栞さんがいる。栞さんが守ってくれる」
「……しおりさん」
「栞さんが必要なんだ」
「……うん」
「栞さんが好き」
「すき」
悪魔は満足そうに微笑んだ。
「よくできました!じゃあ、もう泣くのはやめようね。大好きな栞さんに笑顔を見てもらおう」
その瞬間。
蛇喰巳波という名前の中にあった何かが、静かに沈んだ。
少年は、涙で濡れた顔のまま、ゆっくりと小鳥遊を見上げた。
そして笑った。
それは、これまでのような計算された笑顔ではなかった。
誰かを支配するための笑顔でもない。
ただ、好きな人を見つけた恋する乙男のような、あまりにも無垢な笑顔だった。
小鳥遊は何も言えなかった。