また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗は戻ってきた。
以前とは違う立場で。
かつて彼女は、リュウを迎え撃つ側だった。
最初の対戦では、リュウの無意識の甘さを見抜き、叩き伏せた。
二度目、三度目の戦いでも、彼の中に残る敗北の記憶を突き、勝者として挑発の言葉を浴びせた。
だが、最後の一戦でリュウはそれを越えた。
春麗の速さも、誘いも、空中投げも、敗北の記憶も、すべてを抱えたまま前へ出た。
そして、紙一重で勝った。
その時、リュウは言った。
「また戦ってくれ」
勝者の余裕ではなかった。
それは、もう一度拳を交える価値のある相手へ向けた、最大限の敬意だった。
春麗はその言葉を忘れていない。
だから今夜、彼女は再びリュウの前に立っていた。
場所は、また春麗のステージ。
夜の街。灯籠の明かり。石畳。歓声。
あの敗北も、あの勝利も、この場所に染みついている。
リュウは静かに構えていた。
春麗もまた、構える。
二人の間に、以前のような侮りはない。
見下ろす者も、追いすがる者もいない。
そこにいるのは、互いに一度ずつ本当の意味で勝ち、敗れた格闘家だった。
「来たな」
リュウが言った。
「ええ」
春麗は笑う。
「今度は私が挑む番だもの」
リュウの目がわずかに細くなる。
「受けて立つ」
それだけでよかった。
合図は、風が灯籠を揺らした瞬間だった。
春麗が先に動く。
低い踏み込み。
速い。
前回よりさらに速い。
リュウは腕を上げるが、春麗の蹴りはそこへ来ない。
軸足を狙うと見せかけ、彼女の身体は一瞬で横へ流れた。
リュウの視界から、春麗の正面が消える。
横。
いや、さらにその外。
リュウは身体を回す。
だが、その瞬間、春麗の掌底が胸元へ入った。
浅い。
しかし、呼吸を一瞬乱すには十分だった。
リュウは下がらない。
そのまま拳を返す。
春麗はかわす。
リュウの拳が彼女の髪を揺らす。
春麗の蹴りがリュウの脇腹をかすめる。
最初の数合だけで、観客の歓声がざわめきに変わった。
速すぎる。
重すぎる。
どちらも譲らない。
春麗は笑っていなかった。
リュウもまた、余計な言葉を発しなかった。
この二人に、もう前置きはいらなかった。
春麗が跳ぶ。
リュウは昇龍拳を撃たない。
以前なら、その跳躍だけで空中投げの記憶が身体を縛った。
だが今は違う。
リュウは地を踏みしめ、春麗の影を見ている。
春麗は空中で身体を捻った。
正面からの攻撃ではない。
背後を取る軌道。
リュウは一歩前へ出る。
前回、自分が勝利を掴んだ動き。
春麗の腕が空を切る。
だが、春麗はそこで止まらなかった。
着地の瞬間、彼女はさらに踏み込んだ。
リュウの予測より、半歩早い。
「!」
春麗の膝がリュウの腹へ入る。
鈍い衝撃。
リュウの息が詰まる。
続けて、回し蹴り。
リュウは腕で受けた。
重い。
いや、鋭い。
春麗は、前回リュウに外された形を、さらに一段変えてきていた。
読まれることを前提にしている。
リュウはそのことを悟り、胸の奥が熱くなる。
強くなっている。
春麗は、敗北をそのままにしていなかった。
リュウは拳を握り直す。
ならば、自分も応えるしかない。
リュウは、春麗の動きの中に前回の自分を見ていた。
負けた者は、変わる。
自分がそうだったように、春麗もまた変わっている。
以前の春麗は、リュウの迷いを狩った。
敗北の記憶を利用した。
勝ちを焦る瞬間を見逃さなかった。
だが今の春麗は、それだけではない。
リュウが迷わないことを知っている。
リュウが誘いに乗らないことを知っている。
リュウが敗北の形を越えてくることを知っている。
そのうえで、さらに奥の手を用意していた。
読まれる前提の誘い。
避けられる前提の踏み込み。
受けられる前提の連撃。
リュウは思った。
これが、挑む春麗か。
胸が高鳴る。
脇腹は痛い。
呼吸も乱れている。
だが、それ以上に嬉しかった。
彼女は本気で自分を倒しに来ている。
リュウは波動拳を撃つ。
春麗は跳ばない。
低く沈み、地を滑るようにかわす。
そこまでは読んでいた。
リュウは踏み込む。
春麗が接近してくる場所へ、拳を置く。
だが、春麗の身体が沈んだ。
拳が頭上を通る。
足払い。
リュウは跳ばない。
軸をずらす。
ここも読んでいる。
春麗の足が空を切る。
リュウは拳を振り下ろした。
決まる。
そう思った瞬間、春麗が笑った。
足払いは、空振りして終わる技ではなかった。
彼女は払った足を支点にして、身体を反転させた。
低い姿勢のまま、もう一方の脚が跳ね上がる。
リュウの顎を狙う蹴り。
リュウは腕で受ける。
だが、体勢が崩れた。
春麗はその崩れを見逃さない。
一撃。
二撃。
三撃。
速い蹴りがリュウの肩、胸、脇腹を打つ。
リュウは耐える。
耐えながら、春麗の呼吸を見る。
次に来るのは、決めの跳躍。
そう読んだ。
春麗が跳んだ。
やはり。
リュウは今度こそ昇龍拳の構えに入る。
迷いはない。
当てる。
春麗の軌道が変わる。
それでも追う。
「昇龍拳!」
拳が夜を裂いた。
春麗の身体に届く。
しかし。
届いたのは、彼女の腕だった。
春麗は空中で両腕を交差させ、リュウの拳を受けていた。
完全に防げたわけではない。
春麗の身体は弾かれる。
だが、落ちない。
彼女はリュウの腕に自分の身体を絡めるようにして、無理やり軌道を変えた。
「受けたのか……!」
リュウの目が見開かれる。
春麗は、昇龍拳を避けるのではなく、受ける覚悟で来ていた。
前回、リュウが恐怖を越えて放った拳。
その拳を、今度は春麗が真正面から越えに来た。
空中で身体がもつれる。
リュウは投げられまいと踏ん張る。
春麗もまた、腕に走る痛みに顔を歪めながら、離さない。
二人は崩れながら石畳へ落ちた。
衝撃。
リュウの背中が打ちつけられる。
春麗も肩を強く打った。
だが、先に動いたのはリュウだった。
彼は立ち上がりながら拳を振る。
春麗はまだ低い姿勢。
当たる。
そう思った瞬間、春麗が前へ出た。
逃げない。
受ける。
リュウの拳が春麗の肩を打つ。
春麗の顔が苦痛に歪む。
しかし彼女は止まらない。
「っ……!」
春麗の掌底がリュウの腹へ深く入った。
リュウの呼吸が止まる。
続けて、膝。
そして、至近距離からの蹴り。
リュウの身体が大きく揺れる。
それでも倒れない。
倒れてたまるか。
リュウは歯を食いしばり、最後の拳を握った。
春麗が見える。
彼女も限界だ。
腕は下がり、呼吸は乱れ、脚も震えている。
ここで踏み込めば、勝てる。
リュウは前へ出た。
だが、春麗の目がまだ死んでいなかった。
春麗は、自分の身体が悲鳴を上げているのを感じていた。
腕が痛い。
昇龍拳を受けた腕が痺れている。
肩も重い。
腹にも、リュウの拳の衝撃が残っている。
まともに受けるべき技ではなかった。
だが、受けるしかなかった。
避けるだけでは、前回と同じになる。
リュウはもう、空振りを恐れていない。
彼の昇龍拳は、迷いを断ち切る拳になっていた。
ならば、自分も越えるしかない。
あの拳を避けるのではなく、受けてなお前へ出る。
無茶だとわかっていた。
でも、リュウに勝つにはそれしかなかった。
リュウが踏み込んでくる。
最後の拳。
春麗にはわかった。
これをまともにもらえば、終わる。
かわす余力は少ない。
受ける力も残っていない。
ならば、どうする。
春麗は息を吐いた。
答えは最初から一つだった。
前へ出る。
リュウの拳が完成する前に、間合いを潰す。
それは危険だった。
一歩遅れれば、リュウの拳を真正面から受ける。
一歩早すぎれば、逆に体勢を崩す。
紙一重。
だが、この戦いは最初からずっと紙一重だった。
春麗は踏み込んだ。
リュウの拳が伸びる。
肩をかすめる。
痛みが走る。
だが、芯は外した。
春麗はリュウの懐に入る。
リュウの目が、ほんのわずかに驚く。
その一瞬。
春麗は身体を回した。
全身の力を、最後の蹴りに込める。
脚が振り抜かれる。
リュウは腕を上げた。
防がれる。
それでもいい。
春麗の狙いは、倒すことだけではなかった。
防御ごと、リュウの軸を崩す。
蹴りがリュウの腕に当たる。
鈍い音。
リュウの足が半歩ずれる。
春麗はさらに踏み込む。
最後の掌底。
リュウの胸へ。
深く。
リュウの身体が止まった。
春麗も止まる。
一瞬、世界から音が消えた。
リュウの拳は、春麗の頬のすぐ横で止まっていた。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
だが、届いていない。
リュウの膝が落ちる。
春麗は、倒れそうになる自分の身体を必死に支えた。
リュウが片膝をつく。
まだ立とうとしている。
やめて。
春麗は心の中で思った。
いや、違う。
立って。
立って、また私を追い詰めて。
矛盾した感情が胸に渦巻く。
だが、勝負は非情だった。
リュウの身体は、限界を超えていた。
彼はもう一度立とうとした。
だが、膝が石畳を離れない。
審判の声が響く。
勝者、春麗。
観客の歓声が爆発する。
春麗は勝った。
だが、勝利の余裕などなかった。
立っているだけで精一杯だった。
それでも、春麗はリュウを見下ろした。
勝者として。
ライバルとして。
そして、次の戦いを求める者として。
「……今日は、私の番ね」
春麗は息を整えながら言った。
声は震えかけていた。
だからこそ、彼女は笑った。
「次も来なさい、リュウ。あなたの拳は、まだ私に届ききってないわ」
挑発ではあった。
けれど、以前のような見下しではない。
そこには、確かな敬意があった。
リュウは片膝をついたまま、春麗を見上げた。
悔しさがある。
痛みがある。
だが、それ以上に、胸の奥に熱があった。
春麗は勝った。
本気で勝ちに来て、リュウの拳を越えて勝った。
それが嬉しかった。
負けてなお、そう思えた。
リュウはゆっくりと息を吐く。
「……強いな」
春麗の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
その言葉は、彼女にとって勝ち名乗り以上のものだった。
リュウは拳を握り直した。
「次は、俺が勝つ」
春麗は笑った。
今度は、勝者の笑みではなく、ライバルの笑みだった。
「当然、そうでなくちゃ困るわ」
リュウは控えの通路で、壁に背を預けていた。
身体が重い。
腕が上がらない。
胸には、春麗の最後の掌底の痛みが残っている。
脇腹も熱い。
負けた。
だが、不思議と、最初に春麗に敗れた時のような屈辱はなかった。
もちろん悔しい。
勝てると思った。
最後の拳は届くと思った。
春麗の頬のすぐ横まで、拳は伸びていた。
だが、届かなかった。
ほんの一歩。
ほんの一呼吸。
その差で、春麗が勝った。
リュウは目を閉じる。
春麗は強かった。
前回、自分が越えたはずのものを、今度は彼女が越えてきた。
昇龍拳を避けるのではなく、受けて前へ出た。
敗北の形を恐れず、危険な間合いへ踏み込んできた。
それは、リュウが前回やったことと同じだった。
いや、彼女なりの答えだった。
リュウは小さく笑った。
「そうか……」
これがライバルなのだと思った。
自分が越えれば、相手も越えてくる。
自分が一歩進めば、相手もまた一歩進む。
勝ったと思えば、次には負ける。
負けたと思えば、次に勝つための道が見える。
終わらない。
終わらないからこそ、拳を握り続けられる。
リュウは立ち上がった。
身体はまだ痛む。
だが、心は静かだった。
春麗の勝ちセリフが耳に残っている。
次も来なさい、リュウ。あなたの拳は、まだ私に届ききってないわ。
いい言葉だと思った。
次は届かせる。
ただ勝つためではない。
春麗という格闘家に、自分の全力をもう一度ぶつけるために。
リュウは夜の街を見た。
ステージの向こうで、春麗はまだ観客の歓声を浴びているのだろう。
勝者として。
挑戦者として。
ライバルとして。
リュウは拳を握る。
そして、静かに呟いた。
「また戦おう、春麗」
その声は、敗者のものではなかった。
次の戦いへ向かう格闘家の声だった。