また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
道場には、まだ朝の空気が残っていた。
開け放たれた窓から、柔らかな光が差し込んでいる。床板には、春麗の足音だけが小さく響いた。
春麗は、青い武道服のまま立っていた。
袖には土がついている。
帯は少し緩んでいる。
肩は重い。
腕には、リュウの手が触れた時の感覚がまだ残っている。
呼吸は、ようやく落ち着いてきた。
それでも身体の奥には、さっきまでの戦いの熱が残っている。
リュウの拳。
踏み込み。
捕まえに来る手。
逃げ道を塞ぐ間合い。
そして、最後の一撃を入れる直前、自分が本気で焦った感覚。
春麗は、袖についた土を指先で払った。
黒いドレスで負けた時とは違う。
今日は勝った。
それも、余裕を残した勝利ではない。
リュウに本気で焦らされて、負けるかもしれないと思わされて、それでも最後に立っていた。
春麗は、静かに息を吐く。
「……これよ」
誰もいない道場で、春麗は小さく呟いた。
「こういう勝ち方が欲しかった」
勝ちたかった。
それは最初から変わらない。
でも、ただ勝つだけでは足りなくなっていた。
リュウに迫ってほしかった。
焦らせてほしかった。
本当に負けるかもしれないところまで来てほしかった。
そのうえで、自分が勝ちたかった。
今日の勝利は、その形に近かった。
春麗は帯を直しながら、黒いドレスでの敗北を思い出す。
あの時、リュウはついに自分を捕まえた。
黒いドレスの裾が揺れる中、春麗はいつものようにリュウの手を誘った。
触れさせ、支点にし、流して、崩すつもりだった。
前なら、それで勝てた。
でも、リュウは離れなかった。
力で押さえ込んだのではない。
無理やり捕まえたのでもない。
春麗が逃げる先に、半歩早くいた。
あの時、春麗は確かに思った。
逃げられない。
黒いドレスも。
視線も。
声も。
女としての自分も。
格闘家としての技術も。
全部使った。
それでも、リュウに捕まえられた。
悔しかった。
言い訳できないほど、悔しかった。
でも、今日。
その敗北が役に立った。
リュウがまた捕まえに来た時、春麗は覚えていた。
捕まえられた時、どう止められたのか。
リュウの手がどこで深くなるのか。
逃がさないと思った瞬間、力がどこへ集まるのか。
半歩先に入られた時、自分の逃げ道がどう消えるのか。
春麗は、それを身体で覚えていた。
だから今日、逃げられた。
捕まえられてから、抜けた。
リュウが逃がさないと思った瞬間、その力の内側へ沈んだ。
手の深さを読み、軸をずらし、踏み込みの根元を切った。
黒いドレスでの敗北がなければ、あの一瞬は読めなかった。
春麗は青い袖を見下ろした。
土のついた、青い武道服。
黒いドレスではない。
リュウにだけ向けた特別な姿ではない。
視線を揺らすための黒ではない。
女としての自分を、より強く戦場に置くための衣装でもない。
これは、春麗の原点だった。
最初にリュウと向き合った時の姿。
格闘家として、拳と蹴りで立つための姿。
速さと技術で相手を切り込むための姿。
その青い武道服で、春麗は勝った。
黒いドレスで得た経験を持ったまま。
黒いドレスで負けた痛みを持ったまま。
リュウに捕まえられた感覚を持ったまま。
青に戻って、勝った。
春麗は目を閉じる。
リュウの声が蘇る。
どの姿でも、春麗は春麗だ。
あの言葉を聞いた時、春麗は平静を装った。
当然でしょう、と返した。
でも、本当はかなり満たされていた。
黒いドレスの自分だけではない。
青い武道服の自分だけでもない。
どちらも春麗だと、リュウは言った。
どちらの自分も見ていると、言った。
春麗は、そのことがうれしかった。
かなり、うれしかった。
「……本当に、困るわね」
春麗は誰もいない道場で呟く。
リュウは、こちらが隠したいところをまっすぐ突いてくる。
黒いドレスを着れば、そこから目を逸らさない。
青い武道服で立てば、それも春麗だと言う。
負ければまた来る。
勝ってもまた来る。
捕まえたと思えば、次はもっと深く踏み込んでくる。
今日もそうだった。
リュウは、本当に春麗を焦らせた。
拳が届いた。
手が伸びた。
逃げ道を塞がれた。
蹴りの戻りを読まれた。
あと一撃で、流れを奪われかけた。
黒いドレスではない。
女としての揺さぶりを、前ほど使ったわけではない。
それでも、リュウは春麗を見て、迫ってきた。
春麗は、それがうれしかった。
危なかった。
本当に危なかった。
でも、嬉しかった。
そして、勝った。
春麗は、床の上で軽く足を動かす。
まだ少し重い。
最後の蹴りを出した時、身体はほとんど限界だった。
掌底を入れた腕も、今になって鈍く痛む。
リュウの踏み込みを止めた足にも、余韻が残っている。
でも、立っていたのは自分だった。
リュウは片膝をついた。
春麗は、勝者として言った。
やっと私を焦らせたわね、リュウ。
でも、焦らせただけじゃ勝てないわ。
思い返すと、少しだけ頬が熱くなる。
あの時の声は、いつもほど余裕がなかった。
息も乱れていた。
隠せなかった。
本当に焦ったことが、リュウにも伝わっていたはずだ。
でも、それでよかった。
嘘ではなかったから。
春麗は小さく笑う。
そう。
私は、これが欲しかった。
リュウに焦らされて。
負けそうになって。
本当に危ないと思って。
それでも最後に、私が立つ。
これが、一番気持ちいい勝ち方なのかもしれない。
勝つだけなら、足りない。
余裕を残して勝つだけでも、足りない。
リュウが悔しそうにする顔を見るのは好きだ。
でも、その悔しさが深くなるには、自分も危うくなければいけない。
今日のリュウの顔は、よかった。
悔しそうだった。
でも、ただ負けた顔ではなかった。
もう少しで届いた。
もう少しで勝てた。
それなのに、最後に届かなかった。
そういう悔しさがあった。
春麗は、その顔を思い出して胸が満たされる。
そして同時に、もう次を考えている自分に気づく。
今回勝った。
理想に近い勝利だった。
でも、リュウはまた来る。
次はもっと深く来る。
黒いドレスでも。
青い武道服でも。
リュウは春麗を捕まえに来る。
黒いドレスの自分を捕まえたリュウ。
青い武道服の自分を焦らせたリュウ。
次は、どちらの春麗にもさらに深く届こうとしてくる。
春麗は道場の中央に立ち、ゆっくりと構えた。
青い武道服が、身体に馴染む。
この姿は原点だ。
けれど、もう昔の春麗ではない。
黒いドレスでリュウを試した春麗。
黒いドレスでリュウに捕まえられた春麗。
その敗北を青い武道服に還した春麗。
全部が、今の自分の中にある。
春麗は、静かに息を吐いた。
黒いドレスでも。
青い武道服でも。
私は私。
だから次も来なさい、リュウ。
どの私にも届こうとしてみせて。
そのうえで、最後に立つのは私だけど。
春麗は構えを解いた。
袖についた土を、もう一度軽く払う。
完全には落ちない。
けれど、それでよかった。
今日の勝利の跡だ。
黒衣の敗北を、青に還した跡だ。
春麗は道場の出口へ向かいながら、ふと振り返った。
朝の光が床に広がっている。
次にここへ立つ時、自分はどの姿だろうか。
黒いドレスか。
青い武道服か。
どちらでもいい。
リュウは、どちらの自分にも向かってくる。
そして春麗も、どちらの自分でも迎え撃つ。
春麗は小さく笑った。
「次は、どっちの私で焦らせてあげようかしらね」
その声は軽かった。
けれど、その奥には確かな熱があった。
勝者としての満足。
格闘家としての充実。
そして、リュウがまた来ることへの期待。
春麗は青い武道服の帯を締め直し、道場を後にした。