また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
朝の光が、山中の修行場に差していた。
夜明け前の薄闇ではない。
黒いドレスが風に溶けるような時間でもない。
空はすでに明るく、木々の葉には朝露が光っている。土の匂いはまだ冷たさを残していたが、修行場には柔らかな光が落ちていた。
リュウは、その中央に立っていた。
黒いドレスの春麗と戦った場所。
春麗を初めて捕まえた場所。
そして、春麗にまた戦ってくれと言った場所だった。
彼は今日も一人で待っていた。
だが、今日の空気は少し違う。
黒いドレスの春麗が現れる時の、あの静かな緊張ではない。
夜の奥から、彼女だけが浮かび上がってくるような気配ではない。
もっと明るい。
もっと正面から向き合う空気だった。
足音が聞こえた。
リュウは顔を上げる。
山道から春麗が現れた。
黒いドレスではなかった。
青い武道服。
白い帯。
しっかりと結われた髪。
迷いのない歩き方。
最初に出会った時から、リュウの前に立ってきた春麗の姿だった。
だが、同じではない。
リュウにはわかった。
今の春麗は、黒いドレスで戦った春麗を通っている。
視線を読み、呼吸を読み、捕まえられた感覚を知った春麗だ。
青い武道服に戻っても、ただ原点に戻ったわけではない。
黒衣を脱いだ春麗が、朝の光の中に立っている。
リュウは静かに言った。
「今日は、その姿なのか」
春麗は足を止め、少しだけ笑った。
「黒いドレスじゃないと、私を見られないなんて言わないでしょう?」
その声には、いつもの挑発があった。
けれど、黒いドレスの時とは違う。
リュウの視線を絡め取るような低い声ではない。
正面から、拳を向ける声だった。
リュウは春麗を見た。
青い武道服の春麗。
軽く、速く、鋭い春麗。
そして、黒いドレスで自分を試し、自分に捕まえられた春麗。
どの姿でも、春麗は春麗だ。
リュウはそう思った。
そして、そのまま言った。
「どの姿でも、春麗は春麗だ」
春麗の目が、ほんの少しだけ揺れた。
満足したのかもしれない。
だが、それを表に出すほど甘くはない。
春麗は構えた。
「なら、今日は拳で確かめさせてもらうわ」
リュウも構えた。
朝の風が二人の間を抜ける。
次の瞬間、春麗が動いた。
速い。
黒いドレスの時とは、明らかに違った。
黒衣の春麗は、間を支配する。
視線を逃がさず、布の揺れと静止と声で、リュウの呼吸を遅らせてくる。
だが、青い武道服の春麗は違う。
速い。
足が出る。
蹴りの回転が速い。
跳びが鋭い。
間合いに入る速度も、離れる速度も、黒いドレスの時より軽い。
リュウは一撃目を受けた。
腕に鋭い衝撃が走る。
二撃目。
角度が違う。
三撃目。
もう戻っている。
リュウは黒ドレス戦の感覚で春麗を追おうとして、すぐに違いを悟った。
テンポが違う。
黒衣の春麗を追うように間を読めば、青い春麗の速度に遅れる。
青い春麗を追うように動けば、黒衣で磨かれた視線の読みがこちらの一瞬を取ってくる。
通常の春麗ではない。
黒いドレスを経た、青い武道服の春麗。
速くて、しかもこちらの視線を読んでくる。
春麗の足が低く沈む。
リュウは反応する。
蹴り。
いや、違う。
上体が残っている。
掌底。
リュウは肘で受ける。
だが、春麗はもう横へ流れている。
リュウが追う。
春麗は一瞬だけ目を合わせた。
それだけで、リュウの踏み込みの角度を読んだ。
足が飛ぶ。
リュウは腕で受ける。
重い。
黒いドレスの春麗とは違う重さ。
こちらは、速度と技術で切り込んでくる春麗だった。
リュウは息を整える。
春麗が踏み込む。
リュウは今度こそ前へ出た。
捕まえる。
黒いドレスの戦いで、一度は春麗を捕まえた。
見るだけでは足りない。
触れるだけでも足りない。
逃げ道を塞ぎ、春麗が逃げる先にいる。
その感覚は、まだ身体に残っている。
リュウは春麗の横移動を読んだ。
春麗が流れる。
リュウは追わない。
流れた先に足を置く。
春麗の目が細くなる。
リュウの手が伸びる。
春麗の腕を取った。
今度は逃がさない。
リュウは春麗の肩の線を見る。
腰の沈みを見る。
足の動きを見る。
黒いドレスの時のように、手を支点にして流してくるはず。
だが、春麗は動かなかった。
一瞬、止まる。
捕まえた。
リュウはそう思った。
だが、その瞬間、春麗の力が抜けた。
抵抗しない。
押し返さない。
逃げるでもない。
春麗は、肩の力を抜き、軸を少しずらした。
リュウが逃がさないと思った力が、わずかに前へ流れる。
春麗はその内側に入った。
投げではない。
抜けた。
密着した距離で、春麗の膝が差し込まれる。
「ぐっ……!」
リュウの腹に衝撃が入る。
春麗は腕を抜き、回転しながら距離を取った。
リュウは踏みとどまる。
春麗は少し息を乱していた。
だが、その目には確かな手応えがあった。
リュウは悟る。
黒いドレスでの敗北を、春麗は持ち帰っている。
あの時、捕まえられた。
逃げられなかった。
だから今回は、捕まえられてから逃げた。
黒いドレスを脱いでも、黒いドレスの経験は消えていない。
春麗は、さらに進んでいる。
リュウは構え直した。
春麗が笑う。
「捕まえたつもりだった?」
「まだだ」
リュウは短く答える。
春麗は目を細めた。
「そう。なら、もう一度来なさい」
春麗が踏み込む。
速い。
青い武道服が朝の光の中で跳ねる。
黒いドレスの時よりも軽い。
足が伸びる。
リュウの肩をかすめる。
戻りが速い。
戻った足から、さらにもう一撃。
リュウは受ける。
反撃する。
春麗はかわす。
だが、完全ではない。
リュウの拳が春麗の腕に当たった。
春麗の呼吸が乱れる。
リュウは踏み込む。
春麗は下がる。
だが、下がりながら蹴る。
リュウは受ける。
さらに前へ出る。
今度は春麗の目が変わった。
本当に迫られている目だった。
春麗は嬉しそうだった。
いや、嬉しそうに見えた。
だが同時に、危険を感じている。
リュウにはわかった。
春麗はこれを望んでいた。
余裕で勝つことではない。
黒いドレスでリュウを翻弄することだけでもない。
リュウが本当に迫ること。
春麗を焦らせること。
その上で、最後に自分が立つこと。
春麗は、それを望んでいる。
リュウは拳を引いた。
なら、行く。
春麗の蹴りが来る。
リュウは受けず、半歩内側へ入る。
足が肩をかすめる。
痛みが走る。
だが、踏み込む。
春麗の戻りを読む。
拳を置く。
春麗の脇腹にかすった。
「……っ」
春麗の息が漏れる。
リュウはさらに踏み込んだ。
春麗が跳ぶ。
リュウは追い上げない。
着地を待つ。
春麗は着地と同時に蹴る。
リュウはそれを読んでいた。
腕で受け、身体を沈める。
拳が春麗の肩口へ伸びる。
春麗はかわす。
だが、完全ではない。
リュウの指が、春麗の袖に触れた。
春麗が一瞬止まる。
リュウは捕まえに行く。
春麗は、捕まえられてから抜ける動きをする。
肩の力を抜く。
軸をずらす。
リュウの力を流す。
だが、リュウも読んでいる。
捕まえられてから逃げる春麗。
その動きを見た。
リュウはさらに一段深く入った。
春麗の目が、はっきり揺れた。
「……!」
春麗は本気で焦った。
リュウの拳が届く。
春麗の呼吸が乱れる。
蹴りの戻りを読まれる。
あと一撃で、リュウが勝つ。
その瞬間、春麗の表情が変わった。
余裕が消える。
だが、折れない。
むしろ、目の奥が強くなる。
リュウはその目を見た。
春麗は、笑っていない。
勝者の仮面もない。
ただ、格闘家として本気で勝ちに来ている。
リュウの胸が熱くなる。
これだ。
黒いドレスではない。
青い武道服の春麗が、本気で自分を倒しに来る。
春麗は低く沈んだ。
リュウが捕まえに来る。
春麗は、それを待っていた。
だが、黒いドレスの時のように視線で誘うのではない。
技で誘う。
足を置く。
肩を開く。
ほんの一瞬、腕を取らせる。
リュウは見た。
罠だ。
それでも入る。
捕まえる。
春麗の腕に触れた。
今度の手応えは深い。
逃がさない。
リュウの意識が、ほんのわずかにそこへ寄った。
春麗はその一瞬を読んだ。
逃がさない。
リュウがそう思った瞬間。
春麗は身体を落とした。
力を抜くのではない。
沈む。
リュウの腕の内側へ、青い武道服の身体が滑り込む。
投げではない。
蹴り。
軸を切る蹴りだった。
春麗の足が、リュウの踏み込みの根元を打つ。
リュウの身体が半拍止まった。
そこへ掌底。
胸元に入る。
リュウは踏みとどまろうとする。
だが、足が遅れる。
春麗はさらに回り込む。
最後の蹴り。
リュウの肩口へ、鋭く止めるように入った。
打ち抜くためではない。
勝負を止めるための一撃。
リュウは片膝をついた。
土の感触が膝に伝わる。
春麗も、倒れ込みそうになっていた。
息が荒い。
腕が震えている。
肩が上下している。
青い武道服の袖に、土が付いていた。
それでも、春麗は立っていた。
ギリギリだった。
本当に、ギリギリだった。
リュウは見上げる。
春麗は呼吸を整えようとしている。
余裕はない。
だが、目は勝者だった。
そして、その奥に、満足があった。
春麗はゆっくりと息を吐いた。
「やっと私を焦らせたわね、リュウ」
声は少し乱れていた。
だからこそ、嘘ではないとわかった。
春麗は本当に焦っていた。
本当に危なかった。
それでも、春麗は笑った。
勝者として。
「でも、焦らせただけじゃ勝てないわ」
リュウは拳を握った。
悔しい。
黒いドレスの春麗を捕まえた。
だが、青い武道服の春麗には、また違う形で届かなかった。
黒いドレスの春麗は、視線と間を支配した。
青い武道服の春麗は、速度と技術で切り込んだ。
だが、どちらも春麗だった。
リュウは思う。
黒いドレスの春麗を捕まえた。
だが、春麗そのものを捕まえきったわけではない。
春麗は呼吸を乱しながらも、リュウを見下ろしている。
「今日は、黒いドレスじゃない私に負けたのよ」
少しだけ、いつもの煽りが戻る。
「忘れないことね」
リュウは静かに息を吐いた。
「忘れない」
春麗の目が、わずかに細くなる。
リュウは続けた。
「どの姿でも、お前は強い」
春麗は一瞬、何か言いかけた。
だが、すぐに笑みに変えた。
「当然でしょう?」
それは春麗らしい返事だった。
朝の光が、修行場を照らしている。
黒いドレスの薄闇ではない。
青い武道服が、光の中ではっきりと見えている。
リュウは片膝をついたまま、春麗を見た。
美しいと思った。
だが、それは黒いドレスの時とは違う美しさだった。
速さ。
技術。
誇り。
格闘家としての芯。
春麗は黒衣を脱いでも春麗だった。
いや。
黒衣を経たからこそ、青い武道服の春麗はさらに強くなっていた。
春麗は背を向けかけ、少しだけ振り返る。
「また戦う?」
リュウは答えた。
「もちろんだ」
春麗は満足そうに笑った。
「なら、次はもっと私を焦らせてみなさい」
そして一拍置いて、勝者らしく付け加える。
「でも、最後に立つのは私だけど」
リュウは立ち上がった。
身体は痛む。
膝も重い。
胸には掌底の熱が残っている。
だが、心は折れていなかった。
むしろ、また次を見ていた。
春麗は朝の光の中を歩いていく。
青い武道服の背が、木々の間へ遠ざかっていく。
リュウはその背を見送った。
黒いドレスの春麗。
青い武道服の春麗。
どちらも春麗だ。
そして、自分はまだ、どちらにも届ききっていない。
リュウは拳を握る。
春麗は、焦らせただけでは勝てないと言った。
なら次は。
焦らせるだけではなく、勝つ。
リュウは静かに構え直した。
朝の修行場に、風が吹いた。
春麗の姿はもう見えない。
だが、その蹴りの速さと、最後の掌底の感触は、まだ身体に残っている。
リュウは目を閉じ、もう一度春麗を思い浮かべる。
青い武道服の春麗。
原点であり、最難関。
そして、また戦いたい相手。
リュウは息を吐き、拳を引いた。
次は、もっと深く届かせる。