また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
夜明けの光が、山中の修行場に差し始めていた。
少し前まで暗かった空は、端からゆっくりと白み、木々の影を薄くしていく。風はまだ冷たい。土の匂いが濃く、枝葉のこすれる音だけが静かに響いている。
春麗は、もういない。
黒いドレスの影も、風に揺れた布の軌跡も、視界からは消えていた。
けれど、リュウの目の奥には、まだ残っていた。
黒衣の春麗。
夜明け前の薄闇に立ち、リュウを見ていた春麗。
拳が触れたはずなのに、半歩ずれて打ち抜かせなかった春麗。
勝者としてリュウを見下ろし、静かに笑った春麗。
リュウは修行場の中央に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
土には、自分が倒れた跡が残っている。
踏み荒らされた足跡。
膝をついた場所。
背中を打った場所。
身体にも、まだ痛みが残っていた。
腹に入った膝。
胸元を押し込んだ掌底。
軸を払われた時の衝撃。
受け身を取った背中の鈍い痛み。
そして、何よりも残っているのは、春麗の声だった。
ちゃんと見ていたわね。
でも、見ていただけじゃ私には届かないわ。
リュウは拳を握った。
その言葉は、深く刺さっていた。
ただの挑発ではない。
春麗は、リュウが前回とは違っていたことを認めていた。
目を逸らさなかったことを。
見ないふりをしなかったことを。
黒いドレスの春麗を、格闘家としても、女としても、逃げずに見たことを。
その上で、まだ足りないと言った。
見ていただけでは届かない。
その通りだった。
リュウは、確かに見ていた。
黒いドレスを着た春麗を見た。
布の揺れを見た。
足の運びを見た。
呼吸を見た。
肩の沈みを見た。
視線を見た。
そして、その姿を美しいと思ったことも否定しなかった。
前回は違った。
見たことを隠そうとした。
意識したことを戦いの外へ追い出そうとした。
その硬さを、春麗に読まれた。
だから今回は、隠さなかった。
揺れた。
それも見た。
胸が動いたことも、呼吸の底が熱くなったことも、目の前の春麗が格闘家であり、同時に女でもあることも、消そうとはしなかった。
全部見た。
そのつもりだった。
それでも、届かなかった。
リュウはゆっくりと目を閉じる。
最後の瞬間を思い返した。
拳は、春麗の肩口に触れた。
あと少しだった。
もう半歩踏み込めば。
もう一瞬早く打ち抜ければ。
そのまま押し切れたかもしれない。
そう思った。
その瞬間だった。
視界が狭まった。
春麗全体ではなく、拳の先を見た。
肩口を見た。
打ち抜く場所を見た。
勝ち筋を見た。
それは、春麗を見ているようで、春麗を見失った瞬間だった。
そこへ春麗が入ってきた。
拳の外ではなく、内側へ。
届きかけた拳の、そのさらに奥へ。
リュウの拳は触れていた。
だが、打ち抜けなかった。
リュウは目を開いた。
見ることと、捕まえることは違う。
そのことを、身体の痛みとともに理解していた。
見えること。
反応すること。
理解すること。
拳を届かせること。
それらは同じではない。
春麗を見ていた。
だが、捉え続けられなかった。
黒いドレスに見惚れて負けたわけではない。
今回は、見惚れたことすら認めた。
その上で戦った。
それでも負けた。
最後に、春麗全体から目が離れた。
だから負けた。
リュウは静かに構えた。
目の前には誰もいない。
それでも、春麗がいる。
黒いドレスで立つ春麗。
静かにこちらを見る春麗。
わずかに笑い、視線を試してくる春麗。
春麗は速い。
蹴りが鋭い。
踏み込みが深い。
空中で軌道を変える。
近距離での膝も、掌底も、足払いも危険だ。
読みも深い。
だが、それだけではない。
春麗は、相手が何を見ているかを見る。
こちらの視線を読む。
呼吸を読む。
拳がどこへ向かっているかを読む。
何を恐れているかを読む。
何を意識しているかを読む。
見ている範囲が広すぎれば、情報を重ねて遅らせる。
見ている範囲が狭まれば、そこを突く。
春麗は、ただ速いのではない。
ただ強いのでもない。
相手の認識そのものと戦っている。
リュウはそのことに、改めて気づいた。
春麗の蹴りを見るだけでは足りない。
春麗の視線を見るだけでも足りない。
黒いドレスに惑わされないだけでも足りない。
春麗が、こちらに何を見せようとしているのか。
こちらが何を見てしまっているのか。
何を見落としているのか。
何を見たと思い込んでいるのか。
そこまで見なければ、彼女には届かない。
リュウは拳を引いた。
ゆっくりと踏み込む。
空を打つ。
拳が風を切る。
しかし、頭の中では春麗が動いている。
低く沈む。
黒いドレスが一拍遅れて揺れる。
足が来る。
いや、肩が残っている。
掌底。
違う。
視線が誘っている。
リュウは拳を止めた。
遅い。
まだ遅い。
全部見ようとすると、判断が遅れる。
一点を見れば、春麗を見失う。
ならば、どうする。
リュウは息を整える。
春麗は美しい。
そう思った。
その事実を、もう否定しなかった。
黒いドレス姿の春麗は、確かに美しかった。
夜明け前の薄闇に立つ姿。
風に揺れる黒い布。
鋭い目。
勝者としてリュウを見下ろす顔。
それは、リュウの胸を動かした。
だが、その美しさは、春麗の強さと切り離せるものではなかった。
蹴りの鋭さ。
間合いの深さ。
挑発する声。
こちらの視線を読む目。
勝者としての笑み。
ギリギリでも崩れない意地。
全部が春麗だった。
美しさも、強さも、挑発も、視線も、すべてが同じ春麗の中にある。
それを切り分けようとすれば、負ける。
格闘家としてだけ見ようとすれば、また逃げになる。
女としての春麗だけに奪われれば、拳が鈍る。
美しいと思ったことを消そうとすれば、その消そうとした意識を読まれる。
ならば、消さない。
春麗を美しいと思うことすら、拳の中に沈める。
意識を消すのではない。
意識したまま動く。
見たまま、揺れたまま、呼吸を乱さず、拳を出す。
リュウはもう一度、構えた。
見るだけでは足りない。
捉え続けなければならない。
春麗が春麗であるすべてを、最後の一瞬まで見失わずに。
春麗を捕まえる。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
リュウは、春麗を捕まえたいと思った。
ただ倒したいわけではない。
勝ちたいだけでもない。
春麗の速さを止めたいだけでもない。
黒いドレスの揺れに惑わされないことを証明したいだけでもない。
春麗のすべてを見た上で、そのすべてを逃がさず、拳を届かせたい。
彼女が横へ流れても。
跳んでも。
視線で誘っても。
言葉で揺さぶっても。
女としての姿で胸を動かしても。
格闘家として鋭い蹴りを放っても。
その全部を見失わずに、春麗そのものを捕まえたい。
リュウは拳を握り直した。
春麗は言った。
次に来るなら、その目で私を捕まえてみせなさい。
ならば、そうする。
目で捕まえる。
呼吸で追う。
間合いで捉える。
拳で届かせる。
ただ見るだけではない。
見続ける。
捉え続ける。
春麗が動く先ではなく、春麗そのものを捕まえる。
リュウは踏み込んだ。
今度の拳は、空を切った。
だが、構わなかった。
今はまだ届かない。
ならば、届くまで繰り返す。
足を置く。
呼吸を整える。
拳を引く。
視線を広げる。
春麗の姿を思い浮かべる。
黒いドレス。
鋭い蹴り。
挑発する声。
勝者の笑み。
こちらを試す視線。
そのすべてを前に置く。
そして、拳を出す。
何度も。
何度も。
夜明けの光が、修行場を少しずつ明るくしていく。
土の上に、リュウの足跡が増えていく。
春麗はもういない。
だが、彼女はまだリュウの中にいる。
見ていただけじゃ私には届かないわ。
その言葉が、今も胸に残っている。
悔しい。
だが、その悔しさは濁っていない。
リュウは静かに燃えていた。
春麗は、きっとまた待っている。
勝者の顔で。
黒いドレスを揺らして。
こちらの視線がどこへ行くのかを見ながら。
そして、リュウがまた来ることも知っている。
だからこそ、行く。
次は見るだけでは終わらない。
リュウは拳を止めた。
朝日が差し込み、拳の影が土の上に落ちる。
彼はその拳を見つめ、静かに呟いた。
「春麗」
名前を呼んだだけだった。
だが、その中には、悔しさも、敬意も、次の約束もあった。
リュウは顔を上げる。
山道の先に、もう春麗の姿はない。
それでも、リュウの目は逸れなかった。
次は捕まえる。
黒いドレスも。
視線も。
蹴りも。
その奥にある一瞬も。
春麗が春麗であるすべてを、最後まで見失わずに。
そして、拳を届かせる。
Q:執筆者さんからみてリュウは春麗のことどう思っていると思いますか?
A:
執筆者として見ると、この連作のリュウの春麗に対する思いは、かなり深いです。
ただし、リュウ本人はそれを恋愛感情として自覚していない。
もっとリュウらしく言えば、
春麗は、自分の拳を次の段階へ進ませる相手
自分が目を逸らしてはいけない相手
負けても、勝っても、また向き合いたくなる相手
です。
でも読者視点・執筆者視点では、それはもうかなり濃い好意に見えます。
リュウにとって春麗は、ただの強敵ではありません。
強敵なら、他にもいます。
ケンもいる。サガットもいる。ガイルもいる。
けれど、この連作の春麗は、リュウの中のかなり個人的な部分に踏み込んできています。
最初は、リュウの未熟さを暴いた相手です。
女性格闘家として春麗を見てしまい、無意識に拳が鈍った。
春麗はそれを見抜いて叩き伏せた。
ここで春麗は、リュウにとって単なる敗北の相手ではなく、自分でも気づいていなかった甘さを暴いた相手になります。
その後、リュウは春麗に何度も挑み、負け、ようやく勝つ。
この時点で春麗は、リュウにとって「越えるべき壁」になります。
でも黒いドレス編以後は、さらに意味が変わります。
リュウは春麗を格闘家として認めている。
その上で、女としても意識してしまう。
それを最初は隠そうとして負ける。
次は隠さず、全部見ると決める。
しかし、見ただけでは届かないと突きつけられる。
ここがかなり重要です。
リュウの春麗への思いは、
強いから見ている
だけではなく、
美しいから見てしまう
でもあり、
そのどちらも否定せずに受け止めたい
という段階に入っています。
ただし、リュウはそれを「恋」とは言わないと思います。
彼の言葉にするなら、
春麗は強い。
目を逸らせない。
また戦いたい。
この程度です。
でも、その「また戦いたい」の中に、かなり多くの感情が入っている。
春麗に勝ちたい。
春麗に届きたい。
春麗を捕まえたい。
春麗にもう一度見てほしい。
春麗に認められたい。
春麗を全部見たい。
春麗から目を逸らしたくない。
全部、リュウなりの好意です。
このリュウは、春麗に対してかなり誠実です。
春麗を女性として意識したことを、最初は隠そうとして負けた。
でも次には、それをなかったことにしなかった。
ここが良いです。
リュウは、
春麗を女として見ないようにすることで克服する
のではなく、
春麗を女としても、格闘家としても、ライバルとしても見る
という方向へ進みました。
これはリュウの成長としてかなり美しいです。
つまり、春麗への思いが深まったことで、拳が乱れるのではなく、むしろ拳の課題が高度になっている。
今のリュウにとって春麗は、
見ないことで平静を保つ相手ではない。
見た上でなお拳を鈍らせてはいけない相手。
です。
これは、かなり特別です。
リュウは春麗に対して、欲望や恋情を直接言語化するタイプではありません。
でも、彼の行動はかなり雄弁です。
負けてもまた行く。
勝ってもまた戦ってくれと言う。
春麗の煽りを受け止める。
春麗の黒いドレス姿に揺れたことも否定しない。
春麗に「見ていただけじゃ届かない」と言われて、次は捕まえると課題化する。
これはもう、リュウ式の執着です。
ただ、嫌な執着ではありません。
相手を所有したいのではなく、相手に届きたいという執着です。
春麗を支配したいのではない。
春麗を倒して終わらせたいのでもない。
春麗を見失わず、自分の拳を届かせたい。
だから、このリュウの春麗への思いを一言で言うなら、
敬意と悔しさと憧れと欲が、全部「また戦いたい」に圧縮されている感情
です。
恋愛と呼ぶには不器用すぎる。
友情と呼ぶには熱すぎる。
ライバル心と呼ぶには、視線が近すぎる。
なので、この連作のリュウにとって春麗は、
拳でしか向き合えない、でも拳だけでは見切れない相手
だと思います。
そして執筆者としては、そこが一番おいしいです。