また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

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幕間:春麗は、リュウの視線を逃がさない

 春麗は、道場の床を踏み鳴らした。

 

 乾いた音が一つ、夜の静けさに響く。

 

 誰もいない。

 

 観客もいない。

 対戦相手もいない。

 歓声も、勝者を讃える声も、敗者を慰める声もない。

 

 あるのは、磨き込まれた床と、壁に並ぶ武具と、春麗自身の呼吸だけだった。

 

 けれど、春麗の中には、確かにリュウがいた。

 

 白い道着。

 赤い鉢巻。

 静かな目。

 まっすぐな拳。

 

 そして、最後に自分へ届いた拳。

 

 春麗は奥歯を噛んだ。

 

 負けた。

 

 思い返すたび、その事実が胸の奥で熱を持つ。

 

 ただ負けたから悔しいのではない。

 

 勝つつもりだった。

 

 対策もしていた。

 リュウの踏み込みも、拳の置き方も、耐え方も、反撃の癖も、何度も想定した。

 

 リュウならここで拳を置く。

 なら自分はこう外す。

 リュウなら踏み込む。

 ならその先で崩す。

 

 そうやって組み立てた。

 

 それだけではない。

 

 勝った後に言う台詞まで、考えていた。

 

 その拳、前より近かったわ。

 でも、まだ届いてない。

 

 悪くない台詞だと思っていた。

 

 リュウの成長を認める。

 でも勝者として、まだ届かないと突きつける。

 

 言えば、リュウは悔しそうに拳を握ったはずだ。

 目を逸らさず、次は届かせると静かに燃えたはずだ。

 

 春麗は、その顔まで想像していた。

 

 なのに、言えなかった。

 

 届かせたのは、リュウの方だった。

 

 春麗はもう一度、床を踏んだ。

 

 今度は少し強かった。

 

 足音が鋭く響く。

 

 あの瞬間、リュウは自分の踏み込みの前に入ってきた。

 こちらの攻撃を受けるのではなく、攻撃が完成する前に潰した。

 

 強烈な一撃ではなかった。

 

 だが、最悪の一撃だった。

 

 肩口を止められ、踏み込みの軸を潰され、次の蹴りが出なかった。

 逃げようとした先に拳を置かれた。

 最後に胸元を押し込まれ、膝が落ちた。

 

 片膝をついた。

 

 自分が。

 

 リュウを見上げた。

 

 自分が。

 

 春麗は拳を握った。

 

 指に力が入りすぎる。

 

 そして、リュウは言った。

 

 また戦ってくれ。

 

 今度は、俺が待つ。

 

 優しい言葉のようだった。

 

 でも、春麗には違って聞こえた。

 

 今度は、お前が来い。

 

 そう言われたのと同じだった。

 

 今までは、春麗が迎え撃つ側だった。

 勝者として立ち、リュウを煽り、悔しいならまた来なさいと言ってきた。

 

 だが、あの時は違った。

 

 リュウが立っていた。

 春麗が膝をついていた。

 リュウが待つと言った。

 春麗が挑む側になった。

 

 それが、腹立たしいほど効いていた。

 

 「……言わせてくれるじゃない」

 

 春麗は低く呟き、蹴りを放った。

 

 鋭い蹴り。

 

 床すれすれで止める。

 

 止めた足先が、わずかに震えた。

 

 悔しい。

 

 本当に悔しい。

 

 勝ち台詞まで考えていた自分が負けたこと。

 リュウに見下ろされたこと。

 しかも彼が、春麗のように露骨には煽らなかったこと。

 

 その静けさが、余計に刺さる。

 

 いっそ、言えばよかったのだ。

 

 まだ届いていない、と。

 修業が足りない、と。

 いつもの春麗のように、勝者として冷たく笑えばよかった。

 

 そうしてくれれば、腹を立てられた。

 

 けれどリュウは、ただ言った。

 

 また戦ってくれ。

 

 今度は、俺が待つ。

 

 春麗は胸の奥でくすぶる火を、呼吸で押し込めた。

 

 怒りではない。

 

 いや、怒りもある。

 

 だが、それだけではない。

 

 悔しさ。

 焦り。

 そして、次に向かう熱。

 

 リュウは待つと言った。

 

 なら、行く。

 

 ただし、同じ蹴りでは行かない。

 同じ読みでは行かない。

 同じ春麗では、もう足りない。

 

 春麗は構えを解いた。

 

 ふと、別の記憶がよみがえる。

 

 観客のいないステージ。

 

 夜の石畳。

 灯籠の光。

 そして、自分が選んだ黒いドレス。

 

 なぜあの服を選んだのか、今でもはっきりとはわからない。

 

 ただ、リュウの前にいつもと違う姿で立った時、彼がどんな顔をするのか見てみたかった。

 

 それだけは、今なら認められる。

 

 そして、リュウは見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 呼吸が止まった。

 視線が揺れた。

 見ないようにして、それでも見てしまっていた。

 

 春麗はその一瞬を見逃さなかった。

 

 膝を入れ、蹴りで崩し、最後にリュウを倒した。

 

 姿が変わっただけで隙を見せるなんて、修業が足りないわね。

 

 そう言った時のリュウの顔を、春麗は今でも覚えている。

 

 悔しそうだった。

 

 けれど、初めて負けた時の顔とは違った。

 

 あの時のリュウは、春麗を侮っていたわけではなかった。

 手加減していたわけでもない。

 女性だから拳が鈍ったわけでもない。

 

 むしろ、警戒していた。

 

 春麗を強敵として見ていた。

 何度も自分を倒し、自分も一度は倒した相手として、まっすぐ向き合おうとしていた。

 

 それでも揺れた。

 

 春麗の姿に。

 黒いドレスに。

 いつもとは違う立ち姿に。

 

 初めて戦った時の隙とは違う。

 

 あの頃のリュウは、春麗を女性として見てしまい、格闘家としての危険を見誤った。

 

 それは腹立たしい隙だった。

 

 だが、黒いドレスの時は違った。

 

 リュウは春麗を格闘家として見ていた。

 強敵として見ていた。

 ライバルとして見ていた。

 

 そのうえで、女としての春麗にも反応した。

 

 春麗は目を伏せた。

 

 あれは、侮りじゃない。

 

 私を全部見ようとして、見切れなかった隙。

 

 そう思った瞬間、胸の奥に甘い熱が広がった。

 

 リュウを倒したことは嬉しかった。

 勝ったことも嬉しかった。

 

 けれど、それだけではない。

 

 リュウが自分の姿に揺れたこと。

 

 それが、春麗の中で忘れられないものになっていた。

 

 「……馬鹿みたい」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 リュウに対してか。

 

 それとも、それを思い出して少し満足している自分に対してか。

 

 春麗は深く息を吐いた。

 

 でも、使える。

 

 そう思った瞬間、彼女の目が鋭くなる。

 

 速さ。

 蹴り。

 間合い。

 空中からの誘い。

 声。

 表情。

 立ち位置。

 服装。

 視線。

 

 すべて戦場の要素だ。

 

 相手の呼吸を読む材料であり、乱す手段でもある。

 

 ならば。

 

 自分が女性であることも、リュウ相手には戦場の一部にできる。

 

 春麗はその考えを、すぐに否定しなかった。

 

 ただし、誰にでも使うものではない。

 

 そんな安い戦い方をしたいわけではない。

 誰かを惑わせて勝ちたいわけでもない。

 色気で拳の代わりをさせたいわけでもない。

 

 そんなものは、春麗の戦いではない。

 

 でも、リュウは違う。

 

 リュウだけは、自分を格闘家として見ている。

 そのうえで、自分の女性としての姿にも揺れた。

 

 だから、試したくなる。

 

 じゃあ、本当に全部見られるの?

 

 私を女として見ても、拳は鈍らないの?

 

 見ないふりをしないで。

 逸らさないで。

 そのうえで、私に届かせられるの?

 

 それは誘惑ではない。

 

 挑発だった。

 

 リュウの精神と拳を試すための、春麗なりの挑発。

 

 彼が本当に春麗を全部見るというなら、その全部を戦場へ持ち込む。

 そこでなお拳が鈍らないか、確かめる。

 

 春麗はゆっくりと構えた。

 

 目の前に、想像のリュウを置く。

 

 いつもの距離より、一歩近く立つ。

 

 近い。

 

 この距離のリュウは危険だ。

 拳が届く。

 踏み込みの起点が短い。

 一瞬で間合いを潰される。

 

 だが、リュウにとっても危険な距離のはずだ。

 

 春麗の蹴りも、膝も、掌底も届く。

 そして何より、視線を逃がせない。

 

 春麗は、想像のリュウと目を合わせた。

 

 攻撃前に、あえて動かない。

 

 蹴りの前に、静止を入れる。

 

 リュウが視線を逸らすかを見る。

 

 逸らしたなら、そこを突く。

 

 呼吸が乱れれば膝。

 肩が固まれば掌底。

 足が止まれば、軸を払う。

 

 では、逸らさなかったら?

 

 春麗は一瞬、動きを止めた。

 

 想像の中のリュウは、目を逸らさなかった。

 

 黒いドレスの自分。

 近い距離。

 灯籠の光。

 夜気に揺れる布。

 自分の呼吸。

 

 リュウは、見ないふりをしない。

 

 逸らさない。

 

 まっすぐに見る。

 

 そして、静かに言う。

 

 全部見る。

 

 春麗の胸が、不意に鳴った。

 

 動きが止まった。

 

 本当に、ほんの一瞬。

 

 その一瞬に、春麗は気づいた。

 

 これは、自分にも返ってくる。

 

 リュウの視線を利用しようとしている。

 リュウが揺れた瞬間を突こうとしている。

 

 でも、もしリュウが揺れなかったら。

 

 いや、揺れていても、逃げなかったら。

 

 春麗を女としても、格闘家としても、ライバルとしても全部見たうえで、まっすぐ拳を向けてきたら。

 

 その時、揺れるのは自分かもしれない。

 

 春麗の頬に、わずかに熱が集まる。

 

 「……違う」

 

 すぐに呟いた。

 

 これは戦術よ。

 

 相手の視線を読むだけ。

 呼吸を読むだけ。

 間合いを測るだけ。

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 言い訳のように聞こえた。

 

 以前も似たようなことを思った。

 

 リュウに勝った後の煽り台詞を考えていた時も、同じように自分へ言い聞かせた。

 

 これは戦術。

 相手の精神を揺さぶるためのもの。

 

 今回も同じ。

 

 そう。

 

 同じはずだ。

 

 春麗は軽く頭を振り、再び構えた。

 

 想像のリュウが前へ出る。

 

 視線を逸らさないまま。

 

 春麗はその覚悟ごと崩すつもりで、距離を詰めた。

 

 目を合わせる。

 呼吸を見る。

 肩の沈みを見る。

 拳の起点を見る。

 

 リュウが見てくるなら、こちらも見る。

 

 リュウの視線がどこへ落ちるか。

 呼吸が乱れるか。

 拳がほんの少し遅れるか。

 

 逸らせば突く。

 

 逸らさなくても、突く。

 

 逸らさないなら、その視線を受けている自分の揺れすら押し込めて、さらに踏み込む。

 

 春麗は蹴りを放った。

 

 鋭く、低く。

 

 床を切るように。

 

 続けて掌底。

 リュウが耐える想定で、膝。

 踏み込んでくる想定で、横へ流れる。

 拳を置かれる前に、あえて近づく。

 

 ただ速いだけではない。

 

 ただ誘うだけでもない。

 

 視線を誘う。

 呼吸を測る。

 沈黙で圧をかける。

 近さそのものを武器にする。

 

 リュウが見るなら、見せる。

 

 見たうえで揺れないなら、その覚悟を崩す。

 

 リュウが見ないなら、見ないことを隙にする。

 

 春麗は動きながら、胸の中にある悔しさを思い出した。

 

 前回、リュウに届かせられた。

 勝つつもりだったのに、負けた。

 煽るつもりだったのに、煽られる側になった。

 

 また戦ってくれ。

 今度は、俺が待つ。

 

 あの静かな声。

 

 あれを思い出すだけで、足に力が入る。

 

 「待つ、ね」

 

 春麗は小さく笑った。

 

 待っていればいい。

 

 勝者の顔で。

 静かな目で。

 あの腹の立つほど真っ直ぐな拳を握って。

 

 今度はこちらが行く。

 

 ただし、前と同じ春麗では行かない。

 

 黒いドレスで得た手応えを、偶然の勝利で終わらせない。

 リュウが自分に見せた一瞬の揺らぎを、ただの気まぐれにしない。

 

 春麗は、今ならはっきり言える。

 

 あれも戦いだった。

 

 拳や蹴りだけではない。

 視線も、呼吸も、立ち姿も、すべてが戦いだった。

 

 ならば次は、最初からそれを使う。

 

 リュウ相手だけに。

 

 リュウだからこそ。

 

 春麗は最後の蹴りを放ち、床すれすれで止めた。

 

 道場に静寂が戻る。

 

 呼吸が少し乱れている。

 

 額に汗が浮かぶ。

 

 春麗はゆっくりと目を閉じた。

 

 想像の中で、リュウが立っている。

 

 こちらを見ている。

 

 今度は、目を逸らさない。

 

 春麗は、その視線を受け止める自分を想像した。

 

 胸が少しだけ熱くなる。

 

 怖くはない。

 

 ただ、危うい。

 

 その危うさごと、戦場へ持ち込む。

 

 リュウが全部見るというなら、見せてあげる。

 

 でも、見たうえで拳を鈍らせずにいられるかは、あなた次第よ。

 

 春麗は目を開けた。

 

 その目には、もう迷いはなかった。

 

 次は、逃がさない。

 

 目を逸らしても、逸らさなくても。

 

 あなたの視線ごと、私が崩す。

 

 春麗は道場の入口へ向かって歩き出した。

 

 前回の敗北は、まだ痛い。

 

 勝ち台詞を言えなかった悔しさも、リュウに待つと言われた屈辱も、胸の奥に残っている。

 

 でも、それでいい。

 

 この悔しさを次の蹴りに変える。

 この熱を次の踏み込みに沈める。

 この危うさを次の間合いに持ち込む。

 

 春麗は立ち止まり、振り返った。

 

 誰もいない道場。

 

 けれど、そこには確かにリュウとの次の戦いが見えていた。

 

 「待っていなさい、リュウ」

 

 声は静かだった。

 

 だが、その奥には燃えるような決意があった。

 

 「今度は私が、あなたに届かせない」

 

 春麗は小さく笑う。

 

 勝者の笑みではない。

 

 挑む者の笑みだった。

 

 そして、その笑みの中には、リュウの視線を逃がさないと決めた女格闘家の、鋭く危うい熱が宿っていた。

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