あべこべ貞操逆転世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話   作:フェルナンデス

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土下座

 

 

朝のホームルームが始まる前だった。

 

「ねぇ聞いた?今日蛇喰くん来るらしいよ」

 

近くの席の男子が小声で言った。

 

「え?まじ?」

 

「まじまじ。友達が駅で見かけたらしい。でも何か雰囲気ヤバかったらしいよ」

 

話はあっという間に教室に広まった。教室のあちこちで同じ名前が呟かれる。

 

蛇喰巳波が1ヶ月ぶりの登校。私は席に座り、何気ない顔でその話を聞いていた。聞いていないふりをしながら。

 

『楽しみだね』

 

「……別に」

 

『またまた』

 

「楽しみじゃない」

 

本当だった。少なくとも、自分ではそう思っていた。

この1ヶ月は本当に平和だった。陰口を言うために集まるグループもない。誰かの鞄が消えることもない。みんなが普通に笑っていた。だから正直に言うと、蛇喰がこのまま学校に来なければいいのにと思った。もう終わったことにしたかった。悪魔は退屈そうだったけど。けれど。あの日からずっと、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。蛇喰の怪我は私の催眠のせいだ。だから、学校に来ることが分かって少しだけほっとしている自分がいた。

 

蛇喰が教室に入ってきたのは、ホームルームの直前だった。

最初に気付いた子が小さく息をのんだ。それが伝染するように、教室の空気が変わった。

 

蛇喰は痩せていた。1ヶ月前よりも明らかに。頬が削げて、首が細くなって、制服が少しだけ浮いて見えた。肌の白さだけは変わらないのに、血の気がなくて蝋みたいだった。目は以前みたいな自信も、余裕も、傲慢さもない。ただ、暗い光だけが残っていた。

そして、こめかみに残る、一本の線。あの日の傷だ。きれいな顔に、薄い桃色の線が、白い肌を切り裂くように走っていた。

 

蛇喰は前を向いたまま、誰とも目を合わせず、まっすぐ自分の机へ歩いた。そして、椅子を引いて座る。それだけだった。

 

『あの傷、残ったんだ』

 

悪魔が静かに言った。私は何も答えなかった。答えられなかった。あの傷を見るたびに。胸の奥が少しだけ痛んだから。

 

ホームルームが終わると、朝倉くんが蛇喰の席へ向かった。

恐る恐る、まるで野生動物に近づくみたいな歩き方だった。

周囲の生徒たちも気付いていたけれど、誰も口を挟まない。

みんな遠巻きに様子を見ていた。朝倉くんが何かを言う。

距離があったから聞こえない。でも、蛇喰の反応は見えた。

驚くほど穏やかだった。

怒りも、恨みも、責める様子もない。

ただ静かに首を横へ振る。そして何かを言った。

その瞬間、朝倉くんの肩から力が抜けた。

今までずっと張り詰めていたものがようやく解けたみたいに。

朝倉くんは小さく頭を下げ、蛇喰も小さく頷いた。

たぶん、謝ったんだと思う。

心配をかけてごめん。あるいは、気にしなくていい。

そんな言葉だったのかもしれない。

朝倉くんはしばらく話したあと、自分の席へ戻った。

席に着くと、一度だけ目元をこすった。

泣いているようにも見えた。私はそれを、自分の席から見ていた。

ただ。少しだけ分からなくなっていた。本当に私が知っている蛇喰巳波はどちらだったのだろうと。

 

昼休みになった。教室が一気に騒がしくなる。椅子をひく音や、弁当箱を開ける音、誰かの笑い声。いつもほぼ変わらない昼休みだった。違うのは一つだけ。蛇喰が孤立しているということだった。

 

私は自分の席からその様子を見ていた。

蛇喰は席に座ったまま動かない。弁当箱も開けていなかった。ただ、ぼんやり外の景色を眺めている。

以前なら違った。昼休みになると自然と人が集まり、いつも中心には蛇喰がいた。それが当たり前だったが今は違う。

誰も蛇喰に近づこうとしない。まるでそこに壁があるみたいに、不自然に人が避けている。

 

『あはは。すごいね(笑)誰も近づこうとしないじゃん』

 

悪魔が楽しそうに笑っている。私はなにも言えなかった。

私には、蛇喰が必死に我慢しているように見えた。なぜなら、

机の下に置かれた右手だけが、ゆっくりと握られていくのが見えたから。

白い指先が、わずかに強張る。それだけだった。

でも、それだけで十分だった。

ああ、もう蛇喰は全部分かっている。もう、自分の周りには誰もいないのだと。

 

放課後になった。私はいつもより早く荷物をまとめた。理由は一つ、蛇喰だ。今日1日蛇喰は不気味なほど静かだった。朝倉くんと話してるときも、昼休みに一人でいるときも。誰にも怒らなかった。ただ静かに座っていた。

 

『怖いの?(笑)』

 

「別に」

 

『嘘つけ(笑)』

 

もう返事はしなかった。

そそくさと教室を出て、廊下を早歩きで進む。とにかく急いで学校を出たかった。蛇喰は学校に戻ってきた。これで終わるはずがない。

 

昇降口が見えてきた。あとは靴を履きかえて帰るだけだ。あと少し、あと少し。そのときだった。

 

「小鳥遊さん」

 

背後から声がした。

心臓が跳ねた。振り返らなくても誰か分かった。蛇喰だ。

私は足を止めた。逃げようと思えば逃げられる。聞こえなかったふりもできる。

 

でも、それはダメなような気がした。逃げ回るだけじゃ何も変わらないだろう。覚悟を決めて、ゆっくり振り返る。

 

やはり、そこには蛇喰が立っていた。

痩せた顔、こめかみに残る傷。弱っていることが一目で分かる。でも、悔しいほどきれいだ。

 

「ちょっとだけ時間もらえる?」

 

穏やかな声だった。怒っていない、責めてもいない。だから、余計に怖い。

私は小さく息を吐いた。

 

「……分かった」

 

蛇喰は小さく頷き、「ありがとう」それだけ言って歩き出す。

私は少し遅れて後を追った。

夕方の校舎は静かだった。

部活動へ向かう生徒たちの声が、窓の外から遠く聞こえる。

蛇喰は一度も振り返らない。

ただ前だけを見て歩いていた。

長い廊下を曲がり、人気のない階段を上がる。使われていない特別教室棟に向かっているようだ。

 

一ヶ月前なら、絶対に二人きりになりたくない相手だった。

怖いけど、今は違う。

 

『逃げる?』

 

悪魔が笑う。

 

「逃げない」

 

『そっか』

 

蛇喰が空き教室の前で足を止めた。

 

「入って」

 

「…うん」

 

空き教室に入ると、夕方の光が斜めに差し込んでいた。

蛇喰が扉を閉めた。

二人きりになった。蛇喰を初めて知ったときの自分には考えられない状況だろう。

蛇喰は窓際に寄りかかって、私を見た。

逆光で、顔が少し陰になっていた。

 

「まず、謝らないといけないと思って」

 

「……何を?」

 

「色々と、迷惑かけたから」

 

静かな声だった。本当に申し訳なさそうだった。

あの蛇喰が。

 

「……いいよ」

 

「よくないよ」

 

蛇喰は首を振った。

 

「僕、ひどいことしてたから。小鳥遊さんにも、他の人たちにも」

 

私は黙って聞いた。

 

「ただ」

 

蛇喰が、少し間を置いた。

 

「一個だけ聞いていい?」

 

「……何?」

 

「あの日のこと」

 

窓の外で、風が木の葉を揺らした。

 

「朝倉くんたちが急に立ち上がって、あんなことをしたのって」

 

蛇喰の目が、真っ直ぐ私を見た。

 

「前にも朝倉くんたちの様子がおかしかったことがあった。まるで別人みたいで」

 

私は息を、そっと止めた。

 

「小鳥遊さん、何か知ってる?」

 

「……何のこと?」

 

「そのままの意味」

 

蛇喰は微笑んだ。

一ヶ月前より、少しだけ哀しみに近い微笑みだった。

 

「……気のせいじゃない?」

 

「気のせいじゃない」

 

静かに、でも確信を持って言った。

 

「ずっと考えてた。一ヶ月間。朝倉くんたちをあんな風にできる人間が、いるとしたら誰だろうって」

 

私は答えなかった。

 

「小鳥遊さん」

 

蛇喰くんが、まっすぐ私を見た。

 

「あの日のこと。小鳥遊さんがやったんでしょ」

 

心臓がバクバクとなっている。

 

「……何の話?」

 

「朝倉くんたちのこと。あのときも、今回も」

 

蛇喰は目を逸らさなかった。

 

「目を見て言って」

 

「……」

 

「小鳥遊さんじゃない、って」

 

私は、蛇喰の目を見つめ返した。

 

でも、耐えきれず逸れた。逸らしてしまった。

ほんの一瞬だった。それだけで、十分だった。

蛇喰の口元に、静かな笑みが浮かんだ。

 

『あー、やっちゃった(笑)まあいいんじゃない?ここからが本番だよ』

 

「ねえ、小鳥遊さん」

 

蛇喰の声が、少し柔らかくなった。

一段階、トーンが変わった。

 

「その不思議な力、僕に分けてくれない?」

 

「……え?」

 

「お願い」

 

一歩、近づいた。

 

「僕、変わりたいんだよね。本当に。この一ヶ月、ずっと考えてた。自分がやってきたこと。間違ってたって、分かった」

 

声が揺れていた。思わず同情しそうになる。

 

「その力があれば……もっとちゃんとできる。ちゃんと、人と向き合える気がする」

 

また一歩、近づいた。

距離が、吐息が触れるほどになった。

顔が、すぐそこにあった。

間近で見ると、綺麗だった。

一ヶ月前より削げた頬、血の気のない白い肌、伏せられた長い睫毛。

 

蛇喰の手が、私の手に重なった。

指先が、私の指の間に絡んだ。冷たかった。

 

「僕、一人じゃ無理なんだよね」

 

囁くような声だった。

もう一方の手が、私の頬に触れた。

そっと、壊れ物に触れるみたいに。

 

「小鳥遊さんだけが、僕にもう一度やり直すチャンスをくれる気がする」

 

蛇喰の目が、真っ直ぐ私だけを見ていた。

世界に私しかいないみたいな目に胸が、どくりと鳴った。

蛇喰の顔が、さらに少し近づいた。

額が触れそうな距離だった。

 

『ねえ、今ドキってした?』

 

悪魔が囁いた。

 

「……してない」

 

声が上ずった。

 

『してたじゃん』

 

「してない」

 

蛇喰が、小さく微笑んだ。その微笑みが、また綺麗だった。

頬に触れた手が、少し動いた。

私の耳元に、髪をかける仕草。

 

私は、視線を逸らした。

 

だめだ。

 

この顔に、騙されるな。

 

そうだ。

 

この顔は知っている。

泣きそうな目も、震える声も、全部。

人を標的にした時の、蛇喰巳波の顔だ。

道具が変わっただけだ。

武器が怒りから涙に変わっただけで、やっていることは同じだ。

 

「……力を渡すには」

 

私は静かに言った。

 

「波長を合わせないといけない」

 

蛇喰の目が、きらりと光った。

 

「波長?」

 

「リラックスすること。心を開いて、力を受け入れる準備ができた時に初めて渡せる」

 

「……どうすればいい?」

 

前のめりになっていた。

一ヶ月間、この瞬間を待っていたみたいに。

 

「椅子に座って。目を閉じて。ゆっくり息をして」

 

蛇喰は言われた通りにした。近くの椅子に座って、目を閉じた。長い睫毛が伏せられる。

 

「力が抜けてきたら教えて」

 

「……うん」

 

静かな声だった。

しばらく待った。蛇喰の肩が、少しずつ下がっていった。

 

「……抜けてきた、かも」

 

「そう」

 

私は蛇喰の前に立った。

 

「じゃあ今から渡すね」

 

目を閉じたまま、蛇喰は頷いた。

 

しばらく経った。

 

「……何も、起きない」

 

蛇喰が目を開け、そのまま固まった。

視線が、私の顔に向いていた。

逸らそうとしている。でも、逸れない。

 

「……あれ」

 

蛇喰の眉が、わずかに歪んだ。

 

「なんで」

 

目だけが、私を見たまま動かなかった。

まばたきだけが、やけに早くなっていた。

 

「……ねえ、小鳥遊さん。もしかして——」

 

「もうかかってるよ」

 

蛇喰の顔が止まった。

 

「……え?」

 

「さっきから」

 

「……嘘」

 

「嘘じゃない」

 

蛇喰は、もう一度視線を逸らそうとした。

机を見ようとした。窓を見ようとした。

でも、目はすぐに私の顔へ戻ってきた。

意志に反して。

 

「……っ、なんで」

 

声が、震えていた。

 

「……解いて」

 

静かな優しい声だった。

 

「お願い。解いてくれない?」

 

「嫌」

 

「……小鳥遊さん」

 

「…嫌だ」

 

蛇喰の目が、私を見たまま、わずかに揺れた。

 

「……お願い。こんなの、おかしいよ…」

 

声が、少し高くなった。

 

「目が、ずっと——勝手に、小鳥遊さんから離れない。気持ち悪いよ…。早く、解いてよ」

 

「嫌だって言った!」

 

「……はぁ?」

 

蛇喰の表情から、優しさが剥がれた。

さっきまでの弱々しい笑顔がすっと消える。

代わりに現れたのは、私が知っている顔だった。

冷たい目で誰かを見下す時の顔が現れた。

 

「ねえ、分かってる?僕が今、頼んでるんだよ?」

 

椅子から立ち上がった。

ガタッと音がして、椅子が倒れた。

 

「僕が、お願いって言ったんだよ。普通そこで頷くよね?」

 

蛇喰は小さく肩をすくめた。

 

「あ、もしかして勘違いしてる?何か頼んでるって思ってる?」

 

「……」

 

「違うよ。チャンスをあげてるの」

 

距離を詰めてきた。

 

「僕にこんなことした人間、今まで一人もいなかったんだよね。それを、今は許してあげようとしてる。どう?優しいでしょ?」

 

「……」

 

「だから、さっさと解いて。これ以上僕に手間取らせないでよ」

 

私は、何も言わなかった。

 

「……ねえ」

 

少し、声が低くなった。

 

「聞いてる?」

 

「…聞いてるよ」

 

「じゃあ解いてよ」

 

「嫌」

 

蛇喰の目が、見開かれた。

 

「……は?」

 

「嫌だって言ってるの!」

 

「……っ!ふざけてんの?」

 

声が、跳ねた。

 

「僕に向かって、その態度?」

 

「……」

 

「分かってんの?僕が誰だか」

 

蛇喰が、一歩近づいた。

 

「僕が今まで何して——ううん、何かしたことなんてないけど。僕はただ、僕の世界を守りたかっただけ。なのに——」

 

言葉が、止まった。

 

「……なのに、なんでこんな…!」

 

目が、また私の顔に戻ってきた。

意志に反して。

 

「全部話して。やってきたこと、全部」

 

蛇喰の顔が歪んだ。

 

──────────

 

最初は強気だった蛇喰にも催眠が、じわじわと効いてきたのか、言葉が少しずつ零れ始めた。

 

白井くんのこと。

伊藤さんのこと。

瀬川先生のこと。

そして、私のこと。

 

声が震えていた。

泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。

全部言い終わった時、蛇喰は俯き、肩で息をしていた。

 

「……これで、満足?」

 

低い声だった。

 

「…言わせたかったんでしょ。誰かにでも話すつもり?だから——」

 

「謝って」

 

蛇喰の言葉が、止まった。

 

「……は?」

 

「ちゃんと、誠意を込めて謝って」

 

「……何が」

 

「自分がやったこと、ちゃんと分かってるならできるでしょ。今まで傷つけてきたことを謝って」

 

蛇喰は私から目を逸らせない。

意志に反して。

その目に、最初に浮かんだのは、嘲りだった。

 

「……僕が?あんたに?」

 

「私だけじゃない。白井くんにも、伊藤さんにも…今まで傷つけてきた全ての人に、誠心誠意、謝罪して」

 

「…いないじゃん、ここに」

 

「私が代わりに聞く」

 

蛇喰は黙ったあと、声を立てて笑った。

 

「あはは!僕を誰だと思ってるの?」

 

唇の端が、上がっていた。

 

「蛇喰巳波だよ?…今まで誰も、そんなこと——」

 

身体が、わずかに前に傾いていた。

 

「!?……っ、ちょ─—!?」

 

両手が、床についた。

 

「や、やだ!何これ——なんで——!」

 

額が、床に近づいていく。

 

「やだ、待って、なんでこんな——!」

 

声が、震えていた。

 

「うぅぅ…!僕が、こんな——」

 

止まらなかった。

額が、床についた。

蛇喰巳波が、床に額をつけていた。

 

「……っ、う……」

 

くぐもった声が、聞こえた。

それは、嗚咽だった。

しばらくして、声が震えながら言葉になった。

 

「……っ……ぐ、う……!」 

 

何度か、息を吸う音だけが聞こえた。

喉の奥から、声を引き出そうとしているみたいだった。

 

「……っ……!……ま、誠に……」

 

そこで、止まった。

歯を、噛みしめるような音がした。

 

「……誠に……っ……」

 

身体が、小さく震えていた。

 

「……誠に……も、申し訳……でした…!…ぅ」

 

絞り出すような声だった。

額をつけたまま、肩が大きく震えた。

 

「……っ……」

 

もう一度、同じ言葉を言わせられているみたいだった。

 

「……誠に、申し訳…ございませんでした……くぅ…!」

 

声が、掠れていた。

それきり、何も言わなくなった。

ただ、肩だけが、震えていた。

プライドが身体に追いつけないまま、そこに転がっていた。

私は、それを見ていた。

望んでいたはずのものを。なのに、虚しさだけが残った。

 

「……もういいよ」

 

私は静かに言った。

 

「もう、終わり」

 

私は、催眠を解いた。

蛇喰の身体から、ふっと力が抜けた。

一瞬の、静止。

それから。

 

「……っ」

 

声が、漏れた。

 

「あ……あ、ぁ……!」

 

肩が、大きく震えた。

額をついたまま、蛇喰は泣いていた。

 

「えぐっ……えぐっ……」

 

子供みたいな泣き声だった。

教室に、それだけが響いていた。

私は、それを見ていた。

何も、感じなかった。

ただ、見ていた。

 

もう終わった。蛇喰は二度と人をいじめることは出来ないだろう。何かある度に今日のことを思い出す筈だ。

私は迷いながら声をかけその場を後にすることにした。

 

「…蛇喰くん。もうこれで終わりにしようね。ちゃんと謝れたんだから、それでいいよ。…このことは他の人には言わないから安心して。じゃあね」

 

蛇喰は変わらず土下座の姿勢のまま泣き続けている。一人にするのは可哀想だが、今の姿を見られつづけるのも可哀想だ。

 

教室を出て、誰もいない静かな廊下を歩く。

長かった復讐はようやく終わった。

悪魔とであった日を思い出す。

 

『契約しようか』

 

悪魔はそう言った。

まるで、今日の晩ご飯でも聞くみたいに。

私は藁にもすがる思いで手を伸ばした。

その結果がこれだ。

蛇喰は壊れた。そうなると、取り巻きたちも大人しくなるだろう。私は復讐を果たした。悪魔も望む結果を得ることができた。もう満足だろう。

 

「もう契約は終了でいいよね…?」

 

『うーん…』

 

なぜか悪魔は考え込んでいる。

 

「どうしたの?まだ何か必要?」

 

『…いや、君はもう終わった気でいるけど、蛇喰くんはまだやる気みたいだよ?』

 

…?意味が分からない。この悪魔は何を言いたいんだ…?

 

そのときだった。さっきまでいた教室の扉が勢いよく開き、中からふらふらと蛇喰が出てきた。両手は何がを掴んでいる。よく見てみると、包丁だった。

蛇喰は私を見つけると、包丁を体の前に構えた。

 

「……小鳥遊さん」

 

掠れた声だった。

逃げたいのに足が動かない。

 

「ねぇ」

 

「僕さ」

 

「全部失ったんだよ」

 

「友達も」

 

「信頼も」

 

「居場所も」

 

「なのに」

 

声は穏やかだった。

 

「お前はこれからも普通に生きるんだね」

 

ぞくりとした。

 

蛇喰は笑っていた。

泣き顔でもなく、怒り顔でもない。

壊れたみたいに笑っていた。

 

「それだけは」

 

蛇喰が一歩踏み出す。

 

「許せないなぁ」

 

その言葉と同時だった。

蛇喰が地面を蹴った。

 

「ああああああああ――ッ!!」

 

絶叫。

さっきまでの穏やかな声が嘘みたいだった。

包丁を握り締めたまま、一直線に私へ向かってくる。

 

でも。

 

怖いのに、不思議と頭は冷えていた。

蛇喰の足元がふらついているのが見えた。

一ヶ月まともに学校へ来ていなかった。

食事もろくに取っていなかったのだろう。

体力がかなり失われているようにみえた。

今の蛇喰は力任せに突っ込んできているだけだ。

それでも包丁は本物だ。当たれば痛いし死ぬかもしれない。私は息を覚悟を決めた。

蛇喰が包丁を振り上げる。

夕日に照らされた刃が、一瞬だけ赤く光った。

そして振り下ろされる。

私は反射的に踏み込み、右手で蛇喰の手首を掴む。

 

「――え?」

 

蛇喰の目が見開かれた。

予想していなかったのだろう。

私が逃げると思っていたのかもしれない。

私はそのまま腕を捻り上げた。

 

「っあ!」

 

乾いた悲鳴。

指が開き包丁が床に落ちた。

甲高い金属音が廊下に響く。

それでも蛇喰は止まらず、空いた手で私の肩を掴む。

爪が食い込む。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が目の前にあった。

 

「返せ!!」

 

何を返してほしいのか。

友達か。

信頼か。

居場所か。

それとも、以前の自分か。

蛇喰自身にも分かっていないようだった。

私は蛇喰の身体を押した。その体はとても軽かった。

バランスを崩した蛇喰が廊下に倒れる。

鈍い音が響いた。

 

「――っ!」

 

すぐに起き上がろうとするが、起き上がれない。

私はそのまま蛇喰に馬乗りになり両手首を押さえつけた。

蛇喰が暴れる。

必死に足をばたつかせる。身体を捻る。泣きながら叫ぶ。

 

「あああああ――!!」

 

でも、私の身体はびくともしなかった。女と男では力が全く違う。本気を出した女に、男は全く歯が立たない。

蛇喰はそこで初めて気付いたみたいだった。

自分より力の強い相手がいることに。

今まで見下していた相手が今、自分を押さえつけていることに。

 

「なんで……」

 

声が掠れた。

 

「くそ…なんでだよ……」

 

抵抗が少しずつ弱くなり、肩で荒く息をしている。

汗と涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

私はそんな蛇喰を見下ろした。

胸の奥には、達成感も、喜びもなかった。

ただ…ひどく疲れた。

 

「蛇喰くんってさ…力、弱いんだね」

 

そう言うと、蛇喰は怯えたように目を見開いた。

その目を見て、私は少しだけ悲しくなった。

 

『うーん。正直飽きちゃったからここで終わりにしようか』

 

 

〈蛇喰視点〉

 

 

僕は床に押さえつけられたまま呼吸を繰り返していた。

 

「はぁっ…はぁっ…」

 

肺が苦しい。胸が痛い。体に力が入らない。

 

この僕が小鳥遊ごときに押さえつけられている。悔しくて堪らなかった。ただ、これで諦めるつもりはない。絶対にこの屈辱を小鳥遊にも味わせてやる…!

 

そのときだった。

 

「あーあ」

 

声がした。でも、小鳥遊の声じゃない。

そこに、何かがいた。

人みたいな形をしているが、人じゃない。小鳥遊の隣にするりと立って僕を見下ろしている。

 

「……何、お前」

 

声が、掠れた。

 

「悪魔だよ」

 

笑いながら答えた。

 

「…悪魔?そんなわけ——」

 

そんなものが、いるはずない。

 

「まだ頑張るの?」

 

悪魔を名乗るやつがしゃがみ込んで僕の顔を覗き込んだ。

まるで子供を見るみたいに。

 

「……来るな」

 

「うんうん」

 

「来るな……」

 

「怖いよね」

 

僕は首を振る。

 

「違う……」

 

「そうだね」

 

「違う……」

 

「怖くなんてないよね」

 

悪魔は優しく笑った。

 

「疲れたでしょう?」

 

身体が僅かに震える。

 

「眠れてないもんね」

 

「……」

 

「ご飯もあんまり食べてない」

 

「……」

 

「ずっと一人で考えてた」

 

僕は返事をしない。

全部当たっていたからできなかった。

 

「苦しかったね。誰も分かってくれなかった。辛かったね」

 

「……うるさい」

 

「うん。辛かったね」

 

まるで父親が子供をあやすみたいだった。

なぜか甘えたくなって、僕は目を閉じる。

 

「頑張ったね。本当に頑張った」

 

「……」

 

その瞬間、何かが揺らいだ、

怒りでもないし恐怖でもない。

もっと奥。懐かしくて暖かくて、でもずっと固く閉じていた場所。

 

「もう頑張らなくていいよ。蛇喰くんは男の子なんだから、もう戦わなくていいだよ」

 

「……いや」

 

「うん」

 

「いや……だ」

 

「そうだね。でも疲れたでしょう?」

 

呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 

「……つかれた」

 

「知ってるよ。ずっと疲れてた。だからもう休もう」

 

僕は首を振ろうとする。

でも、思ったほど動かない。

 

「……だめ」

 

「どうして?もういいんだよ。考えなくていい。苦しまなくていい。全部終わったから」

 

目から涙が落ちたが、これは怒りの涙じゃない。悔しさでもない。

ただ疲れていた。本当に疲れていた。

 

「いい子だね」

 

悪魔が頭を撫でる。気持ちよくて拒絶できない。

 

「ほら力を抜いて」

 

「……うん」

 

「大丈夫。怖くない」

 

「……うん」

 

「いい子」

 

「……うん」

 

「寂しかったね」

 

「……さびしかった」

 

「苦しかったね」

 

「……くるしかった」

 

「もう大丈夫」

 

悪魔の声は完全に子守歌だった。

 

「これからは栞さんがいる。栞さんが守ってくれる」

 

「……しおりさん」

 

「栞さんが必要なんだ」

 

「……うん」

 

「栞さんが好き」

 

「すき」

 

悪魔は満足そうに微笑んだ。

 

「よくできました!じゃあ、もう泣くのはやめようね。大好きな栞さんに笑顔を見てもらおう」

 

その瞬間。

 

蛇喰巳波という名前の中にあった何かが、静かに沈んだ。

少年は、涙で濡れた顔のまま、ゆっくりと小鳥遊を見上げた。

 

そして笑った。

それは、これまでのような計算された笑顔ではなかった。

誰かを支配するための笑顔でもない。

ただ、好きな人を見つけた恋する乙男のような、あまりにも無垢な笑顔だった。

 

小鳥遊は何も言えなかった。

 

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