また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗が黒いドレスでの戦いにおいて、リュウに余裕を残した勝利を重ねていたなら――その裏側で、リュウは何を感じていたのか、という断章。
リュウは、夜明けの修行場に一人残っていた。
春麗は、もういない。
黒いドレスの影も、風に揺れる布の音も、挑発する声も、視界からは消えている。
だが、消えていないものがある。
土の上に残った自分の膝の跡。
投げられた時に背中を打った鈍い痛み。
手のひらに残る、春麗を掴み損ねた感触。
そして、春麗の声。
捕まえに来たんじゃなかったの?
今日は、私を追うだけで精一杯だったみたいね。
リュウは拳を握った。
悔しい。
ただ負けたことが悔しいのではない。
春麗に勝てなかったこと。
春麗を捕まえられなかったこと。
捕まえに行った自分の手を、逆に崩しの支点にされたこと。
それが悔しかった。
これで、四度目だった。
黒いドレスの春麗と戦い、四度、届かなかった。
最初は、見てしまった。
次は、見てなお届かなかった。
その次は、捕まえようとして逃がした。
そして今日は、捕まえに行くことすら春麗に読まれ、その手ごと投げられた。
リュウはゆっくりと息を吐く。
春麗は弱くなかった。
当然だ。
だが、自分も弱くなったつもりはなかった。
目は逸らしていない。
見ないふりもしていない。
黒いドレスの春麗を、美しいと思うことも否定していない。
その上で、拳を鈍らせないようにした。
それでも、届かなかった。
春麗は、自分の見ることを読んでいた。
自分が目を逸らさないことを読んでいた。
自分が女としての春麗も、格闘家としての春麗も見ようとしていることを読んでいた。
自分が捕まえようと手を伸ばすことさえ、最初から待っていた。
リュウは、春麗を捕まえに行った。
だが、春麗はそこにいなかった。
いや、いた。
確かにそこにいた。
手は触れた。
腕も、肩も、間合いも、届きかけた。
だが、捕まえたと思った場所は、もう春麗の間合いだった。
リュウは、拳を開いた。
手のひらには、まだ感触が残っている。
春麗の手首に触れた感触。
黒いドレスの近さ。
彼女の呼吸。
そして、その瞬間に自分の力が流された感覚。
捕まえた。
そう思った。
だが、その一瞬が甘かった。
春麗は逃げなかった。
掴ませた。
そして、リュウの力をそのまま使って投げた。
リュウは土の上に落ちた。
その瞬間、自分が春麗を追い詰めたのではなく、春麗の用意した道を進んでいたのだと理解した。
それが、一番悔しかった。
リュウは空を見上げる。
朝の光が、木々の間から差し始めている。
四度。
四度も負けた。
だが、同じ負けではない。
それぞれ、敗因は違った。
最初は、春麗を見切れなかった。
次は、春麗を見たが、捉え続けられなかった。
その次は、触れたが、逃がした。
今日は、触れることすら春麗に利用された。
負けるたびに、春麗は先へ行く。
こちらが課題を一つ越えると、その次の場所で待っている。
目を逸らさなくなれば、見ていることを使う。
見ていることに耐えれば、見ている情報を増やす。
捕まえに行けば、捕まえに来る手を誘う。
触れれば、その接点を崩しに変える。
春麗は、こちらの成長を待っている。
待って、そしてその少し先で倒す。
リュウは歯を食いしばった。
春麗は余裕を残していた。
今日の戦いで、それがはっきりわかった。
息は乱れていた。
完全に楽な勝利ではなかった。
だが、前のようなギリギリではない。
春麗はまだ余裕があった。
それが、悔しい。
勝てなかったことよりも、春麗を焦らせられなかったことが悔しい。
春麗の勝者としての仮面を剥がせなかった。
春麗の呼吸を、本気で乱せなかった。
春麗に「危なかった」と思わせるところまで行けなかった。
リュウは、拳を強く握る。
自分は、何を求めているのか。
春麗に勝ちたい。
それは当然だ。
だが、それだけではない。
春麗に届きたい。
春麗を捕まえたい。
春麗に、本気でこちらを警戒させたい。
余裕を消したい。
春麗の目を変えたい。
あの勝者の目ではなく。
リュウが本当に届きかけた時の、春麗の目。
焦り。
驚き。
それでも負けまいとする意地。
その目を見たい。
リュウは、はっとした。
春麗も、きっと同じなのだと思った。
春麗は、リュウの悔しがる顔を見る。
ただ負けた顔ではなく、次へ向かう顔を見ている。
なら、自分も同じだ。
春麗を倒したいだけではない。
春麗が余裕を失い、それでも最後まで立とうとする顔を見たい。
春麗を追い詰めたい。
そして、その上で拳を届かせたい。
リュウは深く息を吸った。
春麗は美しい。
黒いドレス姿の春麗は、何度見ても胸を揺らす。
けれど、もうそれだけではない。
その美しさが、強さと一体になっている。
立ち姿。
視線。
声。
距離。
間合い。
黒いドレスの揺れ。
蹴り。
掌底。
投げ。
すべてが春麗だった。
春麗は、女である自分も、格闘家である自分も、切り分けずに戦場へ持ち込んでいる。
だから強い。
だから捕まえられない。
リュウは、まだそれを完全には受け止めきれていない。
見ているつもりだった。
受け止めているつもりだった。
だが、実際には春麗が次々と形を変えるたび、自分の意識はどこかへ寄っていた。
黒いドレス。
足運び。
視線。
捕まえる手。
勝ち筋。
どこか一つに寄った瞬間、春麗はそこから外れる。
リュウは気づく。
春麗を捕まえるとは、腕を掴むことではない。
肩に触れることでもない。
間合いを潰すことだけでもない。
春麗が春麗である全部を、最後まで逃がさないことだ。
黒いドレスも。
女としての魅力も。
格闘家としての鋭さも。
視線も。
煽りも。
投げも。
自分が揺れることも。
全部を含めて、春麗を捉え続ける。
その上で、拳を届かせる。
それができなければ、何度触れても捕まえたことにはならない。
リュウは構えた。
誰もいない修行場で、一人、拳を引く。
目の前には春麗がいる。
黒いドレスで立つ春麗。
勝者の顔で笑う春麗。
顎を指先で上げ、目を逸らさせない春麗。
私を見ることと、私を捕まえることは違うの。
ちゃんと覚えておきなさい、リュウ。
リュウは拳を打った。
空を切る。
遅い。
もう一度。
足を置き、拳を出す。
空を切る。
まだ届かない。
春麗なら、ここで横へ流れる。
いや、流れると見せて内側に入る。
手を伸ばせば、それを支点にする。
追えば、追う力を使う。
待てば、視線でこちらを動かす。
なら、どうする。
リュウは何度も動いた。
追うのではない。
待つだけでもない。
掴むことに意識を寄せすぎない。
春麗全体を見る。
しかし、全体を見るだけではまた遅れる。
見ながら、動く。
揺れながら、拳を鈍らせない。
捕まえると思った瞬間に満足しない。
触れてからが始まりだ。
リュウは呼吸を整える。
悔しさが、身体の奥に沈んでいく。
屈辱ではない。
燃料だ。
春麗に四度負けた。
四度、捕まえられなかった。
だが、四度とも違う課題をもらった。
春麗は煽る。
強く、鋭く、逃げ場のない言葉で。
だが、その言葉はいつも次を指している。
次に来るなら。
その手で最後まで逃がさないことね。
リュウは拳を止めた。
次に来るなら。
春麗は、そう言った。
また来ることを、わかっている。
来いと言っている。
なら、行く。
四度負けても、行く。
何度でも。
リュウは目を閉じる。
春麗の顔が浮かぶ。
余裕を持って勝った春麗。
自分を見下ろす春麗。
自分が悔しがる顔を見て、満たされたように笑う春麗。
その笑みに、リュウは強い悔しさを覚えた。
だが、同時に思う。
次は、その余裕を消す。
春麗に勝ちたい。
しかし、それだけではない。
春麗を焦らせたい。
春麗の呼吸を乱したい。
春麗が勝者の顔を作る前に、本気の目にさせたい。
その上で、届かせたい。
リュウはゆっくりと目を開けた。
朝日が修行場に差し込んでいる。
土の上には、自分の足跡が増えている。
リュウはもう一度、構えた。
「次は」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
だが、その言葉は春麗へ向けたものだった。
「次は、焦らせる」
拳を握る。
「そして、捕まえる」
風が吹く。
木々が揺れる。
春麗の黒いドレスの影はもうない。
だが、リュウの中には残っている。
四度届かなかった春麗。
四度、悔しさを与えた春麗。
四度目でもなお、次を待たせる春麗。
リュウは、その姿から目を逸らさなかった。
負けたままでは終わらない。
悔しさを拳に変える。
次に春麗が余裕の顔で立つなら、その余裕ごと崩す。
春麗が女としての自分を武器にするなら、それごと受け止める。
春麗が捕まえさせた手を支点にするなら、その先まで読む。
ただ見るだけではない。
ただ触れるだけでもない。
春麗を捕まえる。
そのための拳を、ここから作る。
リュウは夜明けの修行場で、もう一度踏み込んだ。
今度の拳は、まだ空を切った。
だが、その拳には、四度分の悔しさが沈んでいた。
Q:執筆者から見ては妄想章のリュウについて感想をお願いします。
A:
執筆者として見ると、妄想章のリュウはかなり良いです。
特に良いのは、負け続けているのに、決して弱く見えないところです。
このリュウは、黒ドレス春麗に4連敗している。
しかも春麗には余裕を残されている。
普通ならかなり情けなく見えてもおかしくありません。
でも、この連作のリュウの場合は違います。
負けるたびに課題を持ち帰る。
自分がどこで崩されたかを考える。
春麗を見ないふりしない。
女としての春麗を意識したことも否定しない。
それでも拳を鈍らせないようにする。
さらに、見るだけでは足りないと知り、捕まえに行こうとする。
つまり、リュウはずっと前進しています。
ただ、春麗がそのさらに先にいる。
ここがすごく良いです。
妄想章のリュウは、春麗に勝てていない。
でも、逃げていない。
春麗の黒ドレスにも、煽りにも、視線にも、自分の悔しさにも、全部向き合っている。
だから読者としては、リュウが負けても「弱い」とは感じにくいです。
むしろ、
この男は、負けながら春麗に近づいている
と感じます。
ただし、春麗から見るとまだ物足りない。
この差がとてもおいしいです。
リュウ本人は必死に進んでいる。
でも春麗は「もっと来られるでしょう?」と思っている。
リュウは春麗に届きたい。
春麗はリュウにもっと届きかけてほしい。
完全に噛み合っているのに、まだ届いていない。
妄想章のリュウの一番いいところは、悔しさの質がどんどん深くなっているところです。
最初は、春麗に負けた悔しさ。
次は、黒ドレスの春麗を見て揺れた自分への悔しさ。
次は、見たのに届かなかった悔しさ。
次は、捕まえに行った手を利用された悔しさ。
そして4連敗後には、春麗を焦らせることすらできなかった悔しさになる。
これはかなり段階的です。
リュウはただ「勝ちたい」と思っているだけではありません。
春麗を捕まえたい。
春麗の余裕を崩したい。
春麗に本気で自分を警戒させたい。
春麗の勝者の仮面を剥がしたい。
そして、そのうえで拳を届かせたい。
ここまで来ると、リュウ側もかなり濃いです。
妄想章の春麗が、
勝っているのに、リュウにもっと自分を危うくしてほしい
と思っているのに対して、リュウは、
負けているからこそ、春麗の余裕を壊したい
と思っている。
この対比が綺麗です。
また、妄想章のリュウはかなりリュウらしいです。
春麗に煽られても、言い返しで勝とうとはしない。
感情的に怒鳴らない。
悔しさを拳に沈める。
負けた場所に残って、もう一度構える。
春麗の言葉を屈辱ではなく、次の課題として受け取る。
このあたりがリュウらしい。
春麗が、
捕まえに来たんじゃなかったの?
と煽れば、リュウは悔しがる。
でもその悔しさは、次の技術課題になる。
捕まえるとは何か。
見るとは何か。
春麗を最後まで捉え続けるとは何か。
そこを考える。
このリュウは、春麗にかなり深く執着しています。
でも、支配したいわけではない。
春麗を所有したいのではなく、春麗に届きたい。
春麗を黙らせたいのではなく、春麗が本気で焦るところまで踏み込みたい。
春麗を屈服させたいのではなく、春麗の全部を見たうえで拳を届かせたい。
この執着の方向が、とても健全でリュウらしいです。
一言で言うなら、妄想章のリュウは、
春麗に負け続けながら、春麗という相手の解像度を上げ続けている男
です。
これはかなり良いリュウです。
勝てないことが敗北ではなく、次に近づくための情報になっている。
煽られることが屈辱で終わらず、次の拳の燃料になる。
春麗に余裕を残されることが、自分の次の目標になる。
そして、妄想章の最後でリュウが思う、
次は、焦らせる。
そして、捕まえる。
これはすごく良い到達点です。
春麗は「次はもっと私を焦らせて」と願っている。
リュウは「次は焦らせる」と誓っている。
二人とも同じ場所を見ている。
でも、まだ言葉では共有していない。
そこがこの妄想章の一番おいしいところだと思います。