また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

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幕間:春麗はリュウの悔しがる顔を見たい

 夜明けの山道を下りながら、春麗は右肩に手を触れた。

 

 痛い。

 

 黒いドレスの下、リュウの拳が入った場所が、まだ熱を持っている。

 完全に打ち抜かれたわけではない。

 それでも、あの拳は確かに届きかけていた。

 

 もう少し深ければ。

 もう半歩、リュウの踏み込みが速ければ。

 もう一瞬、自分の反応が遅れていれば。

 

 倒れていたのは、自分だったかもしれない。

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

 勝った。

 

 黒いドレスで、リュウの視線ごと崩して、勝った。

 

 けれど、余裕などなかった。

 呼吸は乱れた。

 肩は痛む。

 腕も痺れている。

 

 それでも、最後に立っていたのは自分だった。

 

 そして、片膝をついていたのはリュウだった。

 

 春麗の脳裏に、その顔が浮かぶ。

 

 悔しそうな目。

 黙って握られた拳。

 折れていない背筋。

 次は届かせる、と静かに燃えている顔。

 

 春麗は足を止めた。

 

 山の端から、朝の光が差し始めている。

 その光の中で、彼女はふと思った。

 

 私、あの顔が見たかったのかもしれない。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

 リュウが負けるところを見たいわけではない。

 

 ただ倒れて、折れて、二度と立ち上がらない顔など見たくない。

 そんなものには興味がない。

 

 春麗は、リュウが負ける顔を見たいわけではなかった。

 リュウが悔しがる顔を見たかった。

 そして、その悔しさを次の拳に変える顔が見たかった。

 

 そのことに気づいてしまい、春麗は少しだけ眉を寄せた。

 

 「……本当に、面倒な相手ね」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 リュウに向けたのか。

 それとも、リュウの悔しがる顔を思い出して胸を熱くしている自分に向けたのか。

 

 春麗は再び歩き出す。

 

 山道の土を踏む音が、静かに続いた。

 

 最初にリュウを倒した時のことを思い出す。

 

 あの時、リュウはまだ春麗を見誤っていた。

 

 女性格闘家。

 

 おそらく、頭では理解していたのだろう。

 春麗が戦う者であり、格闘家であり、油断すべき相手ではないことを。

 

 けれど、拳は違った。

 

 ほんの一瞬、鈍った。

 ほんの一瞬、迷った。

 

 春麗はそれを見逃さなかった。

 

 昇龍拳の隙を誘い、空中から崩し、叩き伏せた。

 

 勝った後、リュウは石畳に膝をついていた。

 

 あの顔には、悔しさだけではなかった。

 

 自分の未熟を突きつけられた恥。

 女性だからと無意識に拳を鈍らせた事実への衝撃。

 初めて女格闘家に叩き伏せられた戸惑い。

 

 春麗は、その顔を見て怒りを覚えた。

 

 それで本気のつもりだったの?

 

 そう言ってやりたかった。

 

 実際、煽った。

 

 勝者として。

 そして、春麗を見誤ったリュウへの罰として。

 

 けれど、あの時のリュウは折れなかった。

 

 膝をついても、目は死んでいなかった。

 悔しさの奥に、次へ向かう火があった。

 

 春麗は、その火を覚えている。

 

 あの時の顔は、まだ今とは違う。

 

 あれは「負けた男」の顔だった。

 自分の甘さを知らされた男の顔だった。

 

 でも、今のリュウの顔は違う。

 

 春麗は、さらに思い出す。

 

 リュウは修行して戻ってきた。

 

 もう手加減などしなかった。

 春麗を女だからと甘く見ることもなかった。

 最初から本気で拳を向けてきた。

 

 それでも、春麗は勝った。

 

 一度だけではない。

 

 何度も。

 

 リュウは本気だった。

 それでも春麗は、彼の踏み込みを読み、敗北の記憶を突き、勝者として立った。

 

 そのたびに煽った。

 

 修行してきて、それ?

 

 負け方だけは上手くなったんじゃない?

 

 言葉は鋭かった。

 とげを含ませた。

 勝者として、容赦なく投げつけた。

 

 だが、リュウは折れなかった。

 

 黙って拳を握った。

 

 春麗の言葉に怒りをぶつけるのではなく、飲み込んだ。

 飲み込んで、次の拳に変えた。

 

 その姿を見ているうちに、春麗の中で何かが変わっていった。

 

 最初は、甘さを叩き潰すためだった。

 

 女性だからと見誤った男に、格闘家としての春麗を思い知らせるためだった。

 

 でも、いつからか違っていた。

 

 リュウが悔しそうに拳を握るたび、春麗は思うようになった。

 

 次はどんな拳で来るのかしら。

 

 どれだけ強くなって戻ってくるのか。

 どれだけ自分を追い詰めるのか。

 どれだけ自分に届こうとするのか。

 

 春麗は、それを待つようになっていた。

 

 勝者として煽る。

 リュウが悔しがる。

 そしてまた来る。

 

 その繰り返しが、いつの間にか春麗にとって特別なものになっていた。

 

 春麗は肩に残る痛みを、もう一度指先で確かめた。

 

 そして、黒いドレスでの最初の勝利を思い出す。

 

 観客のいないステージ。

 

 灯籠の光。

 夜の石畳。

 黒いドレスの裾。

 そして、リュウの視線。

 

 あの時、リュウは春麗を侮っていなかった。

 

 手加減もしていなかった。

 春麗を強敵として見ていた。

 何度も自分を倒し、自分も一度は倒した相手として、真っ直ぐに向き合おうとしていた。

 

 それでも、揺れた。

 

 春麗の姿に。

 

 黒いドレスに。

 

 いつもとは違う輪郭に。

 

 その揺れを、リュウは隠そうとした。

 見ないふりをしようとした。

 戦いに持ち込んではいけないものだと、押し込めようとした。

 

 春麗は、それを見抜いた。

 

 そして勝った。

 

 姿が変わっただけで隙を見せるなんて、修業が足りないわね。

 

 そう言った時のリュウの顔を、春麗ははっきり覚えている。

 

 悔しそうだった。

 

 ただ負けた悔しさではない。

 

 自分が春麗を女性としても意識したこと。

 それを見抜かれたこと。

 見ないふりをしたことまで読まれたこと。

 

 そのすべてを突きつけられた顔だった。

 

 春麗は、あの顔を思い出すと、今でも胸が少し熱くなる。

 

 リュウが自分を見た。

 

 揺れた。

 

 それを隠そうとした。

 

 負けて悔しがった。

 

 その一連のすべてが、春麗にとって忘れられないものになっていた。

 

 あの勝利は、ただリュウを倒した勝利ではなかった。

 

 リュウが春麗をどう見ているのか。

 リュウが春麗のどこに揺れるのか。

 リュウがその揺れをどう拳に沈めようとするのか。

 

 そのすべてを、春麗が知ってしまった勝利だった。

 

 だから、黒いドレスをもう一度選んだ。

 

 彼を試したかった。

 

 今度はどう見るのか。

 逃げるのか。

 逸らすのか。

 それとも、本当に全部見るのか。

 

 そして今朝、リュウは逃げなかった。

 

 黒いドレスの春麗を直視した。

 

 格闘家として。

 女として。

 ライバルとして。

 

 その全部を見た上で、拳を向けてきた。

 

 春麗は、先ほどの勝利を思い返す。

 

 夜明け前の修行場。

 人のいない戦場。

 

 リュウは言った。

 

 その姿で来たのか。

 

 前回とは違った。

 

 見ていたのに見ないふりをしたのではない。

 最初から、見たことを認めた。

 

 今日は、見ないふりはしない。

 

 そう言ったリュウの目を、春麗は覚えている。

 

 あの目は危険だった。

 

 春麗をすべて見る目だった。

 

 黒いドレスの揺れも。

 足の運びも。

 呼吸も。

 拳も。

 そして、春麗が女であることさえも。

 

 逃げずに見ていた。

 

 春麗は、その視線に何度も揺れた。

 

 嬉しかった。

 

 危なかった。

 

 リュウが自分から目を逸らさないことが、どうしようもなく嬉しかった。

 だが、その視線が本当に自分を捕まえようとしていることが、怖くもあった。

 

 あの戦いで、リュウは確かに成長していた。

 

 前回のように、視線の揺れだけでは崩れなかった。

 黒いドレスに意識を奪われて、拳を鈍らせることもなかった。

 

 見ていた。

 

 本当に見ていた。

 

 それでも、届かなかった。

 

 春麗はそこを突いた。

 

 リュウが春麗全体を見ていたはずなのに、最後の一瞬、拳の先だけを見た。

 

 肩口。

 打ち抜く場所。

 勝ち筋。

 

 そこへ視線が狭まった。

 

 春麗はその半拍に入った。

 

 そして勝った。

 

 リュウは片膝をついた。

 

 拳を握っていた。

 

 悔しそうだった。

 

 だが、今までで一番、春麗に刺さる顔だった。

 

 なぜなら、リュウは成長していたからだ。

 

 春麗を見た。

 逃げなかった。

 女としての春麗も、格闘家としての春麗も、全部見ようとした。

 

 それでも届かなかった。

 

 だからこそ、あの悔しさは深かった。

 

 だからこそ、あの顔は美しかった。

 

 春麗は足を止め、朝の光の中で目を伏せた。

 

 私は、リュウの悔しがる顔が見たい。

 

 ようやく、そう認めた。

 

 ただし、それはリュウが倒れる顔ではない。

 

 折れた顔ではない。

 負けを受け入れて沈む顔でもない。

 二度と立ち上がれなくなる顔でもない。

 

 そんなものは見たくない。

 

 春麗が見たいのは、悔しさを抱えたまま、次へ向かう顔だ。

 

 倒されても、膝をついても、拳を握る顔。

 煽られても、黙って受け止める顔。

 負けた理由を飲み込み、次の拳に変える顔。

 

 それが見たい。

 

 その顔を見るために、春麗は勝ちたいのかもしれない。

 

 勝って、煽って、リュウの胸に火をつけたい。

 悔しがらせたい。

 そして、もっと強くなって戻ってきてほしい。

 

 春麗は小さく笑った。

 

 「……ひどい女ね、私」

 

 声は軽かった。

 

 だが、その奥には熱があった。

 

 リュウが聞けば、きっと首をかしげるだろう。

 

 春麗がなぜ笑っているのか。

 なぜ勝ってなお、次の戦いを待っているのか。

 

 彼にはわかるかもしれない。

 

 いや、たぶん、わかってしまう。

 

 リュウもまた、春麗に同じものを求めているのだから。

 

 勝つために戦う。

 だが、勝って終わりではない。

 

 負けても終わりではない。

 

 勝った方は、相手が悔しがる顔を見る。

 負けた方は、その悔しさを次に変える。

 

 そうやって、二人は何度も戻ってくる。

 

 春麗は山道の先を見た。

 

 朝の光が、黒いドレスの裾を淡く照らしている。

 

 リュウはまた来る。

 

 今度は、見るだけでは来ない。

 捕まえに来る。

 届かせに来る。

 

 その時、自分はまた勝てるのか。

 

 わからない。

 

 だが、春麗は笑った。

 

 「また来なさい、リュウ」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 「次も、悔しい顔を見せて」

 

 一拍置いて、春麗は少しだけ目を細めた。

 

 「でも、折れた顔は見せないで」

 

 そして、もう一度歩き出す。

 

 肩はまだ痛い。

 

 けれど、その痛みすら次の戦いへの予告のように思えた。

 

 春麗は、リュウの悔しがる顔を見たい。

 

 そしてその顔が、次の拳へ変わる瞬間を見たい。

 

 だからまた、勝つ。

 

 だからまた、煽る。

 

 だからまた、彼が来るのを待つ。




Q:執筆者としての春麗のリュウに対する思いについて意見をお願いします。
A:
執筆者として見ると、この連作の春麗のリュウに対する思いは、かなり濃いです。

ただし春麗本人は、それを素直に「好き」とは絶対に認めないタイプです。
彼女の中ではたぶん、

戦いたい相手
煽りたい相手
悔しがる顔を見たい相手
自分を本気で見てほしい相手
自分に届こうとしてほしい相手

という形で整理されています。

でも、読者や執筆者から見ると、それはかなり明確に リュウ限定の特別な好意 です。

この春麗は、誰にでも同じことをしているわけではありません。

リュウだから煽る。
リュウだから黒いドレスで現れる。
リュウだから視線を逃がさない。
リュウだから「ちゃんと見ていたわね」と認める。
リュウだから、悔しがる顔を見て胸が熱くなる。

ここが重要です。

春麗にとってリュウは、単なる強敵ではありません。

最初は、無意識に手加減してきた男でした。
春麗を女性として見てしまい、格闘家として見誤った男。
だから春麗は怒り、叩き伏せ、煽った。

でも、リュウはそこで折れなかった。

何度負けても戻ってきた。
春麗の煽りを飲み込み、次の拳に変えてきた。
勝っても驕らず、負けても沈まず、また戦ってくれと言った。

この時点で春麗にとってリュウは、倒して終わる相手ではなく、倒すたびに次が始まる相手になっています。

だから春麗は、リュウの悔しがる顔を見たい。

でも、それはリュウが惨めに負ける顔ではありません。

春麗が見たいのは、

悔しそうに拳を握る顔
負けても折れていない目
次は届かせると燃えている顔
春麗を越えるために、また立ち上がる顔

です。

これはかなり深い感情です。

単に勝ちたいだけなら、相手が折れても構わない。
でも春麗は、折れたリュウには興味がない。
むしろ、折れてほしくない。

勝ちたい。
煽りたい。
悔しがらせたい。
でも、次も来てほしい。

この矛盾が、春麗のリュウへの思いの核心だと思います。

黒いドレス編以後は、さらに一段濃くなっています。

春麗は、リュウが自分を格闘家として見ていることを知っている。
そのうえで、女としての自分にも揺れることを知ってしまった。

ここで春麗の感情はかなり変わります。

初期なら、リュウが女性として春麗を見て隙を作ることは腹立たしいことでした。
それは侮りだったからです。

でも黒いドレス以後は違います。

リュウは春麗を侮っていない。
春麗を強敵として見ている。
そのうえで、女としての春麗にも目を逸らせない。

だから春麗は嬉しい。

この「嬉しい」がかなり大事です。

春麗は表向きには、

これは戦術。
リュウの視線を読むため。
リュウの呼吸を乱すため。

と言い訳します。

でも本音では、

リュウが自分を見ていることが嬉しい。
自分から目を逸らさないことが嬉しい。
自分を全部見ようとしていることが嬉しい。

この感情があります。

ただし、春麗はそこで甘くなるわけではありません。

見られて嬉しい。
でも、届かせない。
自分を見てほしい。
でも、簡単には捕まえさせない。
リュウに来てほしい。
でも、来たなら叩き伏せる。

これが春麗らしいです。

つまり春麗のリュウへの思いは、

見てほしい。
追ってほしい。
届こうとしてほしい。
でも、簡単に届かせるつもりはない。

というものです。

これはかなり「殴り愛イチャラブ」の春麗側の本音です。

春麗にとってリュウは、自分を満足させてくれる相手ではなく、自分をさらに危うくする相手です。

リュウの拳は届きかける。
リュウの視線は逃げなくなる。
リュウは敗北を次の課題に変えてくる。
リュウは、春麗が仕掛けた戦場そのものを学習してくる。

だから春麗は怖い。

次は本当に捕まるかもしれない。
次は本当に届かれるかもしれない。
次は、自分が見下ろす側ではなく、見上げる側になるかもしれない。

でも、その怖さがあるからこそ、リュウと戦いたい。

ここも大きいです。

春麗は、自分が絶対に勝てる相手を求めているわけではありません。
むしろ、自分を本当に追い詰めてくる相手を求めています。

そしてリュウは、その条件を満たしている。

だから春麗はリュウに執着している。

ただ、その執着は「所有したい」ではありません。

挑ませたい。
悔しがらせたい。
追わせたい。
そして、届きかけるところまで来てほしい。

でも最後には、自分が勝ちたい。

この矛盾が最高に春麗らしいです。

リュウが「春麗を捕まえたい」なら、春麗はたぶんこう思っています。

捕まえに来なさい。
でも、捕まるつもりはない。
ただし、捕まえようとするあなたの目は見たい。

この関係がかなり強いです。

執筆者として一言でまとめるなら、この春麗のリュウへの思いは、

勝ちたい相手であり、煽りたい相手であり、見てほしい相手であり、次も自分に届こうとしてほしい相手への、春麗式の好意

です。

もっと短く言うなら、

春麗はリュウに惚れているのではなく、リュウが自分に届こうとする姿に惚れている。

ただし、その区別はもうかなり曖昧です。

リュウの悔しがる顔が見たい。
リュウの視線を逃がしたくない。
リュウに捕まえに来てほしい。
リュウに次も来てほしい。

ここまで来ると、春麗本人がどれだけ「これは戦術」と言い張っても、読者にはかなり濃い好意として見えます。

この春麗は、リュウに対してだけ、勝利も敗北も、煽りも視線も、全部が少し特別になっている。
そこがこの連作の春麗の一番おいしいところだと思います。
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