また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

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幕間:春麗は、余裕を持って勝ってしまった

 春麗は、黒いドレスのまま山道を下っていた。

 

 夜明けの光が、木々の間から少しずつ差し込んでいる。

 風はまだ冷たく、黒い布の裾を静かに揺らしていた。

 

 戦いは終わった。

 

 リュウは片膝をついた。

 春麗は立っていた。

 そして、今こうして一人で歩いている。

 

 肩に、少し痛みがある。

 

 リュウの拳がかすめた場所だ。

 

 手首にも、まだ感触が残っている。

 リュウが捕まえようとして伸ばした手。

 確かに触れた。

 確かに掴みかけた。

 

 けれど、捕まえられなかった。

 

 春麗は、その手を逆に利用して投げた。

 

 リュウの力を流し、軸を崩し、地面へ落とした。

 

 勝った。

 

 春麗は右手を軽く握り、ほどく。

 

 身体は疲れている。

 息も少し上がっていた。

 手首の奥には鈍い熱がある。

 

 でも、前回ほどではない。

 

 黒衣の再戦の時のように、最後の最後まで追い詰められた感覚はなかった。

 あと一瞬遅れれば倒れていた、という切迫感も薄い。

 

 春麗は足を止めた。

 

 朝の光が、黒いドレスの布を淡く照らしている。

 

 「……今日は、余裕があった」

 

 口にして、自分でも少し驚いた。

 

 その言葉は、勝者の慢心ではなかった。

 

 事実だった。

 

 今回は、いつものような紙一重ではなかった。

 

 リュウは弱くなかった。

 

 むしろ、前より強くなっていた。

 

 目を逸らさなかった。

 黒いドレス姿の春麗を見ても、止まらなかった。

 女としての春麗も、格闘家としての春麗も、どちらも見ようとしていた。

 そして、今度こそ捕まえるために手を伸ばしてきた。

 

 あの目は本気だった。

 

 あの手も、本気だった。

 

 それでも、春麗は追い詰められなかった。

 

 リュウが何をしようとしているかを、今回は最初から読めていたからだ。

 

 リュウは見る。

 リュウは近づく。

 リュウは捕まえようとする。

 リュウは目を逸らさない。

 リュウは女としての春麗を見ても、拳を鈍らせまいとする。

 

 春麗は、その全部を前提にしていた。

 

 だから、組み立てられた。

 

 リュウが視線を逸らさないなら、視線を固定させる。

 黒いドレスを見ても止まらないなら、その揺れを蹴りの軌道に混ぜる。

 女としての春麗を見ても踏み込んでくるなら、その踏み込みの呼吸を読む。

 捕まえに来るなら、その手が伸びる場所を先に作る。

 

 春麗は思い出す。

 

 リュウの手が、自分の手首に触れた瞬間。

 

 捕まえた。

 

 きっと、リュウはそう思った。

 

 でも、それこそが春麗の間合いだった。

 

 逃げるのではなく、掴ませる。

 抜くのではなく、触れた場所を支点にする。

 リュウの力を受け止めるのではなく、流して、崩す。

 

 その瞬間、春麗ははっきり感じた。

 

 前よりも、うまく使えている。

 

 女としての自分を。

 

 春麗は、その考えに少しだけ眉を寄せた。

 

 色気で勝ったわけではない。

 

 そんな安い勝ち方をしたつもりはない。

 リュウをただ惑わせて倒したわけでもない。

 

 けれど、否定はできなかった。

 

 リュウが自分を女としても見ること。

 

 それを、今回は間合いとして扱えた。

 

 見られることに、前ほど揺れなかった。

 見られていることを、攻撃の一部にできた。

 リュウの目がどこで熱を持つか。

 どこで耐えようとするか。

 どこで拳を鈍らせまいとして、逆に呼吸が硬くなるか。

 

 前より、よくわかった。

 

 黒いドレスで初めて戦った時は、リュウの揺れを見つけた。

 

 黒衣の再戦では、見られること自体を武器にした。

 

 そして今回は、その武器を自覚して使った。

 

 視線も。

 声も。

 距離も。

 黒いドレスの揺れも。

 女としての自分も。

 格闘家としての自分も。

 

 全部、リュウ相手の戦場に置けた。

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

 嬉しい。

 

 それは素直に認めてもいい気がした。

 

 余裕を持って勝てた。

 リュウ専用の戦い方が、少し形になった。

 女としての自分も、格闘家としての自分も、どちらも武器にできた。

 

 そして、リュウの悔しそうな顔も見られた。

 

 けれど。

 

 春麗は歩き出しかけて、また止まった。

 

 嬉しいだけではなかった。

 

 少し、物足りない。

 

 リュウなら、もっと来てほしかった。

 

 もっとギリギリまで追い詰めてほしかった。

 本当に捕まるかもしれないと思わせてほしかった。

 自分の呼吸を乱し、余裕の仮面を剥がすところまで踏み込んできてほしかった。

 

 勝ったのに。

 

 それも、いつもより余裕を残して勝てたのに。

 

 春麗は不満を覚えていた。

 

 「わがままね、私」

 

 自嘲するように呟いた。

 

 ただ勝ちたいだけなら、今日の勝利は十分だったはずだ。

 

 リュウに捕まえられなかった。

 リュウに追い詰められなかった。

 リュウの手を、逆に投げの支点にした。

 

 完璧に近い勝ち方だった。

 

 なのに、春麗は思ってしまう。

 

 もっと来なさいよ。

 

 もっと私を焦らせてみなさいよ。

 

 本当に捕まえるつもりなら、もっと奥まで踏み込んできなさいよ。

 

 春麗は、ただ勝ちたいだけではなかった。

 

 リュウに、自分へ届きかけてほしかった。

 

 そして、その届きかけた手を、最後の最後で振りほどきたかった。

 

 その方が、きっともっと熱い。

 

 もっと悔しい顔が見られる。

 

 そう思った瞬間、春麗の脳裏に、さっきのリュウの顔が浮かんだ。

 

 片膝をついたリュウ。

 

 顎を指先で上げた時のリュウ。

 

 悔しそうだった。

 

 いつもより、ずっと。

 

 目は逸らさなかった。

 拳は握っていた。

 奥歯を噛むように、言葉を押し殺していた。

 

 捕まえに来たのに、捕まえられなかった。

 

 女としても、格闘家としても春麗を見た。

 それでも届かなかった。

 伸ばした手を、逆に投げの起点にされた。

 

 その悔しさが、顔に出ていた。

 

 春麗の背筋に、ぞくりとしたものが走る。

 

 あの顔。

 

 あれが見たかった。

 

 リュウが負ける顔ではない。

 

 リュウが悔しがる顔。

 折れずに、次を見ている顔。

 今度は逃がさないと、もう胸の奥で誓っている顔。

 

 春麗は、あの顔を見るために勝ったのかもしれない。

 

 そう思うと、口元が少しだけ緩んだ。

 

 「次は逃がさない、か」

 

 リュウはそう言った。

 

 低く、掠れた声だった。

 

 悔しさを押し殺した声。

 

 でも、その奥には確かに火があった。

 

 春麗は、その火が好きだった。

 

 もちろん、本人に言うつもりはない。

 

 言うなら、次もきっと煽る。

 

 捕まえに来たんじゃなかったの?

 

 今日は私を追うだけで精一杯だったみたいね。

 

 私を見ることと、私を捕まえることは違うの。

 

 そう言って、また悔しがらせる。

 

 けれど、春麗は知っている。

 

 今回の余裕が、次も続くとは限らない。

 

 リュウは負けをそのままにはしない。

 

 あの男は、必ず持ち帰る。

 

 敗北も。

 屈辱も。

 煽りも。

 指先で顎を上げられた感覚も。

 掴んだはずの手を投げに変えられた悔しさも。

 

 全部、次の拳に沈めてくる。

 

 次は、ただ捕まえに来るだけではない。

 

 春麗が「捕まえに来る手を利用する」と知った上で、さらに来る。

 

 手を伸ばす場所を変えるかもしれない。

 掴む前に間合いを潰すかもしれない。

 春麗が掴ませることを読んで、その先を狙うかもしれない。

 

 次は、今日みたいにはいかないかもしれない。

 

 その予感に、春麗の胸がまた高鳴った。

 

 怖くはない。

 

 いや、少しは怖い。

 

 でも、それ以上に楽しみだった。

 

 今日は、私の勝ち。

 

 それも、いつもより少し余裕を残した勝ち。

 

 でも、リュウ。

 

 あなたはきっと、次はその余裕ごと奪いに来る。

 

 春麗は朝の光の中で、黒いドレスの裾を軽く払った。

 

 肩の痛みはまだ残っている。

 

 手首にも、リュウの指の感触が残っている。

 

 それは、今回の勝利の証であり、次の戦いの予告でもあった。

 

 春麗は山道を下りながら、小さく笑った。

 

 「だからまた、来なさい」

 

 声は、誰にも届かない。

 

 けれど、その奥には確かな期待があった。

 

 「今度は、もっと私を焦らせてみせて」

 

 春麗は歩き出す。

 

 勝利の余韻と、少しの物足りなさと、次への高揚を胸に抱えたまま。

 

 次も勝つ。

 

 そう思っている。

 

 けれど同時に、次はもっと危うくなってほしいとも思っている。

 

 それが、リュウと戦うということだった。

 

 ただ勝つだけでは足りない。

 

 追い詰められて、揺らされて、それでも最後に立つ。

 

 そのために春麗は、もっと自分を磨く。

 

 女としての自分も。

 格闘家としての自分も。

 リュウだけに向ける、この危うい間合いも。

 

 春麗は、もう一度だけ振り返った。

 

 修行場は木々の向こうに隠れて見えない。

 

 だが、そこに片膝をついたリュウの顔は、まだ鮮明に残っていた。

 

 悔しそうで。

 

 それでも、折れていない顔。

 

 春麗は満足げに目を細める。

 

 次は、もっといい顔を見せて。

 

 そう心の中で告げて、春麗は朝の山道を下りていった。

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