また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗は、青い武道服を手に取っていた。
黒いドレスではない。
リュウの視線を試すための黒。
リュウが自分を女としても見ることを知るための黒。
リュウにだけ向けてきた、あの特別な戦いのための姿ではない。
今日、春麗が選んだのは青い武道服だった。
鏡の前で袖を通しながら、春麗は少しだけ目を伏せる。
黒いドレスで、リュウに捕まえられた。
それは今も、身体の奥に残っている。
手首。
肩。
腰。
逃げようとした先に、リュウが半歩早くいた感覚。
あの時、春麗は初めて思った。
逃げられない。
悔しかった。
けれど、満たされた。
リュウが、やっとそこまで来たからだ。
春麗が望んでいたところまで、踏み込んできたからだ。
黒いドレスの春麗を、女としても、格闘家としても、全部見たうえで捕まえたからだ。
だからこそ、今日は青い武道服を選んだ。
黒いドレスでなければリュウと戦えないと思われたくなかった。
女としての自分を見せることが、リュウとの戦いのすべてではない。
黒いドレスで揺らすことだけが、春麗の武器ではない。
視線を奪い、呼吸を乱し、間合いを支配するだけが春麗ではない。
春麗は、格闘家だ。
最初にリュウを倒した時も、この姿だった。
青い武道服。
鍛えた脚。
積み重ねた技。
読みに頼りすぎない速度。
正面から相手の拳を受け、蹴りで斬り返す春麗。
そこに戻りたかった。
ただし、昔に戻るわけではない。
黒いドレスで学んだことは、すべて身体に残っている。
リュウの視線。
リュウの呼吸。
リュウが捕まえに来る瞬間。
リュウが逃がさないと思った時の手の力。
そして、捕まえられた時の感覚。
それらを持ったまま、青い武道服でリュウに勝つ。
春麗は帯を締める。
胸の奥に、静かな熱があった。
今日は、黒いドレスの春麗ではない。
青い武道服の春麗として、リュウを焦らせる。
そして、勝つ。
朝の修行場は明るかった。
黒いドレスで戦った時のような、夜明け前の薄闇ではない。
風は冷たいが、光はすでに木々の間から差し込んでいる。
リュウはそこにいた。
一人で待っていた。
春麗はその姿を見て、少しだけ笑いそうになった。
やはり来ていた。
黒いドレスではないのに。
挑戦状も出していないのに。
それでもリュウは、春麗が来ることを知っていたように待っている。
春麗はゆっくりと歩み寄った。
リュウがこちらを見る。
その目が、ほんの少しだけ変わった。
黒いドレスではないことに気づいた目。
春麗はその反応を見逃さなかった。
リュウが言う。
「今日は、その姿なのか」
春麗は軽く笑った。
「黒いドレスじゃないと、私を見られないなんて言わないでしょう?」
言ってから、胸の奥が少しだけ熱くなる。
本当は、聞きたかった。
黒いドレスでなくても、あなたは私を見るのか。
女としての自分を強く見せなくても。
特別な姿で誘わなくても。
青い武道服の春麗を、同じ熱で見てくれるのか。
リュウは静かに答えた。
「どの姿でも、春麗は春麗だ」
春麗は表情を変えなかった。
変えないようにした。
でも、心の中では少し満足していた。
そう。
そう言ってほしかった。
黒いドレスの私も。
青い武道服の私も。
リュウの前に立つ春麗は、全部私だ。
春麗は構えた。
「なら、今日は拳で確かめさせてもらうわ」
リュウも構える。
朝の風が、二人の間を抜けた。
春麗は最初から速く入った。
黒いドレスの時のように、間を置かない。
視線を絡めるための静止も、必要以上には入れない。
声で呼吸を乱すのも、今は控える。
今日は、速度で切る。
足を出す。
蹴りを回す。
戻す。
また踏み込む。
青い武道服は、身体によく馴染んでいる。
軽い。
黒いドレスの布の揺れを使う戦いとは違う。
こちらは、自分の身体そのものがそのまま武器になる。
リュウは受けた。
だが、反応は速い。
黒いドレスの時に比べて、テンポが違うことにはすぐ気づいたようだった。
春麗はさらに角度を変える。
低い蹴り。
すぐに戻して上段。
掌底。
横移動。
跳び。
リュウは追う。
黒いドレスの時のように、視線と間を読むのでは間に合わない。
だが、ただ速さで押せる相手でもない。
リュウは見ている。
足を見る。
肩を見る。
呼吸を見る。
春麗がどこへ逃げるかを見る。
春麗は、そこで黒いドレスの経験を使った。
一瞬だけ、目を合わせる。
リュウの呼吸が変わる。
黒いドレスでなくても、リュウは春麗を見る。
その視線の変化が、春麗にはわかった。
ただし、今日の春麗はそこで止まらない。
視線を使って崩すのではなく、視線の変化を技の入り口にする。
リュウの踏み込みが半拍遅れる。
そこへ蹴りを入れる。
入った。
浅い。
だが、効いている。
春麗は内心で思う。
黒いドレスで学んだことは、青い武道服でも使える。
リュウの視線は、姿が変わっても変わらない。
春麗を見る目は、黒でも青でも変わらない。
なら、読める。
春麗はさらに攻めた。
しかし、中盤に入ると、リュウが変わった。
ただ受けるだけではない。
春麗の横移動を追わず、先に足を置く。
跳びには無理に合わせず、着地を見る。
蹴りの戻りを狙う。
黒いドレスで春麗を捕まえた経験が、リュウにも残っている。
春麗はそれを感じた。
来る。
捕まえに来る。
リュウの手が伸びた。
春麗の腕を取る。
一瞬、動きを止められる。
リュウの手は深い。
黒いドレスの時と同じだ。
逃げ道を塞ぐ手。
春麗は、その感触を覚えている。
あの時は逃げられなかった。
でも、今日は違う。
捕まえられてから逃げる。
春麗は肩の力を抜いた。
抵抗しない。
リュウが逃がさないと思った力を、真正面から受けない。
軸を少しずらす。
リュウの腕の内側へ入る。
投げではない。
抜ける。
密着した距離で、膝を差し込む。
リュウの腹に入る。
リュウの息が詰まった。
春麗はそのまま回転して距離を取る。
成功した。
捕まえられた後に逃げた。
春麗は胸の奥で小さく笑った。
これが次の戦い。
リュウが捕まえた後の春麗。
でも、リュウも止まらなかった。
膝を受けても踏みとどまる。
すぐに構え直す。
春麗は、その目を見て息を呑んだ。
読んでいる。
今の逃げを、もう見ている。
次は同じようには抜けられない。
リュウが踏み込んだ。
春麗は蹴る。
リュウは受ける。
さらに踏み込む。
春麗は横へ逃げる。
リュウは先にいる。
拳が伸びる。
肩をかすめる。
春麗の呼吸が乱れた。
危ない。
本当に危ない。
黒いドレスではない。
視線で強く揺らしているわけでもない。
声で間を濁しているわけでもない。
それでもリュウは迫ってくる。
春麗は心の底で、熱くなった。
そう。
これよ。
これが欲しかった。
青い武道服の自分を、リュウが真正面から追い詰めてくる。
黒いドレスではなくても、春麗を捕まえようとしてくる。
女として見せることに頼らなくても、格闘家としての春麗に本気で届こうとしてくる。
嬉しい。
でも、危ない。
本当に負ける。
リュウの拳が近い。
蹴りの戻りを読まれる。
踏み込みの癖を見られる。
腕を取られる。
逃げ道を塞がれる。
春麗は本気で焦った。
リュウの拳が肩口へ伸びる。
今度は避けきれない。
受ける。
重い。
腕が痺れる。
リュウはさらに踏み込む。
あと一撃で流れを取られる。
春麗は歯を食いしばった。
負けない。
焦っている。
でも、負けない。
リュウが最後に捕まえに来る。
春麗にはわかった。
黒いドレスで捕まえられた時と同じ感覚。
だが、今の春麗はその先を知っている。
リュウの手が伸びる。
春麗の腕に触れる。
深い。
前より深い。
逃がさないという意志がある。
その瞬間、春麗は読んだ。
リュウが「逃がさない」と思った。
意識が、ほんのわずかに手へ集まった。
そこ。
春麗は身体を落とした。
力を抜くのではない。
沈む。
リュウの腕の内側へ入る。
投げではない。
蹴り。
リュウの踏み込みの根元へ、軸を切る蹴りを入れる。
リュウの身体が半拍止まった。
そこへ掌底。
胸元に入れる。
リュウは踏みとどまる。
やはり倒れない。
春麗は最後の力で回り込んだ。
身体が倒れそうになる。
息が苦しい。
腕も震えている。
それでも、足を出す。
最後の蹴り。
リュウの肩口へ、勝負を止めるように入れる。
リュウが片膝をついた。
春麗は立っていた。
ぎりぎりだった。
本当に、ぎりぎりだった。
膝が笑いそうになる。
肩が重い。
呼吸が戻らない。
腕に、リュウの手の感触が残っている。
それでも、立っているのは春麗だった。
勝った。
青い武道服で。
黒いドレスではなく。
リュウに本気で焦らされて、それでも勝った。
春麗は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
これが欲しかった。
リュウが本当に迫る。
負けるかもしれないと思う。
余裕がなくなる。
それでも最後に、自分が立つ。
これが、欲しかった。
春麗はリュウを見下ろした。
リュウは片膝をつき、拳を握っている。
悔しそうだった。
でも、やはり折れていない。
春麗は息を整えようとしながら、笑った。
余裕の笑みではない。
けれど、勝者の笑みだった。
「やっと私を焦らせたわね、リュウ」
声は少し乱れていた。
隠せない。
でも、隠す必要もなかった。
本当に焦った。
本当に危なかった。
だからこそ、言える。
「でも、焦らせただけじゃ勝てないわ」
リュウの拳が、少しだけ強く握られる。
春麗はそれを見て、満たされた。
この顔も欲しかった。
悔しそうで。
次を見ていて。
また来ると決めている顔。
春麗は続けた。
「今日は、黒いドレスじゃない私に負けたのよ」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「忘れないことね」
リュウは静かに言った。
「忘れない」
春麗は一瞬だけ目を細める。
リュウは続けた。
「どの姿でも、お前は強い」
春麗は、少しだけ言葉を失いかけた。
胸の奥が、また熱くなる。
黒いドレスではなくても。
青い武道服でも。
リュウは春麗を見ている。
どの姿でも、春麗は春麗だと言った。
そして今も、そう見ている。
春麗はすぐに笑みを作った。
「当然でしょう?」
それ以外の返し方を知らなかった。
朝の光が、修行場を照らしている。
黒いドレスの夜ではない。
青い武道服の春麗が、朝の中に立っている。
原点に戻ったようで、戻ってはいない。
黒いドレスでリュウを試した記憶も。
リュウに捕まえられた感覚も。
負けたのに満たされたあの夜も。
全部、今の春麗の中にある。
だから勝てた。
青い武道服で、ぎりぎり勝てた。
春麗は背を向けかけて、ふと振り返った。
「また戦う?」
リュウは答える。
「もちろんだ」
その答えに、春麗は満足する。
本当に、懲りない男。
でも、そうでなくては困る。
春麗は軽く笑った。
「なら、次はもっと私を焦らせてみなさい」
一拍置いて、勝者として付け加える。
「でも、最後に立つのは私だけど」
リュウは立ち上がろうとしている。
春麗はその姿を見て、心の中で思った。
次は、どう来るのかしら。
黒いドレスの私を捕まえたリュウ。
青い武道服の私を焦らせたリュウ。
それでも今日は、私が勝った。
けれど、次も同じとは限らない。
それが嬉しかった。
怖さではなく、高揚だった。
春麗は朝の修行場を後にする。
青い武道服の袖に、土が少し付いている。
腕は痛い。
呼吸もまだ完全には戻らない。
身体はぎりぎりだったことを訴えている。
でも、心は満たされていた。
黒いドレスで負けた。
青い武道服で勝った。
リュウはどちらの春麗も見た。
どちらの春麗にも届こうとした。
だから春麗も、どちらの自分でもリュウと戦える。
黒いドレスの自分。
青い武道服の自分。
どちらも春麗だ。
そして、どちらでもリュウを焦らせたい。
どちらでもリュウに迫ってほしい。
どちらでも、最後には勝ちたい。
春麗は小さく笑う。
「焦らせただけじゃ勝てないわよ、リュウ」
もう一度、誰にも聞こえない声で呟いた。
けれどその声には、次への期待が混じっていた。
朝の光の中、春麗は青い武道服のまま歩いていく。
リュウに望んでいたぎりぎりの勝利を、確かに手に入れた満足を胸に抱えて。