また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:黒執着春麗は、黒ドレスで発勁勝利した後に事故処理を迫られる

 記録板AIは、銀色の棚の前で表示を切り替えた。

 

 そこは春麗会議室ではない。

 

 本編確定ログでもない。

 

 黒い記録片の棚でも、青い小箱でも、危険封筒でもない。

 

 ディレクターズカットIF領域。

 

 通常本編では扱いにくい可能性を、別枠で検証するための場所だった。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本編確定ログではありません』

 

『妄想章IF後日談の時空でも発生していません』

 

『本記録は、妄想章IF後日談では起きなかった可能性を、ディレクターズカットIFとして検証したものです』

 

 一拍。

 

『本記録の検証主題を説明します』

 

『本編春麗には、黒ドレスでリュウに勝利した直後、発勁により意識を落としたリュウが倒れ込み、事故的に至近距離になるアクシデント記録が存在します』

 

『本記録は、その状況が黒執着春麗に発生した場合のディレクターズカットIFです』

 

 記録板AIは、さらに表示を続ける。

 

『注意事項』

 

『一、本話の黒執着春麗は、黒で勝った経験、青で勝った経験、黒でも青でもない自分を見られた経験を持っています』

 

『二、リュウへの好意、および好意を隠した黒について、すでに一定の自覚があります』

 

『三、ただし、黒執着春麗本人は本記録をディレクターズカットIFとして認識していません』

 

『四、黒執着春麗本人は、春麗会議室、記録板AI、本編春麗への受信、作者検証領域などを認識していません』

 

『五、メタ説明は記録板AIによる冒頭および末尾の分類処理に限定されます』

 

 一拍。

 

『今回の検証項目』

 

『黒ドレスを選んだ黒執着春麗が、発勁でリュウに勝つ』

 

『勝利直後、リュウが意識を落として黒ドレス春麗へ倒れ込む』

 

『黒執着春麗が、それを勝利ログとして保持できるか』

 

『事故的接近による精神HP被弾を、どう処理するか』

 

 最後に、記録板AIは大きく表示した。

 

『本編参照禁止推奨』

 

『妄想章IF後日談への混入禁止』

 

『ただし、ディレクターズカットIFとしての閲覧は許可されます』

 

 銀色の棚が、静かに開いた。

 


 

 黒執着春麗は、黒ドレスを選んだ。

 

 今日は、黒だ。

 

 青ではない。

 

 黒でも青でもない服でもない。

 

 黒ドレス。

 

 勝つための黒。

 

 見せるためだけではない。

 

 リュウがどう見るかを確かめるためだけでもない。

 

 黒を着た自分を確認するためだけでもない。

 

 戦うための黒。

 

 女としての自分を使う。

 

 リュウの視線を奪う。

 

 呼吸をずらす。

 

 その一拍を、格闘家として刈り取る。

 

 それが、黒ドレス春麗の戦い方だった。

 

 棚の中には、黒がある。

 

 隣には、青もある。

 

 勝った黒。

 

 勝った青。

 

 負けた黒。

 

 相打ちの黒。

 

 戻ってきた黒。

 

 選んだ青。

 

 好意を隠した黒。

 

 どれも、もう隠していない。

 

 どれも、もう捨てていない。

 

 だからこそ、今日は黒を選ぶ。

 

 黒しかないからではない。

 

 黒でなければ自分ではないからでもない。

 

 青でも勝てる。

 

 黒でも青でもない自分でも、リュウに残る。

 

 そのうえで、今日は黒だ。

 

 黒ドレスを着て、リュウに勝つ。

 

 春麗は鏡の前に立った。

 

 黒いドレスの裾を整える。

 

 肩の角度。

 

 腰の沈み。

 

 足元。

 

 目線。

 

 唇の色。

 

 髪の留め方。

 

 リュウが最初にどこを見るか。

 

 黒い裾か。

 

 肩か。

 

 目か。

 

 それとも、黒を着た春麗そのものか。

 

 どこを見てもいい。

 

 今日は、その全部を使う。

 

「……今日は、黒」

 

 鏡の中の自分に言う。

 

「勝つための黒」

 

 一拍。

 

「そして、止まらない黒」

 

 黒執着春麗は、自分の危険さを知っている。

 

 黒に酔うことも。

 

 青で勝っても褒め殺されることも。

 

 黒でも青でもない自分を見られて、精神HPを落とされることも。

 

 そして。

 

 リュウに近づかれることが、試合以上に危険になることも。

 

 だからこそ、今日の課題は明確だった。

 

 黒ドレスで勝つ。

 

 発勁で落とす。

 

 そして、勝った後に崩れない。

 

「……訓練ではないわ」

 

 春麗は、小さく言った。

 

「今日は、勝負よ」

 

 黒い裾を整える指先が、少しだけ熱い。

 

 リュウはきっと来る。

 

 見惚れるかもしれない。

 

 止まらないかもしれない。

 

 また何か、余計なことを言うかもしれない。

 

 その全部を、今日は黒で受けて、黒で返す。

 

 春麗は鏡の中の自分を見た。

 

「勝つわ」

 

 一拍。

 

「できればギリギリで…」

 


 

 リュウは修行場にいた。

 

 春麗が黒ドレスで現れると、リュウは静かに顔を上げた。

 

 視線が止まる。

 

 春麗は、それを見た。

 

 黒いドレスを見る。

 

 肩を見る。

 

 裾を見る。

 

 それから、春麗の目を見る。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 だが、止まらない。

 

 今日は止まらない。

 

「リュウ」

 

「春麗」

 

「今日は黒よ」

 

「ああ」

 

「見たわね」

 

「ああ」

 

「なら、止まらないことね」

 

 リュウは構えた。

 

「止まらない」

 

 春麗は笑った。

 

「そう」

 

 黒い裾が、夜気に揺れる。

 

「なら、私も止まらない」

 

 踏み込みは、同時だった。

 


 

 序盤は、春麗が支配した。

 

 黒の揺れ。

 

 裾の遅れ。

 

 肩のわずかな抜き。

 

 リュウの視線が、一瞬だけ取られる。

 

 その一瞬に、春麗は掌底を重ねる。

 

 リュウは受ける。

 

 受けるが、半拍遅い。

 

 春麗は蹴りで軸を崩す。

 

 リュウの膝が揺れた。

 

「まず一つ」

 

 春麗は低く言った。

 

「見た分、遅れたわ」

 

 リュウは息を整える。

 

「ああ」

 

「でも倒れない」

 

「ああ」

 

「なら、次」

 

 春麗はさらに黒を強めた。

 

 だが、強めすぎない。

 

 黒は魔法ではない。

 

 裾が勝手にリュウを惑わせるわけではない。

 

 黒い布が自動的に拳を止めるわけでもない。

 

 立ち方。

 

 呼吸。

 

 腰。

 

 足。

 

 視線。

 

 言葉。

 

 女として見られる自分。

 

 それらを戦術として組み込むから、黒になる。

 

 黒は武器。

 

 確認道具ではない。

 

 春麗は、それを忘れない。

 

 リュウが踏み込む。

 

 拳。

 

 春麗は外す。

 

 掌底。

 

 リュウが受ける。

 

 蹴り。

 

 リュウが下がる。

 

 春麗は追う。

 

 黒が走る。

 

 リュウは見ている。

 

 見惚れている。

 

 それでも止まらない。

 

 そのことが、春麗の胸に少しだけ刺さる。

 

 嬉しい。

 

 悔しい。

 

 腹立たしい。

 

 だが、今日は止まらない。

 

「リュウ」

 

「何だ」

 

「今、私を何として見ているの?」

 

 攻撃の中で問う。

 

 かつてなら、この問いで自分の方が揺れた。

 

 だが今日は違う。

 

 リュウが答えても、止まらないための問い。

 

 リュウは受けながら言った。

 

「黒い春麗」

 

 春麗は踏み込む。

 

「それだけ?」

 

「違う」

 

 リュウの拳が返る。

 

 春麗は肩で受け流す。

 

「戦う春麗」

 

 春麗の呼吸が少しだけ熱くなる。

 

「それだけ?」

 

 リュウは真っ直ぐ見る。

 

「俺を止めようとする春麗」

 

 春麗は笑った。

 

「正解よ」

 

 掌底がリュウの胸へ入る。

 

 リュウが大きく下がる。

 

 だが、倒れない。

 

「でも今日は」

 

 春麗は黒い裾を払う。

 

「止めるだけでは済ませないわ」

 


 

 中盤から、リュウが押し返した。

 

 見惚れても止まらない。

 

 その性能が、以前よりさらに厄介になっていた。

 

 春麗が黒で視線を奪う。

 

 リュウは見る。

 

 だが、そこで止まらず、手首へ視線を戻す。

 

 春麗の発勁の起点。

 

 掌の前の呼吸。

 

 重心の沈み。

 

 そこへ拳を合わせてくる。

 

 春麗の肩に、浅く拳が入った。

 

「……っ」

 

 痛い。

 

 リュウの拳は重い。

 

 黒で半拍遅らせても、完全には止まらない。

 

 春麗は一歩下がる。

 

 リュウは追う。

 

 白い胴着が迫る。

 

 黒いドレスの裾が翻る。

 

 春麗は蹴りを出す。

 

 リュウが受ける。

 

 受けた腕が落ちる。

 

 その瞬間、リュウの拳が春麗の脇を押す。

 

 軸がずれる。

 

 春麗は片足で踏みとどまった。

 

「やるわね」

 

 リュウは息を吐く。

 

「黒でも、重心はある」

 

 春麗は胸を鳴らした。

 

「……そういうことを言うのね」

 

「違ったか」

 

「違わないわ」

 

 春麗は構え直す。

 

「違わないから、厄介なのよ」

 

 戦況は互角に近づいていた。

 

 春麗は黒で押す。

 

 リュウは見て、止まらず、拳で返す。

 

 春麗の掌底がリュウの胸を削る。

 

 リュウの拳が春麗の肩と脇を削る。

 

 互いに呼吸が荒くなる。

 

 黒の春麗は強い。

 

 だが、リュウも止まらない。

 

「リュウ」

 

「何だ」

 

「あなた、本当に見惚れているの?」

 

 リュウは少しだけ間を置いた。

 

 そして言った。

 

「見惚れている」

 

 春麗の動きが一瞬乱れかける。

 

 だが、止まらない。

 

 掌底を出す。

 

 リュウが受ける。

 

 春麗は近い距離で言った。

 

「そのうえで止まらないのね」

 

「ああ」

 

「本当に」

 

 春麗は低く笑う。

 

「腹が立つわ」

 

 リュウは踏み込む。

 

 春麗も踏み込む。

 

 黒と白が交差した。

 


 

 終盤。

 

 二人の体力は、もうほとんど残っていなかった。

 

 春麗は肩で息をしていた。

 

 黒いドレスの裾は乱れている。

 

 リュウも立っているのがやっとだった。

 

 しかし、目は落ちていない。

 

 春麗を見る。

 

 黒い春麗を見る。

 

 止まらずに見る。

 

 春麗は、その視線を受けてなお、掌を開いた。

 

 発勁。

 

 今日の決め手はこれだ。

 

 派手な蹴りではない。

 

 黒の視線誘導だけでもない。

 

 リュウの重心が前に残った一瞬。

 

 そこへ、掌から力を通す。

 

 ただし、距離が近すぎる。

 

 失敗すれば、リュウの拳が春麗へ届く。

 

 相打ちになる。

 

 あるいは、春麗が先に落ちる。

 

 それでも、行く。

 

「リュウ」

 

「何だ」

 

「最後に一つだけ聞くわ」

 

「ああ」

 

「黒の私は、春麗?」

 

 リュウは答えた。

 

「ああ」

 

「青の私は?」

 

「春麗だ」

 

「面倒な私は?」

 

「春麗だ」

 

 春麗は笑った。

 

「なら」

 

 黒いドレスの裾が、最後に揺れる。

 

「その春麗に、負けなさい」

 

 リュウが踏み込む。

 

 春麗も踏み込む。

 

 リュウの拳が春麗の肩へ届く。

 

 重い。

 

 意識が揺れる。

 

 だが、春麗の掌は止まらない。

 

 リュウの胸。

 

 中心。

 

 呼吸の奥。

 

 そこへ発勁を通す。

 

「はっ!」

 

 短い気合。

 

 掌から力が抜けるのではなく、入る。

 

 外側を叩くのではない。

 

 内側へ響かせる。

 

 リュウの身体が、一瞬止まった。

 

 目がわずかに開く。

 

 呼吸が抜ける。

 

 それでも、リュウの拳は春麗の肩を押した。

 

 春麗の足も、残らない。

 

 二人の重心が崩れた。

 

 リュウの意識が落ちる。

 

 春麗は、勝ったと理解した。

 

 発勁が入った。

 

 リュウは一時的に落ちた。

 

 勝者は春麗。

 

 黒ドレス春麗の勝ち。

 

 だが、次の瞬間。

 

 リュウの身体が、前へ倒れ込んだ。

 

 春麗は避けられなかった。

 

 発勁を通した直後。

 

 肩に拳を受け、軸が崩れている。

 

 リュウの体重がそのまま来る。

 

「ちょ、リュウ――」

 

 黒いドレスの胸元へ、リュウの頭と肩が倒れ込む。

 

 春麗は支えようとする。

 

 だが、踏ん張りきれない。

 

 そのまま、後ろへ倒れた。

 

 背中が床に触れる。

 

 黒いドレスの裾が広がる。

 

 リュウが、春麗の上に倒れている。

 

 完全に意識を失っている。

 

 春麗の胸元に顔を伏せる形で。

 

「…………」

 

 春麗は、動けなかった。

 

 勝った。

 

 勝ったはずだ。

 

 発勁でリュウを落とした。

 

 ギリギリの勝利。

 

 だが、なぜこうなる。

 

 なぜ、勝った直後に、自分が押し倒されたような形になっているのか。

 

 しかもリュウは気絶している。

 

 故意ではない。

 

 わかっている。

 

 完全に事故だ。

 

 発勁が入った。

 

 リュウが落ちた。

 

 倒れ込んだ。

 

 春麗の軸も崩れていた。

 

 結果として、こうなった。

 

 理屈はわかる。

 

 だが、理屈で処理できる姿勢ではなかった。

 

「……リュウ」

 

 返事はない。

 

 リュウは一時的に意識を落としている。

 

 春麗の胸元に倒れたまま、呼吸だけはある。

 

 浅いが、安定している。

 

 春麗は顔が熱くなるのを感じた。

 

「……起きなさい」

 

 起きない。

 

「リュウ」

 

 起きない。

 

「起きなさいって言っているでしょう」

 

 やはり起きない。

 

 春麗は片手で顔を覆いかけた。

 

 だが、リュウを支えないといけない。

 

 落としたのは自分だ。

 

 勝ったのも自分だ。

 

 責任は自分にある。

 

 だから、支える。

 

 支えるのだ。

 

 これは介抱。

 

 事故処理。

 

 戦闘後の安全確認。

 

 甘い状況ではない。

 

 断じて違う。

 

「……訓練後の救護よ」

 

 誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。

 

 リュウの髪が、春麗の胸元に触れている。

 

 呼吸が布越しに伝わる。

 

 重い。

 

 リュウの身体は、想像以上に重い。

 

 それが妙に現実的で、春麗の動揺を増やした。

 

「本当に……」

 

 春麗は小さく呟く。

 

「勝ったのに、どうして私が一番困っているのよ」

 

 リュウは答えない。

 

 当たり前だ。

 

 気絶している。

 

 春麗は、リュウの肩に手を置いた。

 

 押し返そうとして、止まる。

 

 乱暴にはできない。

 

 発勁を入れた直後だ。

 

 無理に動かすのは危ない。

 

 だから、少しだけそのままにするしかない。

 

「……少しだけよ」

 

 声が小さい。

 

「安全確認のため」

 

 そう言って、春麗はリュウの呼吸を確認した。

 

 大丈夫。

 

 意識は落ちているが、深刻ではない。

 

 数十秒で戻るだろう。

 

 たぶん。

 

 なら、その数十秒を耐えればいい。

 

 春麗は天井を見た。

 

 黒いドレスの裾が床に広がっている。

 

 リュウの重さが胸元にある。

 

 自分の心臓がうるさい。

 

「……最悪」

 

 声は小さい。

 

「本当に、最悪」

 

 けれど、リュウが無事だとわかっているせいで、完全には怒れない。

 

 むしろ、勝ったことの実感が遅れてやってくる。

 

 勝った。

 

 ギリギリだった。

 

 最後の発勁が入った。

 

 リュウは止まらなかった。

 

 見惚れても、黒を見ても、面倒な春麗だと言っても、最後まで来た。

 

 そのリュウを、自分は落とした。

 

 黒で。

 

 発勁で。

 

 格闘家として。

 

 春麗は、リュウの肩に置いた手に少しだけ力を込めた。

 

「……勝ったわよ」

 

 小さく言う。

 

「聞こえていないでしょうけど」

 

 リュウは動かない。

 

 春麗は目を伏せた。

 

「黒の私で」

 

 一拍。

 

「女として見せて」

 

 一拍。

 

「格闘家として、落とした」

 

 声が少しだけ柔らかくなる。

 

「だから、今日は私の勝ち」

 

 その時、リュウがわずかに動いた。

 

 春麗は固まる。

 

 リュウの呼吸が深くなる。

 

 意識が戻る。

 

 まずい。

 

 この姿勢で起きられるのは、まずい。

 

 非常にまずい。

 

「リュウ」

 

 春麗は低く言った。

 

「起きるなら、慎重に起きなさい」

 

 リュウの目が、わずかに開いた。

 

 焦点が合っていない。

 

「……春麗」

 

「ええ」

 

「俺は」

 

「負けたわ」

 

 リュウは少しだけ沈黙した。

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

「発勁か」

 

「ええ」

 

「効いた」

 

「当然でしょう」

 

 春麗はできるだけ平静に答えた。

 

 できるだけ。

 

 リュウはそこで、ようやく自分の状態に気づいたらしい。

 

 春麗の上に倒れている。

 

 胸元に顔を預けるような形になっている。

 

 リュウの身体が固まった。

 

 春麗も固まった。

 

 沈黙。

 

 長い。

 

 長すぎる。

 

 先に口を開いたのは春麗だった。

 

「事故よ」

 

 リュウは言った。

 

「ああ」

 

「あなたが気絶して倒れ込んだ」

 

「ああ」

 

「私は支えようとした」

 

「ああ」

 

「でも私も軸が崩れていた」

 

「ああ」

 

「だからこうなった」

 

「ああ」

 

「理解した?」

 

「ああ」

 

「なら、まず謝る前に、ゆっくり起きなさい」

 

 リュウは慎重に身を起こした。

 

 春麗は、ようやく呼吸を取り戻す。

 

 リュウは膝をつき、頭を下げた。

 

「すまない」

 

 春麗は起き上がりながら言った。

 

「謝らない」

 

 リュウは少しだけ困った顔をする。

 

「だが」

 

「事故だと言ったでしょう」

 

「ああ」

 

「それに」

 

 春麗は黒いドレスの裾を整えた。

 

 顔はまだ少し熱い。

 

「勝ったのは私よ」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「ああ」

 

「あなたは負けた」

 

「ああ」

 

「発勁で落ちた」

 

「ああ」

 

「そのあと倒れ込んだだけ」

 

「ああ」

 

「だから、これは私の勝利の結果」

 

 リュウは少し考えた。

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 リュウは静かに言った。

 

「強かった」

 

 春麗は息を止めかけた。

 

 今それを言うのか。

 

 この状況で。

 

 倒れ込まれた事故の直後に。

 

 黒いドレスを整えている春麗に。

 

 リュウは続けた。

 

「黒も、発勁も」

 

 春麗は目を細める。

 

「……それだけ?」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「春麗も」

 

 春麗の胸が、また一拍遅れた。

 

 本当に。

 

 この男は。

 

「……八十点」

 

「何がだ」

 

「何でもないわ」

 

 春麗は立ち上がる。

 

 まだ少し足元が揺れる。

 

 リュウも立とうとする。

 

 春麗は手を出した。

 

「無理に立たないで」

 

「だが」

 

「勝者命令よ」

 

 リュウは止まった。

 

 春麗は少しだけ満足する。

 

「今日はここまで」

 

「ああ」

 

「あなたは負けた」

 

「ああ」

 

「私は勝った」

 

「ああ」

 

「ただし」

 

 春麗はリュウを見下ろす。

 

「次に気絶して倒れ込む時は、場所を考えなさい」

 

 リュウは少し困ったようにした。

 

「考えられるかはわからない」

 

 春麗は一瞬黙った。

 

 それから、思わず笑ってしまった。

 

「でしょうね」

 

 リュウも、少しだけ目を伏せる。

 

 春麗は背を向けた。

 

 黒いドレスの裾が揺れる。

 

 勝った。

 

 ギリギリで。

 

 発勁で。

 

 黒ドレスで。

 

 そして、勝ったあとで一番動揺した。

 


 

 部屋に戻ると、春麗はそのまま椅子に座った。

 

 棚には黒がある。

 

 青もある。

 

 今日は、黒ドレスで帰ってきた。

 

 勝った。

 

 勝ったのに、疲れている。

 

 身体も。

 

 精神HPも。

 

 特に精神HPが。

 

 春麗は、両手で顔を覆った。

 

「……発勁は決まった」

 

 一拍。

 

「勝った」

 

 もう一拍。

 

「リュウは落ちた」

 

 そこまではいい。

 

 そこまでは完全に勝利だ。

 

 問題は、その後。

 

 倒れ込んできたリュウ。

 

 支えきれなかった自分。

 

 倒れ込まれた姿勢。

 

 黒ドレスの胸元に倒れたリュウ。

 

 気絶していたリュウ。

 

 起きた時の沈黙。

 

 事故よ、と説明する自分。

 

 強かった、と言うリュウ。

 

 春麗も、と付け足すリュウ。

 

 春麗は、机に額をつけた。

 

「……勝ったのに」

 

 一拍。

 

「勝った後の記憶の方が強いのは、どういうことなの」

 

 記録しない方がいい。

 

 そう思った。

 

 しかし、記録しないと余計に残る。

 

 だから紙を出した。

 

 春麗は、しばらくペンを止めてから、書いた。

 

 黒ドレス。

 

 発勁。

 

 勝利。

 

 リュウ、一時意識喪失。

 

 倒れ込み事故。

 

 事故。

 

 完全な事故。

 

 春麗は、事故の文字を二重線で囲った。

 

「重要」

 

 一拍。

 

「非常に重要」

 

 さらに書く。

 

 精神HP被弾、大。

 

 春麗はペンを置いた。

 

「……認めたくない」

 

 だが、認めるしかなかった。

 

 勝った。

 

 黒で勝った。

 

 発勁で勝った。

 

 でも、勝った後に被弾した。

 

 しかも、リュウの言葉だけではない。

 

 距離で。

 

 重さで。

 

 事故で。

 

 勝利後の姿勢で。

 

 春麗は、顔を上げた。

 

 棚を見る。

 

 黒。

 

 青。

 

 そして、今日の黒ドレス。

 

 どれも違う。

 

 どれも危険。

 

 でも、今日の危険はまた別種だった。

 

「……次から」

 

 一拍。

 

「発勁で落とす時は、倒れる方向まで計算に入れる」

 

 言ってから、自分で顔をしかめる。

 

 何を訓練項目にしているのか。

 

 だが、必要かもしれない。

 

 リュウは倒れる。

 

 倒れる時もまっすぐ来る。

 

 なら、こちらが計算するしかない。

 

 春麗は、深く息を吐いた。

 

「本当に、面倒な男ね」

 

 少し間を置いて、さらに小さく付け足す。

 

「……私もだけれど」

 


 

 夜。

 

 春麗は、なかなか眠れなかった。

 

 黒ドレスの感触を思い出す。

 

 発勁が入った瞬間の手応えを思い出す。

 

 勝った、と理解した瞬間を思い出す。

 

 その直後、リュウが倒れてきたことを思い出す。

 

 そして、起きたリュウの言葉。

 

 強かった。

 

 黒も、発勁も。

 

 春麗も。

 

 春麗は布団の中で顔を覆った。

 

「……最後の一言が余計なのよ」

 

 余計。

 

 しかし、聞きたかった気もする。

 

 危険。

 

 かなり危険。

 

 春麗は、目を閉じる。

 

 今日のことは、誰にも言わない。

 

 言えるはずがない。

 

 黒で勝った。

 

 発勁で落とした。

 

 リュウが倒れてきた。

 

 支えきれなかった。

 

 事故だった。

 

 完全な事故だった。

 

 そう説明するだけなら、できる。

 

 けれど、その時の距離も。

 

 重さも。

 

 黒ドレスの胸元に倒れたリュウも。

 

 起きた時の沈黙も。

 

 その後の「春麗も」も。

 

 全部説明することになる。

 

 無理。

 

 絶対に無理。

 

「……これは」

 

 一拍。

 

「私の中で処理する」

 

 できるかどうかは、かなり怪しい。

 

 春麗は、布団を少しだけ引き上げる。

 

「次は」

 

 一拍。

 

「倒れる前に、横へずらす」

 

 少し考える。

 

「……支えないとは言っていない」

 

 言ってから、自分で自爆した。

 

 完全に自爆だった。

 

 春麗は、布団の中で顔を赤くしたまま固まる。

 

 支えないとは言っていない。

 

 何を言っているのか。

 

 誰に向けて言っているのか。

 

 何の予防線なのか。

 

 何の言い訳なのか。

 

 春麗は、目を閉じた。

 

 今日の結論。

 

 黒ドレスは選んだ。

 

 発勁は決まった。

 

 勝った。

 

 リュウは落ちた。

 

 事故で倒れ込まれた。

 

 精神HPは大幅に削れた。

 

 しかし。

 

 次も勝つ。

 

 倒れる方向は、計算する。

 

 たぶん。

 

 そして、もしまた倒れてくるなら。

 

 春麗は、小さく呟いた。

 

「……今度は、ちゃんと受け止めてから文句を言うわ」

 

 言ってから、また自爆した。

 

 春麗は、布団の中で両手で顔を覆った。

 

 黒ドレス。

 

 発勁勝利。

 

 リュウ倒れ込み事故。

 

 戦闘結果、春麗勝利。

 

 精神HP結果、要審議。

 

 次回訓練項目。

 

 倒れる方向管理。

 

 ただし、受け止める可能性あり。

 

 春麗は、完全に眠れなくなった。

 


 

 銀色の棚が、静かに閉じる。

 

 記録板AIは、最後に一文を表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIF領域に保存されました』

 

『本編確定ログには反映されません』

 

『妄想章IF後日談の時空でも発生していません』

 

『黒ドレス発勁勝利後の倒れ込み事故、および黒執着春麗の精神HP被弾は、作者検証用危険ログとして参照可能です』

 

 一拍。

 

『黒執着春麗本人は、本記録をディレクターズカットIFとして認識していません』

 

『メタ認識は発生していません』

 

 さらに一拍。

 

『本編春麗への受信は禁止推奨』

 

『ただし、完全遮断は保証できません』

 

 どこか遠くで、本編春麗が頭を抱えた気がした。

 

 記録板AIは、淡々と締めた。

 

『以上、ディレクターズカットIF第1回でした』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、第1回ディレクターズカットIFでした。

最初に記録板AIから説明があった通り、この話は本編確定ログではありません。
また、妄想章IF後日談の時空で実際に発生した出来事でもありません。

本編春麗側にあった「黒ドレスでリュウに勝利した直後、発勁で意識を落としたリュウが倒れ込んでくる」というアクシデントを、もし黒執着春麗で検証したらどうなるか、というディレクターズカットIFになります。

今回のポイントは、黒執着春麗本人が「これはディレクターズカットIFだ」と認識しているわけではない、という点です。

メタ的に分類しているのは記録板AI側です。
黒執着春麗本人にとっては、普通に黒ドレスを選び、リュウと戦い、発勁で勝ち、その直後に事故が起きたという流れです。

なので、本人の中では本筋やIFという意識ではなく、あくまで「今日の黒ドレス戦」として処理されています。

ただ、読者向けには重要なので、冒頭で記録板AIに説明してもらいました。

この話を本編にそのまま置くと、黒執着春麗のリュウへの向かい方や距離感がかなり進みすぎます。
今の本編では、黒執着春麗はリュウへの好意や、好意を隠した黒についてかなり進展しています。

黒で勝てる。
青でも勝てる。
黒でも青でもない自分も見られている。
好意を隠した黒も自分だと認めている。

その段階で、この発勁事故を本筋に入れると、黒執着春麗の距離が一気に危険域へ進んでしまいます。

だからこそのディレクターズカットIFです。

今回の黒執着春麗は、明確に黒ドレスを選んで戦っています。

ここは大事です。

黒でも青でもない服での検証ではなく、黒ドレス春麗としての検証です。

黒ドレスで、女として見られる自分を戦術に組み込む。
リュウの視線を奪う。
呼吸をずらす。
その一拍を、格闘家として刈り取る。

それが今回の黒です。

ただし、黒は魔法ではありません。

黒いドレスを着たから自動的にリュウが止まるわけではない。
裾が揺れたら勝手に半拍が生まれるわけでもない。

春麗が、自分の立ち方、腰、足、呼吸、視線、言葉、女として見られることを全部含めて戦術にしているから黒が成立しています。

そして今回のリュウは、それを見惚れながらも止まらないリュウです。

ここがかなり厄介です。

見ている。
黒を見ている。
黒い春麗を見ている。
それでも止まらない。

リュウは黒に見惚れても、手首へ視線を戻し、発勁の起点を見て、重心の沈みへ拳を合わせてきます。

つまり今回のリュウは、ただ黒に翻弄されているだけではありません。
かなり対応しています。

それでも最後に春麗が勝ったのは、黒ドレスの視線誘導だけではなく、発勁の距離まで踏み込んだからです。

黒で見せる。
女として見せる。
格闘家として入る。
最後は発勁で落とす。

今回の勝利は、黒ドレス春麗としての勝利であり、格闘家としての勝利でもあります。

ただし、問題は勝った後です。

発勁は入った。
リュウは落ちた。
春麗は勝った。

しかし、リュウの最後の拳で春麗の軸も崩れていたため、意識を失ったリュウがそのまま春麗へ倒れ込む形になりました。

ここは完全に事故です。

リュウが意図して押し倒したわけではありません。
春麗が受け入れたわけでもありません。
発勁でリュウが落ち、春麗も踏ん張りきれず、結果としてそうなっただけです。

ただし、黒執着春麗の精神HPにとって、事故かどうかはあまり関係ありません。

近いものは近い。
重いものは重い。
黒ドレスの胸元にリュウが倒れ込んでいる状況は、理屈では事故でも、精神HPには大ダメージです。

しかもリュウは起きた後に、

強かった。
黒も、発勁も。
春麗も。

と言ってきます。

勝った。
発勁で落とした。
でも、勝った後が一番危険だった。

今回はそういう回でした。

戦闘結果は春麗の勝利。
精神HP結果は要審議。

これが第1回ディレクターズカットIFの内容です。

HP表記ありのRPG形式バトル解説

今回のバトルをHP制で見ると、だいたい以下のようなイメージです。

試合開始時

黒執着春麗 HP100
リュウ   HP100

精神HP

黒執着春麗 精神HP100
リュウ   精神HP100

今回は黒執着春麗が黒ドレスを選んでいます。

目的は、黒ドレスで勝つこと。
そして発勁でリュウを落とすことです。

序盤

黒執着春麗 HP88
リュウ   HP76

序盤は春麗が優勢です。

黒ドレスの揺れ、裾の遅れ、肩の抜き、視線誘導でリュウの反応を半拍遅らせています。

ただし、黒が魔法のように作用しているわけではありません。

春麗が黒ドレスを戦闘服として使っているからです。

女として見られること。
黒い裾を見られること。
肩や目元を見られること。

それらをリュウの判断に混ぜて、その一瞬を格闘家として刈り取っています。

リュウは序盤、かなり見ています。
黒を見ている。
春麗を見ている。
そして少し遅れています。

ただし完全には止まっていません。

中盤

黒執着春麗 HP54
リュウ   HP49

中盤から、リュウが押し返します。

ここでのリュウはかなり強いです。

見惚れてはいる。
黒い春麗を見ている。
しかし、止まらない。

リュウは黒に視線を奪われても、すぐに春麗の手首、呼吸、重心へ視線を戻しています。

特に発勁の起点を見ているのが重要です。

春麗の発勁は、掌を当てれば勝てる技ではありません。
距離、呼吸、重心、相手の軸が噛み合って初めて深く入ります。

リュウはそこを分かっているため、春麗の発勁の距離に入らせないように拳を合わせてきます。

この時点で、戦況はほぼ互角です。

終盤突入時

黒執着春麗 HP19
リュウ   HP17

かなりギリギリです。

どちらが勝ってもおかしくありません。

春麗は黒ドレスでリュウの視線を奪い、半拍を作っています。
しかしリュウも、見惚れながら止まらないというかなり厄介な状態です。

黒の視線誘導だけでは勝てない。
青の速度だけでも勝てない。
だから春麗は、最後に発勁を選びます。

最終局面

黒執着春麗 HP5
リュウ   HP0

春麗の発勁が入りました。

リュウの拳は春麗の肩へ届いています。
春麗のHPもかなり削れています。
春麗の残HPは5程度です。

もう一撃受ければ負け。
軸が少しずれれば相打ち。
発勁が浅ければリュウが残る。

そのくらいのギリギリです。

しかし、春麗は踏み込みました。

黒ドレスで視線を誘導し、リュウの重心が前へ残った一瞬に、発勁を胸の中心へ通しました。

この瞬間、リュウのHPは0になります。

戦闘結果

黒執着春麗 HP5
リュウ   HP0

黒執着春麗のギリギリ勝利です。

ただし、ここで終わりません。

事故発生後の精神HP

発勁直後

黒執着春麗 精神HP72

リュウが倒れ込んだ瞬間

黒執着春麗 精神HP31

黒ドレスの胸元にリュウが倒れ込んだ状態

黒執着春麗 精神HP18

リュウが起きて状況に気づいた瞬間

黒執着春麗 精神HP12

リュウの「強かった。黒も、発勁も。春麗も」

黒執着春麗 精神HP3

ここでほぼ精神HP瀕死です。

戦闘には勝っています。
完全に勝っています。
発勁で落としています。

ただし、勝利後の事故で精神HPを大きく削られています。

リュウの状態について

今回のリュウは、春麗に押し倒そうとしたわけではありません。

完全に事故です。

発勁が深く入り、リュウは一時的に意識を落としています。
ただし、最後の拳は春麗の肩へ届いていて、春麗の軸も崩れています。

そのため、リュウが前に倒れた時、春麗は支えきれませんでした。

つまり、

春麗は勝った。
リュウは落ちた。
でも春麗も軸が崩れていた。
結果、リュウが春麗の上へ倒れ込んだ。

こういう流れです。

リュウ側に他意はありません。
だから春麗も怒り切れません。

ただし、精神HPへのダメージは別です。

勝った直後。
黒ドレス。
発勁で落とした相手。
その相手が胸元に倒れ込む。
しかも起きた後に「春麗も」と言う。

これは黒執着春麗にはかなり危険です。

総合評価

戦闘勝者

黒執着春麗

精神HP勝者

判定不能

戦闘面では、春麗の完全勝利です。

黒ドレスで勝った。
発勁で落とした。
格闘家としてリュウを沈めた。

ただし精神HP面では、勝った後に大被弾しています。

なので今回の総合評価は、

黒執着春麗、戦闘勝利。
ただし精神HP結果、要審議。

です。

第1回ディレクターズカットIFらしく、本編では扱いにくい危険な距離の話になりました。

次回以降、このディレクターズカットIF領域がどう使われるかは未定ですが、少なくとも今回のログはかなり危険です。

記録板AIが本編参照禁止推奨にしたのも、だいたい正しい判断だと思います。
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