また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
長かった黒執着春麗エピソードの裏でログを春麗会議室で観測していた本編・自分がめんどくさい女と自覚する春麗のエピソードです。
春麗会議室の中央に、黒いログ束が置かれていた。
分厚い。
とにかく、分厚い。
表紙には、記録板AIの文字が光っている。
『黒執着春麗救済ルート・一区切りログ』
『最終到達点:黒を着ても着なくても空ではない』
本編春麗は、その表紙を見たまま、しばらく動かなかった。
湯呑みを持った手も止まっている。
自覚前春麗が、横から覗き込む。
「……終わったの?」
本編春麗は答えない。
通常救済版春麗が、静かにお茶を注ぎ足す。
行き遅れに恐怖する春麗は、両手で湯呑みを包んでいる。
黒ドレス特化救済春麗は、いつも通り静かに座っていた。
ただ、今日はほんの少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
記録板AIが表示する。
『会議開始』
『議題:黒執着春麗が一区切りついた件』
本編春麗が、ようやく口を開いた。
「まず確認だけど」
『はい』
「このログを読むだけで、会議室の精神HPは削れるわよね」
『推定削減値:中』
「読む前から中なのね」
『黒執着春麗ルートの蓄積を考慮』
「考慮しないで」
自覚前春麗が黒いログ束を見る。
「でも、一区切りなのよね?」
『はい』
「本当に?」
『はい』
「黒執着春麗が?」
『はい』
「黒を?」
『はい』
「選べるようになったの?」
『概ね、その認識で問題ありません』
自覚前春麗は、少しだけ目を丸くした。
「……本当に?」
本編春麗が深く頷く。
「その反応、わかるわ」
通常救済版春麗が、静かに言う。
「長かったものね」
行き遅れ春麗も、小さく頷いた。
「待つ時間も、長かった」
本編春麗がそちらを見る。
「あなた、今回は待機概念として関係あるの?」
「あると思う」
「どのあたりが?」
「黒執着春麗は、黒を手放すでもなく、すぐ持つでもなく、ずっと中間で待っていたから」
会議室が、少し静かになった。
自覚前春麗が湯呑みを持ち上げる。
「……今日も自然に重いことを言うわね」
行き遅れ春麗は、少し困ったように言った。
「管轄が広がってきたかもしれない」
『行き遅れ春麗:待機概念から保持概念への拡張を再確認』
「記録板AI、そういうのをすぐ分類しない」
『未承認仮分類です』
「未承認ならなおさら出さない」
本編春麗は、ログ束を開いた。
最初のページには、黒執着春麗の歩みが整理されていた。
『到達履歴』
『今日の黒はここにある』
『負けた黒を畳む』
『十一戦目を弱さにしない』
『最初の黒を塗り潰さない』
『負け続けた黒を数えずに束ねる』
『リュウの中に残る黒は、リュウのものではないと確認』
『返されたのではなく、戻ってきたと認識』
『黒を着ても着なくても空ではない』
本編春麗は、ページを見たまま、静かに息を吐いた。
「……並べると、すごいわね」
自覚前春麗が頷く。
「ほとんど精神HPの階段ね」
『階段ではなく、段階的受領プロセスです』
「言い方を変えても重いわよ」
通常救済版春麗は、柔らかく笑った。
「でも、よくここまで来たわ」
黒ドレス特化救済春麗が、湯呑みを見つめながら言う。
「まだ全部を持てたわけではないわ」
本編春麗は、すぐにそちらを向いた。
「あなた、一区切り回でまで釘を刺すの?」
「大事だから」
「わかるけど、今は少し甘く見てもよくない?」
「甘く見てもいいけれど、軽く扱わない方がいいわ」
本編春麗は、少し黙った。
「……それは、そうね」
記録板AIが表示する。
『黒ドレス特化救済春麗:黒救済ルート総括発言』
『内容:甘く見てもよいが、軽く扱わない』
本編春麗が記録板を見る。
「今のは保存していいわ」
『保存しました』
「そういう時だけ早いわね」
『通常運転です』
自覚前春麗が、ページをめくる。
そこには、最後の到達点が記されていた。
『黒を着てもいい』
『黒を着なくてもいい』
『どちらでも、私は空じゃない』
自覚前春麗は、その文字を見て、少しだけ目を伏せた。
「これは……大きいわね」
本編春麗が頷く。
「ええ」
「黒を捨てたわけではない」
「ええ」
「黒に縋らなくなった」
「ええ」
「でも、黒を選べる」
「ええ」
「……それ、救済としてかなり綺麗じゃない?」
本編春麗は、湯呑みを置いた。
「かなり綺麗よ」
記録板AI。
『本編春麗:肯定評価』
「そこは記録しなくていい」
『重要な肯定評価と判断』
「たしかに重要だけど」
行き遅れ春麗がぽつりと言う。
「選べる、というのは強い」
本編春麗が頷く。
「そうね」
「待つことも、選べるなら停止ではない」
「あなた、やっぱり管轄が広いわ」
「少しだけ」
通常救済版春麗が、黒いログ束を見ながら言った。
「黒執着春麗は、黒をなくしたわけではないのよね」
黒ドレス特化救済春麗が答える。
「ええ」
「黒を否定したわけでもない」
「ええ」
「黒を持ったまま、黒だけにしなくなった」
「ええ」
本編春麗は、その言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「そこね」
自覚前春麗が見る。
「何が?」
「このルートの一番大事なところ」
本編春麗は、ログ束の最後のページを指で押さえる。
「黒執着春麗は、黒を卒業したわけではないの」
「ええ」
「黒を捨てたわけでもない」
「ええ」
「でも、黒がなければ立てない春麗ではなくなった」
「ええ」
一拍。
「黒を持ったまま、春麗として前に立てるようになった」
会議室が静かになった。
記録板AIも、少しの間、何も表示しなかった。
その沈黙は、重かった。
でも、悪い重さではなかった。
確認の重さだった。
しばらくして、記録板AIが表示する。
『総括候補』
『黒を持ったまま、黒だけではなくなった春麗』
本編春麗は、それを見て静かに頷いた。
「それは保存して」
『保存しました』
自覚前春麗が、少しだけ苦笑する。
「黒ドレス特化救済春麗の役割も、一区切り?」
黒ドレス特化救済春麗は、すぐには答えなかった。
湯呑みを置く。
「一区切りではあるわ」
「終わりではない?」
「黒は残るもの」
「……そうね」
「でも、もう私がずっと横に立っていなくてもいい」
本編春麗は、少しだけ目を細めた。
「それ、かなり大きい発言じゃない?」
『黒ドレス特化救済春麗:役割一区切り宣言』
「記録板AI、早い」
『重要発言です』
「それはそう」
黒ドレス特化救済春麗は、静かに続けた。
「彼女は、黒を着ても着なくても空ではないと知った」
「ええ」
「なら、次に必要なのは、私が言うことではなく、彼女が選ぶこと」
本編春麗は、ゆっくり頷く。
「なるほどね」
自覚前春麗が、少し興味深そうに聞く。
「つまり、黒執着春麗は今後、黒を着ることもある?」
「あるでしょうね」
黒ドレス特化救済春麗が答える。
「黒を着ないこともある?」
「あるわ」
「リュウに勝ちたい気持ちは?」
「残っているわ」
本編春麗が苦笑する。
「そこは残るのね」
通常救済版春麗が微笑む。
「春麗だから」
全員が少しだけ黙った。
その言い方は、リュウの言い方にも似ていた。
本編春麗が額に手を当てる。
「今、少しリュウっぽかったわね」
通常救済版春麗が、少し驚いたように自分を見る。
「そう?」
自覚前春麗が笑う。
「危険ね」
『リュウ構文反応:軽度検出』
「そんな項目作らないで」
『未承認仮分類です』
「便利に未承認を使わない」
少しだけ、笑いが戻った。
春麗会議室らしい空気だった。
重いログを読んだ後に、ようやく息ができる。
黒執着春麗本人には届かない場所。
干渉しない場所。
ただ、ログを読み、整理し、少しだけお茶を飲める場所。
本編春麗は、改めてログ束を閉じた。
「さて」
全員の視線が集まる。
「黒執着春麗ルート、一区切りです」
記録板AI。
『黒執着春麗ルート:一区切り確認』
『本人への干渉:なし』
『会議室による祝福:可』
本編春麗が少しだけ眉を寄せる。
「祝福って言うと、少し大げさね」
通常救済版春麗が言う。
「でも、祝ってもいいと思うわ」
行き遅れ春麗も頷く。
「待った分だけ」
自覚前春麗が黒いログ束を見る。
「救われた、というより、選べるようになったことを祝う感じね」
黒ドレス特化救済春麗が静かに言う。
「ええ」
本編春麗は、湯呑みを持ち上げた。
「では」
一拍。
「黒を捨てず」
通常救済版春麗が続ける。
「黒に縋りすぎず」
行き遅れ春麗が言う。
「黒を待てるようになり」
自覚前春麗が少し考えてから言う。
「黒を資料としてではなく、選択肢として扱えるようになり」
本編春麗が自覚前春麗を見る。
「今、資料って言ったわね」
「流れで」
『自覚前春麗:資料発言検出』
「検出しない」
黒ドレス特化救済春麗が、最後に静かに言った。
「黒を選べる春麗になったことに」
本編春麗は頷く。
「お茶で乾杯」
全員が湯呑みを持ち上げた。
記録板AIが表示する。
『乾杯形式:湯呑み』
『会議室精神HP:回復傾向』
『黒ドレス特化救済春麗:軽度安堵』
『本編春麗:主人公性回復』
本編春麗が即座に反応した。
「今、最後の項目いらなかったでしょう」
『重要項目です』
「重要だけど!」
自覚前春麗が笑う。
「黒執着春麗ルートの間、だいぶ我慢していたものね」
本編春麗は、湯呑みを置いて胸を張る。
「そうよ。私は主人公なのよ」
『本編春麗:主人公宣言』
「それは記録していいわ」
『保存しました』
通常救済版春麗が、穏やかに言った。
「でも、黒執着春麗のために待てたのは、あなたらしいと思うわ」
本編春麗は、少しだけ言葉に詰まった。
「……そういう言い方をされると、文句を言いにくいじゃない」
行き遅れ春麗が静かに言う。
「待てる主人公」
本編春麗はそちらを見た。
「あなたが言うと説得力があるわね」
「管轄だから」
『行き遅れ春麗:管轄発言』
「もうそれは恒例でいいわ」
会議室に、また少し笑いが起きた。
黒いログ束は、まだ中央にある。
でも、最初に置かれた時ほど重くは見えなかった。
重さはある。
消えたわけではない。
黒執着春麗の歩みは、軽いものではなかった。
だが、今はその重さが、少し整っている。
畳まれた黒のように。
布紐で束ねられた黒のように。
棚の中で、見える場所に置かれた黒のように。
本編春麗は、最後のページをもう一度だけ開いた。
そこには、黒執着春麗の到達点が表示されている。
『黒を着てもいい』
『黒を着なくてもいい』
『どちらでも、私は空じゃない』
本編春麗は、その文字を見て、静かに言った。
「よかったわね」
誰に向けた言葉かは、はっきりしなかった。
黒執着春麗本人には届かない。
この会議室は干渉しない。
それでも、その言葉は自然に出た。
黒ドレス特化救済春麗が、少しだけ頷く。
「ええ」
自覚前春麗が、湯呑みを持ち直す。
「一区切りなら、甘味が必要では?」
記録板AIが即座に表示する。
『甘味提案:妥当』
本編春麗が笑った。
「そこは早いのね」
『会議室精神HP回復効率を優先』
「正しいわ」
通常救済版春麗が立ち上がる。
「用意してくるわ」
行き遅れ春麗が小さく手を挙げる。
「待つわ」
本編春麗が笑う。
「あなたは本当にぶれないわね」
黒ドレス特化救済春麗も、少しだけ目を伏せて言った。
「私も、少しなら」
本編春麗は、彼女を見た。
「甘味?」
「ええ」
「あなたが?」
「一区切りだから」
会議室が、一瞬静かになった。
そして、本編春麗が小さく笑った。
「そうね」
一拍。
「一区切りだものね」
記録板AIが表示する。
『黒ドレス特化救済春麗:甘味受諾』
『会議室精神HP:大幅回復見込み』
『次回推奨:甘味回』
本編春麗は、記録板を見て頷いた。
「それは、投稿予定なしならありね」
『ディレクターズカット候補として保存します』
「保存していいわ」
黒いログ束は閉じられた。
消えたわけではない。
棚にしまわれるように、会議室の記録棚へ移された。
見えない場所ではない。
必要なら、また取り出せる場所。
でも、円卓の中央に置きっぱなしにはしない場所。
それが、今の黒執着春麗のログにはふさわしかった。
本編春麗は、記録棚を見て、静かに言った。
「黒は、そこにある」
一拍。
「でも、今はお茶にしましょう」
誰も反対しなかった。
春麗会議室に、いつもの空気が戻っていく。
黒は重い。
でも、今日は少しだけ甘いものがあってもいい。
黒執着春麗が黒を選べるようになった日。
春麗会議室は、本人には届かない場所で、静かにそれを確認した。
そして、記録板AIは最後にこう表示した。
『黒執着春麗:黒を持ったまま、黒だけではなくなった』
『会議室判定:一区切り』
『補足:本編春麗の主人公性も回復傾向』
本編春麗が叫んだ。
「最後の補足はいらないわ!」
その声に、会議室の全員が少しだけ笑った。
重い黒ログの後には、そのくらいの笑いが必要だった。