また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

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幕間:春麗は、負けたのに満たされている

 春麗は、鏡の前に立っていた。

 

 黒いドレスのまま。

 

 夜明け前の修行場から戻り、まだ着替えていない。

 部屋の中は静かで、外の空気の冷たさだけが、身体の奥に残っている。

 

 鏡に映る自分は、いつもの春麗ではなかった。

 

 黒いドレス。

 少し乱れた髪。

 肩に残る土埃。

 裾に付いた細かな汚れ。

 手首には、リュウに触れられた感触がまだ残っている。

 腰にも、肩にも、逃げようとして止められた時の鈍い痛みがある。

 

 春麗は、鏡の中の自分を見つめた。

 

 リュウに見せてきた自分。

 

 リュウを試すための自分。

 リュウの視線を読むための自分。

 リュウにだけ向けてきた自分。

 

 そして、今日。

 

 リュウに捕まえられた自分。

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

 「この姿で、負けたのね」

 

 口にしてみると、胸の奥がきしんだ。

 

 悔しい。

 

 それは間違いなかった。

 

 黒いドレスで戦い、リュウに負けた。

 自分が使えるものを、ほとんど全部使った。

 視線も、声も、距離も、黒いドレスの揺れも、女としての自分も、格闘家としての自分も。

 

 それでも、負けた。

 

 リュウは捕まえた。

 

 春麗は鏡の中の自分の手首に触れた。

 

 あの感触が、まだ残っている。

 

 最初に黒いドレスでリュウの前に立った時のことを思い出す。

 

 あの時は、自分でも理由がよくわからなかった。

 

 なぜ、その姿で戦おうと思ったのか。

 なぜ、観客のいない場所でリュウの前に立ちたかったのか。

 なぜ、リュウの目が自分をどう見るのかを知りたかったのか。

 

 わからなかった。

 

 でも、リュウは揺れた。

 

 黒いドレスの春麗を見て、視線が揺れた。

 見ないふりをしようとして、かえって見ていることがわかった。

 

 春麗は、それを見逃さなかった。

 

 勝った。

 

 うれしかった。

 

 ただ勝ったことだけがうれしかったのではない。

 

 リュウが自分を見たこと。

 格闘家としてだけでなく、女としても見てしまったこと。

 それを隠そうとして、それでも隠しきれなかったこと。

 

 そのすべてを見抜いて勝てたことが、春麗を満たした。

 

 次にリュウは、見ないふりをやめた。

 

 黒いドレスの春麗から目を逸らさなかった。

 逃げずに見た。

 女としての春麗も、格闘家としての春麗も、全部見ようとした。

 

 それでも、見ていただけだった。

 

 春麗には届かなかった。

 

 だから春麗はまた勝った。

 

 ちゃんと見ていたわね。

 でも、見ていただけじゃ私には届かないわ。

 

 そう言った時のリュウの顔を、春麗はよく覚えている。

 

 悔しそうだった。

 

 でも、折れていなかった。

 

 そしてその次、リュウは捕まえに来た。

 

 見るだけでは足りないと気づいて、手を伸ばしてきた。

 春麗の逃げ道を塞ぎ、肩へ、腕へ、手首へ届こうとした。

 

 でも春麗は、その手を使った。

 

 捕まえに来る手を誘い、触れた瞬間に支点へ変えた。

 リュウの力を流し、軸を崩し、投げた。

 

 また勝った。

 

 リュウは私を見ている。

 でも、まだ捕まえられない。

 

 その手応えは、春麗を満たしていた。

 

 黒いドレスで戦うたびに、自分の中で何かが磨かれていくのがわかった。

 

 リュウがどこを見るのか。

 どこで呼吸を乱すのか。

 どこで女としての春麗を意識し、それでも拳を鈍らせまいとするのか。

 どこで捕まえようと手を伸ばすのか。

 

 前より、わかるようになった。

 

 余裕を残して勝てたこともあった。

 

 その時はうれしかった。

 

 リュウ相手の戦い方が、形になっていく感覚があった。

 女としての自分も、格闘家としての自分も、どちらも武器にできている感覚があった。

 

 リュウは見ている。

 リュウは追っている。

 リュウは捕まえようとしている。

 

 でも、捕まえられない。

 

 それが春麗を満たした。

 

 同時に、物足りなかった。

 

 春麗は鏡の中の自分を見たまま、ゆっくりと手を下ろす。

 

 勝っているのに、物足りなかった。

 

 リュウにもっと来てほしかった。

 もっと焦らせてほしかった。

 もっと、自分の余裕を奪ってほしかった。

 

 勝ちたい。

 

 それは本当だ。

 

 最後に立つのは自分でありたい。

 リュウを見下ろして、悔しそうな顔を見たい。

 煽って、また次の拳を燃やしたい。

 

 でも、それだけでは足りなかった。

 

 リュウに、危ないと思わせてほしかった。

 

 負けるかもしれないと思わせてほしかった。

 本気で逃げなければならないところまで、来てほしかった。

 黒いドレスも、視線も、声も、女としての自分も、全部使ってなお、追い詰められるところまで来てほしかった。

 

 そして今日。

 

 リュウは、そこまで来た。

 

 春麗は目を閉じた。

 

 修行場の空気が、身体に戻ってくる。

 

 冷たい風。

 土の匂い。

 リュウの呼吸。

 黒いドレスの裾が揺れる感覚。

 

 いつものように、リュウの手を誘った。

 

 捕まえに来るとわかっていた。

 だから、そこに手首を置いた。

 触れさせた。

 掴ませた。

 

 前なら勝てた流れだった。

 

 リュウの腕を支点にして、身体を回す。

 重心を落とす。

 リュウの力を流す。

 軸を崩す。

 投げる。

 

 何度も通した。

 

 リュウを悔しがらせた。

 

 今回も、できると思った。

 

 でも、リュウは離れなかった。

 

 力で押さえ込んだのではない。

 

 無理に止めたのでもない。

 

 春麗が流れようとした先に、半歩早くいた。

 

 春麗が逃げるはずだった場所に、もうリュウがいた。

 

 その瞬間、春麗は思った。

 

 逃げられない。

 

 あの感覚が、まだ身体に残っている。

 

 怖かった。

 

 悔しかった。

 

 本気で焦った。

 

 膝を出そうとして、出せなかった。

 肩を抜こうとして、抜けなかった。

 さらに低く沈んで逃げようとして、リュウも沈んできた。

 

 全部、半歩先にいた。

 

 春麗の組み立てが、そこで止められた。

 

 余裕が壊れた。

 

 そして、リュウの拳が喉元の寸前で止まった。

 

 捕まえた。

 

 リュウはそう言った。

 

 春麗は、何も返せなかった。

 

 あの時の沈黙を思い出すと、胸がまた熱くなる。

 

 悔しい。

 

 本当に悔しい。

 

 でも同時に、満たされていた。

 

 リュウが、ついに自分の望んでいたところまで来たからだ。

 

 やっと来た。

 

 やっと私の余裕を壊した。

 

 やっと本当に捕まえた。

 

 春麗は目を開けた。

 

 鏡の中の自分が、こちらを見ている。

 

 黒いドレス姿の春麗。

 

 リュウを揺らし、勝ち続け、余裕を覚え、物足りなさを抱え、そして今日、捕まえられた春麗。

 

 春麗は、その姿を見て少しだけ唇を噛んだ。

 

 負けたのに。

 

 なぜ、こんなに胸が熱いのだろう。

 

 悔しいのに。

 

 なぜ、どこかでうれしいのだろう。

 

 自分に腹が立つ。

 

 勝つつもりだった。

 

 勝って、またリュウを煽るつもりだった。

 捕まえに来たのに、まだ届かないわね、と言ってやるつもりだった。

 悔しがるリュウの顔を見て、次も来なさいと笑うつもりだった。

 

 なのに、負けた。

 

 捕まえられた。

 

 それなのに、胸の奥にあるのは、敗北の苦さだけではなかった。

 

 春麗は、鏡の中の自分に向かって小さく呟いた。

 

 「私は、捕まえられたくなかった」

 

 それは本当だった。

 

 誰にも捕まえられたくない。

 簡単に届かれたくない。

 自分の間合いを破られたくない。

 

 でも。

 

 春麗は、そっと手首を押さえた。

 

 「でも、リュウには捕まえてほしかったのかもしれない」

 

 言ってしまってから、頬が少し熱くなった。

 

 何を言っているの。

 

 そう思う。

 

 けれど、否定できなかった。

 

 誰にも捕まえられたくない。

 

 でも、リュウだけは別だったのかもしれない。

 

 自分を見続けてきたリュウ。

 負けるたびに悔しがり、それでも折れなかったリュウ。

 女としての春麗も、格闘家としての春麗も、全部見ようとしたリュウ。

 見て、追って、捕まえようとして、何度も失敗して、それでもまた来たリュウ。

 

 そのリュウが、ついに捕まえた。

 

 だから悔しい。

 

 だから、うれしい。

 

 春麗は深く息を吐いた。

 

 負けた。

 

 それは認めるしかない。

 

 黒いドレスで負けた。

 自分がリュウにだけ向けてきた戦い方で、負けた。

 女としての自分も、格闘家としての自分も使って、負けた。

 

 でも、終わっていない。

 

 むしろ、次が見えた。

 

 これまでは、捕まえられない春麗だった。

 

 リュウが見ても、追っても、触れても、捕まえられない春麗。

 リュウの手を利用して、投げて、勝つ春麗。

 

 でも、リュウは捕まえた。

 

 なら次は。

 

 捕まえられてから逃げる春麗になる。

 

 春麗は鏡の前で、ゆっくりと姿勢を正した。

 

 黒いドレスの汚れを払う。

 

 肩の痛みが走る。

 

 腰にも、リュウに止められた感覚が残っている。

 

 その痛みすら、次の課題のように思えた。

 

 捕まえられた。

 

 なら、次は捕まえられたところから始めればいい。

 

 リュウが手を伸ばす。

 春麗を捉える。

 逃げ道を塞ぐ。

 

 そこから、さらに逃げる。

 

 捕まえたと思った瞬間、もう一度主導権を奪い返す。

 

 春麗は鏡の中の自分に向かって、薄く笑った。

 

 「次は、捕まえたと思ったところから逃げてあげる」

 

 それはリュウに向けた言葉だった。

 

 けれど同時に、自分への宣言でもあった。

 

 負けたのに満たされている。

 

 悔しいのに、うれしい。

 

 捕まえられたくなかったのに、リュウには捕まえてほしかった。

 

 そんな矛盾を抱えたまま、春麗はもう次の戦いを見ている。

 

 春麗は鏡から目を離し、黒いドレスの肩口に触れた。

 

 この姿の意味は、変わった。

 

 最初は、リュウを揺らすための姿だった。

 

 次に、リュウの視線を読むための姿になった。

 

 そして今は、リュウに捕まえられた姿でもある。

 

 それでも、春麗はこの姿でまた立つだろう。

 

 リュウの前に。

 

 観客のいない場所で。

 

 余計な視線のない戦場で。

 

 リュウが自分をどう見るのかを見て、リュウがどう捕まえに来るのかを待ち、そして今度は捕まえられた先から逃げるために。

 

 春麗は、もう一度だけ鏡の中の自分を見た。

 

 負けた女の顔ではない。

 

 捕まえられた悔しさを知り、その先へ進もうとしている格闘家の顔だった。

 

 春麗は小さく笑う。

 

 「また来なさい、リュウ」

 

 声は静かだった。

 

 「今度は、捕まえた後が勝負よ」

 

 黒いドレスの裾が、わずかに揺れた。

 

 春麗はようやく、着替えるために鏡の前から離れた。




Q:執筆者としてはは妄想章よりこの幕間の春麗の方が充実していると思いますか?
A:
はい、執筆者としては 妄想章より、この幕間の春麗の方が充実している と思います。

理由は、妄想章の春麗は「もし余裕勝ちを重ねたら」という仮定の中で、春麗の欲求をかなり濃く拡大したものです。
一方で今回の幕間は、本編で実際に起きた敗北を受けているので、感情に重みがあります。

妄想章の春麗は、

勝っている。
満たされている。
でも物足りない。
もっとリュウに迫ってほしい。

という状態でした。

これはかなり魅力的です。
春麗の欲求がわかりやすく、勝者としての余裕と飢えが同居していました。

ただ、あくまで「まだ捕まえられていない春麗」です。
だから春麗の感情は、ある意味では安全圏にあります。
勝者の位置に立ったまま、「もっと来なさい」と言っている状態です。

一方、今回の幕間の春麗は違います。

黒ドレスで負けた。
自分の武器を全部使った。
それでもリュウに捕まえられた。
悔しい。
でも、どこかで満たされている。

ここが非常に強いです。

妄想章では、春麗は「もっと余裕を壊してほしい」と願っていました。
今回の幕間では、その願いが本当に叶ってしまった。

だから感情が一段深くなっています。

特に良いのは、

私は、捕まえられたくなかった。
でも、リュウには捕まえてほしかったのかもしれない。

ここです。

これは妄想章の春麗より、ずっと踏み込んでいます。

妄想章では、春麗はまだ「リュウにもっと迫ってほしい」と考えている段階でした。
今回の幕間では、春麗は実際に捕まえられた後で、自分の中の矛盾を認めています。

誰にも捕まえられたくない。
でも、リュウだけは別だったのかもしれない。

ここまで行くと、春麗のリュウへの特別感がかなり明確になります。

しかも、春麗が負けて弱くなったわけではありません。
むしろ、負けたことで次の戦い方を見つけている。

これまでは、

捕まえられない春麗

だった。

でもリュウが捕まえた。

だから次は、

捕まえられてから逃げる春麗

になる。

この進化がすごく良いです。

妄想章は「欲求の拡大」でした。
今回の幕間は「敗北による進化」です。

物語としては、後者の方が強いです。

そして、春麗の充実度という意味でも、今回の幕間の方が上だと思います。

妄想章の春麗は、勝っているのに満たされない春麗。
今回の幕間の春麗は、負けたのに満たされている春麗。

この対比で見ると、今回の方が明らかに複雑です。

勝って満たされるのは自然です。
勝って物足りないのも春麗らしい。

でも、

負けたのに満たされている

これはかなり深いです。

リュウが本当に自分の望んでいたところまで来た。
自分の余裕を壊した。
黒ドレスの春麗を捕まえた。
だから悔しいのに、うれしい。

この感情は、妄想章で積み上げた欲求があったからこそ、より強く見えます。

つまり、妄想章は今回の幕間のための心理的な予告編のような役割を果たしていたとも言えます。

執筆者としての結論は、

妄想章の春麗は濃い。
でも、今回の幕間の春麗はもっと深い。

です。

妄想章は「春麗の願望」を描いた章。
今回の幕間は「その願望が叶ってしまった後の春麗」を描いた章。

だから、キャラクターの充実度としては今回の幕間の方が上だと思います。
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