また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗が黒いドレスで現れる時、その場に他人はいない。
いつの間にか、それは二人の間の決まりごとのようになっていた。
観客はいない。
歓声もない。
審判もいない。
余計な視線もない。
夜明け前の修行場には、ただ風が吹いていた。
木々が揺れ、土の匂いが冷えた空気に混じる。山の稜線はまだ暗く、空の端だけがわずかに白みはじめている。
リュウは一人、修行場の中央に立っていた。
連絡はない。
挑戦状もない。
それでも、春麗は来るとわかっていた。
黒いドレスの春麗は、見せ物ではない。
大会の観客へ向けた華やかさではない。
歓声を浴びるための姿でもない。
誰かに見せつけるためのものでもない。
あの姿は、リュウの視線を試すためにある。
リュウの拳を測るためにある。
リュウが、春麗をどこまで見て、どこまで受け止め、それでも拳を鈍らせずにいられるかを問うためにある。
だから、リュウも一人で待つ。
余計なものはいらない。
ここで向き合うのは、リュウと春麗だけでいい。
リュウは静かに拳を握った。
これまで、何度も届かなかった。
見ないふりをして崩された。
見てなお届かなかった。
捕まえに行き、その手を利用された。
春麗の間合いの中で、追うことも、触れることも、捕まえることも、すべて先に読まれた。
それでも、逃げなかった。
春麗を見ることから。
春麗を女としても意識することから。
春麗を格闘家として恐れることから。
春麗に負ける悔しさから。
逃げなかった。
次は捕まえる。
リュウは、そう決めていた。
風の中に、足音が混じった。
リュウは顔を上げる。
山道の影から、春麗が現れた。
黒いドレス。
夜明け前の薄闇の中で、その輪郭だけが静かに浮かび上がる。黒い布が風に揺れ、歩みに合わせて柔らかく形を変える。
派手な登場ではない。
ただ、当然のように現れた。
ここにリュウがいると知っていたように。
ここに観客などいないと知っていたように。
ここが二人だけの戦場だと、最初から決まっていたように。
春麗はリュウの前で足を止めた。
「待っていたの?」
「来ると思っていた」
リュウは答えた。
春麗は少しだけ笑う。
「この姿で戦う時に、余計な目はいらないもの」
その言葉は、何でもないように聞こえた。
けれど、リュウにはわかった。
春麗は「誰にも見せたくない」とは言わない。
「お前だけに見せる」とも言わない。
だが、この姿でリュウの前に立つ時、そこに他人は不要なのだ。
それが、この戦いの形だった。
春麗は一歩近づく。
黒いドレスの裾が、夜明け前の風に揺れた。
「観客も、歓声も、邪魔するものもない。
今度こそ、その目と拳で私を捕まえてみせなさい」
リュウは構えた。
「今度は、逃がさない」
春麗の目が、少しだけ細くなった。
「そう。なら、見せてもらうわ」
春麗は、すぐには動かなかった。
一歩、近い距離へ入ってくる。
以前よりも近い。
リュウの拳が届く距離。
春麗の膝も、掌底も、蹴りも届く距離。
危険な距離だった。
春麗はその距離で止まり、リュウを見る。
目を逸らさせない。
黒いドレスの揺れ。
足の運び。
肩の呼吸。
静止。
低い声。
近い距離。
すべてが、春麗の戦術だった。
リュウは見る。
春麗の顔を見る。
目を見る。
足を見る。
黒いドレスの裾を見る。
その奥にある膝の向きを見る。
自分の胸が揺れることも見る。
春麗は美しい。
その事実を消さない。
そして、春麗は危険だ。
その事実も消さない。
どちらかだけを見ることはできない。
切り分けようとすれば、また春麗に読まれる。
全部見る。
リュウはそう決めていた。
春麗が動いた。
低い踏み込み。
黒いドレスが一拍遅れて揺れる。
リュウは布を見た。
だが、そこに奪われない。
膝の向き。
低い蹴り。
リュウは跳ばない。
半歩、軸をずらす。
春麗の足が空を切る。
そこへ拳を置く。
春麗はかわす。
いや、かわしたのではない。
かわす場所へ、最初から身体を置いていた。
続けて掌底。
リュウは腕で流す。
春麗は近いまま、目を合わせてくる。
声が低く落ちる。
「遅いわよ」
その声に、呼吸がわずかに熱を持つ。
リュウは飲まれない。
だが、完全には無視できない。
春麗はそれを知っている。
リュウが目を逸らさないことを知っている。
女としての春麗を見ることを知っている。
そのうえで、拳を鈍らせまいとすることも知っている。
捕まえに来ることも、知っている。
だから、その全部を使ってくる。
リュウは拳を引いた。
見えている。
だが、まだ春麗の間合いの中だ。
春麗の蹴りが来る。
受ける。
掌底が来る。
流す。
春麗が横へ流れる。
追わない。
春麗が跳ぶ。
追い上げない。
着地後の逃げ道を見る。
そこへ足を置く。
春麗の目が、わずかに動いた。
リュウの手が春麗の肩に触れかける。
だが、その瞬間、春麗は身体を回した。
触れたはずの位置から、力が抜ける。
リュウの腕が引かれる。
前回までなら、ここで崩されていた。
捕まえたと思った瞬間、その手を支点にされ、投げられた。
リュウは覚えている。
だから今回は、力を込めない。
捕まえたと思わない。
触れたところが終わりではない。
触れたところから、春麗は動く。
なら、その先まで見る。
春麗が流れようとする方向へ、リュウは半歩ついていった。
力で押さえ込むのではない。
春麗が逃げるはずだった場所に、身体を置く。
春麗の目が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
だが、リュウには見えた。
今回は違う。
春麗も、それに気づいた。
次の瞬間、春麗はさらに近く入ってきた。
距離が詰まる。
黒いドレスの揺れが視界を満たす。
春麗の呼吸が近い。
声も近い。
視線が逃げ道を塞ぐ。
「見えているのね」
春麗が囁くように言った。
「でも、見えているだけじゃ足りないわ」
その言葉は、以前と同じ刃を持っていた。
リュウの胸が揺れる。
近い。
美しい。
危険だ。
春麗は、そのすべてを使っている。
リュウは無感情ではない。
春麗を見て、何も感じないわけではない。
むしろ、感じている。
黒いドレス姿の春麗に、胸は揺れる。
近い距離で見られれば、呼吸にも熱が入る。
その声に、身体の奥が一瞬反応する。
だが、それを消さない。
揺れた。
それでも見る。
それでも拳を鈍らせない。
それも含めて春麗だ。
リュウは踏み込んだ。
春麗の膝が腹を狙う。
リュウは肘で受ける。
重い。
腕が痺れる。
春麗はすぐに切り返す。
低い蹴り。
リュウは下がらない。
足を置く。
春麗の逃げ道を一つ潰す。
春麗の目が、またわずかに動く。
掌底。
リュウは受ける。
そのまま、春麗の手首へ触れた。
春麗は逃げない。
むしろ、誘っている。
リュウはわかっていた。
これは罠だ。
春麗は、捕まえに来る手を待っている。
そこを支点にする。
リュウの力を使って崩す。
前なら、それで負けた。
だが、今は違う。
リュウは掴む。
しかし、握りしめない。
春麗が流れる方向を見る。
肩の向き。
腰の沈み。
足の運び。
黒いドレスの揺れ。
視線。
春麗が回る。
リュウの腕を支点にして、身体を反転させようとする。
リュウは逆らわなかった。
逆らえば、力を取られる。
だから、ついていく。
春麗の回転に合わせて、半歩深く踏み込む。
春麗の身体が、ほんの一瞬詰まった。
回転が、完成しない。
春麗の呼吸が乱れた。
リュウは見逃さない。
しかし、春麗も止まらない。
彼女はその乱れを隠すように、さらに女としての揺さぶりを重ねてきた。
近い距離。
目を逸らさせない。
黒いドレスの裾が、リュウの膝に触れるほど近く揺れる。
春麗の声が、低く落ちる。
「捕まえるんでしょう?」
リュウの呼吸が熱を持つ。
だが、拳は鈍らない。
「そうだ」
リュウは短く答えた。
春麗が笑った。
その笑みもまた、誘いだった。
春麗が再び動く。
今度は本気で勝ちに来た。
リュウの手を誘う。
手首に触れさせる。
身体を回す。
投げへ入る。
これまでなら、ここで春麗が勝った。
リュウの力を使い、軸を払って、土へ落とす。
だが、今回は違う。
リュウは、掴んだ手に力を入れすぎない。
春麗が身体を回す方向へ、あえて一歩ついていく。
そして春麗の回転が完成する前に、逃げる先を塞いだ。
春麗の目が、大きく揺れた。
本当に、一瞬だけ。
逃げられない。
その言葉が、春麗の目に浮かんだ気がした。
リュウは春麗を力で押さえ込んだのではない。
春麗が逃げるはずだった間合いに、先にいた。
春麗は切り返そうとする。
膝。
出ない。
リュウが腰の線を押さえている。
肩を抜く。
抜けない。
リュウの腕が、肩口の流れを止めている。
春麗はさらに体勢を低くして回ろうとする。
リュウはそれに逆らわず、半歩沈む。
春麗の軸が止まった。
リュウの腕は痺れていた。
腹は重い。
息も荒い。
あと一瞬遅ければ、また投げられていた。
だが、今は違う。
春麗は目の前にいる。
逃げ道を失い、次の蹴りを出せず、黒いドレスの裾を揺らしながら、リュウの間合いの中にいる。
リュウは拳を引いた。
打ち抜くのではない。
勝負を止める。
拳を、春麗の喉元の寸前で止めた。
静寂が落ちた。
風の音だけが聞こえる。
春麗の呼吸が乱れていた。
リュウの呼吸も乱れていた。
二人とも、限界に近かった。
それでも、今度はリュウが立っている。
春麗は動けない。
リュウの拳が、勝負を止めている。
リュウは静かに言った。
「捕まえた」
春麗は、何も言わなかった。
いつもなら、すぐに何かを返してくる。
煽る。
笑う。
余裕を見せる。
勝者として、あるいは挑発者として、言葉を投げてくる。
だが、今は言葉がなかった。
春麗は黒いドレスの裾を風に揺らしながら、ただリュウを見ていた。
息が乱れている。
目が揺れている。
悔しさがある。
そして、その奥に、別の熱もある。
リュウは拳を下ろさなかった。
まだ気を抜けない。
春麗は、捕まえられても逃げる女だ。
一瞬でも緩めば、また間合いを奪われる。
だから、リュウは最後まで見た。
春麗が春麗であるすべてを。
黒いドレスも。
視線も。
呼吸も。
女としての揺さぶりも。
格闘家としての鋭さも。
悔しそうに揺れる目も。
全部、見た。
その上で、逃がさなかった。
リュウは、ようやく小さく息を吐いた。
「やっと、届いた」
その言葉に、春麗の眉がわずかに動いた。
悔しそうに。
けれど、どこか満たされたようにも見える顔で、春麗は笑った。
「……やっと捕まえたのね」
少し間があった。
そして、春麗は続けた。
「遅いのよ、リュウ」
その声には、悔しさがあった。
だが、それだけではなかった。
待っていたものが、ようやく来たような響きがあった。
リュウは拳を下ろした。
勝った。
だが、勝利の高揚は静かだった。
春麗は倒れていない。
折れていない。
ただ、今この瞬間だけは、リュウが捕まえた。
それだけだった。
そして、それが大きかった。
春麗は一歩下がる。
まだ息が乱れている。
しかし、その目はすでに次を見ていた。
リュウにはわかった。
この勝負で終わりではない。
春麗は、次を考えている。
捕まえられた。
なら、次は捕まえられてから逃げる。
そういう目だった。
リュウは拳を下ろし、静かに言った。
「また戦ってくれ」
春麗は悔しそうに笑った。
「今度は、私が逃げてあげるわ。捕まえられるものならね」
その言葉に、リュウもわずかに息を整える。
やはり、終わらない。
捕まえた。
だが、これで終わりではない。
春麗は、捕まえられてから逃げる方法を探してくる。
黒いドレスの戦いは、また次の形に変わる。
リュウはそれを知っている。
だからこそ、また戦いたいと思った。
夜明けの光が、修行場に差し込む。
観客はいない。
歓声もない。
ただ、リュウと春麗だけがそこにいた。
リュウは春麗を見た。
美しいと思った。
強いと思った。
悔しそうだと思った。
そして、次はもっと遠くへ行くだろうと思った。
そのすべてを、もう目を逸らさずに見ていた。
春麗は背を向け、山道へ向かって歩き出す。
黒いドレスの裾が朝の風に揺れる。
その背を見送りながら、リュウは拳を握った。
今日は、捕まえた。
だが次は、捕まえたまま逃がさない。
リュウは静かに息を吐いた。
春麗の姿が木々の向こうへ消えても、その目は逸れなかった。