また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、銀色の棚の前で表示を切り替えた。
春麗会議室ではない。
通常ログでもない。
青い小箱の中身でもない。
危険封筒の正式開封でもない。
それは、ディレクターズカットIF領域から漏れた、微弱な受信事故だった。
『本記録は、ディレクターズカットIF派生受信ログです』
『本編確定ログではありません』
『妄想章IF後日談の時空でも発生していません』
『第1回ディレクターズカットIFとして保存された、黒執着春麗の黒ドレス発勁勝利後アクシデント検証ログが、本編春麗側へ断片的に漏洩した場合の検証です』
一拍。
『重要補足』
『本編春麗には、すでに黒ドレス発勁勝利後アクシデントの実体験ログが存在します』
『本編春麗は、黒ドレスを選び、リュウに勝ち、発勁で意識を落としたリュウが倒れ込んでくる事故を経験済みです』
『また、自覚前春麗にも、本編春麗の事故ログを春麗会議経由で認識したうえで発生した類似アクシデント記録が存在します』
『そのため、本記録は未知の危険を初めて受信する話ではありません』
『本記録は、既に二例存在する黒ドレス発勁事故系列に、黒執着春麗版ディレクターズカットIFが加わった場合、本編春麗がどう反応するかの検証です』
記録板AIは、淡々と続ける。
『時系列は固定しません』
『本編春麗が、正式回答ライン、進まれた青、相打ちの青、青い小箱、その他未承認仮分類のどの段階にいるかは、本記録では明示しません』
『ただし、本編春麗は自分をめんどくさい女と自覚しており、リュウに見られること、覚えられること、進まれることの危険性を十分に理解しているものとします』
『また、黒ドレス発勁勝利後アクシデント系列について、完全には処理できていないものとします』
一拍。
『受信事故ログ、開始します』
その日。
本編春麗は、青い武道服を畳もうとしていた。
朝だったかもしれない。
昼だったかもしれない。
夜明け前だったかもしれない。
試合の翌日だったかもしれないし、何もない日に、ただ乾いた青を棚に戻そうとしていただけかもしれない。
時系列は、少し曖昧だった。
ただ、春麗の手元には青があった。
青い武道服。
相打ちの青。
進まれた青。
待つ青。
動く青。
宿題の返事を急かさないための青。
未承認仮分類が増えすぎて、もう畳むだけでも少し緊張する青。
春麗は、乾いた袖に指を添えた。
「……今日は、落ち着いて畳むだけ」
そう言い聞かせる。
青は危険だ。
黒も危険だ。
そして、危険だからといって畳まないわけにはいかない。
畳む。
整える。
棚に置く。
それだけ。
それだけのはずだった。
その瞬間。
頭の奥に、銀色のものが落ちてきた。
「……え?」
青い袖を持ったまま、春麗は固まった。
見えた。
自分ではない春麗。
黒執着春麗。
黒ドレスを選んでいる春麗。
青ではない。
黒でも青でもない服でもない。
明確に黒。
黒いドレス。
勝つための黒。
見せるためだけではない黒。
リュウがどう見るかを確かめるためだけでもない黒。
女としての自分を使い、リュウの視線を奪い、呼吸をずらし、その一拍を格闘家として刈り取る黒。
本編春麗は、青い袖を握りそうになった。
握らない。
握ったら、何かが負ける。
「……また、それなの」
声が小さく漏れた。
初めて見たものではなかった。
知らない危険ではなかった。
春麗は知っている。
黒いドレスを選ぶ時の指先の熱を。
リュウが黒を見る瞬間を。
黒い裾を見る視線を。
肩を見て、裾を見て、それから春麗の目を見る順番を。
見られても止まらないと決める緊張を。
発勁の距離へ入る直前の怖さを。
そして。
勝った直後に、リュウが倒れ込んでくる重さを。
全部、知っている。
自分がやった。
自分が黒で勝った。
自分が発勁でリュウを落とした。
自分が倒れ込まれた。
自分が事故だと説明した。
自分が、勝ったのに一番動けなくなった。
そして、それは自分だけでは終わらなかった。
自覚前春麗も、似た場所へ行った。
会議の記憶を言い訳にして。
確認だと言い張って。
発勁後の間合い管理。
勝利後の事故防止。
黒ドレス時の近距離制御。
そんなもっともらしい言葉を並べて。
結局、似たような事故を起こした。
本編春麗は、青を膝の上に置いた。
「……知っているわよ」
一拍。
「私だけじゃないことくらい」
もう一拍。
「だからこそ、増やさないで」
だが、電波は止まらなかった。
黒執着春麗が、鏡の前に立っている。
黒ドレスの裾を整えている。
肩の角度。
腰の沈み。
足元。
目線。
唇の色。
髪の留め方。
リュウが最初にどこを見るか。
黒い裾か。
肩か。
目か。
それとも、黒を着た春麗そのものか。
本編春麗は、額に手を当てた。
分かる。
分かってしまう。
黒ドレスで戦う時、そこまで見る。
そこまで考える。
そこまで戦術にする。
女として見られることを、拒否しない。
拒否しないだけではなく、勝つために使う。
その危うさを、自分はもう知っている。
自覚前春麗も、否認しながらそこへ近づいた。
そして今度は、黒執着春麗。
黒で勝った春麗。
青でも勝った春麗。
黒でも青でもない自分までリュウに見られた春麗。
好意を隠した黒も自分だと認めた春麗。
勝った黒を、棚に戻せる春麗。
その春麗まで、同じ系列へ入ろうとしている。
「……あなたまで?」
本編春麗は、低く呟いた。
「あなたまで、その事故ログを増やすの?」
それが一番危険だった。
自覚前春麗なら、まだ分かる。
あの子は否認していた。
自分は面倒ではないと言い張っていた。
確認だ、訓練だ、事故防止だと並べて、むしろ事故に近づいていった。
それは分かる。
分かりたくはないが、分かる。
けれど、黒執着春麗は違う。
もっと進んでいる。
もっと自分の黒を知っている。
黒の危険も、黒の甘さも、黒の勝利も知っている。
それでも同じ系列へ入るのなら。
これはもう、未熟だから起きる事故ではない。
否認しているから起きる事故でもない。
黒ドレスでリュウに発勁勝利する時点で、発生しやすい危険構造なのではないか。
本編春麗は、頭を振った。
「……嫌な構造にしないで」
青い袖が、膝の上で少し揺れた。
電波の中で、黒執着春麗はリュウの前に立っている。
黒ドレスで。
明確に黒で。
リュウが顔を上げる。
視線が止まる。
黒いドレスを見る。
肩を見る。
裾を見る。
それから、春麗の目を見る。
本編春麗は、息を止めた。
同じ。
完全に同じではない。
自分ではない。
自覚前春麗でもない。
黒執着春麗だ。
立ち方も、目線も、黒の置き方も、自分とは違う。
自覚前春麗のような否認も薄い。
もっと自覚的だ。
もっと危険だ。
それでも、構造が同じだった。
リュウが見る。
春麗がそれを受ける。
見られても止まらないと決める。
見られたことを、勝つための半拍へ変える。
そこが、同じ。
電波の中で、黒執着春麗が言う。
今日は黒よ。
見たわね。
なら、止まらないことね。
リュウは答える。
止まらない。
本編春麗は、目を閉じた。
「……言ったわね」
自分も、似たことを言った。
自覚前春麗も、似たように確認した。
見たわね。
止まらないことね。
倒れる方向には気をつけなさい。
落ちた後に気をつけられるかは分からない。
思い出しただけで、頭が痛い。
リュウは、いつもそうだ。
見ているのに止まらない。
黒を見ているのに止まらない。
女としての春麗を見ているのに止まらない。
格闘家としての春麗を見ているのに止まらない。
だから危険なのだ。
見られることだけでも危険なのに、見たうえで来るから、さらに危険になる。
試合が始まる。
黒執着春麗は、黒で入る。
黒の揺れ。
裾の遅れ。
肩の抜き。
リュウの視線を一瞬だけ取る。
その一瞬を、格闘家として刈り取る。
掌底。
蹴り。
軸崩し。
黒は魔法ではない。
それは本編春麗にも分かる。
黒いドレスそのものが相手を止めているのではない。
黒執着春麗が、自分の見られ方を計算している。
女として見られることを拒否せず、戦術の中に組み込んでいる。
リュウがどこを見るか。
どこで呼吸がずれるか。
どこで半拍遅れるか。
そこを、全部、格闘に変えている。
本編春麗は、低く呟いた。
「……戦術として成立しているのが、腹立たしいわね」
腹立たしい。
というより、分かってしまう。
そこが、腹立たしい。
黒執着春麗は、戦術にしてしまう。
リュウが自分をどう見たか。
それを恥ずかしがるだけではなく、勝ち筋に変える。
女として見られたことを、武器にする。
そして本編春麗も、それをやった。
自覚前春麗も、否定しながら似た場所へ行った。
だから言えない。
あれは黒執着春麗だけの危険だとは言えない。
本編春麗は、青い武道服を見る。
青は青だ。
青は黒ではない。
青で正式回答へ向かう自分と、黒ドレスで発勁事故を起こした自分は同じではない。
けれど、別人でもない。
黒も、私。
青も、私。
めんどくさい私も、私。
それを、リュウに答えられた記憶がある。
黒の私は、春麗?
青の私は?
面倒な私は?
春麗は、自分で聞いた。
聞いてしまった。
リュウは答えた。
ああ。
春麗だ。
春麗だ。
本編春麗は、机に額をつけた。
「……私も聞いたのよね」
一拍。
「自覚前春麗も、似た方向へ行ったのよね」
もう一拍。
「だから、三例目はいらないのよ」
三例目。
その言葉が出た瞬間、春麗はさらに沈んだ。
数えている。
もう、数えてしまっている。
一例目。
本編春麗。
二例目。
自覚前春麗。
三例目。
黒執着春麗。
嫌すぎる数え方だった。
「……事故を春麗別に増やさないで」
かなり切実だった。
電波の中で、黒執着春麗は発勁の距離へ入った。
二人とも、もうほとんど残っていない。
黒ドレスの裾は乱れている。
リュウも立っているのがやっと。
だが、目は落ちていない。
黒を見ている。
春麗を見ている。
止まらずに見ている。
本編春麗は、胸の奥を押さえた。
そこも知っている。
終盤。
発勁の距離。
近すぎる距離。
リュウの拳が届く距離。
春麗の掌が中心へ入る距離。
勝てる距離。
同時に、一番危険な距離。
黒執着春麗が、掌を開く。
発勁。
黒の視線誘導だけではない。
女として見せるだけでもない。
最後は格闘家として、内側へ通す。
リュウの拳が春麗の肩へ届く。
重い。
それでも、黒執着春麗の掌は止まらない。
リュウの胸。
中心。
呼吸の奥。
そこへ力を通す。
はっ。
短い気合。
発勁が入る。
本編春麗は、息を止めた。
勝った。
分かってしまった。
今のは入った。
リュウは落ちる。
黒執着春麗の勝ち。
黒ドレスで。
発勁で。
女として見せて。
格闘家として落とした。
そこまでは、勝利だった。
完全に勝利だった。
春麗は、それを知っている。
自分も、その勝利を知っている。
自覚前春麗も、似た手応えを知った。
だが。
次を知っている。
次に何が起きるかを、もう知りすぎている。
「……来ないで」
思わず声が漏れた。
電波の中のリュウには届かない。
黒執着春麗にも届かない。
それでも、言ってしまった。
「倒れないで」
無理だった。
リュウの身体が、前へ倒れ込んだ。
本編春麗は、完全に固まった。
黒ドレスの胸元へ、リュウの頭と肩が倒れ込む。
黒執着春麗が支えようとする。
だが、踏ん張りきれない。
そのまま、後ろへ倒れる。
黒いドレスの裾が広がる。
リュウが、春麗の上に倒れている。
完全に意識を失っている。
春麗の胸元に顔を伏せる形で。
本編春麗は、青い武道服を持ったまま凍りついた。
「…………」
声が出ない。
見てはいけないものを見た。
いや。
自分は、もう見た。
体験している。
自覚前春麗の類似例も知っている。
だからこそ、三度目が駄目だった。
事故。
完全に事故。
それは分かる。
発勁が入った。
リュウが落ちた。
黒執着春麗も最後の拳で軸を崩していた。
支えきれなかった。
だから倒れ込まれた。
理屈は分かる。
理屈は分かるが、理屈で処理できる姿勢ではない。
それも、知っている。
本編春麗は、机に両手をついた。
「……もう」
一拍。
「もう増やさないで」
黒で勝つ。
発勁で落とす。
リュウが倒れる。
春麗も軸が残っていない。
支えようとする。
支えきれない。
事故になる。
そして、勝ったはずの春麗が、一番動けなくなる。
その流れを、もう知っている。
知っているのに、別の春麗で繰り返される。
しかも、黒執着春麗で。
黒を知っている春麗で。
黒に酔いかけても棚に戻せる春麗で。
それでも、事故る。
「……成熟しても避けられないみたいにしないで」
誰に言っているのか分からない。
自分か。
黒執着春麗か。
記録板AIか。
それとも、まっすぐ倒れてくるリュウか。
たぶん、全部だった。
電波の中で、黒執着春麗が天井を見ている。
動けない。
勝ったのに動けない。
リュウは気絶している。
責められない。
怒りきれない。
避けられない。
動かせない。
本編春麗は、目を伏せた。
分かる。
分かってしまう。
あの状態で怒れない。
完全に事故だから。
リュウに悪意がないから。
しかも、リュウは倒れている。
無事かどうか確認しなければならない。
それなのに近い。
重い。
黒ドレスの胸元にいる。
勝ったのに、一番困っているのは春麗。
分かる。
分かりたくないほど分かる。
電波の中で、黒執着春麗が言う。
訓練後の救護よ。
本編春麗は、思わず小さく頷いた。
「……そう言うしかないのよ」
救護。
事故処理。
戦闘後の安全確認。
甘い状況ではない。
断じて違う。
そう言い聞かせるしかない。
自覚前春麗も、きっと同じように言い訳した。
自分も同じように言い訳した。
けれど、近いものは近い。
重いものは重い。
黒ドレスの胸元にリュウが倒れているという事実は消えない。
本編春麗は、顔を覆った。
「……本当に、三例目は受信するものではなかったわ」
初受信ではない。
二例目でもない。
三例目。
事故ログの増殖。
古傷への追撃。
それが一番近い。
電波の中で、リュウが目を覚ました。
黒執着春麗の上で。
近すぎる距離で。
春麗の胸元に顔を預けるような形になっていたことに気づく。
リュウが固まる。
黒執着春麗も固まる。
沈黙。
長い。
本編春麗は、こちらまで息を止めた。
やめて。
早く起きて。
でも急に動かないで。
謝らないで。
いや謝って。
でも謝られると余計に困る。
全部、知っている。
知っている反応ばかりだった。
黒執着春麗が言う。
事故よ。
あなたが気絶して倒れ込んだ。
私は支えようとした。
でも私も軸が崩れていた。
だからこうなった。
理解した?
リュウは全部に、ああ、と答える。
本編春麗は、机に額をつけた。
「……説明するわよね」
する。
自分もした。
自覚前春麗も、きっと説明した。
実況しないと処理できない。
事故の流れを、手順として説明する。
そうしないと、状況の方が勝ってしまう。
リュウは慎重に身を起こす。
黒執着春麗は、ようやく呼吸を取り戻す。
それだけで、本編春麗も少しだけ息を吐いた。
しかし、まだ終わらない。
リュウが謝る。
黒執着春麗は謝らないと言う。
事故だから。
そして。
勝ったのは私よ。
あなたは負けた。
発勁で落ちた。
そのあと倒れ込んだだけ。
だから、これは私の勝利の結果。
本編春麗は、そこだけ目を開けた。
「……そこは、強い」
黒執着春麗は、事故に勝利を上書きされそうになっても、勝利を取り戻している。
黒で勝った。
発勁で落とした。
事故は事故。
勝利は勝利。
そこを切り分けている。
本編春麗は、自分の時を思い出した。
自分も言った。
勝ったのは私。
発勁は決まった。
リュウは落ちた。
黒ドレス春麗は勝った。
ただし。
勝ったあと、少しだけ。
本当に少しだけ。
春麗の方が動けなくなった。
本編春麗は、小さく息を吐いた。
「……同じ系列なのに」
一拍。
「黒執着春麗の方が、勝利を握り返す力が強いわね」
それが少し悔しい。
少しだけ羨ましい。
自分は封じたかった。
会議には提出しない。
絶対に。
そう言った。
自覚前春麗は否認した。
私はまだ面倒じゃない。
違う。
これは訓練。
そう言い張った。
黒執着春麗は、動揺している。
自爆している。
けれど、勝利の黒として手元に残そうとしている。
そこが違う。
そこが、黒執着春麗らしい。
だが、リュウは言う。
強かった。
黒も、発勁も。
春麗も。
本編春麗の精神HPも削れた。
「……こっちまで削らないで」
無理だった。
削られた。
黒も。
発勁も。
春麗も。
リュウは、なぜそこで最後に春麗もと言うのか。
発勁だけでいい。
黒だけでいい。
試合の評価だけでいい。
なのに、春麗も、と言う。
それも、知っている。
自分も食らった。
自覚前春麗も、似た言葉を食らっている。
そして黒執着春麗も食らう。
リュウの無自覚褒め殺しまで、系列化しないでほしい。
本編春麗は、青い武道服を見た。
もし、リュウが自分にもう一度言ったら。
黒も。
発勁も。
春麗も。
いや。
自分はもう言われた。
だから今さらではない。
今さらではないのに、また刺さる。
春麗は、想像を止めた。
「だめ」
一拍。
「再生禁止」
しかし、電波は容赦なく続く。
黒執着春麗が、リュウに言う。
次に気絶して倒れ込む時は、場所を考えなさい。
リュウが答える。
考えられるかはわからない。
本編春麗は、思わず笑いそうになって、すぐに顔を覆った。
「……そこは少し笑うところではあるけれど」
笑ったら負けの気がした。
完全に負けの気がした。
でも、分かる。
リュウは考えられない。
発勁で落ちる時に、倒れる方向を考えられる男ではない。
だから、こちらが計算するしかない。
自分も、そう思った。
自覚前春麗も、そう思った。
黒執着春麗も、たぶんそう思う。
そこまで同じなのが、かなり困る。
「……倒れる方向管理を、春麗共通課題にしないで」
本当に嫌だった。
電波が一度、薄くなる。
だが、終わらない。
今度は、部屋に戻った黒執着春麗が見えた。
黒ドレスで帰ってきた春麗。
椅子に座り、顔を覆っている。
勝った。
発勁は決まった。
リュウは落ちた。
そこまでは完全に勝利。
問題は、その後。
倒れ込んできたリュウ。
支えきれなかった自分。
黒ドレスの胸元に倒れたリュウ。
起きた時の沈黙。
事故よ、と説明する自分。
強かった、と言うリュウ。
春麗も、と付け足すリュウ。
黒執着春麗が、紙に書く。
黒ドレス。
発勁。
勝利。
リュウ、一時意識喪失。
倒れ込み事故。
事故。
完全な事故。
本編春麗は、無言で見ていた。
分かる。
書くしかない。
書かないと頭から離れない。
だが、書くと残る。
残るから危険。
危険だから書きたくない。
でも、書かないともっと危険。
その循環は、非常によく分かる。
「……黒執着春麗」
一拍。
「そこは、あなたも同じなのね」
少しだけ、同情した。
かなり面倒な同情だった。
自分で言った言葉があとから刺さる。
リュウの言葉があとから刺さる。
事故だったはずの距離があとから来る。
勝利のはずなのに、勝った後の記憶の方が強くなる。
それは、本編春麗にも分かってしまった。
分かってしまうのが、また危険だった。
ただ、差もある。
黒執着春麗は、書きながらも勝利を手放していない。
黒ドレス。
発勁。
勝利。
そこを先に書いている。
本編春麗は、それを見て少しだけ目を細めた。
「……あなた、そこは偉いわ」
一拍。
「事故より先に、勝利を書いたのね」
自分はどうだっただろう。
自覚前春麗はどうだっただろう。
勝ったのに。
勝った後の記憶の方が強くなった。
発勁で勝ったことを、必死に自分へ言い聞かせた。
今日は私の勝ち。
勝ったのは、私。
何度も言った。
それだけ危なかった。
黒執着春麗も危ない。
でも、勝利の黒を握っている。
本編春麗は、それを少しだけ羨ましいと思った。
思ってしまった。
「……そこは、私の青とは違うわね」
小さく言う。
黒は黒。
青は青。
自覚前春麗の否認も、黒執着春麗の勝利保持も、自分の青とは違う。
だからこそ、直接混ぜてはいけない。
春麗は、ようやく青い武道服を畳み始めた。
だが、手つきは遅い。
電波のせいで、封じていたものを思い出してしまった。
リュウは、自分をどう見ているのか。
青として。
黒として。
拳の相手として。
宿題の相手として。
春麗として。
女として。
いや。
その問いはもう、新しくない。
春麗は、それを一度考えている。
自覚前春麗も、それを会議の記憶越しに踏んでいる。
だから今回書くべきものは、可能性ではない。
同型受信でも、まだ弱い。
これはもう、系列化だ。
春麗は、机の上に紙を置いた。
書くつもりはなかった。
だが、書かないと頭から離れない気がした。
ペンを持つ。
少しだけ迷う。
そして、書いた。
黒ドレス発勁事故系列。
一拍。
第三類似例。
もう一拍。
黒執着春麗版。
書いた瞬間、春麗はペンを置いた。
「……最悪の分類名ね」
最悪。
だが、正しい。
これは、リュウが自分を女として見る可能性、ではない。
そんな段階はもう越えている。
これは、自分だけの事故ではないかもしれない、でもない。
それももう越えている。
自分が経験した。
自覚前春麗も類似した。
そして黒執着春麗版まで来た。
問題は、そこだ。
春麗は、紙の下にさらに書いた。
事故ログ増殖。
一拍。
青混入禁止。
もう一拍。
会議提出、現時点では拒否。
書いてから、少しだけ眉を寄せる。
「……拒否しても、どうせ見られるのよね」
記録板AIは見る。
たぶん分類する。
春麗会議に持ち込まれるかどうかは別として、どこかには残る。
それがまた腹立たしい。
春麗は別の小さな封筒を取り出した。
何も書いていない封筒。
そこへ紙を入れる。
封をする。
表に書く。
黒ドレス発勁事故系列。
一拍。
第三類似例/黒執着春麗版。
もう一拍。
青混入不可。
最後に、小さく書き足す。
事故ログを増やさないこと。
書いてから、春麗は完全に止まった。
「……願望を書いてどうするの」
だが、消さなかった。
願望でも、必要だった。
これは青い小箱に入れてはいけない。
青の正式回答ラインに混ぜるには危険すぎる。
黒執着春麗の危険なIF。
しかも、自分と自覚前春麗の類似事故に連なる三例目。
直接混ぜれば、青が黒に引っ張られる。
黒が青を侵食するのではない。
事故系列が、青の整理を壊す。
それが危険だった。
昼だったかもしれない。
夕方だったかもしれない。
春麗は、外へ出なかった。
今日は無理。
リュウに会うのは危険。
普通に会っただけでも、目を見る。
目を見たら考える。
今、どう見たのか。
拳か。
青か。
黒か。
春麗か。
女か。
そして、もし倒れたらどちらへ倒れるのか。
「……最後の一つが余計なのよ」
完全に余計だった。
考えることではない。
普通に会うだけで、そんなことを考える必要はない。
だが、考えてしまった。
これはもう駄目だ。
「……会わない」
はっきり言った。
「今日は、会わない」
珍しく、ちゃんと決めた。
その代わり、青を畳む。
ゆっくりと。
袖を揃える。
帯を整える。
相打ちの青かもしれない青。
進まれた青かもしれない青。
リュウの途中回答を受けた後の青かもしれない青。
そして、今日、三例目の事故受信で乱された青。
春麗は、畳みながら小さく息を吐いた。
「黒執着春麗は、本当に危険ね」
一拍。
「でも」
少しだけ言葉が止まる。
でも、分からなくはない。
あの春麗は、危険なことを言える。
言ってしまえる。
勝因にしてしまえる。
発勁で落とせる。
事故で被弾しても、勝利は勝利として保持できる。
そして、帰ってから自爆する。
自爆まで含めて、かなり強い。
本編春麗は、そうはいかない。
自分はもっと慎重だ。
言葉を選ぶ。
保留する。
未承認にする。
正式回答を待つ。
会議に出すかどうかで迷う。
だから進み方が違う。
それでいい。
それでいいはずだ。
「……私は、青で行く」
小さく言った。
「黒の事故系列で乱されても」
一拍。
「青で整理する」
青い武道服を畳み終える。
まだ少しだけ指が止まる。
けれど、畳めた。
少しだけ、進んだ。
春麗は、その青を棚に置いた。
夜。
本編春麗は、封筒を見ていた。
黒ドレス発勁事故系列。
第三類似例/黒執着春麗版。
青混入不可。
事故ログを増やさないこと。
ひどい表書きだ。
だが、正しい。
今日受信したものは、本筋ではない。
危険な可能性。
いや、可能性ではない。
自分の体験済み事故。
自覚前春麗の類似事故。
そして、黒執着春麗版のディレクターズカットIF事故。
本編春麗の青に、直接入れてはいけない。
でも、完全になかったことにもできない。
受信してしまった以上、残る。
しかも、自分の記憶と、自覚前春麗の会議記憶と、黒執着春麗のIFが接続してしまっている。
春麗は、封筒を指で軽く叩いた。
「黒ドレス発勁事故系列」
小さく読む。
声に出した瞬間、顔が熱くなった。
「……だめ」
もう一度封筒を伏せる。
今日はここまで。
これ以上は処理しない。
春麗会議室にも持ち込まない。
記録板AIに見せたら、絶対に分類する。
黒ドレス発勁事故系列。
本編春麗実体験。
自覚前春麗類似例。
黒執着春麗ディレクターズカットIF例。
倒れる方向管理。
精神HP再被弾。
青混入リスク。
そんな項目を作るに決まっている。
それは駄目。
今は駄目。
春麗は、封筒を引き出しの奥へ入れた。
鍵はかけない。
でも、すぐには見えない場所。
それでいい。
布団に入る。
灯りを落とす。
目を閉じる。
しかし、最後にまた思い出す。
黒ドレス。
発勁。
リュウが倒れ込んだ事故。
強かった。
黒も、発勁も。
春麗も。
そして、自分の時の記憶。
自覚前春麗の否認。
黒執着春麗の勝利保持。
本編春麗は、布団の中で顔を覆った。
「……系列化するものではなかったわ」
完全にそうだった。
でも、受信してしまった。
黒執着春麗の危険な勝利。
事故処理。
帰宅後自爆。
そして、自分と自覚前春麗の未処理事故。
それらは本筋とは関係ない。
関係ないはず。
だが、関係ないと言い切るには、春麗たちが体験しすぎていた。
本編春麗の中に、もう一度小さな扉が開いてしまった。
リュウが、自分をどう見ているのか。
黒で勝つこと。
青で進むこと。
倒れる方向まで計算すること。
事故ログを増やさないこと。
そのどれも、まだ混ぜてはいけない。
まだ早い。
正式回答も。
進まれた青も。
黒ドレス発勁事故系列も。
その全部を同じ場所に置いたら、処理できない。
春麗は、目を閉じたまま小さく言った。
「……リュウ」
一拍。
「今は、倒れないで」
もう一拍。
「いえ」
声がさらに小さくなる。
「倒れるなら、せめて横へ」
言ってから、完全に自爆した。
布団の中で、両手で顔を覆う。
「……何を言っているのよ、私は」
誰も聞いていない。
だから大丈夫。
大丈夫なはず。
その夜、本編春麗は春麗会議室へ行かなかった。
行けなかった。
これは、まだ会議に出す段階ではない。
青い小箱にも入れられない。
ただ、封筒に入れて、引き出しの奥に置くしかない。
黒ドレス発勁事故系列。
第三類似例/黒執着春麗版。
青混入不可。
事故ログを増やさないこと。
本編春麗は、その危険な紙を隠したまま、眠りへ落ちていった。
そして、眠る直前に最後だけ思った。
黒執着春麗。
あなた、本当に危険なものを見せてくるわね。
でも。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
あなたが勝利を握り返そうとしたことは。
分からなくはなかった。
記録板AIは、銀色の棚の前で表示を戻した。
『受信事故ログを終了します』
『本記録は、本編確定ログではありません』
『妄想章IF後日談の時空で発生した出来事でもありません』
『第1回ディレクターズカットIFから派生した、本編春麗側の危険電波受信検証です』
一拍。
『本編春麗は、黒執着春麗の黒ドレス発勁勝利後アクシデントを断片的に受信しました』
『本編春麗自身にも、すでに同型の黒ドレス発勁勝利後アクシデント経験があります』
『また、自覚前春麗にも、本編春麗の事故ログを春麗会議経由で認識したうえで発生した類似アクシデント記録があります』
『そのため、今回の反応は未知の危険への初遭遇ではなく、黒ドレス発勁事故系列に第三類似例が追加されたことへの精神HP被弾として処理されました』
さらに一拍。
『発生した未処理項目』
『黒ドレス発勁事故系列化』
『本編春麗実体験ログとの再接続』
『自覚前春麗類似ログとの連結』
『黒執着春麗版ディレクターズカットIFによる事故ログ増殖』
『青い小箱への混入危険』
『春麗会議室への提出拒否』
『リュウの倒れる方向管理という不要かつ危険な訓練項目の再浮上』
記録板AIは、少しだけ表示を止めた。
『本編春麗は、当該情報を青い小箱へ入れず、別封筒へ隔離しました』
『分類』
『黒ドレス発勁事故系列』
『第三類似例/黒執着春麗版』
『青混入不可』
『事故ログを増やさないこと』
一拍。
『判定』
『妥当です』
『現時点で青い小箱へ混入させると、正式回答ラインへの影響が過大です』
『春麗会議室への提出も、現段階では非推奨です』
最後に、記録板AIは淡々と締めた。
『なお、リュウの倒れる方向管理については、訓練項目としては非推奨です』
『ただし、必要性そのものは否定できません』
『以上、ディレクターズカットIF派生受信事故ログでした』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、第1回ディレクターズカットIFから派生した、本編春麗側の受信事故ログでした。
まず前提として、この話は本編確定ログではありません。
また、妄想章IF後日談の時空で実際に発生した出来事でもありません。
第1回ディレクターズカットIFとして保存された「黒執着春麗の黒ドレス発勁勝利後アクシデント」が、本編春麗側へ断片的に漏れてしまったらどうなるか、という検証回です。
今回のポイントは、本編春麗がこの事故を初めて知ったわけではないことです。
本編春麗は、すでに自分自身で黒ドレス発勁勝利後のアクシデントを経験しています。
黒ドレスを選ぶ。
リュウと戦う。
発勁で勝つ。
リュウが一時的に意識を落とす。
そのまま春麗の胸元へ倒れ込む。
春麗も軸が崩れていて支えきれない。
事故になる。
本編春麗は、これをもう体験済みです。
さらに、自覚前春麗にも類似エピソードがあります。
自覚前春麗は、本編春麗の事故ログを春麗会議経由で知り、「確認」「事故防止」「黒ドレス時の近距離制御」と言い訳しながら黒ドレスを選び、結果的にかなり近い構造のアクシデントへ進んでしまいました。
つまり、今回の本編春麗は、
「こんな事故があるなんて知らなかった」
ではありません。
そうではなく、
「また増えたの?」
「もう私と自覚前春麗で十分でしょう?」
「黒執着春麗まで同じ系列に入ってこないで」
という反応になります。
今回の主題は、黒ドレス発勁事故の“系列化”です。
一例目は本編春麗。
二例目は自覚前春麗。
そして今回は、ディレクターズカットIF領域での黒執着春麗版。
本編春麗にとって怖いのは、事故そのものだけではありません。
自分が体験してしまった危険な事故が、自覚前春麗にも波及し、さらに黒執着春麗にも発生してしまうことです。
しかも黒執着春麗は、かなり進んだ春麗です。
黒で勝てる。
青でも勝てる。
黒でも青でもない自分も見られている。
好意を隠した黒も自分だと認めている。
勝った黒を棚に戻せる。
その黒執着春麗でさえ、黒ドレスで発勁勝利したあとに同じような事故へ入ってしまう。
これは、本編春麗にとってかなり嫌な意味を持ちます。
未熟だから起きる事故ではない。
自覚前だから起きる事故でもない。
面倒さを否認しているからだけでもない。
黒ドレスでリュウと近距離まで踏み込み、発勁で勝つ。
その構造そのものに、勝利後の事故リスクが含まれているのではないか。
本編春麗は、そこに気づきたくありません。
なので今回は、「未知の危険を知った話」ではなく、「すでに知っている危険が、別の春麗でも増えていくことへの拒否反応」の話です。
そのため、封筒の分類も、
リュウが自分を女として見る可能性
ではなく、
黒ドレス発勁事故系列。
第三類似例/黒執着春麗版。
青混入不可。
事故ログを増やさないこと。
になっています。
この「事故ログを増やさないこと」が、かなり本編春麗らしいと思っています。
冷静な分類に見えて、最後だけ完全に願望です。
でも、その願望を書かないと処理できない。
それくらい今回の受信事故は、本編春麗にとって危険でした。
また、今回の黒執着春麗版が本編春麗に刺さる理由は、単に事故が同じだからではありません。
黒執着春麗は、事故で精神HPを削られても、戦闘勝利を手放していません。
黒ドレス。
発勁。
勝利。
その順番を保持しています。
事故は事故。
勝利は勝利。
そこを切り分けようとしている。
本編春麗は、自分の時に「勝ったのは私」「今日は私の勝ち」と何度も言い聞かせていました。
勝った後の記憶の方が強くなりすぎたからです。
一方で、黒執着春麗は危険な事故に被弾しながらも、勝利の黒を握り返そうとしています。
本編春麗はそこを見て、少しだけ羨ましくも感じています。
同じ事故系列なのに、黒執着春麗は勝利を手放さない。
そこは強い。
でも、やっぱり自爆はする。
このあたりが、今回の黒執着春麗らしさです。
そして本編春麗は、その危険な情報を青い小箱には入れませんでした。
これは重要です。
青い小箱は、青の正式回答ラインや、リュウとの本筋側の進行に関わる場所です。
そこへ黒ドレス発勁事故系列を入れてしまうと、青の整理が乱れます。
黒が青を侵食するというより、未処理の事故ログが青の正式回答ラインに混ざってしまう。
だから、本編春麗は別封筒へ隔離しました。
黒ドレス発勁事故系列。
第三類似例/黒執着春麗版。
青混入不可。
事故ログを増やさないこと。
この分類は、かなり妥当です。
ただし、記録板AIは当然のように分類しています。
本編春麗が会議に出したくなくても、記録板AIは見ています。
そして最後に、「リュウの倒れる方向管理」について、訓練項目としては非推奨だが必要性は否定できない、と締めています。
ここは半分ギャグであり、半分本気です。
黒ドレス。
発勁。
リュウが止まらない。
春麗も軸が残らない。
リュウが前へ倒れる。
春麗が支えようとする。
この流れが複数例になってしまった以上、倒れる方向管理という変な課題が浮上してしまう。
もちろん、普通はそんな訓練項目はありません。
でも、この作品の春麗たちにとっては、なぜか無視できない課題になってしまっています。
今回の話は、本編に直接置くには危険すぎるディレクターズカットIF派生回です。
ただ、本編春麗、自覚前春麗、黒執着春麗の違いを見る回でもあります。
本編春麗は、事故を封じたい。
自覚前春麗は、事故防止と言い訳しながら近づいてしまう。
黒執着春麗は、事故で被弾しても勝利の黒を握り返そうとする。
同じような事故でも、春麗ごとに処理の仕方が違う。
今回は、その違いを「黒ドレス発勁事故系列」というかなり危険な形で見せる回でした。
戦闘結果としては、黒執着春麗の勝利。
精神HP結果としては、春麗系列全体に余波あり。
記録板AIの分類としては、青混入不可。
そして本編春麗の本音としては、
事故ログを増やさないで。
これに尽きる回だったと思います。