また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
修行場の岩の上に、紙片が置かれていた。
リュウは朝の鍛錬を終え、汗を拭おうとしたところで、それに気づいた。
風に飛ばされないよう、小さな石で押さえられている。
紙には、短い文字だけが書かれていた。
夜明け前。
あなたの修行場で。
今度は、その目で私を捕まえてみせなさい。
署名はなかった。
だが、誰の字かはすぐにわかった。
春麗。
リュウは紙片を手に取り、しばらく黙って見つめていた。
その目で私を捕まえてみせなさい。
前回、黒いドレスの春麗に敗れた時、彼女はそう言った。
ちゃんと見ていたわね。
でも、見ていただけじゃ私には届かないわ。
あの言葉は、まだ胸の奥に残っている。
見た。
目は逸らさなかった。
黒いドレスの春麗を、格闘家としても、女としても見た。
その姿に胸が揺れることも否定しなかった。
それでも、届かなかった。
見るだけでは足りない。
捉え続けなければならない。
春麗が春麗であるすべてを、最後の一瞬まで見失わずに。
リュウは紙片を畳み、拳を握った。
次は、捕まえる。
ただ追うのではない。
ただ見るのでもない。
春麗の動きも、視線も、呼吸も、黒いドレスの揺れも、そのすべてを逃がさずに捉える。
夜明け前。
リュウは再び修行場に立っていた。
空はまだ暗い。
山の稜線だけが、かすかに白み始めている。
木々が風に揺れ、土の匂いが冷えた空気に混じっていた。
観客はいない。
歓声もない。
邪魔するものもない。
ここはリュウの修行場だった。
だが、春麗が来るなら、そこはもう春麗の間合いでもある。
リュウは静かに呼吸を整えた。
足音が聞こえた。
山道の影から、春麗が現れる。
黒いドレスだった。
前と同じ黒。
夜明け前の薄闇に、彼女の輪郭が静かに浮かぶ。布が風を受けて揺れ、足運びに合わせて形を変える。
リュウは目を逸らさなかった。
春麗はゆっくりと歩いてくる。
いつもの武道服ではない。
それでも、目は春麗そのものだった。
鋭く、静かで、こちらの一呼吸さえ見逃さない目。
リュウの胸が、やはりわずかに揺れた。
だが、もう隠さない。
その揺れも見る。
黒いドレスの春麗を美しいと思うことも。
その美しさの奥に、危険な格闘家がいることも。
その二つが同じ春麗の中にあることも。
全部、見る。
春麗はリュウの前で足を止めた。
「来たのね」
「お前が呼んだ」
「ええ」
春麗は小さく笑う。
「ここなら、言い訳できないでしょう?
観客も、歓声も、邪魔するものもない。
あなたの目だけで、私を捕まえてみなさい」
リュウは拳を構えた。
「そのつもりだ」
春麗の笑みが、少しだけ深くなる。
「そう。なら、始めましょう」
春麗はすぐには動かなかった。
一歩近づく。
近い。
前よりも、さらに近い。
リュウの拳が届く距離。
春麗の膝も、掌底も、蹴りも届く距離。
春麗はそこで止まった。
リュウを見る。
黒いドレスの裾が風に揺れる。
リュウは視線を逸らさない。
春麗の目を見る。
足を見る。
肩を見る。
呼吸を見る。
黒いドレスの揺れを見る。
そして、見ている自分を春麗が見ていることもわかる。
前よりも、うまい。
リュウはそう感じた。
春麗は、女としての自分を使うことに慣れてきている。
露骨ではない。
媚びでもない。
ただ、立つ位置が近い。
声が低い。
目を逸らす隙を与えない。
蹴りの前に、ほんの一拍だけ静止する。
黒いドレスの揺れを、足運びのフェイントに混ぜてくる。
リュウが春麗を女として意識する瞬間ではない。
春麗はそこを突いているのではない。
意識しても拳を鈍らせまいとする、その耐え方を読んでいる。
リュウは歯を食いしばった。
やはり、春麗は先へ進んでいる。
リュウが「見る」ことに慣れたなら、春麗は「見られる自分」をもっと正確に使ってくる。
春麗が動いた。
低い踏み込み。
黒いドレスが一拍遅れて揺れる。
リュウは布を見た。
だが、そこに奪われない。
膝の向きを見る。
低い蹴り。
リュウは跳ばない。
軸をずらす。
春麗の足が空を切る。
そこへ拳を置く。
春麗は引く。
追わない。
リュウは春麗の逃げる先へ一歩置いた。
春麗の目がわずかに細くなる。
読んだ。
リュウはそう感じた。
だが、春麗は止まらない。
横へ流れると見せて、逆へ沈む。
リュウは追わない。
春麗が跳ぶ。
リュウは昇龍拳を撃たない。
空中の春麗ではなく、着地後の逃げ道を見る。
春麗が着地する。
リュウはその先へ踏み込む。
春麗の肩に手が届きかけた。
しかし、春麗はそこにいなかった。
いや、いた。
だが、半歩だけ違う。
リュウの手が触れる直前、春麗は身体の向きを変え、触れさせない位置へ滑っていた。
「悪くないわ」
春麗の声が近い。
低い。
リュウの耳元ではない。
だが、妙に近く聞こえる。
その声に、呼吸がわずかに遅れる。
そこへ膝が来た。
リュウは腕で受ける。
重い。
春麗はすぐ離れない。
目を合わせたまま、近い距離で次の動きを重ねてくる。
リュウは下がらない。
捕まえる。
見ているだけでは足りない。
春麗の横移動を読む。
跳びを追わず、着地を待つ。
手首。
肩。
肘。
身体の軸。
どこか一つに触れれば、逃がさない。
リュウは踏み込んだ。
春麗の蹴りを受ける。
痛みが走る。
それでも前へ。
春麗の腕が伸びる。
掌底。
リュウは肘で流す。
そのまま、春麗の手首へ指が触れた。
触れた。
今度こそ。
リュウは掴みに行く。
だが、春麗の表情は崩れなかった。
むしろ、待っていたように見えた。
手首を掴む前に、春麗の身体が回る。
逃げるのではない。
近づく。
リュウの手が春麗に触れた、その接点を支点にして、春麗は身体の向きを変えた。
リュウの腕が引かれる。
力で引かれたのではない。
角度を変えられた。
踏み込みの軸がずれる。
リュウはすぐに修正しようとする。
だが、その一瞬に春麗の膝が腹へ入った。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
続けて掌底。
胸元を押し込まれる。
リュウは踏みとどまる。
まだだ。
まだ崩れていない。
春麗は目を合わせてくる。
黒いドレスが視界の端で揺れる。
その揺れと同時に、春麗の足が動く。
低い。
いや、違う。
足ではない。
上体。
声が来る。
「捕まえるんでしょう?」
その一言で、リュウの意識が一瞬だけ手に寄る。
春麗を逃がさない。
手首。
肩。
掴む場所。
その瞬間、春麗はもうそこにいなかった。
いや、いる。
だが、リュウが捕まえようとした場所とは違う位置にいる。
春麗はリュウの腕の内側に入り込んでいた。
リュウが手を伸ばす。
春麗の黒いドレスが近くで揺れる。
春麗の視線が逃げない。
リュウも逸らさない。
だが、少しずつ遅れる。
春麗が女としての自分を使っていることは、リュウにもわかった。
だが、それは誘惑ではなかった。
戦術だ。
リュウが自分を見ることを前提に、呼吸を読んでくる。
リュウが目を逸らさないことを前提に、視線を固定してくる。
リュウが捕まえようとすることを前提に、捕まえに来る手を誘導してくる。
見る。
近づく。
捕まえようとする。
その全部が、春麗の組み立ての中に入っている。
リュウは、春麗を追い詰められていないことを悟った。
前回なら、あと一歩まで行けた。
今回は違う。
触れる。
近づく。
だが、追い詰められない。
春麗には、まだ余裕がある。
息は乱れている。
だが、追い込まれた乱れではない。
リュウの動きを読み、組み立てを進めるための呼吸だ。
リュウは拳を握り直した。
このままでは、捕まえられない。
だが、退かない。
リュウは一気に踏み込んだ。
春麗の蹴りを受ける。
肩に痛みが走る。
それでも前へ。
春麗の横移動を封じるように、半歩先へ足を置く。
春麗の目がわずかに揺れた。
初めて、逃げ道が狭まる。
リュウはさらに踏み込む。
春麗の腕に触れる。
今度は離さない。
手首。
掴んだ。
そう思った。
しかし、次の瞬間、春麗の身体がすっと軽くなった。
掴んだ感触が消えるのではない。
むしろ、残っている。
だが、その感触に力がない。
春麗は腕を引き抜かない。
掴ませたまま、体重を落とした。
リュウの力が前へ流れる。
春麗はその流れに逆らわず、リュウの腕を軸にして身体を回した。
投げ。
気づいた時には遅かった。
春麗の脚がリュウの軸足を払う。
腕が肩を押す。
腰の向きが変えられる。
世界が回った。
リュウの身体が宙に浮く。
土が近づく。
背中から落ちた。
衝撃。
息が抜ける。
すぐに起きようとする。
だが、春麗はすでにそこにいた。
黒いドレスの影が、視界に落ちる。
リュウは腕を上げようとする。
春麗の足が、その動きを止める。
追撃ではない。
制圧。
彼女はリュウの立ち上がる間合いを完全に奪っていた。
リュウは片膝をついた。
いつもより、深く敗北を感じた。
前回はあと一歩まで届いた。
今回は、届く前に組み立てられていた。
捕まえに来た自分の手が、春麗の投げの起点にされた。
春麗は、いつもより余裕を残して立っていた。
息は上がっている。
肩もわずかに上下している。
だが、前回のようなギリギリの乱れではない。
勝者として、十分に立っている。
リュウはそれを理解した。
追い詰められなかった。
今回は、春麗をギリギリまで追い込むことすらできなかった。
その事実が、胸の奥を強く焼いた。
悔しい。
いつもより悔しかった。
負けたことより、捕まえに行った自分の手が、まるで春麗に用意されていた道の上を進んだように感じたことが悔しかった。
春麗が一歩近づく。
黒いドレスの裾が、リュウの視界の端で揺れる。
リュウが顔を上げる前に、春麗の指先が顎に触れた。
強くはない。
ほんの軽く。
だが、その指先はリュウの顔を上げさせた。
目を逸らせない距離。
春麗が見下ろしている。
勝者として。
そして、リュウが女としての春麗を見たことも、見てなお何もできなかったことも、全部知っている顔で。
「捕まえに来たんじゃなかったの?」
春麗の声は低く、近かった。
「今日は、私を追うだけで精一杯だったみたいね」
リュウは何も返せなかった。
返せない。
その通りだった。
見た。
追った。
触れた。
でも、捕まえられなかった。
春麗の指先が、顎から離れない。
軽い。
だが、逃げられない。
春麗は続ける。
「目を逸らさなかったのは褒めてあげる。
でも、今日はそれだけね」
胸に刺さった。
リュウは拳を握る。
悔しい。
歯を食いしばる。
春麗の目が、その反応を逃さない。
リュウは、それでも目を逸らさなかった。
春麗はわずかに笑った。
「私を女として見る覚悟はできたみたいね」
黒いドレスが風に揺れる。
「でも、それを拳に変えるには、まだ早いわ」
リュウの奥で、悔しさがさらに熱くなる。
春麗は、すべて見ている。
リュウが春麗を女としても見ていること。
それを否定しなくなったこと。
だが、まだそれを拳に沈め切れていないこと。
全部、読まれている。
春麗はさらに少しだけ近づいた。
「私を見ることと、私を捕まえることは違うの。
ちゃんと覚えておきなさい、リュウ」
指先が離れる。
だが、視線は離れない。
リュウはゆっくりと息を吐いた。
屈辱だった。
だが、不思議と折れなかった。
むしろ、胸の奥で火が強くなる。
春麗は勝者として自分を見下ろしている。
余裕を残している。
今回は、前回ほど追い詰めることもできなかった。
だからこそ、次が必要だった。
次は追うだけではない。
触れるだけでもない。
捕まえたと思った場所すら、春麗の間合いだった。
なら、その先へ行く。
春麗は最後に言った。
「次に来るなら、その手で最後まで私を逃がさないことね」
その声は煽りだった。
挑発だった。
だが同時に、次も来いという約束のようにも聞こえた。
リュウは春麗を見上げた。
悔しい。
本当に悔しい。
いつもよりも悔しい。
春麗を追い詰められなかった。
捕まえに来たはずの手を、逆に崩された。
女としても格闘家としても見たはずなのに、その全部を拳に変えられなかった。
だが、リュウの目は逸れなかった。
「……次は」
声が少し掠れた。
それでも言った。
「逃がさない」
春麗の笑みが深くなる。
「そうでなくちゃ」
風が吹く。
黒いドレスの裾が揺れる。
春麗は背を向けた。
リュウは片膝をついたまま、その背を見る。
彼女の歩き方には、まだ余裕があった。
今回は、本当に届かなかった。
リュウはそれを認める。
見る段階には来た。
だが、捕まえる段階にはまだ届いていない。
春麗はそれを突きつけた。
しかも、女としての自分も、格闘家としての自分も、どちらも使いこなして。
リュウは拳を握る。
土が指の間に食い込む。
捕まえられなかった。
だが、次は捕まえる。
春麗が去った後も、リュウはしばらく動かなかった。
夜明けの光が、修行場に差し込んでくる。
背中が痛い。
腹も重い。
腕には、春麗を掴み損ねた感触が残っている。
いや、掴んだ。
掴んだと思った。
だが、そこはもう春麗の間合いだった。
リュウはゆっくりと立ち上がった。
春麗の言葉が、何度も胸の中で響く。
私を見ることと、私を捕まえることは違うの。
その通りだ。
ならば、次は見るだけでは終わらない。
追うだけでも終わらない。
手が触れたところで満足しない。
最後まで逃がさない。
リュウは静かに構えた。
春麗の姿はもうない。
だが、目の奥には残っている。
黒いドレス。
近い声。
逃げない視線。
投げに入る瞬間の身体の軽さ。
勝者として顎を上げさせた指先。
そのすべてを思い出す。
悔しさが、拳に沈んでいく。
リュウは一歩踏み込んだ。
今度は、空を打つ拳ではない。
捕まえるための拳を、ここから作る。