また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗は、夜明け前の山道を上っていた。
黒いドレスの裾が、風に揺れる。
いつもの武道服ではない。
けれど、もうこの服で戦うことに迷いはなかった。
初めて黒いドレスでリュウの前に立った時、春麗自身にも理由はよくわからなかった。
ただ、見てみたかった。
リュウがどんな顔をするのか。
そしてリュウは揺れた。
あの目が、一瞬だけ止まった。
見ないふりをしようとして、けれど見てしまった。
春麗はそれを見逃さなかった。
あの時の勝利は、今でも胸に残っている。
だが、今は違う。
もう、偶然ではない。
黒いドレスは、春麗にとってリュウ相手の武器になっていた。
もちろん、それは媚びではない。
誘惑でもない。
戦いを安くするためのものでもない。
リュウはもう、ただ見惚れて止まる男ではない。
彼は見る。
見ないふりをしない。
女としての春麗も、格闘家としての春麗も、目を逸らさずに見ようとする。
だからこそ、使える。
リュウが見てくるなら、その視線を受ける。
リュウが逃げないなら、逃げない目の奥を揺らす。
リュウが捕まえに来るなら、その手が伸びる場所を先に作っておく。
春麗は自分に言い聞かせた。
これは戦術。
視線も。
距離も。
声も。
黒いドレスの揺れも。
女としての自分も。
全部、戦場の一部。
それでも、胸の奥には少しだけ違う熱があった。
リュウが見る。
自分を、女としても見る。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
春麗は足を止め、短く息を吐いた。
「……本当に、面倒ね」
自分のことなのか、リュウのことなのか、もうわからなかった。
修行場に出る。
そこに、リュウはいた。
白い道着。
赤い鉢巻。
静かな目。
前よりも、さらに目が深くなっている。
ああ。
春麗は内心で笑った。
来た。
本当に捕まえに来る目だ。
春麗は余裕の顔で近づく。
「ここなら、言い訳できないでしょう?
観客も、歓声も、邪魔するものもない。
あなたの目だけで、私を捕まえてみなさい」
リュウは目を逸らさなかった。
「そのつもりだ」
その声に、春麗の胸が熱くなる。
いい。
そうでなくちゃ。
来なさい、リュウ。
でも、まだ捕まらない。
春麗はすぐに攻めなかった。
一歩だけ近づく。
いつもより、近く。
リュウの拳が届く距離。
春麗の膝も、掌底も、蹴りも届く距離。
危険な距離。
けれど、今の春麗にはその距離が必要だった。
近いほど、リュウは見るしかない。
黒いドレスの揺れ。
足の運び。
肩の呼吸。
目。
声。
そして、その全部をまとって立つ春麗自身。
リュウは見ていた。
前よりも落ち着いている。
逃げていない。
見ないふりもしていない。
女としての春麗を見ている。
それを否定せず、そのまま拳に沈めようとしている。
春麗はそれを見て、内心で少しだけぞくりとした。
怖い。
でも、嬉しい。
ただ、今は春麗の方が一枚上だった。
見ているリュウを、春麗はさらに見ている。
どこで呼吸が変わるか。
どこで手が伸びるか。
どこで「捕まえる」という意識が強くなるか。
リュウが春麗を見ることに慣れてきたなら、今度はこちらが、見られる自分をもっと正確に使えばいい。
春麗は低く踏み込んだ。
蹴りに見せる。
けれど、本命ではない。
黒いドレスの裾をわざと一拍遅らせる。
リュウの視線が布ではなく膝へ行く。
いい。
そこまでは読めている。
春麗は上体を残す。
リュウの目が肩を見る。
そこへ、声を落とした。
「こっちよ」
リュウの呼吸が、ほんのわずかに遅れた。
そこへ膝。
リュウは受ける。
前回より速い。
やはり強い。
だが、崩れてはいない。
そして、崩れていないことを自分で確認している。
春麗はそこに入る。
リュウが耐えている場所。
女としての春麗を見ても拳を鈍らせまいとする、その耐え方。
そこを読む。
リュウはもう、見惚れて止まらない。
だから、止めるのではない。
少しだけ遅らせる。
半拍。
一呼吸。
ほんの一瞬。
それだけでいい。
春麗は攻撃を重ねた。
蹴り。
静止。
視線。
掌底。
黒いドレスの揺れ。
低い声。
近い距離。
リュウは受ける。
かわす。
見る。
そして追ってくる。
リュウの手が、春麗の逃げ道を塞ごうとする。
横へ流れれば、先に足を置く。
跳べば、着地を見る。
視線を合わせれば、逸らさず受ける。
前より確実に進んでいる。
春麗はそれを嬉しいと思った。
嬉しい。
でも、まだ足りない。
そして、足りないことが少しだけ物足りなかった。
もっと来ると思っていた。
もっと、こちらを追い詰めてくると思っていた。
前回のリュウは、あと一歩まで来た。
拳が触れた。
春麗の呼吸が乱れた。
一瞬、本当に捕まるかもしれないと思った。
でも今回は違う。
リュウは捕まえに来ている。
だが、その手が春麗の組み立ての中にある。
見る。
近づく。
捕まえようとする。
その全部を、春麗は先に待っている。
だから、いつものようなギリギリではない。
春麗はそれが嬉しかった。
自分が前よりうまくなっている。
リュウ限定の戦い方が、確かに形になっている。
女としての自分も、格闘家としての自分も、前より正確に武器にできている。
それが嬉しい。
けれど同時に、不満だった。
リュウなら、もっと来ると思っていた。
もっと自分の奥まで踏み込んでくると思っていた。
春麗は、胸の奥で少しだけ苛立った。
捕まえに来たんでしょう?
なら、もっと必死に来なさいよ。
そう思いながら、春麗は一歩近づいた。
リュウが踏み込む。
春麗の腕へ手を伸ばす。
今度は本気で捕まえに来ている。
手首。
肩。
逃げ道。
リュウの視線はそこを見ている。
いい。
でも、遅い。
春麗は腕を引かない。
あえて触れさせる。
リュウの指が春麗の手首に触れる。
その瞬間、リュウの中に「捕まえた」という意識が生まれたのがわかった。
春麗は、その瞬間を待っていた。
逃げない。
抜かない。
掴ませたまま、身体を落とす。
リュウの力が前へ流れる。
春麗はその力に逆らわず、むしろ利用して身体を回した。
リュウの腕が、春麗を捕まえるための腕から、リュウ自身の軸を崩す支点へ変わる。
リュウの目がわずかに揺れた。
気づいた?
遅いわ。
春麗は脚を差し込み、リュウの軸足を払った。
腕で肩を押す。
腰を入れる。
重心を奪う。
投げる。
リュウの身体が浮いた。
土に落ちる音。
リュウはすぐに起き上がろうとする。
さすがね。
でも、今日はそこまで。
春麗はすでに間合いを制していた。
追撃ではなく、制圧。
立ち上がる道を潰す。
腕を上げる道を潰す。
拳を出す前に、呼吸を止める。
リュウは片膝をついた。
勝負は決まった。
春麗は息を整える。
少し息は上がっている。
腕も痛い。
リュウの手が触れた場所には、まだ感触が残っている。
でも、前回ほどではない。
ギリギリではない。
春麗はそのことに、胸の奥で満足した。
今回は、勝った。
ただ勝っただけではない。
リュウに、自分を追い詰めさせなかった。
リュウが捕まえに来ることを読んで、その手ごと崩した。
女としての自分を前より正確に使えた。
それは嬉しい。
けれど、やはり少しだけ不満だった。
リュウの悔しそうな顔は好きだ。
けれど、本当はもっとギリギリまで来てほしかった。
もっと危ないと思わせてほしかった。
それでも。
春麗はリュウを見下ろした。
リュウはいつもより悔しそうだった。
拳を握っている。
顎に力が入っている。
目は逸らしていない。
でも、奥で強く燃えている。
捕まえに来たのに、捕まえられなかった。
触れたのに、逃がした。
追い詰めるどころか、自分の手を投げの起点にされた。
その悔しさが、リュウの顔に出ていた。
春麗の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
いい顔。
そう思ってしまった。
いつもより強く悔しがっている。
その顔が、春麗の中の不満を少し溶かした。
ああ。
やっぱり、この顔が見たかった。
リュウが負ける顔ではない。
悔しがって、それでも折れない顔。
次は逃がさないと、もう心の奥で言っている顔。
春麗は一歩近づいた。
リュウが顔を上げる前に、指先を彼の顎へ添える。
強くはない。
ほんの軽く。
けれど、顔を上げさせるには十分だった。
リュウの目が、春麗を見る。
逃げない。
まだ逃げない。
その目に、春麗は満足する。
だから、いつもより強く煽る。
「捕まえに来たんじゃなかったの?」
声は低く、近く。
「今日は、私を追うだけで精一杯だったみたいね」
リュウの拳が、さらに強く握られる。
春麗はそれを見て、胸の奥がまた熱くなる。
もっと悔しがりなさい。
でも、折れないで。
春麗は指先を離さずに続けた。
「目を逸らさなかったのは褒めてあげる。
でも、今日はそれだけね」
リュウは何も言わない。
だが、悔しさは目に出ている。
春麗はその目を逃がさない。
「私を女として見る覚悟はできたみたいね」
黒いドレスの裾が、風に揺れる。
「でも、それを拳に変えるには、まだ早いわ」
言いながら、春麗自身の胸も少しだけ熱くなった。
リュウが自分を女として見ている。
その事実を、今はもう隠させない。
見たでしょう。
わかっているわ。
でも、見ただけでは駄目。
春麗は、リュウの悔しさをさらに深く刺すように、最後の言葉を置いた。
「私を見ることと、私を捕まえることは違うの。
ちゃんと覚えておきなさい、リュウ」
指先を離す。
リュウはまだ目を逸らさない。
悔しそうに。
本当に悔しそうに。
それでも、折れていない。
春麗は内心で満たされた。
今回は、ギリギリではなかった。
だから物足りなさもある。
でも、この顔が見られたなら、悪くない。
むしろ、次が楽しみになる。
春麗は一歩下がった。
勝者として、余裕を見せる。
「次に来るなら、その手で最後まで私を逃がさないことね」
リュウがようやく口を開いた。
「……次は」
声は低く、少し掠れている。
悔しさを押し殺した声。
「逃がさない」
春麗は笑った。
「そうでなくちゃ」
その言葉は、勝者の返答だった。
けれど内心では、春麗ははっきり高揚していた。
来る。
次も来る。
今度は、もっと強く。
もっと深く。
本当に捕まえに来る。
その時、自分はまた逃げられるのか。
わからない。
でも、それでいい。
春麗はリュウに背を向けた。
夜明けの光が、修行場に差し始める。
黒いドレスが朝の風に揺れる。
歩きながら、春麗は手首に残るリュウの感触を思い出した。
捕まえられかけた。
いや、まだ捕まってはいない。
今日は、捕まえさせた。
その上で崩した。
けれど、次はどうなるかわからない。
春麗は小さく笑う。
うれしさ。
不満。
高揚。
少しの怖さ。
全部が混ざっている。
リュウの悔しそうな顔が、まだ目に残っていた。
もっと見たい。
もっと悔しがらせたい。
でも、もっと追い詰めてきてほしい。
春麗は振り返らずに、心の中で呟いた。
また来なさい、リュウ。
今度こそ、その手が私に届くかもしれないところまで。
でも、捕まるかどうかは別よ。
次も私は、あなたの目も、拳も、その手も。
全部、私の間合いにしてみせる。