また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
夜明け前の山中は、まだ暗かった。
空の端だけがわずかに白みはじめ、木々の輪郭が影のように浮かんでいる。風が枝を揺らし、葉擦れの音が静かな修行場に流れていた。
観客はいない。
歓声もない。
審判の声もない。
勝者を讃える拍手も、敗者を笑う声もない。
あるのは、土を踏む感触と、冷えた空気と、リュウ自身の呼吸だけだった。
リュウは、修行場の中央に立っていた。
春麗を待っている。
前回、いつもの武道服の春麗には勝った。
あの勝利は、決して軽いものではなかった。春麗は勝つつもりで来ていた。こちらの拳を読み、踏み込みを読み、勝った後の言葉さえ用意していたのだろう。
その半拍に、拳が届いた。
だが、リュウはその勝利に浮かれることができなかった。
黒いドレスを着た春麗には、負けている。
観客のいないステージ。
灯籠の光。
いつもと違う春麗の姿。
黒い布の揺れ。
そして、そこから生まれた一瞬の視線の揺らぎ。
見ないようにして、負けた。
意識しないようにして、かえって意識した。
春麗を侮ったわけではない。
手加減したわけでもない。
春麗を強敵として見ていた。
それでも、視線が揺れた。
そして春麗は、それを見逃さなかった。
リュウは静かに拳を握る。
次は、目を逸らさない。
見る。
春麗の姿も。
動きも。
呼吸も。
拳も。
視線も。
黒いドレスの揺れさえも。
全部見る。
その上で、拳を鈍らせない。
そう決めていた。
だが、決めたからといって、それが容易になるわけではない。
リュウはわかっている。
春麗は、こちらの決意すら戦場に変えてくる。
風が少し強く吹いた。
木々が揺れる。
その音の中に、かすかな足音が混じった。
リュウは顔を上げた。
山道の影から、春麗が現れた。
黒いドレスだった。
いつかと同じ黒いドレスを身に着けていた。
夜明け前の薄闇の中で、彼女の輪郭だけが静かに浮かび上がる。布が風に揺れ、足運びに合わせてわずかに形を変える。
いつもの武道服とは違う。
だが、目は春麗そのものだった。
鋭く、静かで、こちらの一呼吸さえ逃さない目。
リュウの胸が、ほんのわずかに揺れた。
予想していた。
黒いドレスで来るかもしれないと考えていた。
それでも、実際に目の前に立たれると、何も感じないわけではなかった。
黒いドレス姿の春麗を見て、リュウは胸が揺れるのを感じた。
それは、前回と同じ揺れだった。
だが、今回はその揺れから目を逸らさなかった。
春麗は格闘家だ。
そして、女でもある。
そのどちらかだけを見ようとすれば、また見誤る。
格闘家としてだけ見ようとして、女としての春麗を見ないふりをすれば、それはまた逃げになる。
女としての姿にだけ奪われれば、拳は鈍る。
どちらかを消して見ることはできない。
消そうとすれば、春麗は必ず読む。
ならば、全部見るしかない。
胸が揺れたことも。
黒いドレスの春麗を美しいと思ったことも。
その上で、彼女が誰より危険な格闘家であることも。
すべてを見たうえで、拳を出す。
今日は、隠さない。
リュウは春麗から目を逸らさずに言った。
「……その姿で来たのか」
春麗は軽く笑った。
「ええ。前は、これであなたを倒したもの」
「覚えている」
「また隙を見せる?」
春麗の声は涼しかった。
挑発している。
だが、その挑発の奥で、こちらの視線を見ている。
リュウにはわかった。
春麗は、黒いドレスを見せているのではない。
黒いドレスを見たリュウを見ている。
リュウは静かに息を吐いた。
「今日は、見ないふりはしない」
春麗の目が、ほんの少し細くなった。
「そう」
黒いドレスの裾が、風で揺れた。
「なら、ちゃんと見ていなさい」
それが合図だった。
しかし、春麗はすぐには動かなかった。
一歩、近づいてくる。
いつもの間合いより、半歩近い。
攻撃の距離ではある。
だが、まだ踏み込めば互いに届く距離。
春麗はそこで止まった。
リュウの目を見る。
リュウは逸らさない。
春麗の顔を見る。
目を見る。
肩を見る。
足を見る。
黒いドレスの裾がどの方向へ揺れているかも見る。
見る。
黒いドレスの揺れも。
その奥にある足の運びも。
春麗の目も。
呼吸も。
肩の沈みも。
そして、その姿に自分の胸が揺れていることも。
それを消さない。
消そうとすれば、また隙になる。
前回の自分は、見てしまったことを隠そうとした。
その隠そうとした心ごと、春麗に見抜かれた。
ならば、今回は隠さない。
春麗が美しいことも。
その美しさに一瞬胸が揺れることも。
それでも目の前にいるのが、こちらの一瞬を狩る格闘家であることも。
全部、同じ春麗だ。
リュウはそう受け止めた。
だが、見ているこちらを、春麗もまた見ている。
自分がどこを見ているのか。
どこで呼吸が変わるのか。
どの瞬間に拳が固まるのか。
春麗はそれを見ている。
前回と違う。
前回は、自分が春麗を見てしまったことを隠そうとした。
今回は隠さない。
だが、隠さないこともまた、春麗にとっては情報になる。
リュウは拳を構えた。
春麗が一瞬だけ静止する。
蹴りの前の静止ではない。
視線を試すための静止。
リュウは動かない。
春麗がわずかに笑う。
次の瞬間、彼女が動いた。
低い踏み込み。
黒いドレスが一拍遅れて揺れる。
リュウは布を見た。
だが、そこに奪われない。
布の揺れの奥、膝の向きを見る。
春麗の蹴りが来る。
リュウは腕で受けた。
鋭い。
二撃目。
今度は角度を変えてくる。
リュウは半歩下がらず、横へずれる。
三撃目。
遅らせてくる。
リュウはその遅れを見ていた。
拳を置く。
春麗の腕に当たった。
「……っ」
春麗の動きが、ほんの少し止まる。
届いた。
浅い。
だが、前回とは違う。
リュウは心の中で確認した。
見られても、逸らさない。
揺れても、拳は鈍らせない。
春麗はすぐに距離を取った。
その顔に、ほんのわずかな驚きがあった。
だが、それはすぐに消える。
代わりに、春麗の目がさらに鋭くなった。
「いいじゃない」
春麗が呟く。
「少しは見られるようになったのね」
リュウは答えない。
春麗が再び入ってくる。
今度は、攻撃の前に目を合わせてきた。
視線。
静止。
黒いドレスの揺れ。
足の運び。
肩の呼吸。
声。
「こっちよ」
春麗の声が、低く落ちる。
リュウは反応しない。
だが、情報が増えた。
見るべきものが多い。
足。
肩。
視線。
布。
呼吸。
距離。
声。
そして、そのすべてをまとった春麗自身。
全部見る。
そう決めた。
だが、全部見るということは、全部が一度に入ってくるということだった。
黒いドレスの動きだけを切り離せない。
蹴りの軌道だけを拾えない。
春麗の視線だけを無視できない。
その姿に自分が反応していることも、戦場の外へ追い出せない。
すべてが春麗で、すべてが攻撃になり得る。
春麗の足が沈む。
低い蹴りか。
いや、上体がわずかに残っている。
掌底。
違う。
視線が先に動いた。
誘い。
その判断の半拍。
春麗の膝が腹へ入った。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
続けて掌底。
リュウは腕で受ける。
春麗はすぐに離れない。
近い。
近いまま、目を合わせてくる。
黒いドレスの輪郭が視界の中で揺れる。
リュウは春麗を見る。
春麗もリュウを見る。
見ている。
だが、春麗の方が一枚上にいる。
彼女は、見られていること自体を使っている。
リュウが目を逸らさないことを確認した上で、見るべき情報を増やしている。
前回は、見てしまった隙を突かれた。
今回は違う。
見ようとしすぎた遅れを突かれている。
リュウは歯を食いしばった。
春麗の蹴りが来る。
一撃。
二撃。
三撃。
受ける。
かわす。
しかし、完全には外しきれない。
肩を打たれ、脇腹を削られ、胸元を押される。
それでも、リュウは下がらない。
春麗の目を見た。
黒いドレスも見る。
足も見る。
呼吸も見る。
その姿に自分の胸が揺れることも見る。
そして、そのすべてを、もう一度整理する。
春麗が低く沈む。
今度は本当に足。
リュウは跳ばない。
軸をずらす。
春麗の足が空を切る。
そこへ拳を置く。
春麗はかわす。
だが、完全ではない。
リュウの拳が、春麗の肩を打った。
春麗の呼吸が乱れる。
「……っ」
リュウは踏み込んだ。
いける。
いや、勝ちを意識するな。
だが、今の拳は届いた。
春麗の動きが遅れた。
ここで押せば、流れを取れる。
リュウはさらに前へ出る。
春麗は後退しない。
むしろ、目を合わせたまま近づいてくる。
危険だ。
だが、リュウも下がらない。
拳を振る。
春麗の腕に当たる。
二撃目。
春麗の脇腹をかすめる。
三撃目。
春麗の黒いドレスが、視界の端で翻る。
そこに足の軌道が重なる。
リュウは見た。
低い蹴り。
いや、違う。
蹴りを見せた膝から、上体が残る。
掌底。
リュウは肘で受けた。
受けた。
読めた。
リュウは踏み込む。
今度こそ、春麗の間合いの内側へ。
拳が春麗の肩口に触れた。
触れた。
あと少しで打ち抜ける。
その瞬間、リュウの視界が狭まった。
春麗全体ではなく、拳の先を見た。
肩口。
打ち抜く場所。
勝ち筋。
その一点へ意識が集まった。
春麗の目が、細くなった。
しまった。
リュウが気づいた時には、春麗はもう動いていた。
春麗は拳の外ではなく、内側へ入ってきた。
リュウの拳は触れている。
だが、打ち抜けない。
春麗の身体が、拳の軌道から半歩ずれる。
同時に、膝がリュウの腹へ入った。
息が止まる。
次に掌底。
胸元を押し込まれる。
リュウは踏みとどまる。
春麗の足が、リュウの軸足に絡む。
体勢が崩れる。
リュウは受け身を取ろうとする。
だが、春麗は離さない。
黒いドレスが視界を横切る。
春麗の腕が肩を押し、足が軸を払う。
リュウの身体が地面へ落ちた。
土の感触。
背中への衝撃。
すぐに起き上がる。
だが、その前に春麗が立っていた。
間合いを制している。
追撃の蹴りが来る。
リュウは腕で受ける。
二撃目は受けきれない。
肩が下がる。
三撃目。
喉元の寸前で、春麗の足が止まった。
勝負は決まった。
リュウは片膝をついていた。
荒い息が喉から漏れる。
腕が重い。
腹が熱い。
春麗もまた、息を乱していた。
肩が上下している。
黒いドレスの裾が、彼女の呼吸に合わせて小さく揺れている。
額には汗が浮かんでいる。
余裕はない。
だが、表情は勝者だった。
春麗はリュウを見下ろした。
その目は、冷たくもあり、熱くもあった。
「ちゃんと見ていたわね」
リュウは何も返せなかった。
春麗は一拍置いた。
そして、勝者として笑う。
「でも、見ていただけじゃ私には届かないわ」
言葉が胸に刺さった。
それは侮辱ではなかった。
少なくとも、ただの侮辱ではない。
春麗は認めている。
リュウが前回とは違ったことを。
目を逸らさなかったことを。
黒いドレスの春麗を、逃げずに見たことを。
その上で、まだ足りないと言っている。
見ていただけでは届かない。
リュウは拳を握った。
その通りだった。
前回は、見られなかった。
今回は、見た。
春麗の蹴りも。
呼吸も。
黒いドレスも。
その姿に揺れる自分も。
確かに見た。
だが、見たものを拳へ変えるところまでは届かなかった。
春麗を格闘家として見た。
女としても見た。
そのどちらからも目を逸らさなかった。
けれど、その全部を受け止めたうえで、最後まで春麗を捕まえ続けることができなかった。
拳が春麗に触れた瞬間、視界が狭まった。
春麗全体を見ていたはずなのに、勝ち筋だけを見た。
打ち抜ける場所だけを見た。
届く未来だけを見た。
春麗はそこを突いた。
見ていた。
だが、捕まえていなかった。
春麗はさらに言った。
「次に来るなら、その目で私を捕まえてみせなさい」
風が吹いた。
黒いドレスが揺れる。
リュウは春麗を見上げた。
悔しい。
本当に悔しい。
だが、この悔しさは、以前とは違う。
黒いドレスに意識を奪われて負けた悔しさではない。
見ないようにして負けた悔しさでもない。
今回は見た。
春麗を女としても、格闘家としても、目を逸らさずに見た。
それでも、春麗を捉えきれなかった。
だから次の課題がわかる。
見るだけでは足りない。
見た上で、捕まえなければならない。
春麗の視線も。
動きも。
黒いドレスの揺れも。
その姿に揺れる自分自身も。
その先にある一瞬も。
全部見て、それでも一点に狭めず、最後まで春麗全体を捉え続ける。
リュウはゆっくりと息を吐いた。
「……次は、届かせる」
春麗の笑みが、少しだけ深くなった。
「ええ。そうでなくちゃ」
その声には、勝者の余裕があった。
だが、リュウにはわかる。
春麗もまた、ギリギリだった。
彼女の呼吸は乱れている。
拳の入った肩を、わずかにかばっている。
最後の一撃まで、一歩間違えば倒れていたのは春麗だった。
それでも、今立っているのは彼女だ。
黒いドレスをまとい、夜明け前の修行場で、勝者として自分を見下ろしている。
リュウはその姿を、今度は逃げずに見た。
美しいと思った。
強いと思った。
悔しいと思った。
そのすべてを否定しなかった。
春麗は背を向ける。
山の端が少しずつ明るくなり始めていた。
リュウは片膝をついたまま、拳を握る。
届いたと思った拳は、まだ届いていなかった。
見たと思った視線は、まだ捕まえていなかった。
ならば、次だ。
次は、見るだけでは終わらない。
春麗を見て、捉えて、その上で拳を届かせる。
リュウは立ち上がった。
身体は痛む。
だが、心は折れていない。
むしろ、静かに燃えていた。
春麗が与えた言葉が、胸の中で繰り返される。
見ていただけじゃ私には届かない。
リュウは目を閉じ、もう一度その意味を噛みしめた。
見るだけでは足りない。
捕まえる。
次は、そこまで行く。
夜明けの光が、修行場に差し始める。
リュウは春麗が去った道を見た。
黒いドレスの影は、もう見えない。
だが、彼女の姿は確かに目の奥に残っている。
格闘家としての春麗。
女としての春麗。
勝者として自分を煽った春麗。
そして、次もまた自分の前に立つ春麗。
リュウは静かに拳を握り直した。
次に会う時、自分はもう一度言うだろう。
また戦ってくれ、と。
だが、その前に。
次こそ、届かせる。