また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これは本編時空ではなく、妄想章IFです。


妄想章IF:黒執着春麗は、返されたら空っぽになることを恐れる

 

 黒いドレスは、いつもそこにあった。

 

 最初からあったわけではない。

 

 最初の春麗は、黒いドレスを着ていなかった。

 

 ただ、リュウと戦っていた。

 

 十回勝った。

 

 勝てた。

 

 届いていた。

 

 自分の拳も、蹴りも、間合いも、リュウに届いていた。

 

 十連勝。

 

 その時の春麗は、まだ黒いドレスに縋っていなかった。

 

 黒い裾で視線を誘う必要もなかった。

 

 女として見られることを、戦いの中に混ぜる必要もなかった。

 

 ただ、春麗として立ち、春麗として勝っていた。

 

 リュウに勝てる自分を知っていた。

 

 リュウの前に立つ自分を疑っていなかった。

 

 そして、十一戦目で負けた。

 

 ギリギリだった。

 

 本当に、ギリギリだった。

 

 あと一歩。

 

 あと一息。

 

 あと半拍。

 

 何か一つ違えば、自分が勝っていた。

 

 そう思える敗北だった。

 

 だから、終われなかった。

 

 負けた。

 

 でも、届いていた。

 

 届いていたのに、負けた。

 

 その感触が、春麗の中に残った。

 

 黒いドレスは、まだそこにはなかった。

 

 けれど、終われない何かは、その時から生まれていた。

 

 その後、春麗は黒いドレスと出会った。

 

 黒い布。

 

 長く揺れる裾。

 

 脚の運びを隠し、視線を奪い、相手の判断を半拍だけ遅らせる余地のある衣装。

 

 魔法ではない。

 

 呪いでもない。

 

 けれど、戦い方を変える服だった。

 

 足を出す角度。

 

 裾を流す方向。

 

 踏み込みの直前に視線を止める立ち方。

 

 女として見られることを拒むのではなく、それさえ間合いに混ぜる選択。

 

 黒いドレスは、ただ着るだけの衣装ではなかった。

 

 春麗がそれを戦いに組み込んだ時、一つの技術になった。

 

 運命のように。

 

 罠のように。

 

 救いのように。

 

 呪いのように見えたのは、布そのもののせいではない。

 

 それを使う自分が、変わってしまう気がしたからだった。

 

 最初の黒いドレスを身にまとった戦いで、春麗は負けた。

 

 また、ギリギリだった。

 

 黒いドレスの戦い方は効いていた。

 

 リュウは見ていた。

 

 揺れていた。

 

 追わされていた。

 

 黒い裾に視線を取られた瞬間があった。

 

 踏み込みが、ほんの半拍だけ遅れた。

 

 春麗が見せた立ち方に、拳の判断が揺れた。

 

 それなのに、最後の最後で見破られた。

 

 恥ずかしさ。

 

 使い切れなさ。

 

 黒いドレスを着ているのに、見られることを戦術にしきれなかった自分。

 

 裾の揺れに相手の目を誘いながら、その視線を最後まで受け止めきれなかった自分。

 

 それを見られた。

 

 そして、負けた。

 

 だから、終われなかった。

 

 この戦い方は届く。

 

 でも、まだ足りない。

 

 なら、もっと深くすればいい。

 

 もっと黒い裾の使い方を身体に入れればいい。

 

 もっと視線の誘い方を磨けばいい。

 

 もっと恥ずかしさを削ればいい。

 

 もっとリュウの拳に、自分の黒いドレス姿を残せばいい。

 

 春麗は、黒いドレスで戦った。

 

 リュウ以外にも。

 

 勝てた。

 

 勝利は重なった。

 

 黒ドレスで立てば、相手は揺れた。

 

 視線は止まった。

 

 間合いは沈んだ。

 

 裾の揺れに意識を奪われた相手の足が、一瞬遅れた。

 

 春麗は、その半拍を取った。

 

 蹴った。

 

 踏み込んだ。

 

 勝った。

 

 黒いドレスは、確かに戦術になった。

 

 黒い裾は、確かに間合いを作った。

 

 見られることを戦いに組み込むその技術は、確かに相手へ届いた。

 

 だから、もう一度リュウの前に立った。

 

 勝てるはずだった。

 

 黒いドレスで勝ってきた。

 

 黒い裾で視線を奪う戦い方を覚えた。

 

 踏み込みを半拍遅らせる間合いも掴んだ。

 

 最初の黒ドレス戦とは違う。

 

 そう思った。

 

 けれど。

 

 また、ギリギリで負けた。

 

 その後も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 リュウ以外には勝てる。

 

 黒いドレスの戦い方は効く。

 

 黒い裾は届く。

 

 視線誘導も、間合い操作も、相手の判断を鈍らせる。

 

 それなのに、リュウだけは沈めきれない。

 

 あと少しまで行く。

 

 届きそうになる。

 

 黒い裾はリュウの視線に触れる。

 

 黒ドレス姿の自分は、リュウの目に残る。

 

 その立ち方は、リュウの呼吸を乱す。

 

 けれど、最後に負ける。

 

 ギリギリで。

 

 いつも。

 

 ギリギリで。

 

 春麗は、黒ドレスの前に座っていた。

 

 夜だった。

 

 部屋は静かだった。

 

 黒いドレスは、椅子の背にかけられている。

 

 触れなくても、そこにあるのがわかる。

 

 重い。

 

 布の重さだけではない。

 

 何度も着て、何度も戦い、何度もリュウの前で届きかけた記憶が、そこに重なっている。

 

 でも、その重さがなければ立てない。

 

「……リュウのせいよ」

 

 春麗は、小さく言った。

 

 誰もいない部屋に、声が落ちる。

 

「あなたが、あんな負け方をさせたから」

 

 十二戦目。

 

 最初の黒いドレスを身にまとっての戦い。

 

 再戦。

 

 その後の何度もの敗北。

 

 全部、あと少しだった。

 

 完敗なら、終われたかもしれない。

 

 黒いドレスの戦い方が通用しなかったなら、諦められたかもしれない。

 

 でも違った。

 

 届く。

 

 届いている。

 

 視線は奪えた。

 

 半拍は遅らせた。

 

 間合いは沈めた。

 

 あと少し。

 

 あと一歩。

 

 だから、終われない。

 

「あなたが、いつでも受けるなんて言うから」

 

 リュウは逃げなかった。

 

 再戦を拒まなかった。

 

 いつでも受ける。

 

 次も来い。

 

 そういう目で立っていた。

 

 それが、春麗を次へ進ませた。

 

 進ませ続けた。

 

 黒いドレスの使い方を深めさせた。

 

 黒い裾を手放せなくさせた。

 

「責任を取りなさいよ」

 

 春麗は黒ドレスを見る。

 

「私がここまでこじれた責任を」

 

 そう言えば、少しだけ楽だった。

 

 リュウのせい。

 

 リュウが受けるから。

 

 リュウが逃げないから。

 

 リュウがあと少しで勝つから。

 

 リュウが負けさせてくれないから。

 

 リュウが沈んでくれないから。

 

 だから、自分は黒いドレスを脱げない。

 

 だから、自分はこの戦い方に執着している。

 

 だから、自分はまだリュウの前に立てる。

 

 黒いドレスで勝つという目的がある。

 

 リュウを沈めるという理由がある。

 

 リュウの拳に、黒い裾で作った半拍を残すという証がある。

 

 それがあるから、自分はまだ立てる。

 

 春麗は、黒ドレスに手を伸ばした。

 

 指先が布に触れる。

 

 その瞬間、別の言葉が浮かんだ。

 

 返す。

 

 春麗は、指を止めた。

 

 嫌な言葉だった。

 

 リュウが探していた言葉。

 

 自分と似た道を辿りながら、リュウに勝ち続け、その先で救われた春麗が残した言葉。

 

 返される黒。

 

 自分の手元に戻る黒。

 

 リュウの中に置きっぱなしにしない黒。

 

 それは、黒い力を手渡すという意味ではない。

 

 リュウの拳に残そうとした、黒いドレス姿の自分。

 

 視線を奪った裾の揺れ。

 

 半拍遅れた踏み込み。

 

 届きかけた感触。

 

 それらを、リュウの記憶や拳の奥に置きっぱなしにせず、自分の戦いとして引き受け直すこと。

 

 それが、返されるということだった。

 

「……いらない」

 

 黒いドレスに執着する春麗は呟く。

 

「返されたくない」

 

 返されたら。

 

 リュウの拳に残した半拍が、返されたら。

 

 リュウの中に置いていた黒ドレス姿の自分が、自分の手に戻ったら。

 

 リュウに残る自分の証が、なくなる。

 

 リュウに届こうとしている自分でいられなくなる。

 

 黒いドレスで勝つという目的が揺らぐ。

 

 次に立つ理由が消える。

 

 春麗は、胸を押さえた。

 

 急に、何かが冷たくなった。

 

 黒いドレス姿の自分を返されたら。

 

 自分は、何で立てばいいのか。

 

 その問いが、今までのどの問いよりも深く刺さった。

 

 勝った後、何を選ぶのか。

 

 返された黒ドレスの戦い方を、どうするのか。

 

 そんな問いはいらない。

 

 いらないはずだった。

 

 けれど、今は違う問いになっていた。

 

 返されたら。

 

 自分には、何が残るのか。

 

 春麗は、黒ドレスを握った。

 

「違う」

 

 強く言う。

 

「私は、空っぽになんてならない」

 

 そう言い聞かせる。

 

 けれど。

 

 黒いドレスで勝つという目的がなくなったら。

 

 リュウの中に黒ドレス姿の自分を残す必要がなくなったら。

 

 リュウに勝てなければ自分が証明されない、という痛みが消えたら。

 

 今の自分は、何を追えばいいのか。

 

 何を着ればいいのか。

 

 どこへ立てばいいのか。

 

 春麗は、黒ドレスを抱きしめるように握った。

 

「返されたくない」

 

 声が、少し震えた。

 

「私は、まだ返されたくない」

 

 勝ちたいから。

 

 リュウに残したいから。

 

 黒いドレスで戦って届きたいから。

 

 そう言ってきた。

 

 けれど、その奥にあったものを、今初めて見てしまった。

 

 返されたら、空になるかもしれない。

 

 黒いドレスで立つ自分をリュウの中に置いておかなければ、今の自分が保てないかもしれない。

 

 だから、返されたくない。

 

 春麗は目を閉じた。

 

 そのまま、眠りに落ちた。

 


 

 夢は、黒かった。

 

 何もない。

 

 床もない。

 

 空もない。

 

 ただ、黒だけがある。

 

 けれど、その黒は魔法ではなかった。

 

 黒い布の記憶だった。

 

 戦闘服の重さだった。

 

 裾が揺れた残像だった。

 

 リュウの踏み込みを半拍遅らせた感触だった。

 

 黒執着春麗は、その中央に立っていた。

 

 黒ドレスを着ている。

 

 いつもの黒。

 

 勝てなかった黒。

 

 届かなかった黒。

 

 返されたくない黒。

 

 その向こうに、もう一人の春麗がいた。

 

 黒ドレス特化救済春麗。

 

 勝った春麗。

 

 黒いドレスの戦い方を、自分の手元へ戻せた春麗。

 

 返されても消えないことを知っている春麗。

 

 黒執着春麗は、すぐに睨んだ。

 

「また来たの」

 

 自分と似た境遇で勝って救われた春麗は、静かに立っていた。

 

「あなたが呼んだのかもしれないわ」

 

「呼んでいない」

 

「そう」

 

「私は、あなたの言葉なんていらない」

 

「ええ」

 

「返される黒なんていらない」

 

「ええ」

 

「勝った後の問いもいらない」

 

「ええ」

 

「全部いらない」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、否定しなかった。

 

 その態度がまた腹立たしい。

 

 黒いドレスに執着する春麗は一歩踏み出した。

 

「あなたは勝った」

 

「ええ」

 

「私はまだ勝っていない」

 

「ええ」

 

「だから、あなたの話は私には関係ない」

 

「そう思っているのね」

 

「そうよ」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、黒い裾を揺らした。

 

 夢の中でも、その裾は動いた。

 

 視線を誘うために。

 

 相手の間合いをずらすために。

 

 自分がこの戦い方で立っていると示すために。

 

「私は、リュウに勝つ」

 

「ええ」

 

「この黒いドレスで勝つ」

 

「ええ」

 

「リュウに残す」

 

「ええ」

 

「返されるためじゃない」

 

「ええ」

 

「返されたら」

 

 言葉が止まった。

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗の目が、少しだけ変わる。

 

 黒いドレスに執着する春麗は、言わないつもりだった。

 

 言えば、認めることになる。

 

 自分が何を恐れているのか。

 

 けれど、夢の黒は、言葉を隠させなかった。

 

「返されたら」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、黒い袖を握る。

 

「私は、何で立てばいいの」

 

 言ってしまった。

 

 言葉が、黒の中に落ちる。

 

 落ちたのに、沈まない。

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、すぐには答えなかった。

 

 その沈黙が優しかった。

 

 だから、余計に嫌だった。

 

「リュウに、黒いドレス姿の私が残っている」

 

 黒いドレスに執着する春麗は続けた。

 

「だから、私はまだリュウに届こうとしている春麗でいられる」

 

 声が、少し低くなる。

 

「この戦い方で勝つ目的がある」

 

 拳を握る。

 

「だから、次へ立てる」

 

 一拍。

 

「でも、返されたら」

 

 喉が詰まる。

 

「リュウの中に置いていた黒ドレス姿の私が、私の手元に戻ったら」

 

 黒い裾が揺れる。

 

「私は、何を理由にリュウの前に立てばいいの」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、静かに見ていた。

 

 責めない。

 

 否定しない。

 

 勝った側の正しさを振りかざさない。

 

 それが、黒いドレスに執着する春麗には苦しかった。

 

「私は、空っぽになる」

 

 ようやく出た。

 

 本音だった。

 

「返されたら、空っぽになるのよ」

 

 黒ドレス特化救済春麗は、ゆっくりと言った。

 

「返される黒は、消える黒ではないわ」

 

 黒執着春麗は顔を上げる。

 

「……何」

 

「返されるのは、黒い布が消えることではない。リュウの拳に残した半拍が、なかったことになるわけでもない」

 

「綺麗事ね」

 

「そう聞こえるでしょうね」

 

「ええ」

 

「でも、リュウに残した感触を自分の戦いとして引き受け直すことは、失うことではないわ」

 

「あなたは勝ったからそう言える」

 

「そうね」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は逃げない。

 

「私は勝った。だから、あなたとは違う」

 

「なら黙って」

 

「でも、私は、返されても黒いドレスで戦った自分が消えないことを知っている」

 

 黒いドレスに執着する春麗は唇を噛む。

 

「私は知らない」

 

「ええ」

 

「知りたくもない」

 

「ええ」

 

「返されたら、私は空っぽになる」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、少しだけ目を伏せた。

 

「今のあなたには、そう見えるのね」

 

 その言い方は、断定ではなかった。

 

 否定でもなかった。

 

 ただ、今の黒いドレスに執着する春麗がそう見ていることを認める言葉だった。

 

 黒いドレスに執着する春麗は、なぜか怒れなかった。

 

 怒りたいのに。

 

 否定してほしいのに。

 

 違うと言い切ってほしいのに。

 

 それでは、また反発できるのに。

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、そうしなかった。

 

「なら、今はまだ、返されなくていいわ」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、目を見開いた。

 

「……返されなくていい?」

 

「ええ」

 

 黒ドレス特化救済春麗は静かに頷いた。

 

「あなたが、それを失うことだと思っているうちは」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、眉を寄せる。

 

「あなたが返すの?」

 

「いいえ」

 

 黒ドレス特化救済春麗は、静かに首を振った。

 

「返すのは、たぶん私ではないわ」

 

「……」

 

「でも、今のあなたは、誰から返されても、それを奪われることだと思う」

 

 黒執着春麗は、言葉を失った。

 

「だから、まだその段階ではないと言っているの」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、しばらく黙った。

 

 返されなくていい。

 

 まだ、返されなくていい。

 

 それは安心のはずだった。

 

 なのに、胸の奥がざわついた。

 

 返されないなら、自分はまだ黒いドレス姿の自分をリュウの中に置いていられる。

 

 まだ勝つ理由がある。

 

 まだこの戦い方で立てる。

 

 なのに。

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗の言葉は、逃げ道ではなかった。

 

 猶予だった。

 

 いつか返されるかもしれない黒を、自分が失うことだと思わなくなるまでの猶予。

 

「勝手ね」

 

 黒いドレスに執着する春麗は言った。

 

「ええ」

 

「あなたが決めることじゃないわ」

 

「ええ。だから、決めていない」

 

「なら、何を言っているの」

 

「今のあなたに返される黒は、救いではなく喪失になる」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、静かに言った。

 

「そう見えた、というだけよ」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、奥歯を噛んだ。

 

「あなたも、リュウも、勝手よ」

 

「そうかもしれないわ」

 

「私は返されたくない」

 

「ええ」

 

「私は勝ちたい」

 

「ええ」

 

「リュウに残したい」

 

「ええ」

 

「この黒いドレスで戦って届きたい」

 

「ええ」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、全部受けた。

 

 そして、静かに言った。

 

「でも、空になると思っていることだけは、覚えておきなさい」

 

 黒いドレスに執着春麗は、眉を寄せる。

 

「覚えたくない」

 

「それでも、残るわ」

 

「残さないで」

 

「残るのよ」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、黒の中で言う。

 

「あなたは、返されることそのものを拒んでいるだけではない」

 

 一拍。

 

「返された後、自分が何で立てばいいのかわからないことを恐れている」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、息を止めた。

 

 言葉が、黒の奥まで刺さった。

 

 違う。

 

 違うと言いたい。

 

 自分はただ勝ちたいだけだ。

 

 リュウに届きたいだけだ。

 

 リュウの拳に、黒い裾で作った半拍を残したいだけだ。

 

 でも。

 

 返されたら空っぽになる。

 

 その言葉を、もう自分で言ってしまった。

 

「……嫌い」

 

 黒い」ドレスに執着する春麗は、低く言った。

 

「あなたが嫌い」

 

「ええ」

 

「勝ったあなたが嫌い」

 

「ええ」

 

「戻れたあなたが嫌い」

 

「ええ」

 

「返されても消えないと知っているあなたが嫌い」

 

「ええ」

 

「でも」

 

 声が、少しだけ揺れた。

 

「まだ返されなくていいと言ったあなたも、嫌い」

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗は、静かに頷いた。

 

「それでいいわ」

 

「何がいいのよ」

 

「嫌いなままでいい」

 

「……」

 

「まだ、好きになる段階ではないもの」

 

 黒いドレスに執着する春麗は、少しだけ目を伏せた。

 

 夢の黒が、静かに揺れている。

 

 返されたくない。

 

 勝ちたい。

 

 黒いドレスで届きたい。

 

 リュウに残したい。

 

 それはまだ変わらない。

 

 でも、その奥にある恐怖を見てしまった。

 

 返されたら空っぽになる。

 

 その恐怖を、もうなかったことにはできない。

 

「私は」

 

 黒いドレスに執着する春麗は言った。

 

「次も黒いドレスで行くわ」

 

「ええ」

 

「リュウに勝つために」

 

「ええ」

 

「返されるためじゃない」

 

「ええ」

 

「空っぽになるためでもない」

 

「ええ」

 

「私は、空っぽになんてならない」

 

 黒ドレス特化救済春麗は、静かに返した。

 

「ならないと知るまでは、まだ返されなくていいわ」

 

 黒執着春麗は、奥歯を噛んだ。

 

「……本当に嫌な春麗」

 

「同じ顔だもの」

 

「同じじゃない」

 

「ええ。同じではないわ」

 

 その言葉を最後に、夢の黒が薄れ始めた。

 

 黒いドレスで勝って救われた春麗の姿が遠くなる。

 

 消える前に、彼女はもう一度言った。

 

「覚えておきなさい」

 

「覚えない」

 

「あなたは、返されたくないだけではない」

 

「覚えない」

 

「空っぽになることを恐れている」

 

「覚えない」

 

「でも、空っぽになるとは限らない」

 

 黒執着春麗は、叫ばなかった。

 

 ただ、黒い袖を握りしめた。

 

「覚えない」

 

 その言葉だけを、黒の中に残した。

 


 

 朝。

 

 黒執着春麗は目を覚ました。

 

 部屋は薄暗かった。

 

 朝の光が、まだ入りきっていない。

 

 黒いドレスは、昨日と同じ場所にある。

 

 春麗は、しばらく動かなかった。

 

 夢の言葉が残っている。

 

 返される黒は、消える黒ではない。

 

 今のあなたには、そう見えるのね。

 

 今はまだ、返されなくていい。

 

 あなたが、それを失うことだと思っているうちは。

 

 でも、空になると思っていることだけは、覚えておきなさい。

 

「……覚えないわ」

 

 黒執着春麗は起き上がる。

 

 黒いドレスを見る。

 

 黒い布は、そこにある。

 

 自分のもののようで、自分のものではないような黒。

 

 リュウに残したい黒ドレス姿。

 

 返されたくない半拍。

 

 空になる恐怖を隠していた戦い方。

 

「私は、空っぽになんてならない」

 

 春麗は黒ドレスに手を伸ばす。

 

 指先が布に触れる。

 

 また、手が止まった。

 

 なぜ止まるのか。

 

 わかっている。

 

 わかりたくない。

 

 返されたら、何が残るのか。

 

 その問いが、黒い布の内側にある。

 

 春麗は、強く布を握った。

 

「次も、この黒で行く」

 

 声を出す。

 

「勝つために」

 

 一拍。

 

「リュウに残すために」

 

 さらに一拍。

 

「返されるためじゃない」

 

 黒いドレスを手に取る。

 

「空っぽになるためでもない」

 

 その言葉が、少しだけ余計だった。

 

 以前なら言わなかった。

 

 空っぽになるなんて、考えもしなかった。

 

 でも今は、否定しなければならない。

 

 それが腹立たしかった。

 

 春麗は黒ドレスを抱えた。

 

「私は、まだ返されたくない」

 

 静かに言う。

 

「私は、まだ勝ちたい」

 

 黒い布が、朝の光を吸う。

 

「私は、まだこの黒いドレスで終わりたい」

 

 そう言って、黒執着春麗は立ち上がった。

 

 変わっていない。

 

 変わっていないはずだった。

 

 けれど、黒いドレスを着る前に止まる指先だけが、昨日より少し長く止まっていた。

 

 そのことを、春麗は気づかないふりをした。

 

 黒は、まだ返されない。

 

 いや。

 

 まだ、返されなくていい。

 

 けれど。

 

 返されたら空っぽになるという恐怖だけは、もう黒い布の奥に残ってしまっていた。




Q:今回の妄想章IFについて解説して?

A:

はい。今回のエピソードは、黒執着春麗救済ルートの中でもかなり重要な、拒絶の奥にある本音を初めて露出させた回です。

一言で言うなら、

黒執着春麗が「返されたくない」と拒み続けていた理由の奥に、“黒を返されたら自分が空になるのではないか”という恐怖があることを初めて自覚してしまう回

です。

今回の核は、

黒執着春麗は、黒を返されることを拒んでいるのではなく、返された後に自分が何で立てばいいのかわからないことを恐れている

です。

今回の一番大事な到達点

今回の最大の到達点は、黒執着春麗が初めて、

返されたら、私は何で立てばいいの。

と言ってしまったことです。

これは非常に大きいです。

これまで黒執着春麗は、

「返されたくない」
「勝ちたい」
「リュウに残したい」
「黒で届きたい」

という言葉で自分を支えていました。

でも今回、その奥にある本音が出ました。

返されたら、自分が空になる。

ここが一段深いです。

つまり、彼女は単にリュウに勝ちたいだけではない。

リュウの中に黒を残すことで、まだ自分がリュウへ届こうとしている春麗でいられる。

黒で勝つ目的があることで、まだ次へ立てる。

だから、黒を返されると怖い。

リュウの中に置いていた黒が自分の手元に戻ったら、自分が何で立てばいいのかわからない。

この恐怖を初めて言葉にした回です。

冒頭の振り返りがかなり効いている

今回の冒頭では、黒執着春麗がここまでこじれた流れを振り返っています。

最初は黒を着ていなかった。
リュウに十連勝していた。
十一戦目でギリギリ負けた。
その後、黒ドレスと出会った。
最初の黒ドレス戦でもギリギリ負けた。
リュウ以外には黒で勝てた。
でもリュウにはギリギリ負け続けた。

この流れが非常に重要です。

黒執着春麗は、最初から黒に沈んでいた春麗ではありません。

最初は勝てていた。

リュウに勝てる自分を知っていた。

だからこそ、十一戦目のギリギリ敗北が深く刺さった。

しかも、その後に黒を得ても、リュウだけには届き切らなかった。

ここで「黒が通用しない」なら諦められたかもしれない。

でも違う。

黒は効く。
黒は届く。
黒はリュウを揺らす。
でも最後に負ける。

だから終われない。

この構造が明確になったことで、黒執着春麗の執着に説得力が出ています。

「リュウのせいよ」が黒執着春麗らしい

今回、黒執着春麗は自分がここまでこじれた理由をリュウのせいにしています。

「あなたが、あんな負け方をさせたから」
「あなたが、いつでも受けるなんて言うから」
「責任を取りなさいよ」

これは非常に黒執着春麗らしいです。

もちろん、客観的に見ればリュウだけのせいではありません。

でも黒執着春麗にとっては、リュウの存在がこじれの中心です。

リュウが逃げない。
リュウが受ける。
リュウがあと少しで勝つ。
リュウが沈んでくれない。
リュウが再戦を拒まない。

だから自分は次へ行けてしまう。

だから黒を深めてしまう。

この「責任を取りなさいよ」は、かなり重いです。

恋愛的な甘さではなく、黒執着の責任要求です。

ここが本編春麗の「甘い言葉の宿題」とはまったく違う重さになっています。

「返されたくない」の意味が更新された

これまでの「返されたくない」は、表面的にはこうでした。

リュウの中に黒を残したい。
自分がリュウに届いた証がほしい。
だから返されたくない。

でも今回は、そのさらに奥が出ました。

返されたら、自分が空になる気がする。

これは大きな更新です。

リュウの中に黒が残っている。

だから黒執着春麗は、まだリュウへ届こうとしている春麗でいられる。

黒で勝つ目的がある。

だから次へ立てる。

でも、それを返されたら。

リュウの中に残した黒が、自分の手元に戻ったら。

次に立つ理由が消える。

これは、黒執着春麗にとって救済ではなく喪失に見えます。

だから彼女は返却を拒んでいる。

この構造がはっきりしたのが今回の最大の進行です。

黒ドレス特化救済春麗の対応が非常に良い

今回、黒ドレス特化救済春麗は、黒執着春麗に対して正論で押していません。

ここが良いです。

黒執着春麗が、

返されたら、私は何で立てばいいの。

と言った時、黒ドレス特化救済春麗はすぐに、

「大丈夫」
「空にならない」
「戻れる」

とは言いません。

まず、

「返される黒は、消える黒ではないわ」

と伝えます。

しかし、黒執着春麗がそれを綺麗事だと受け取ることも認めます。

そして一番重要なのが、

「今のあなたには、そう見えるのね」

です。

これはかなり強いです。

黒執着春麗の恐怖を否定しない。

「そんなことない」と言い切らない。

今のあなたには、返却が消失に見えるのだと認める。

この認め方が、黒ドレス特化救済春麗の成熟です。

「なら、今はまだ、返されなくていいわ」が強い

今回の最重要台詞は、やはりここです。

「なら、今はまだ、返されなくていいわ」

これは非常に良いです。

黒ドレス特化救済春麗は、黒返却の春麗です。

でも、返せるから返すのではない。

相手が返されたら空っぽになると思っているなら、まだ返されなくていい。

これは救済側の倫理としてかなり重要です。

黒執着春麗を救うために、強引に黒を返すのではありません。

黒を返すことが救済になるためには、黒執着春麗が「返されても消えない」と知る必要がある。

今はまだそこに届いていない。

だから、まだ返さなくていい。

ただし、放置もしない。

ここが黒ドレス特化救済春麗の強さです。

「まだ返されなくていい」は逃げ道ではなく猶予

黒執着春麗にとって、「まだ返されなくていい」は一瞬安心のように聞こえます。

でも、本文ではちゃんとこう処理されています。

黒ドレス特化救済春麗の「まだ返されなくていい」は、逃げ道ではなかった。
猶予だった。
いつか返すための、猶予。

ここが非常に良いです。

黒執着春麗は返されたくない。

だから「まだ返されなくていい」は安心のはずです。

しかし、それは完全な拒絶の承認ではない。

黒を返す時がいつか来る。

そのために、今は待つ。

つまり、救済は止まっていない。

遅らせている。

このニュアンスが非常に良いです。

「空っぽになると思っていることだけは、覚えておきなさい」が今回の杭

今回、黒ドレス特化救済春麗は黒執着春麗を救いません。

でも、杭を打ちます。

「でも、空っぽになると思っていることだけは、覚えておきなさい」

これは今回のエピソードの役割そのものです。

黒執着春麗は、これまで自分の拒絶を、

「勝ちたい」
「返されたくない」
「リュウに残したい」

として扱ってきました。

でも、その奥には、

空っぽになるのが怖い

があった。

この恐怖を覚えておくこと。

それが次の救済段階に必要になります。

黒執着春麗は「覚えない」と反発します。

でも、もう言ってしまった。

だから残る。

これが今回の進行です。

黒執着春麗の「嫌い」が良い

夢の中で黒執着春麗は、黒ドレス特化救済春麗に対して、

あなたが嫌い
勝ったあなたが嫌い
戻れたあなたが嫌い
返されても消えないと知っているあなたが嫌い
でも、まだ返されなくてもいいと言ったあなたも、嫌い

と言います。

ここは非常に良いです。

黒ドレス特化救済春麗は、黒執着春麗にとって複雑な存在です。

勝った側だから嫌い。

戻れた側だから嫌い。

自分が知らないことを知っているから嫌い。

でも、強引に返さず、まだ返されなくいいと言ってくれたことも嫌い。

なぜなら、それによって完全に反発しきれなくなるからです。

この「嫌い」の連打は、黒執着春麗の痛みと拒絶がよく出ています。

そして黒ドレス特化救済春麗が、

「それでいいわ」
「まだ、好きになる段階ではないもの」

と返すのも良いです。

救済者を好きになる必要はない。

嫌いなままでいい。

この距離感が非常に良いです。

朝の締めがとても良い

朝、黒執着春麗は目覚めます。

そして黒ドレスを見る。

ここで彼女は変わっていません。

まだ、

私は、まだ返されたくない
私は、まだ勝ちたい
私は、まだ黒で終わりたい

です。

これは正しいです。

今回の回で急に救済に向かうと早すぎます。

ただし、変化はあります。

空っぽになるためでもない

この一言が出てしまう。

以前なら言わなかった。

空っぽになるなんて考えもしなかった。

でも今は、否定しなければならない。

この時点で、恐怖が残っている。

さらに、黒を着る前に指先が以前より長く止まる。

この小さな描写が良いです。

黒執着春麗は変わっていないと言い張る。

でも、身体が止まる。

黒を着る行為の前に、問いが入る。

この一瞬の停止が、救済ルートの進行を表しています。

今回の回の位置づけ

今回のエピソードは、黒執着春麗救済ルートにおける 恐怖露出回 です。

これまでは、

拒絶
怒り
反発
リュウへの責任転嫁
返却への拒否

が中心でした。

今回は、その奥にある恐怖が出ました。

返されたら空になる。

これにより、今後の救済ゴールがかなり明確になりました。

今後必要なのは、

黒を返されても空にならない
黒は消えるのではなく、自分の手に戻る
リュウの中に置かなくても、黒は自分のものとして残る

という理解へ進めることです。

今回、そのための第一歩として、恐怖の名前がついた。

これはかなり大きいです。

結論

今回のエピソードは、非常に重要な 黒執着春麗の本音露出回 です。

一言でまとめるなら、

黒執着春麗は、これまで「返されたくない」「勝ちたい」「リュウに黒を残したい」と言っていた。しかしその奥には、“返されたら自分が空になるのではないか”という恐怖があった。その恐怖を黒ドレス特化救済春麗に見抜かれ、まだ返されなくていいと言われることで、救済は進まないまま、恐怖だけが黒の奥に残る回

です。

今回、黒執着春麗は救われていません。

それで正解です。

でも、拒絶の理由が一段深くなりました。

返されたくない。
なぜなら、空になるのが怖いから。

この恐怖を言語化できたことで、黒返却ルートは次の段階へ進めます。

かなり良い進行だったと思います。
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