目に入ってきたものが雨なのか血なのか、もう判別もつかなかった。
頬を打つ冷たさの中に、生温い感触が混ざっている。
瞼を流れた液体が視界を赤く濁らせ、世界そのものが血を被ったように見えた。
肺が潰れている、そう錯覚するほど呼吸が重い。
「……ッ、ぁ……」
息を吸うたび、胸の奥で濡れた音が鳴った。
喉に込み上げた鉄臭さを吐き捨てるように血を垂らし、侍はかろうじて倒れるのを堪える。
左脇腹の銃創が熱い。
鉛を撃ち込まれたとは思えない、煮えた鉄を流し込まれているような痛み。
呼吸に合わせて血が溢れ、脇腹を伝って袴へ染み込んでいくのが分かる
腿の傷も深い。力を込めるたび筋肉が裂ける感覚がある。
だが、それでも立っていた。
握った刀だけは離さない。
脇腹と腿から流れた血は袴を重くし、雨水と混ざって足元へ落ちている。
血と雨で柄巻は滑り、指の感覚も曖昧になっている。
侍は無意識に握り直した。
掌に馴染み切った重み。幾千、幾万という素振りと死合いで身体に刻み込まれた感覚。
この刀を落とした瞬間、自分は終わる。
刃に絡みついた血が雨で薄まり、月光を鈍く返していた。
何人斬ったか、もう覚えていない。
途中から数える気も失った。
泥濘に転がる死体が、ただ結果だけを示している。
だが最後の二人だけは、まだ立っている。
雨音の向こうでまだ呼吸が聞こえている。
自分を囲んでいたはずの刺客達は、いつしかこの二人のみ。
それでも逃げないのは使命感か、それとも恐怖で脚が動かないのか。
侍は血混じりの息を吐いた。
口の端から黒い血が垂れる。
喉の奥に鉄臭さが張り付き、吐き出しても消えない。
その瞬間、不意に膝から力が抜けかけた。
「……っ」
視界が揺れる。
危うく地面へ崩れ落ちそうになり、侍は無理矢理脚へ力を込めた。
(……限界か)
脳裏で冷静な声が響いた。
出血のせいで寒いはずなのに身体は異様に熱い。
耳鳴りが酷い。
遠くの雷鳴が水の中みたいに聞こえる。
視界はぼやけ、指先の感覚も薄い。
出血量はとうに致命の域だ。
振り下ろされた刀を刃で跳ね上げ、火花と共に軌道を逸らし、
体ごと間合いの内側に入り体当てをかます。
かつては、生き残るためだけに刀を振っていた。
斬らねば死ぬ。
弱ければ食われる。
ただそれだけだった。
だが、いつからだったか。
強くなり過ぎたのかもしれない。
並の相手では心が動かない。
脳が灼けるような死線、一瞬遅れれば首が飛ぶ感覚。
骨が軋み、血が沸騰するような死合い。
そういうものに飢える自分がいた。
皮肉なものだ、と侍は自嘲気味に口元を歪めた。
明日も生きていく為の手段として刀を取ったはずなのに、
いつしか“強者と斬り結ぶため”の手段になっていた。
これでは文字通りの本末転倒ではないのか、わざわざ自ら死期を早めている訳で。
雨が頬を叩く。
遠雷が轟いた。
侍は最後の一人へ歩み寄り、首を断とうとした、その瞬間だった。
世界が白に塗り潰された。
銃か。あるいは、自分の命が尽きたのか。
何も分からない。
ただ腹の底を巨大な拳で殴り抜かれたような衝撃だけが全身を貫いた。
「──ッ」
浮く。
身体が。
いや、沈んでいるのか。
深い沼の底へ引きずり込まれるような感覚。
内臓を裏返されるような不快感。
肉体と魂が無理矢理引き剥がされるような錯覚。
そして。
“気配”
反射だった。
意識より先に身体が動く。取り落としかけた刀で再び切りかかろうとして──
そこで意識が途切れた。
次に目を開けた時、最初に見えたのは石組みの天井だった。
(……天井?)
理解が追いつかない。
さっきまで自分は雨に濡れていたはずだ。
血と泥に塗れ、雷鳴の下で刀を握っていた。
だが今、視界にあるのは灰色の石だった。
巨大な梁。幾重にも並ぶ柱。
高過ぎる天井。
まるで神仏でも祀るために造られたような空間。
燭台の火が静かに揺れ、金色の光が広間を照らしている。
侍は床へ倒れたまま、荒く息を吐く。
瞬間、胸の傷が軋んだ。
「──が、ッ……!」
肺が潰れるような激痛。
咳き込んだ口から血が零れ、灰色の石床へ赤黒く広がる。
脇腹の傷も熱い。
いや、さっきより痛む。
血が固まりかけた所へ無理矢理刃を捩じ込まれるような感覚だった。
左脚もまともに動かない。
力を入れた瞬間、肉が裂ける感覚が走る。
どこかで手当しなければ半刻を持たないだろう。
そんな時に感じた違和感。
「香………?」
鼻を掠めたのは先程の様な血臭でも雨と土の匂いでもなかった。
代わりに、香木にも似た静かな匂い。
どうにか起き上がり、刀を腰の鞘に納めて一呼吸。
「……生きているのか」
あるいは、
(ここが黄泉の国か)
そう考えた瞬間。
気配、背後。
思考より早く身体が反応した。
刀へ手が伸びる。
鯉口を切る音が静寂に響く。
「…………」
視線の先。
そこに女が立っていた。
肌の露出の無い黒い装束。
白銀のような髪色、燭台の光に照らされて金色のようにも見える。
折れてしまいそうな細い身体。
そして顔の上半分を覆う黒い布、盲目なのだろうか。
忍びのように肌の出ない服、一応年若い女に見えるが。
だが妙な事に静か過ぎる。
そこに立っているだけなのに、水面のような気配を纏っている。
死に向かい合った老境とも取れる気配。
侍は微かに目を細めた。
殺気を向けても動じない。
普通の人間なら、それだけで呼吸が乱れる。または腰が引けるか抜けるか、
だが女はそんな素振りすら見せずに燭火の中で、静かに口を開く。
「……安心してください」
どこか妙に遠い声。
それでいて眠る者へ囁く声音にも似ている。
「あなたは、もう追われていません」
侍は答えずにただ観察を続ける。
(信用できるか)
この距離なら斬れる。
ここまで満身創痍だとしても、簡単に仕留める事が出来そうな体躯。
今の状態でも、抜き付けだけでも首へ届く。
だが。
……妙だ、隙はあるし、武人にも見えない。
それなのに、斬れる感覚が薄い。
まるで深い水面へ刃を向けているような掴み所の無さがあった。
少なくとも今は殺気を感じられないが、油断ができる状態ではない。
到底透けて見える様な厚さではない目隠しの奥。
見えていないはずなのに、女はこちらを正確に捉えている気がした。
「酷い傷ですが、大丈夫なのですか?」
大丈夫な訳がないだろう、
やはり見えている気がしたのは間違いだったのだろうか。
しかし沈黙が続く空気に耐え切れなかったのは侍だった。
「……ここはどこだ」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
喉の奥にある引っ掛かりは固まった血だろう。
女は少し沈黙する。
まるで幼子に現実を伝える時に言葉を探すかのように。
そして静かに告げた。
「あなた達の言葉で言うなら……異界、でしょうか」
侍の眉が驚きを隠しきれず僅かに動く。
“異界“
どこかで聞いたような言葉、仙境異聞だったか、
どちらかと言えば黄泉の国ではないのか。
だがそんな思考の沼に陥る前に刀の重みも、傷の痛みが現実すぎた。
一瞬、気でも狂ったかと思った。
だが否定材料が無い。
夢や幻覚ではないとしたのなら、建物の様子も空気も匂いも、自分の知るどの土地とも違う。
遠くで鳴り続ける雷鳴だけが、辛うじてさっきまでの確かだった現実を思い出させた。
しかし今度は女が沈黙に耐え切れなかった。
「少し、傷を見せてもらえますか」
侍は女を見る。
信用はしていないし、というか医者なのだろうか?
しかし、このままでは長くない事が自分でも分かっている。
治療できるのなら利用するまで、まだ聞きたいことも残っている。
「……勝手にしろ」
声を出すと、再び喉の奥が焼けるように痛んだ。
女は小さく頷いた。
まず肩へ手を伸ばす。
侍の身体が僅かに強張った。
だが、女の手つきに乱暴さはない。
傷の周囲を確かめるように、指先が触れる。
その瞬間だった。
淡い光が、女の手から滲み出した。
なんだこれは、
炎でもない。
蝋燭の明かりとも違う。
白とも金ともとれる光が、女の指先からゆっくりと広がっていく。
侍は反射的に刀へ手を掛けた。
「動かないでください」
女の声は今の光がさも当たり前かのように静かだった。
光が肩の傷へ集まっていく。
暖かい、それが皮膚の奥へ入り込み、痛みのある場所をゆっくりと包んでいくようだ。
(……痛みが)
消えていく。
完全ではない。
だが、確実に軽くなっている。
侍は目を細めた。
(どんな絡繰りか皆目見当もつかんな…)
女の手が離れる、その頃には肩の痛みも違和感も消え去っていた。
次に脇腹へ向かう。
羽織と着物をずらし、銃創へ手を当てる。
侍の身体が再び強張った。
ここは特に酷い。
呼吸をするたびに鈍い痛みが走っていた。
女の手から、先ほどと同じ光が流れ込む。
「……っ」
思わず息が漏れる。
痛みがすぐに引いていく。
呼吸が少し深くなる。
(……おかしい)
頭の芯まで響いていた痛みが、明らかに薄れている。
侍は自分の呼吸を確かめたが、先ほどよりずっと楽になった呼吸に、
…治っている
と判断するしかなかった。
理屈は分からない。
だが、自分の身体ほど確かな証拠はない。
女は次に腿へ手を当てた。
そこにも光が集まる。
傷の周囲に残っていた痛みが、少しずつ遠のいていく。
さらに腕。
頬。
胸元。
大きな傷から細かな傷の一つ一つへ、女は同じように手を当てていった。
侍はその間、一言も発さず女を観察していた。
迷いがない。
どこへ手を当てればいいのかも分かっている。
しかも目隠しをしたまま、だ。
女は一度も傷を探すような動きをしない。
まるで見えているかのようだった。
やがて最後の光が消える。
女が手を離した。
侍はゆっくりと息を吸う。
先ほどまでなら胸の奥に引っ掛かっていた痛みが、かなり軽くなっている。
肩も動かせる。
腿にも力が入る。
脇腹の痛みも、まだ残ってはいるが、戦う前とは比べものにならない。
侍は自分の身体を確かめるように、肩を僅かに動かした。
(……動く)
信じられない。
だが、信じるしかない。明らかに身体の調子が違う。
さっきまで死へ向かっていた身体が、無理やりこちら側へ引き戻されたようだった。
侍は女を見る。
(医者ではない…のだろう)
こんな治療をする者を自分は知らないし、漢方や生薬の匂いもしない。
そもそも、こんな光を使う者を見たことがない。
神仏に仕え手をかざすだけで傷を治す者の話を聞いたことがあるが、まったくの与太話だと考えていた。
「これで、少しは楽になったはずです」
(少し、だと)
侍は内心で呟く。
少しどころではない。
歩く死体の様だった身体が、殆ど万全と言える程度には戻っている。
しかし刀から手を離せない。
侍はゆっくりと女を見据えた。
(……助けられた)
認めるしかない、先程の光は現実だと。
だが、それ以上に気になることがある。
此処は何処なのか。
本当に日本ではないのか。
この女は何者なのか。
頭の中の疑問を口に出す前に女が口を開いた。
「私が、あなたをここへ呼びました」
(……俺を?)
女の言葉が頭に残る。
呼んだ。という事は偶然ではない。
自分は、この女の手によってここへ来た。
何故。何のために。
そもそも、この女にそんなことができるのか。
再び疑問が次々と頭に浮かぶ。
侍は女を見た。
声や手袋から覗く肌はまだ若い様に思えるが、あのような髪色。
黒い目隠しにこれまた黒い装束。
傷を癒やした、得体の知れない光。
そして、自分を異界へ呼んだという言葉。
(……厄介なことになった)
長年の経験が告げている。
理解できないものに対処できない時、人は簡単に死ぬ。
一子相伝、門外不出の技などがよい例だ。
そして目の前の女は間違いなく、自分がこれまで見てきた物の中で最も理解が出来なかった。
メカクレっていいなぁ、