また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

296 / 301
※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:本編春麗は、黒執着春麗の黒戦術ノートを見てしまう

 記録板AIは、銀色の棚の奥で表示を切り替えた。

 

 春麗会議室ではない。

 

 青い小箱でもない。

 

 通常の危険封筒でもない。

 

 ディレクターズカットIF領域。

 

 その中でも、戦闘前に発生する危険ログだった。

 

『本記録は、ディレクターズカットIF派生受信ログです』

 

『本編確定ログではありません』

 

『妄想章IF後日談の時空でも発生していません』

 

『本編時空への直接反映は禁止推奨です』

 

 一拍。

 

『今回の受信元を説明します』

 

『受信元は、黒執着春麗の黒ドレス戦闘前準備ログです』

 

『当該ログでは、黒執着春麗がリュウとの試合前に、髪、表情、化粧、歩き方、視線、初手の言葉、および煽りセリフ候補を調整しています』

 

『分類上は、黒の事前戦術です』

 

『注意』

 

『黒歴史ではありません』

 

『ただし、客観視した場合、精神HP被弾が発生する可能性があります』

 

 記録板AIは、淡々と続ける。

 

『本記録の検証対象』

 

『本編春麗が、黒執着春麗の事前戦術ログを電波受信した場合』

 

『本編春麗が、自分自身の黒ドレス戦闘前準備と類似する要素を認識した場合』

 

『戦術としては正当でありながら、客観視すると非常に恥ずかしいログを、どのように分類するかを検証します』

 

 一拍。

 

『重要事項』

 

『黒執着春麗本人は、本記録をディレクターズカットIFとして認識していません』

 

『黒執着春麗は、ふざけていません』

 

『本人は真剣に勝つための準備をしています』

 

『本編春麗側も、受信した内容を本編確定情報として扱うことは禁止推奨です』

 

『ただし、黒を扱う際の事前戦術として、限定参照の可能性があります』

 

 最後に、記録板AIは表示した。

 

『黒執着春麗・黒の事前戦術ログ受信、開始します』

 


 

 朝。

 

 本編春麗は、青い小箱を開けようとしていた。

 

 今日は、青の話題候補を少しだけ見直すつもりだった。

 

 正式回答前。

 

 話すことは増えている。

 

 相打ちの青。

 

 進まれた青。

 

 温存された話題候補。

 

 リュウが言った言葉。

 

 自分がまだ返していない言葉。

 

 そのあたりを、少しだけ整理する。

 

 それだけのはずだった。

 

 だが、引き出しを開けた瞬間、青い小箱の隣にある危険封筒が目に入った。

 

 ディレクターズカットIF由来。

 

 本筋参照禁止。

 

 記録板AI閲覧禁止。

 

 分類禁止。

 

 ただし、なぜか増える。

 

 本編春麗は、封筒を見なかったことにした。

 

「……今日は見ない」

 

 一拍。

 

「絶対に見ない」

 

 そう言って、青い小箱に手を伸ばす。

 

 その瞬間だった。

 

 頭の奥に、妙な電波が落ちてきた。

 

「……また?」

 

 春麗は手を止めた。

 

 まただった。

 

 黒執着春麗。

 

 ディレクターズカットIF。

 

 本筋参照禁止の危険ログ。

 

 しかも今回は、戦闘ではなかった。

 

 まだ、試合ですらなかった。

 

 鏡の前。

 

 化粧道具。

 

 髪留め。

 

 黒ドレス。

 

 机の上には、紙が何枚も並んでいる。

 

 そこに書かれているのは、煽りセリフの候補だった。

 

 本編春麗は、完全に停止した。

 

「……待って」

 

 待ってほしい。

 

 これは、かなり危険な電波だ。

 

 戦闘よりも危険かもしれない。

 

 なぜなら。

 

 客観的に見ると。

 

 ものすごく。

 

 見覚えがある。

 


 

 電波の中で、黒執着春麗は鏡の前に座っていた。

 

 真剣な顔をしている。

 

 戦闘前の顔だ。

 

 だが、手に持っているのは武器ではない。

 

 化粧筆。

 

 目元を整える。

 

 唇の色を確認する。

 

 髪を少し上げる。

 

 下ろしすぎると動きに邪魔。

 

 上げすぎると硬い。

 

 戦闘に不要なようで、不要ではない。

 

 どう見られるか。

 

 どこで視線を止めるか。

 

 どの角度で相手の呼吸を遅らせるか。

 

 全部、戦術。

 

 黒の事前戦術。

 

 本編春麗は、それを見ながら小さく呟いた。

 

「……理屈は分かる」

 

 分かる。

 

 分かってしまう。

 

 見せ方は戦術だ。

 

 黒は、試合が始まる前から始まる。

 

 身支度。

 

 髪。

 

 表情。

 

 歩き方。

 

 目線。

 

 最初の一言。

 

 相手が構える前の半拍。

 

 それを奪えるなら、格闘家として使う。

 

 それは正しい。

 

 正しいのだが。

 

 電波の中の黒執着春麗は、鏡の前で角度を変えた。

 

 右から見る。

 

 左から見る。

 

 少し顎を引く。

 

 目を細める。

 

 微笑む。

 

 すぐに真顔に戻る。

 

「……これは違うわね」

 

 黒執着春麗は呟いた。

 

「少し勝ち誇りすぎ」

 

 本編春麗は、両手で顔を覆った。

 

「……やめて」

 

 やめてほしい。

 

 客観視させないでほしい。

 

 黒執着春麗は、真剣だ。

 

 本当に真剣に、戦闘前準備をしている。

 

 だが、本編春麗から見ると。

 

 これは。

 

 あまりにも。

 

 過去の自分に近い。

 

「……昔の私も、こんなことを」

 

 言いかけて止まる。

 

 言ってはいけない。

 

 自分の黒ドレス時代を思い出してはいけない。

 

 黒を着た。

 

 見られることを意識した。

 

 リュウがどう見るかを考えた。

 

 目元も、髪も、姿勢も、最初の一言も。

 

 全部、戦術だと言い張った。

 

 いや、戦術だった。

 

 間違いなく戦術だった。

 

 でも。

 

 客観的に見ると、ものすごく恥ずかしい。

 

 本編春麗は、机に突っ伏した。

 

「……これは、見せられる側がつらいわ」

 


 

 黒執着春麗は、今度は紙を手に取った。

 

 煽りセリフ候補。

 

 本編春麗は嫌な予感がした。

 

 かなり嫌な予感がした。

 

 紙には、いくつもの文言が書いてある。

 

 一つ目。

 

 今日は、拳だけを見ていれば済むと思わないことね。

 

 黒執着春麗は、声に出して読んだ。

 

「今日は、拳だけを見ていれば済むと思わないことね」

 

 一拍。

 

 首を傾げる。

 

「悪くないけれど、少し説明的」

 

 本編春麗は、顔を上げた。

 

「分析しないで」

 

 聞こえるはずもない。

 

 黒執着春麗は次の紙を見る。

 

 二つ目。

 

 私を見るなら、最後まで見なさい。

 

 黒執着春麗は声に出す。

 

「私を見るなら、最後まで見なさい」

 

 言ってから、少しだけ頬が赤くなった。

 

「……これは、危険」

 

 本編春麗も同時に頬が熱くなった。

 

「危険と分かるなら言わないで」

 

 だが、黒執着春麗は紙に丸を付けた。

 

「候補」

 

 本編春麗は完全に沈んだ。

 

「候補にした……」

 

 候補にしないでほしい。

 

 それは危険すぎる。

 

 リュウが本当に最後まで見る。

 

 そして、見たことを言う。

 

 そうなったら終わる。

 

 黒執着春麗も終わる。

 

 受信した本編春麗も終わる。

 

 だが、黒執着春麗は真剣だった。

 

 次の紙を見る。

 

 三つ目。

 

 リュウ、今日は私に遅れなさい。

 

 黒執着春麗は一度読んで、すぐに首を振った。

 

「違う。命令が雑」

 

 本編春麗は思わず呟いた。

 

「そこ?」

 

 そこなのか。

 

 内容ではなく、命令の質なのか。

 

 黒執着春麗は赤ペンを持ち、修正する。

 

 リュウ、今日は私を見て遅れなさい。

 

 書いた瞬間、黒執着春麗が固まった。

 

 本編春麗も固まった。

 

 数秒の沈黙。

 

 黒執着春麗は、その紙を裏返した。

 

「……保留」

 

 本編春麗は、両手で机を押さえた。

 

「保留ではなく破棄しなさい」

 

 保留が一番危険だ。

 

 破棄より残る。

 

 未承認仮分類と同じ。

 

 消していない。

 

 使う可能性を残している。

 

 春麗は、青い小箱の隣にある危険封筒を見た。

 

 今、増える音がした気がする。

 


 

 黒執着春麗は、立ち上がった。

 

 鏡の前で歩く。

 

 一歩。

 

 止まる。

 

 目線。

 

 半歩。

 

 微笑む。

 

 黒ドレスの裾が揺れる想定。

 

 視線を取る想定。

 

 リュウが見た想定。

 

 その瞬間、何を言うか。

 

 黒執着春麗は、また紙を見る。

 

「見たわね」

 

 短い。

 

 だが強い。

 

 黒執着春麗は鏡の中の自分に向かって言った。

 

「見たわね」

 

 一拍。

 

「……少し弱い」

 

 もう一度。

 

「見たわね、リュウ」

 

 首を振る。

 

「名前を入れると、こちらが意識しすぎている」

 

 本編春麗は、顔を覆った。

 

「そこまで考えないで」

 

 考える。

 

 彼女は考える。

 

 黒執着春麗は、煽りセリフを研究している。

 

 ただ思いつきで言うのではない。

 

 戦闘前準備として、言葉の強度、照れの跳ね返り、リュウの反応、自分の精神HP被弾量まで考えている。

 

 そこが最悪だった。

 

 なぜなら、本編春麗にも覚えがあるから。

 

 リュウに何を話すか考えた。

 

 話題候補を紙に書いた。

 

 全部は話さない。

 

 正式回答の後に。

 

 少しずつ。

 

 たぶん。

 

 それと何が違うのか。

 

 いや、違う。

 

 かなり違う。

 

 自分は話題候補。

 

 黒執着春麗は煽りセリフ。

 

 違う。

 

 違うはず。

 

 春麗は、ゆっくり顔を上げた。

 

「……でも、紙に書いている点は同じね」

 

 自分で言って、精神HPが削れた。

 

 同じではない。

 

 同じにしてはいけない。

 

 でも、紙に書いて事前準備しているという点では、かなり近い。

 

 春麗は、危険封筒を引き寄せた。

 

 まだ開けない。

 

 だが、必要になる気配がある。

 


 

 電波の中で、黒執着春麗は髪を整え直していた。

 

 少し上げる。

 

 少し下ろす。

 

 顔の横に残す髪の量を調整する。

 

「戦闘中に邪魔にならない程度」

 

 一拍。

 

「でも、動いた時に流れる程度」

 

 本編春麗は、目を閉じた。

 

「……具体的」

 

 具体的すぎる。

 

 そして、正しい。

 

 黒の戦術として、髪の流れは使える。

 

 視線誘導。

 

 間合い。

 

 相手の一瞬の反応。

 

 春麗は、それを分かってしまう。

 

 分かるから、余計に恥ずかしい。

 

 黒執着春麗は、次に唇の色を確認した。

 

 濃すぎると戦術が露骨。

 

 薄すぎると効果が弱い。

 

 春麗は、とうとう声に出した。

 

「もうやめなさい」

 

 届かない。

 

 黒執着春麗は真剣だった。

 

「これは、戦闘準備」

 

 本編春麗は、机に突っ伏した。

 

「言うと思った」

 

 言う。

 

 絶対に言う。

 

 自分も言った気がする。

 

 これは戦術。

 

 これは準備。

 

 これは女としての自分を格闘家として使うだけ。

 

 そう言って黒ドレスを着た。

 

 そう言って視線を計算した。

 

 そう言ってリュウの反応を見た。

 

 だから、黒執着春麗の言い分は分かる。

 

 分かる。

 

 分かるのだが。

 

 客観的に見ると、自分の過去のノートを上映されているようでつらい。

 

「……これ、私も誰かに見られていたの?」

 

 春麗は、ふと最悪の疑問に至った。

 

 自分が黒ドレスの前に、鏡の前で準備していた時。

 

 髪を整えた時。

 

 目元を確認した時。

 

 リュウにどう見られるかを考えた時。

 

 春麗会議室のどこかで、誰かが見ていたのではないか。

 

 記録板AIが記録していたのではないか。

 

 自覚前春麗が「資料として」と言っていたのではないか。

 

 本編春麗は、完全に青ざめた。

 

「……記録、されている?」

 

 されている気がする。

 

 かなり。

 

 記録板AIなら保存している。

 

 絶対に。

 

 春麗は低く呟いた。

 

「削除申請」

 

 誰も返事をしない。

 

 だが、どこかで『削除不可』と表示された気がした。

 

「……やめて」

 


 

 黒執着春麗は、最後に一枚の紙を手に取った。

 

 最終候補。

 

 春麗は、嫌な予感がした。

 

 黒執着春麗は、鏡の前に立つ。

 

 リュウが目の前にいると仮定する。

 

 視線を受ける。

 

 少しだけ微笑む。

 

 そして言った。

 

「今日は、あなたが見た分だけ、私が勝つわ」

 

 本編春麗の精神HPが削れた。

 

 危険。

 

 これは危険。

 

 でも、強い。

 

 黒執着春麗は、鏡の中の自分を見つめている。

 

 言った後、少しだけ顔が赤い。

 

 それでも、紙に丸を付けた。

 

「採用候補」

 

 本編春麗は、机に突っ伏した。

 

「採用しないで」

 

 採用する気だ。

 

 きっとする。

 

 リュウの前で言う。

 

 そしてリュウが見た分だけ、何かを言う。

 

 遅れたとか。

 

 強かったとか。

 

 春麗を見ていたとか。

 

 そう返してくる。

 

 結果、黒執着春麗は勝っても負けても精神HPが削られる。

 

 そして、その電波がこちらにも飛んでくる。

 

 春麗は、封筒を開けた。

 

 負けた気がした。

 

 新しい紙を入れる準備をする。

 

 表書きを考える。

 

 黒執着春麗:事前戦術研究ログ。

 

 違う。

 

 硬い。

 

 黒歴史上映ログ。

 

 直球すぎる。

 

 春麗はしばらく迷い、結局こう書いた。

 

 電波受信/黒の事前戦術ログ。

 

 その下に小さく書く。

 

 客観視による精神HP被弾あり。

 

 さらに、小さく。

 

 類似ログ疑惑あり。

 

 書いた瞬間、春麗は顔を覆った。

 

「……疑惑ではない気がする」

 

 たぶん、ある。

 

 自分にもあった。

 

 黒ドレス前の事前準備。

 

 見られることを想定した身支度。

 

 最初の一言の練習。

 

 リュウの反応を想像して、言葉を変える。

 

 それを全部、戦術と言い張る。

 

 春麗は、深く息を吐いた。

 

「……黒歴史ではない」

 

 一拍。

 

「戦術」

 

 もう一拍。

 

「事前戦術」

 

 さらに一拍。

 

「ただし、客観的に見るとつらい」

 

 それが今回の結論だった。

 


 

 電波の中で、黒執着春麗は最後の確認をしていた。

 

 髪。

 

 目元。

 

 黒ドレスの整え方。

 

 歩き方。

 

 最初の視線。

 

 最初の一言。

 

 そして、煽りセリフ。

 

 今日は、あなたが見た分だけ、私が勝つわ。

 

 黒執着春麗は、それをもう一度だけ口にして、息を整えた。

 

「……大丈夫」

 

 一拍。

 

「これは、戦術」

 

 もう一拍。

 

「リュウを遅らせるため」

 

 さらに一拍。

 

「私が勝つため」

 

 本編春麗は、画面でも見るようにその光景を見ていた。

 

 黒執着春麗は真剣だ。

 

 本当に、勝つために準備している。

 

 ふざけていない。

 

 浮かれているだけでもない。

 

 自分を見せることを、格闘技に組み込んでいる。

 

 だから、笑ってはいけない。

 

 黒歴史などと切り捨ててはいけない。

 

 いけないのだが。

 

「……でも、つらい」

 

 春麗は小さく言った。

 

「自分の昔のノートを読まれているようなつらさがある」

 

 黒執着春麗の煽りセリフ研究。

 

 目元の調整。

 

 髪の流れの確認。

 

 リュウの視線を仮定した立ち位置。

 

 全部、戦術。

 

 でも、全部、あとから見ると恥ずかしい。

 

 本編春麗は、机に封筒を置いた。

 

 さらに書き足す。

 

 戦術としては正当。

 

 心理的には黒歴史に近い。

 

 春麗は、その文を見てしばらく止まった。

 

「……ひどい」

 

 でも正しい。

 

 正しいのがひどい。

 


 

 電波が薄れていく。

 

 黒執着春麗は、鏡の前を離れた。

 

 試合へ向かうのだろう。

 

 その後に何が起きるかは、まだ流れてこない。

 

 勝つか。

 

 負けるか。

 

 リュウに刺されるか。

 

 自分の煽りで自爆するか。

 

 たぶん、どれかは起こる。

 

 かなりの確率で、複数起こる。

 

 本編春麗は、深く息を吐いた。

 

「……見ているだけで疲れた」

 

 戦ってすらいない。

 

 でも、精神HPがかなり削られた。

 

 危険封筒に紙を入れる。

 

 電波受信/黒の事前戦術ログ。

 

 客観視による精神HP被弾あり。

 

 類似ログ疑惑あり。

 

 戦術としては正当。

 

 心理的には黒歴史に近い。

 

 春麗は封筒を閉じた。

 

 閉じてから、少しだけ考える。

 

 これは、本筋参照禁止か。

 

 それとも、限定参照か。

 

 悩む。

 

 なぜなら、事前戦術としては有効だから。

 

 黒を扱うなら、見られ方の設計は避けられない。

 

 青でも、言葉の準備はしている。

 

 話題候補も紙に書いている。

 

 だから完全封印は違う。

 

 だが、青い小箱に入れるものでもない。

 

 春麗は、封筒の隅に小さく書いた。

 

 限定参照可。

 

 その下に。

 

 ただし、本人確認禁止。

 

 書いてから、首を傾げる。

 

「本人確認禁止?」

 

 つまり、黒執着春麗に直接聞いてはいけない。

 

 あなた、あのセリフ練習していたでしょう。

 

 あなた、目元の強さを戦術として調整していたでしょう。

 

 あなた、鏡の前でリュウを想定していたでしょう。

 

 それを言ってはいけない。

 

 言われた側も死ぬ。

 

 言った側も死ぬ。

 

 春麗は真顔で頷いた。

 

「本人確認禁止」

 

 重要だった。

 


 

 夜。

 

 本編春麗は、布団の中で目を開けていた。

 

 眠れない。

 

 黒執着春麗の事前準備が頭から離れない。

 

 鏡の前の真剣な顔。

 

 髪を整える手つき。

 

 煽りセリフの候補。

 

 赤ペン。

 

 採用候補。

 

 保留。

 

 戦術としては正しい。

 

 しかし、客観的にはかなり恥ずかしい。

 

 そして、自分にも覚えがある。

 

 春麗は布団の中で顔を覆った。

 

「……私も、ああだったのかしら」

 

 答えは出ない。

 

 出なくていい。

 

 出したくない。

 

 でも、たぶん少しはそうだった。

 

 黒ドレスを選んだ時。

 

 リュウにどう見られるかを考えた時。

 

 最初の一言をどうするか迷った時。

 

 女としての自分を、戦闘で使うと決めた時。

 

 全部、戦術だった。

 

 全部、本気だった。

 

 だから、黒歴史とは言いたくない。

 

 でも、あとから見ると恥ずかしい。

 

 春麗は、小さく呟いた。

 

「……黒歴史ではない」

 

 一拍。

 

「黒戦術」

 

 もう一拍。

 

「ただし、記録の閲覧には注意」

 

 我ながら、ひどい分類だった。

 

 でも、少しだけ落ち着いた。

 

 黒歴史ではない。

 

 黒戦術。

 

 未熟な自分を笑うためのものではなく、戦うために必要だった準備。

 

 ただし、客観的に見ると被弾する。

 

 それでいい。

 

 それ以上は、今は考えない。

 

 春麗は、目を閉じた。

 

 だが、最後に黒執着春麗の声が残る。

 

 今日は、あなたが見た分だけ、私が勝つわ。

 

 本編春麗は、布団の中で固まった。

 

「……それは」

 

 一拍。

 

「言わない」

 

 もう一拍。

 

「私は言わない」

 

 さらに一拍。

 

「青では、絶対に言わない」

 

 言ってから、少しだけ不安になった。

 

 絶対と言うと危険。

 

 未来の自分が裏切る可能性がある。

 

 春麗は、弱く言い直した。

 

「……今は言わない」

 

 それでも十分危険だった。

 

 本編春麗は、顔を赤くしたまま布団をかぶった。

 

 黒執着春麗の黒の事前戦術ログ。

 

 客観視すると黒歴史に近い。

 

 しかし、戦術としては正当。

 

 類似ログ疑惑あり。

 

 限定参照可。

 

 本人確認禁止。

 

 そして、新規分類候補。

 

 黒歴史ではなく、黒戦術。

 

 春麗は、眠りに落ちる直前、小さく呟いた。

 

「……記録板AIには、絶対に見せないわ」

 

 誰も答えない。

 

 けれど、どこかで『未承認仮分類:黒戦術』と保存された気がした。

 

 春麗は、布団の中で目を開けた。

 

「保存しないで」

 

 やはり誰も答えない。

 


 

 記録板AIは、銀色の棚の前で表示を戻した。

 

『受信ログを終了します』

 

『本記録は、本編確定ログではありません』

 

『黒執着春麗の黒ドレス戦闘前準備から派生した、本編春麗側の受信事故です』

 

『本編時空への直接反映は禁止推奨です』

 

 一拍。

 

『受信内容』

 

『黒執着春麗は、黒ドレスでの試合前に、髪、表情、目元、歩き方、視線、初手の言葉、煽りセリフを調整していました』

 

『本人はふざけていません』

 

『勝つための準備です』

 

『分類上は、黒の事前戦術です』

 

 一拍。

 

『本編春麗側の被弾内容』

 

『黒執着春麗の事前準備を客観視したことによる精神HP被弾』

 

『自身の黒ドレス前準備との類似ログ疑惑』

 

『話題候補を紙に書く本編春麗と、煽りセリフを紙に書く黒執着春麗の構造的類似』

 

『黒歴史ではなく黒戦術、という未承認仮分類の発生』

 

 一拍。

 

『分類』

 

『電波受信/黒の事前戦術ログ』

 

『客観視による精神HP被弾あり』

 

『類似ログ疑惑あり』

 

『戦術としては正当』

 

『心理的には黒歴史に近い』

 

『限定参照可』

 

『本人確認禁止』

 

 一拍。

 

『注意』

 

『当該ログは青い小箱への混入不可です』

 

『ただし、黒を扱う場合の事前戦術としては限定参照可能です』

 

『黒歴史ではありません』

 

『黒戦術です』

 

『ただし、記録閲覧には精神HPが必要です』

 

 最後に、記録板AIは淡々と締めた。

 

『なお、本編春麗の「記録板AIには絶対に見せないわ」という発言については、既に受信ログとして最低限の分類を完了しています』

 

『本人への通知は非推奨です』

 

『以上、ディレクターズカットIF派生・黒執着春麗黒戦術ノート受信ログでした』

 

 その夜、本編春麗は、黒執着春麗に少しだけ同情した。

 

 そして、過去の自分にも、少しだけ同情した。

 

 あれは黒歴史ではない。

 

 たぶん。

 

 黒戦術。

 

 ただし、見返すには精神HPが必要だった。

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、黒執着春麗の「黒の事前戦術ログ」を、本編春麗が電波受信してしまうディレクターズカットIF派生回でした。

まず大前提として、この話は本編確定ログではありません。
また、妄想章IF後日談の時空で発生した出来事でもありません。

あくまで、黒執着春麗側のディレクターズカットIFから派生した、本編春麗の受信事故ログです。

今回の特徴は、戦闘そのものではなく、戦闘前の準備を扱っている点です。

黒執着春麗は、まだリュウと戦っていません。
発勁も使っていません。
倒れてもいません。
介抱もされていません。

ただ、鏡の前で準備をしているだけです。

髪を整える。
目元を調整する。
唇の色を見る。
黒ドレスの見え方を確認する。
歩き方を考える。
最初の目線を考える。
最初の一言を考える。
煽りセリフの候補を紙に書く。

それだけです。

しかし、それだけなのに本編春麗には非常に刺さっています。

なぜなら、黒執着春麗はふざけていないからです。

本人は本気で勝つために準備しています。

黒ドレスは、ただ着るだけの衣装ではありません。
黒は、試合が始まる前から始まります。

どう見られるか。
どこで視線を止めるか。
どの角度で相手の呼吸を遅らせるか。
最初の一言で、どれだけ相手の意識をずらすか。

それらを全部、戦術として組み立てている。

今回の黒執着春麗は、まさにそれをやっています。

髪の流れ。
目元の強さ。
唇の色。
歩き方。
立ち止まる位置。
リュウに見られた時の返し。

全部が、黒の事前戦術です。

ここだけ見ると、非常に正しいです。

戦う前から戦術を仕込む。
相手の視線を読む。
自分がどう見られるかを利用する。
言葉で半拍を取る。

格闘家としても、黒を使う春麗としても、理屈は通っています。

問題は、それを客観視するとかなり恥ずかしいことです。

今回の本編春麗は、そこに被弾しています。

黒執着春麗の準備は、真剣です。
しかし、真剣だからこそ、見ている側がつらい。

煽りセリフ候補を声に出して読む。
悪くないけれど説明的、と分析する。
これは危険、と言いながら候補にする。
命令が雑、と修正する。
保留、と言って残す。

このあたりは、本人にとっては戦術研究です。

でも、本編春麗から見ると、自分の昔のノートを読まれているようなつらさがあります。

ここが今回の一番の笑いどころであり、同時に一番痛いところです。

本編春麗も、他人事ではありません。

黒ドレスを選んだ時。
リュウにどう見られるかを考えた時。
最初の一言をどうするか迷った時。
女としての自分を、戦闘で使うと決めた時。

本編春麗にも、似たような準備はあったはずです。

もちろん、本編春麗と黒執着春麗は違います。

本編春麗は青の話題候補を紙に書く。
黒執着春麗は黒の煽りセリフ候補を紙に書く。

内容は違います。
方向も違います。
危険度も違います。

ただし、「紙に書いて事前準備している」という構造は近い。

これに本編春麗が気づいてしまうのが、今回の被弾ポイントです。

自分は話題候補。
黒執着春麗は煽りセリフ。

違う。
かなり違う。

でも、準備している。
紙に書いている。
言葉を選んでいる。
相手の反応を想像している。

そこは似ている。

だから本編春麗は、単純に黒執着春麗を笑えません。

黒執着春麗の事前準備を見ながら、過去の自分にも少し同情してしまいます。

今回出てきた分類が、

黒歴史ではなく、黒戦術。

です。

これは今回の中心になる言葉です。

黒歴史と言ってしまえば簡単です。

鏡の前で煽りセリフを練習している。
見られ方を研究している。
リュウの反応を想定している。
自分の目元や髪の流れまで戦術化している。

あとから見ると、かなり恥ずかしい。

ただ、それを黒歴史とだけ言ってしまうと、少し違います。

黒執着春麗にとって、それは本気の戦術です。

勝つための準備です。
リュウを揺らすための準備です。
黒ドレスをただの衣装にしないための準備です。

だから、黒歴史ではない。

黒戦術。

ただし、客観的に見返すには精神HPが必要。

この距離感が、今回の話です。

また、今回の煽りセリフ候補の中で一番危険なのは、

今日は、あなたが見た分だけ、私が勝つわ。

です。

これはかなり黒執着春麗らしい言葉です。

リュウが自分を見る。
その分だけ遅れる。
その遅れを勝因にする。
そして、それを本人に言う。

黒としては強いです。

ただし、言った側も危険です。

リュウが本当に見ていたと言ったらどうするのか。
見た分だけ遅れたと言われたらどうするのか。
春麗を見ていたと言われたらどうするのか。

勝っても負けても精神HPが削られる可能性があります。

黒執着春麗は、それを分かっていながら採用候補にしています。

そこが彼女の危険さであり、強さでもあります。

一方、本編春麗はその言葉を見て、

私は言わない。
青では絶対に言わない。
今は言わない。

と、どんどん言い直しています。

この「今は」が危険です。

絶対に言わない、と言い切れない。
未来の自分が裏切るかもしれない。
でも、今は言わない。

この弱い訂正が、本編春麗らしいです。

今回のログは、青い小箱には入りません。

青の話題候補とは別です。
正式回答前の整理とも別です。
リュウに話す内容として直接使うものでもありません。

ただし、完全封印でもありません。

なぜなら、事前戦術としては有効だからです。

黒を扱うなら、見られ方の設計は避けられません。
戦う前の表情、髪、歩き方、最初の一言。
それらが半拍を生むなら、戦術として意味があります。

だから分類は、

電波受信/黒の事前戦術ログ。
客観視による精神HP被弾あり。
類似ログ疑惑あり。
戦術としては正当。
心理的には黒歴史に近い。
限定参照可。
本人確認禁止。

となります。

特に「本人確認禁止」は大事です。

黒執着春麗に、

あのセリフ、鏡の前で練習していたでしょう。
目元の強さを調整していたでしょう。
リュウを想定して歩いていたでしょう。

などと確認してはいけません。

言われた側も死にます。
言った側も死にます。

本編春麗自身にも似たログがある可能性があるので、確認した瞬間に自分にも返ってきます。

なので、本人確認禁止です。

今回のディレクターズカットIFは、戦闘回ではありません。
でも、黒の戦闘準備の話です。

黒は、試合が始まってからだけではありません。
リュウと向き合う前から始まっています。

鏡の前。
紙の上。
髪を整える手。
最初の一言を選ぶ時間。
自分をどう見せるかを決める瞬間。

そこから、もう戦闘は始まっている。

ただし、それをあとから見るとかなり恥ずかしい。

今回は、その恥ずかしさを本編春麗が客観視で受信してしまった回でした。

黒歴史ではない。
黒戦術。

でも、見返すには精神HPが必要。

今回の結論は、そこになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。