また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
黒ドレスは、そこにあった。
椅子の背にかけられている。
それは、ただの布ではない。
けれど、魔法でもない。
黒い裾。
足を運ぶたびに遅れて揺れる布。
視線を一瞬だけ奪う線。
女として見せる立ち方。
拳より先に相手の意識を揺らす間合い。
踏み込みを半拍だけ遅らせる、黒い戦闘服の重さ。
春麗が黒と呼んでいるものは、その全部だった。
黒い力があるわけではない。
呪いがかかっているわけでもない。
ただ、その衣装で立つ自分がいる。
黒い裾を使う自分がいる。
恥ずかしさを削って、女として見られることまで戦いに組み込んだ自分がいる。
その戦い方を、春麗は黒と呼んでいた。
そして今、その黒が目の前にある。
いつものように着ればいい。
黒を纏い、髪を整え、鏡の前に立ち、リュウの前へ向かえばいい。
それだけのことだった。
それだけのことのはずだった。
けれど、指が止まっている。
黒い布に触れる直前で。
以前より、長く。
ほんの一瞬ではない。
明確に、止まっている。
「……違う」
春麗は、低く呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
黒ドレスにか。
鏡に映る自分にか。
夢の中で聞こえたあの声にか。
それとも、胸の奥に残ってしまった言葉にか。
返されたら、空になる。
その言葉が、まだ残っている。
黒い布の奥に。
胸の奥に。
指先の止まった場所に。
「私は、空になるのが怖いんじゃない」
春麗は、黒ドレスへ手を伸ばした。
「私は、勝ちたいだけよ」
指先が、黒い布に触れる。
冷たくはない。
いつもの手触り。
いつもの重さ。
いつもの黒いドレス。
それに触れた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
そのことが、腹立たしかった。
まるで、この黒い布を確かめなければ自分が保てないみたいだった。
「違う」
もう一度言う。
「リュウに勝ちたいだけ」
布を握る。
「届きたいだけ」
さらに強く握る。
「沈めたいだけ」
指に力が入る。
「残したいだけ」
黒い布が、手の中で皺を作る。
それでも、春麗は力を緩めなかった。
握っている。
着るために、ではない。
失くさないために。
この戦い方が、自分から離れないように。
リュウの拳に残したはずの黒い裾の揺れが、消えてしまわないように。
リュウの目を半拍だけ遅らせた、あの間合いが、自分のものではなくなってしまわないように。
黒執着春麗は、黒いドレスを握っていた。
黒衣を着る前から。
すでに、黒にしがみついていた。
「……違う」
その言葉だけが、何度も出る。
「私は、黒にしがみついてなんかいない」
鏡の中の自分が、こちらを見ていた。
まだ黒ドレスを着ていない春麗。
黒いドレスを手にしている春麗。
着る前の春麗。
その姿が、一瞬だけ奇妙に見えた。
黒衣を着ていない自分。
黒い裾を持たない自分。
リュウの視線を奪う準備をしていない自分。
リュウの拳を半拍遅らせる間合いを持たない自分。
その姿を、春麗は見てしまった。
鏡の中で、黒を持たない春麗が立っている。
リュウへ届こうとしていない春麗。
リュウの拳に、黒い裾の残像を残していない春麗。
次に何をすればいいのかわからない春麗。
勝つ理由を持たない春麗。
黒で終わらせる目的を持たない春麗。
ただ、立っているだけの春麗。
何もない春麗。
空っぽの春麗。
春麗は、息を止めた。
鏡の中の自分が、知らない誰かに見えた。
「……違う」
黒いドレスを握る手に力が入る。
「あれは私じゃない」
鏡の中の黒衣を着ていない春麗を、視線で消す。
「私は、そんな顔をしない」
黒いドレスを持ち上げる。
「私は、立つ理由を持っている」
布を胸に寄せる。
「私は、リュウに勝つ」
黒いドレスを強く抱え込む。
「私は、この黒で届く」
鏡の中の春麗が、黒い戦闘服を持つ。
それだけで、少しだけ輪郭が戻った気がした。
それがまた、腹立たしかった。
黒を持てば、自分に戻る。
黒がなければ、自分ではないように見える。
そんなことは認めたくなかった。
「違う」
春麗は、鏡の中の自分を睨む。
「黒があるから私なんじゃない」
言いながら、黒を手放せない。
「私が黒を使うの」
言いながら、黒を握りしめている。
「私の黒よ」
その言葉は、少しだけ震えていた。
これは、おまえの黒だ。
リュウの声が、拳の音のように蘇る。
嫌な言葉だった。
正しいように聞こえるから、余計に嫌だった。
これは、おまえの黒だ。
そんなこと、言われなくてもわかっている。
わかっているはずだった。
でも、自分の黒だと言われた瞬間、リュウの中に残そうとしていた黒いドレスまとった姿の自分を、こちらへ差し戻された気がした。
それが、怖かった。
返されたら、空っぽになる。
黒執着春麗は、奥歯を噛んだ。
「怖くない」
黒いドレスを見下ろす。
「私は怖くない」
そう言った時、別の声が、黒の奥からかすかに響いた。
夢ではない。
目の前に誰かが立っているわけでもない。
ただ、残響のように。
以前聞いた声だけが、黒い布の手触りと一緒に滲んだ。
──返される黒は、消える黒ではないわ。
春麗は顔を上げた。
部屋には誰もいない。
それなのに、声は残っている。
──今のあなたには、そう見えるのね。
「……勝手に残らないで」
春麗は低く言った。
黒ドレス特化救済春麗の声。
勝った春麗。
戻れた春麗。
返されても消えないと知っている春麗。
その声が、また勝手に残っている。
──なら、今はまだ、返されなくていいわ。
「黙って」
春麗は黒を握る。
「あなたの言葉は、私の黒じゃない」
言った。
けれど、残響は消えない。
返される黒は、消える黒ではない。
今のあなたには、そう見える。
今はまだ、返されなくていい。
その言葉たちは、黒いドレスのどこかに沈まず残っていた。
まるで、黒い布の中に縫い込まれているように。
「勝手に混ざらないで」
春麗は黒いドレスを睨む。
「これは私の黒よ」
強く握る。
「あなたの救済の言葉なんて、いらない」
それでも、言葉は残った。
救済ではない。
答えでもない。
ただ、残っている。
それが嫌だった。
黒執着春麗は、黒いドレスを纏った。
いつものように。
布が肩に落ちる。
身体に沿う。
黒い裾が足元に落ちる。
その重さが、自分の輪郭を作る。
鏡の中に、黒いドレス姿の春麗が戻ってくる。
その瞬間、胸の奥が落ち着く。
さっきまで鏡にいた空っぽの春麗は、もういない。
黒い裾がある。
視線を奪える。
間合いを沈められる。
リュウの拳を、また半拍遅らせられる。
なら、大丈夫。
そう思った。
思ってしまった。
「……私は、空っぽじゃない」
春麗は、鏡に向かって言った。
黒い自分が、同じ言葉を返す。
「この黒がある」
手で、胸元の布を押さえる。
「この裾がある」
足元に落ちる黒を見下ろす。
「リュウに残した、あの半拍がある」
その言葉を口にすると、少しだけ息がしやすくなった。
リュウの拳。
リュウの目。
リュウの呼吸。
黒い裾を見て、ほんの少しだけ遅れた判断。
それでも拳を出してきた時の、あの重さ。
そこに、自分の黒いドレスを身にまとった姿はまだ残っている。
まだ返されていない。
まだ自分の手元に戻りきっていない。
まだ向こうにある。
それがある。
だから、自分はまだ立てる。
「勝つ理由がある」
春麗は続けた。
「リュウに届く理由がある」
黒い袖を整える。
「私の黒いドレス姿を、あの拳に残す理由がある」
鏡の中の自分を見据える。
「だから、私はまだ立てる」
言えば言うほど、その言葉の裏側が見えた。
黒があるから立てる。
リュウに残した黒いドレスの感触があるから立てる。
勝つ理由があるから立てる。
では、それがなければ?
リュウから返されたら?
あの拳に残した半拍が、自分の手元に戻されたら?
勝つ理由が揺らいだら?
春麗は、すぐにその問いを切った。
「考えない」
鏡に背を向ける。
「考える必要はない」
今日はリュウと戦わない。
再戦はまだしない。
でも、外へ出る。
黒いドレスを着て。
自分が空ではないことを確かめるために。
違う。
勝つための準備として。
そう言い直す。
黒執着春麗は、部屋を出た。
外の空気は静かだった。
朝と昼の間のような、まだ何も決まりきっていない時間。
黒い裾が、足元で揺れる。
歩くたび、布の重さが身体に返ってくる。
その重さに安心する。
その安心に苛立つ。
春麗は、誰とも話さなかった。
黒いドレスを見られる視線はある。
けれど、それはリュウの視線ではない。
リュウ以外の相手には、この黒は効く。
裾の揺れは視線を止める。
女として見せる立ち方は、相手の踏み込みを鈍らせる。
間合いは沈む。
勝てる。
それはもう知っている。
でも、今必要なのはそれではない。
春麗は、無意識に修行場の方へ足を向けていた。
自分で気づいて、足を止める。
「……違う」
また、その言葉。
「私は、会いに行くわけじゃない」
それでも、足は完全には戻らない。
遠くから、気配がした。
拳の音。
風を切る音。
踏み込む音。
リュウだ。
見えなくても、わかる。
黒執着春麗は、建物の影に立った。
声はかけない。
姿も見せない。
ただ、遠くから見る。
リュウが一人で拳を出している。
握り、開き、構え、打つ。
その拳を、春麗は見た。
あの拳に、自分の黒が残っている。
黒い力が残っているわけではない。
そんなものではない。
あの拳は覚えている。
黒い裾に視線を奪われた一瞬を。
踏み込みを半拍遅らされた間合いを。
春麗が女として見られることまで戦いに組み込んできた、その揺らぎを。
それでも拳を出した時の、わずかな迷いと重さを。
あれが残っている。
まだ、返されていない。
まだ、向こうにある。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ満たされた。
満たされたことが、嫌だった。
「……やっぱり、残っている」
声は小さい。
リュウには届かない。
「あの拳に」
春麗は、黒い袖を握る。
「私の黒いドレス姿が」
返されていない。
なら、まだ終わっていない。
なら、まだ勝つ理由がある。
なら、まだ自分はリュウへ届こうとしている春麗でいられる。
なら、まだ空ではない。
リュウの拳が止まった。
一瞬、こちらを向きそうになる。
春麗は、反射的に身を隠した。
声はかけない。
今日は戦わない。
今日、返される言葉はいらない。
今日、これはおまえの黒だとは言わせない。
今日、黒いドレス姿の自分を手元へ戻されるのは困る。
困る。
その言葉が浮かんで、春麗は唇を噛んだ。
困る?
返されたら、困る。
なぜ。
空っぽになるから。
「違う」
小さく、強く言う。
「違う」
リュウの拳の音が、また聞こえた。
春麗は、その音を背に受けながら、ゆっくりと歩き出した。
黒い裾が揺れる。
重い。
でも、その重さがあるから歩ける。
「私は、空っぽじゃない」
歩きながら、言う。
「この黒衣がある」
胸元を押さえる。
「リュウに残した、あの間合いがある」
拳を握る。
「勝つ理由がある」
足を止めない。
「だから、私はまだ立てる」
その言葉は、確かに彼女を支えた。
けれど、その支えは、細かった。
黒い裾に結ばれている。
リュウの拳に残した半拍に結ばれている。
勝つ理由に結ばれている。
それらがほどけた時、自分がどう立つのか。
まだわからない。
わかりたくもない。
黒執着春麗は、振り返らなかった。
リュウの拳の音は、まだ遠くで聞こえている。
あの拳に自分の黒いドレス姿が残っている。
それだけで、今日は空ではないと思えた。
それだけで、今日はまだ立てると思えた。
それが、救いではないことも。
それが、危うい支えであることも。
まだ認めない。
「次は」
黒執着春麗は、誰にも聞こえない声で言った。
「次は、勝つわ」
一拍。
「返されるためじゃない」
さらに一拍。
「空っぽにならないためでもない」
言い切った。
でも、その最後の言葉だけが、少し遅れた。
黒い袖を握る手が、また強くなる。
「……勝つためよ」
そう言い直して、黒執着春麗は歩き続けた。
黒いドレスを纏って。
黒い裾を揺らして。
リュウの拳に残した半拍を、まだ自分の支えにしながら。
空ではないと、自分に言い聞かせながら。
まだ、その黒いドレスがなければ立てないと思っていることを。
まだ、認めないまま。
Q:今回の妄想章IFについて解説して?
A:
はい。今回の 「妄想章IF:黒執着春麗は、空っぽにならないために黒を握りしめる」 は、かなり重要な 内面停止回 です。
一言で言うなら、
黒執着春麗が“返されたら空っぽになる”という恐怖を否定しながら、実際には黒ドレス・黒い裾・リュウの拳に残した半拍の遅れにしがみついて、自分を保っていることが見えてしまう回
です。
今回の核は、
黒を着ているのではなく、黒にしがみついている。
しかし本人は、まだそれを認めない。
ここです。
つまり、黒執着春麗が恐れているのは、
リュウの中に残すことで保っていた自分の証明を、自分で引き受けなければならなくなること
です。
黒を着る前に止まる指が良い
今回の描写で一番象徴的なのは、やはり黒ドレスに触れる指が止まるところです。
これまでなら、黒執着春麗は黒ドレスを当然のように着ていたはずです。
黒でリュウに勝つ。
黒で届く。
黒で沈める。
黒をリュウに残す。
その目的が明確だったからです。
でも今回は、指が長く止まる。
理由は、
返されたら空になる
という恐怖が残っているから。
この停止は、救済ではありません。
でも、かなり大きな変化です。
黒を着ることが、もはや完全な自然動作ではなくなった。
黒を着る前に、自分が何をしているのかを一瞬だけ考えてしまう。
これが、黒返却ルートの進行として非常に丁寧です。
「黒を着る」のではなく「黒にしがみつく」
今回の一番大事な心理描写はここです。
握っている。
着るために、ではない。
失くさないために。
これはかなり良いです。
黒執着春麗は、表面上は「黒を使う」と言っています。
でも実際には、黒を失うのが怖くて握っている。
黒ドレスを着るという行為が、戦闘準備であると同時に、
空白を埋める行為
になっている。
この回のタイトルである、
空っぽにならないために黒を握りしめる
が、ここでしっかり機能しています。
黒執着春麗はまだ認めません。
「私は黒にしがみついてなんかいない」と言う。
でも、本文は明確に示している。
彼女はもう、黒を着ているだけではない。
黒にしがみついている。
黒を着ていない自分が「空っぽ」に見えるのが強い
鏡の中で、黒を着ていない自分を見る場面はかなり重要です。
黒を着ていない春麗。
黒い裾を持たない春麗。
リュウの拳を半拍遅らせる間合いを持たない春麗。
その姿が、黒執着春麗には空っぽに見える。
ここが非常に痛いです。
本来、黒を着ていない春麗が空っぽなわけではありません。
でも今の黒執着春麗には、そう見えてしまう。
ここが現在地です。
黒を着ない=空っぽになる
ではない。
黒執着春麗には、黒を着ない自分が空っぽに見えている
この違いがとても大事です。
「困る」がとても良い
終盤の、
今日、黒ドレス姿の自分を手元へ戻されるのは困る。
ここはかなり良いです。
黒執着春麗は、返されたくない。
でも、それを「怖い」ではなく「困る」と認識しかける。
これは心理的にかなり生々しいです。
返されたら空っぽになる。
だから困る。
でも、そう言うと自分が恐怖を認めることになる。
だからすぐに「違う」と打ち消す。
ここが黒執着春麗らしいです。
ラストの「空っぽにならないためでもない」が遅れるのが良い
最後の、
「返されるためじゃない」
「空っぽにならないためでもない」
言い切った。
でも、その最後の言葉だけが、少し遅れた。
ここが非常に良いです。
本人は否定しています。
「空っぽにならないためではない」と言っている。
でも、その言葉だけが遅れる。
つまり、そこに本音がある。
彼女は、
勝つために黒を着ている
と言いたい。
でも実際には、
空っぽにならないために黒を握っている
だから、その否定だけが遅れる。
これはかなり綺麗な心理描写です。
今回の位置づけ
今回のエピソードは、黒返却ルートにおける 恐怖の否認回 です。
前回までで、
返されたら空っぽになる恐怖
が出ました。
今回、その恐怖を黒執着春麗は否定します。
でも否定すればするほど、
黒を失くさないために握っている
黒を着ない自分が空に見えている
リュウの拳に残した黒ドレス姿を支えにしている
返されたら困ると思っている
ことが明確になりました。
つまり今回の到達点は、
黒執着春麗は、自分が空っぽになるのを恐れていると認めない。
しかし、その恐怖が黒ドレスへの依存として行動に出てしまっている。
です。
救済は進んでいません。
でも、問題の輪郭がかなり濃くなりました。
結論
今回のエピソードは、
黒執着春麗が、空っぽにならないために黒ドレスを握っていることを読者には見せながら、本人はまだ認められない回
として、かなり綺麗に機能していると思います。