また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
雨は、夜のうちに止んでいた。
朝の修行場には、湿った土の匂いが残っている。
踏みしめれば、乾いた日とは違う重さが足裏に返ってくる。ところどころに小さな水たまりがあり、差し始めた朝日を淡く映していた。
リュウは、その中央に立っていた。
前回、青い武道服の春麗に敗れた場所だった。
胸には、あの掌底の熱がまだ記憶として残っている。
肩口には、最後の蹴りの重さが残っている。
腕には、捕まえたはずの春麗が抜けていった感触が残っている。
捕まえた。
そう思った。
だが、春麗はそこから逃げた。
黒いドレスの春麗は捕まえた。
だが、青い武道服の春麗には届かなかった。
今日は、その続きをやる。
リュウは拳を握る。
勝ちたい。
だが、圧倒したいわけではない。
春麗が全力で切り込んでくる中で、自分も届きたい。
青い武道服の春麗が、速度も、技も、読みも、すべて使ってくる中で、それでも拳を届かせたい。
雨上がりの風が、修行場を抜けた。
木々の葉から、雫が落ちる。
その音に混じって、足音が聞こえた。
リュウは顔を上げる。
春麗が現れた。
青い武道服。
黒いドレスではない。
前回と同じ、春麗の原点の姿だった。
朝の光の中で、青い袖が揺れる。足運びは軽く、迷いがない。
リュウは静かに言った。
「来たな」
春麗は少しだけ笑った。
「前回の続きをしに来たんでしょう?」
「ああ」
リュウは構える。
「今日は、青いお前に届かせる」
春麗の目が細くなる。
「届くだけで満足しないことね。前も焦らせるところまでは来たわ」
その言葉は、挑発だった。
だが、事実でもあった。
前回、リュウは春麗を焦らせた。
春麗の呼吸を乱し、拳を届かせかけた。
それでも、最後に立っていたのは春麗だった。
リュウは短く息を吐く。
「わかっている」
春麗は構えた。
「なら、始めましょう」
先に動いたのは春麗だった。
速い。
青い武道服の春麗は、やはり速かった。
雨上がりの地面でも、足運びが軽い。湿った土を嫌がるどころか、踏み込みの深さを微妙に変えてくる。
浅く入る。
深く刺す。
滑りやすい場所を避ける。
水を含んだ土のわずかな沈みを使って、間合いを変える。
リュウは追う。
だが、前のように速度だけを追わない。
春麗の蹴りが来る。
リュウは受ける。
戻りが速い。
次の蹴り。
角度が違う。
春麗が跳ぶ。
高くない。
低く、鋭い跳び。
リュウは追い上げない。
着地を見る。
春麗は着地と同時に踏み込む。
そこへ拳を置く。
春麗はかわす。
だが、前よりは深く踏み込ませている。
リュウは焦らなかった。
前回、青い武道服の春麗の速度に遅れた。
今回は、速さそのものを追わない。
春麗の速度の先ではなく、戻る場所を見る。
蹴りは出た後、必ず戻る。
跳びは着地する。
横移動は、次の踏み込みへつながる。
速さの中にも、戻る場所がある。
そこを見る。
春麗の足が低く来る。
リュウは受けず、半歩ずらす。
戻りを見る。
春麗の上体が残る。
掌底。
リュウは腕で流す。
そのまま前へ出た。
春麗の腕に指が触れる。
春麗はすぐには引かなかった。
来る。
前回と同じだ。
春麗は捕まえられてから逃げる。
肩の力を抜き、軸をずらし、リュウの腕の内側へ入る。
逃がさないと思った力を逆に利用し、抜ける。
リュウは、そこを読んでいた。
掴む手に力を集めない。
逃がさない、と思った瞬間に春麗は逃げる。
だから、手ではなく足で塞ぐ。
腕ではなく身体の向きで止める。
春麗の肩が抜ける。
リュウは追わない。
抜けた先に、足を置いた。
春麗が一瞬止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
リュウは思う。
見えた。
だが、まだ終わりじゃない。
拳を伸ばす。
春麗の肩口へ届きかける。
春麗の目が揺れた。
本気で焦っている。
だが、春麗はそこで終わらない。
青い武道服が低く沈む。
蹴りではない。
足を引く。
いや、引かない。
リュウが逃げ道を塞ぐなら、春麗は逃げることをやめる。
その場で踏み込んできた。
「……!」
リュウの読みが一瞬、ずれる。
春麗は、捕まえられてから逃げるのではなく、捕まえに来る前のリュウの足を止めに来た。
リュウが春麗の戻りを見る。
春麗は戻りを捨てる。
リュウが逃げ道を塞ぐ。
春麗は逃げるのをやめて踏み込む。
リュウは奥歯を噛む。
読んだ先を、さらに読まれている。
春麗の掌底が胸元へ来る。
リュウは受ける。
重い。
雨上がりの湿った土に、足が沈む。
下がれば滑る。
踏みとどまる。
春麗の蹴りが横から来る。
リュウは腕で受ける。
肩が痺れる。
春麗は間を置かない。
青い武道服の春麗は、速度で攻める。
だが、ただ速いだけではない。
こちらが見る場所を変えれば、その見る場所を変えてくる。
リュウが春麗の逃げを読む。
春麗は、リュウが逃げを読むことを読む。
読みが重なる。
重なりすぎて、もう逃げ道はない。
最後は、踏み込むしかない。
リュウは拳を引いた。
春麗の蹴りが戻る。
その戻りを読む。
そこへ拳を置く。
今度こそ届く。
だが、春麗は戻らなかった。
リュウの拳が置かれる場所を読んだ上で、春麗は踏み込んできた。
引けば、リュウの拳が勝つ。
避ければ、春麗の攻撃は届かない。
下がれば、負ける。
だから春麗は下がらない。
リュウも引かなかった。
ここで引けば、届かない。
春麗も逃げない。
リュウも逃げない。
二人が同時に踏み込む。
リュウの拳が春麗の肩口へ入った。
確かに入った。
寸前で止める余裕はなかった。
止めれば、自分が倒される。
春麗の身体が揺れる。
だが同時に、春麗の掌底がリュウの胸元へ入った。
重い。
息が詰まる。
胸の奥に衝撃が落ちる。
リュウの足が湿った土を削る。
踏みとどまろうとする。
春麗も踏みとどまろうとしていた。
青い武道服の袖が揺れる。
肩で息をしている。
それでも立とうとしている。
リュウも立とうとする。
だが、膝が落ちた。
土に膝が沈む。
春麗も一歩踏み出そうとして、足が残らなかった。
青い武道服の春麗が、土の上に崩れる。
リュウも倒れた。
雨上がりの土の匂いが近くなる。
空が見えた。
朝の空。
雲の切れ間から光が差している。
身体が動かない。
胸が重い。
肩が痛む。
拳には、春麗に届いた感触が残っている。
横を見る。
春麗も倒れていた。
青い武道服に土がついている。
呼吸が乱れている。
けれど、目は開いていた。
勝てなかった。
リュウは思う。
だが、届いた。
そして春麗も、最後まで逃げなかった。
春麗が、息を切らしながら言った。
「……引き分けなんて、納得できないわね」
声は少し掠れていた。
いつものような余裕はない。
リュウも息を整えながら答える。
「俺もだ」
春麗が、わずかに笑った。
悔しそうで、満たされてもいるような笑みだった。
「でも、今のは届いたわ」
リュウは春麗を見る。
「お前のも、届いた」
春麗の掌底は、今も胸に残っている。
勝負を止めるはずの一撃。
それが、互いに入った。
春麗は空を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「次は、私だけが立つわ」
リュウはゆっくりと拳を握る。
「次は、俺が立つ」
春麗は横目でこちらを見た。
「それは私の台詞よ」
リュウは少しだけ息を吐く。
笑ったのかもしれない。
身体は動かない。
だが、胸の奥には静かな熱があった。
青い武道服の春麗に勝てなかった。
だが、届いた。
春麗も逃げなかった。
同じ朝の土の上で、二人とも立っていない。
勝者はいない。
敗者もいない。
けれど、確かに互いに届いた。
雨上がりの修行場に、風が吹いた。
水たまりが小さく揺れる。
リュウは空を見上げたまま、次の戦いを思った。
次は、倒れない。
そして、次こそ立つ。
Q:最近の戦闘描写で決着が寸止めになっているのは執筆者としては何か意図したものでしょうか?
A:
はい。執筆者としては、最近の決着が寸止め寄りになっているのはかなり意図的です。
理由は、このリュウと春麗の戦いが、もう「相手を完全に壊す戦い」ではなく、どちらが最後の間合いを支配したかを証明する戦いになっているからです。
初期の頃は、春麗がリュウを叩き伏せる、投げる、連続攻撃で倒す、という「敗北の衝撃」が重要でした。
でも最近の二人は、互いに相手を本気で認めています。
リュウは春麗を倒したい。
でも、壊したいわけではない。
春麗もリュウを倒したい。
でも、折りたいわけではない。
むしろ二人とも、
次も来てほしい。
もっと強くなって戻ってきてほしい。
また戦いたい。
という前提で戦っています。
だから最後の一撃は、完全に打ち抜くよりも、
ここで打ち込めた。
ここで止められた。
ここで逃げ道を塞いだ。
ここで勝負は決まった。
という「証明」としての寸止めが似合うようになっています。
特にリュウが黒ドレス春麗に勝った回では、拳を喉元や胸元の寸前で止めるのが合っていました。
あれは、春麗を傷つけないための甘さではありません。
むしろ逆です。
本当に捕まえたから、打ち抜く必要がなかった。
春麗もそれを理解しているから負けを認めた。
逃げ道を塞がれ、次の動きも潰され、最後の拳を止められた。
だから「捕まえられた」と認めざるを得なかった。
この連作では、寸止めは手加減ではなく、かなり高度な勝利表現です。
寸止めの意味
最近の寸止めには、主に三つ意味があります。
一つ目は、二人が互いを壊したくないことです。
これは甘さではなく、次の戦いを残すための敬意です。
二つ目は、決着が肉体破壊ではなく間合い支配になっていることです。
拳が届く。
蹴りが止める。
逃げ道がなくなる。
次の技が出せない。
この時点で、二人には勝敗がわかる。
三つ目は、この二人の関係が“また戦う”ことを前提にしていることです。
だから完全破壊より、寸止めの方が色気があります。
「ここで終わらせられた」
「でも終わらせなかった」
「だから次がある」
この含みが、今のリュウと春麗には合っています。
ダブルノックアウトの場合はどうなるか
ダブルノックアウトの場合は、逆に寸止めでは成立しません。
なぜなら、ダブルノックアウトは、
どちらも止められなかった
どちらも譲らなかった
どちらも最後の一撃を引けなかった
という決着だからです。
これまでの寸止め決着は、どちらか一方が最後の間合いを支配していました。
でもダブルノックアウトは違います。
リュウも春麗も、最後の一撃を止めない。
止めたら負ける。
引いたら負ける。
避ければ、相手の一撃だけが届く。
だから二人とも、最後まで出し切る。
その結果、同時に倒れる。