また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:敗北から始まった春麗が、ようやく勝つ日

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

『本編確定ログではありません』

『本編時空への直接反映は禁止推奨です』

『本ログは、第1話敗北ルートの後続検証記録です』

 

 一拍。

 

『検証対象』

『敗北から始まった春麗が、ようやく勝つ日』

 

『前提』

『第1話敗北ルートにおいて、春麗は本来勝利するはずだった初戦でリュウに敗北しました』

『リュウは最初に春麗を見誤り、女性として認識したことで無意識に拳を鈍らせました』

『春麗はそれを見抜き、本来であればその甘さを叩き潰すはずでした』

『しかし、リュウは試合中に修正しました』

『春麗を格闘家として見直し、女性として見た事実も消さず、そのうえで最後に春麗へ届きました』

 

『結果』

『春麗は、第1話時点でリュウに刻まれる側になりました』

 

 一拍。

 

『その後、春麗は再戦を重ねます』

『しかし、複数回にわたり、春麗はギリギリで敗北しました』

『リュウはそのたびに春麗を見ていました』

『そのたびに、強かったと言いました』

『そのたびに、春麗の敗北は単なる黒星ではなく、リュウに覚えられた敗北として蓄積されました』

 

 一拍。

 

『本ログは、その蓄積の果てに発生した初勝利ログです』

 

『重要点』

『この勝利は清算ではありません』

『この勝利は終了条件ではありません』

『この勝利は、敗北を消すためのものではなく、敗北を抱えたままリュウへ刻み返すためのものです』

 

 一拍。

 

『注意事項』

『本ログ時点の春麗は、まだ後続で整理される各種概念を認識していません』

『通常武道服で戦う自分の姿を、特定の対概念として定義している段階ではありません』

『したがって、本文内では春麗本人の認識として、後年の分類語は使用しません』

『この時点の春麗にとって、それはただ、いつもの武道服であり、自分の拳と足であり、リュウと向かい合うための姿です』

『記録板AIによる本ログの分類も、後年分類を先取りせず、通常武道服で戦う第1話敗北ルート春麗の初勝利ログとして扱います』

 

 一拍。

 

『分類』

『ディレクターズカットIF』

 

『第1話敗北ルート後続検証』

『通常武道服で戦う初期春麗』

『初勝利ログ』

『返済開始』

『終わらせない勝利』

『春麗めんどくささ高度化』

『危険度:高』

『精神HP危険度:高』

『再戦欲求継続危険度:高』

 

 一拍。

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 春麗は、最初の敗北を忘れなかった。

 

 忘れられるはずがなかった。

 

 あの日、リュウは最初に春麗を見誤った。

 

 女として見た。

 格闘家としても見ていた。

 けれど、その奥で一瞬だけ拳を鈍らせた。

 

 春麗は、それを見抜いた。

 許せなかった。

 だから、叩き潰すつもりだった。

 女だからと拳を鈍らせたこと。

 春麗という格闘家を、最初から正しく見なかったこと。

 その甘さを、試合の中で突きつけてやるつもりだった。

 

 だが、リュウは途中で変わった。

 

 甘さを自覚し、修正し、春麗を見直した。

 

 格闘家として。

 女として。

 春麗として。

 

 そのうえで、最後に春麗へ届いた。

 片膝をついたのは春麗だった。

 勝ったのは、リュウだった。

 

 その敗北は、春麗の中に深く残った。

 

 ただの黒星ではない。

 ただの試合結果ではない。

 

 女として見られた。

 格闘家として見直された。

 最後に届かれた。

 

 そして、負けた。

 

 その全部が、春麗の中に刺さったまま抜けなかった。

 だから、春麗はリュウに再戦を求めた。

 

 二度目。

 

 春麗は最初から全力で行った。

 

 今度こそ勝つ。

 今度こそ、最初から春麗を見てくるリュウを倒す。

 あの日の敗北を、上から塗りつぶす。

 

 リュウは、約束通り最初から来た。

 

 もう拳は鈍らなかった。

 

 春麗を見ていた。

 踏み込みを見ていた。

 呼吸を見ていた。

 青い袖の揺れを見ていた。

 その奥にいる春麗を見ていた。

 

 春麗はそれを受け止めた。

 

 嬉しくなどない。

 そう思った。

 だが、拳は熱くなった。

 

 リュウが最初から来た。

 最初から、自分を見てきた。

 そのリュウを倒せば、あの日の敗北は返せる。

 

 そう思った。

 

 だが、負けた。

 ギリギリだった。

 

 リュウの肩は春麗の蹴りで大きく揺れた。

 掌底も一度、深く入った。

 最後の一撃の前、リュウの呼吸は止まりかけていた。

 

 それでも、最後に立っていたのはリュウだった。

 春麗は、また膝をついた。

 リュウは言った。

 

「強かった」

 

 春麗は答えられなかった。

 

 強かった。

 

 また、それを言う。

 

 負けた春麗に。

 届かなかった春麗に。

 あと少しで勝てたのに、また負けた春麗に。

 

 春麗は、その言葉を捨てられなかった。

 

 三度目。

 

 春麗は、リュウの踏み込みを読んでいた。

 

 あの日から、リュウの拳ばかり考えていた。

 

 どこで肩が入るのか。

 どこで腰が回るのか。

 どこで視線が変わるのか。

 どこで春麗へ届くのか。

 

 自分でも嫌になるほど、リュウの拳を覚えていた。

 

 それなのに。

 

 また負けた。

 

 最後の最後で、リュウの拳が春麗の肩へ入った。

 春麗の蹴りも、リュウの胸の寸前まで届いていた。

 ほんのわずかな差。

 それでも差は差だった。

 

 床に片膝をついた春麗は、唇を噛みしめた。

 

「……また」

 

 声が漏れた。

 リュウは何も言わなかった。

 勝ち誇らない。

 それがまた腹立たしかった。

 春麗は顔を上げる。

 

「言いなさいよ」

 

「何を」

 

「強かった、って」

 

 言ってから、春麗は自分で傷ついた。

 

 何を求めているのか。

 

 負けたのに。

 悔しいのに。

 屈辱なのに。

 

 リュウに強かったと言われることを、どこかで待っている。

 リュウは静かに言った。

 

「強かった」

 

 春麗は目を伏せかけた。

 

 すぐに戻す。

 

 負けた顔をこれ以上見せたくない。

 

 それでも、リュウの言葉は胸の奥に残った。

 

 四度目。

 

 春麗は勝つために戦った。

 

 負けるためではない。

 褒められるためでもない。

 慰められるためでもない。

 

 勝つために。

 

 それなのに、リュウはまた春麗へ届いた。

 春麗もリュウへ届いた。

 互いに限界だった。

 最後の瞬間、春麗の足は動かなかった。

 リュウの拳が、半拍早かった。

 

 また負けた。

 

 五度目。

 

 春麗は、試合前にリュウを睨んだ。

 

「あなた、いつまで私に勝つつもり?」

 

 リュウは答えた。

 

「春麗が勝つまで、手は抜かない」

 

 春麗の胸が大きく揺れた。

 手を抜かない。

 当然だ。

 当然なのに、その言葉は重かった。

 

「私が勝ったら?」

 

「次は俺が勝ちに行く」

 

 春麗は笑った。

 

 悔しいほど、いい答えだった。

 その試合も、春麗は負けた。

 ただし、リュウも倒れかけた。

 リュウの膝が一度、床に触れかけた。

 

 春麗はそれを見た。

 

 あと少しだった。

 本当に、あと少し。

 なのに、その「あと少し」が遠かった。

 

 その日から、春麗の中で何かが変わった。

 

 リュウに勝ちたい。

 それは最初からあった。

 だが、もうそれだけではなかった。

 リュウに覚えさせたい。

 

 自分が何度負けたか。

 何度届きかけたか。

 何度、あと少しで勝てなかったか。

 

 全部。

 

 リュウに覚えさせたい。

 

 春麗は、自分の敗北を消したくなかった。

 

 消したら楽になる。

 ただの負けとして整理すればいい。

 次に勝てばいい。

 

 そうではなかった。

 

 春麗は、あの屈辱を手放したくなかった。

 

 最初に敗北を刻まれた。

 その後も、何度もギリギリで負けた。

 そのたびにリュウは春麗を見ていた。

 強かったと言った。

 次も来ると答えた。

 

 それらを、消したくなかった。

 

 なぜなら、それら全部を抱えたまま勝たなければ、意味がないからだ。

 

 そして、次の試合の日が来た。

 

 春麗は、いつもの青い武道服で立っていた。

 

 見慣れた袖。

 結び慣れた帯。

 何度もこの場所で、リュウと向かい合ってきた姿。

 

 だが、それを身につけている春麗は、最初の日とは違っていた。

 

 敗北を知っている。

 屈辱を知っている。

 リュウに届かれたことを知っている。

 何度も膝をついた重さを知っている。

 

 それでも、リュウの前へ立つ。

 

 リュウは向かい側にいた。

 

 白い道着。

 赤い鉢巻。

 静かな目。

 

 春麗を見ている。

 

 最初から。

 

 もう、あの日のような鈍りはない。

 

 女だからと迷う拳ではない。

 壊してはいけない相手として測る拳でもない。

 

 春麗に勝つための拳。

 

 その目を見た瞬間、春麗の胸の奥が熱くなった。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「今日こそ、私が勝つわ」

 

「ああ」

 

「ずっと負けていた私が」

 

「ああ」

 

「何度も膝をついた私が」

 

「ああ」

 

「あなたに刻まれた私が」

 

 春麗は構えた。

 

「今日、あなたに刻み返す」

 

 リュウの拳が、わずかに強く握られた。

 試合開始の合図が鳴る。

 春麗は踏み込んだ。

 

 最初から速い。

 だが、リュウも反応する。

 

 拳が来る。

 いつもの拳。

 何度も春麗を倒した拳。

 何度も、最後の一線を越えてきた拳。

 

 春麗はそれを見た。

 

 覚えている。

 

 肩。

 腰。

 足。

 視線。

 呼吸。

 

 全部覚えている。

 忘れていない。

 忘れないと言ったのは、自分だ。

 

 春麗は半歩外へ出た。

 

 拳が青い袖をかすめる。

 近い。

 だが、今日は当たらない。

 春麗の蹴りが入る。

 リュウは受けた。

 すぐに前へ出る。

 春麗は引かない。

 

 掌底を合わせる。

 胸へ。

 浅い。

 リュウは止まらない。

 拳が春麗の肩へ来る。

 また、その拳。

 何度も自分を止めた拳。

 

 春麗は腕で受けた。

 

 重い。

 骨に響く。

 だが、今日は流されない。

 

「覚えているわ」

 

 春麗は言った。

 

「その拳」

 

 リュウの目が少しだけ動く。

 春麗は踏み込む。

 

「その踏み込みも」

 

 下段。

 中段。

 掌底。

 

 リュウは受ける。

 受けながら前へ来る。

 

 春麗はさらに言う。

 

「その距離も」

 

 リュウの拳が近づく。

 春麗は避ける。

 完全には避けきれない。

 拳が肩をかすめる。

 

 痛い。

 でも、止まらない。

 

「何度も」

 

 春麗は息を荒げながら言う。

 

「何度も、あなたに膝をつかされた」

 

 蹴りが入る。

 リュウの身体が揺れる。

 

「そのたびに、あなたは私を見た」

 

 リュウが拳を返す。

 春麗の腕に入る。

 

 重い。

 だが、春麗は踏みとどまる。

 

「強かったって言った」

 

 春麗の掌底が、リュウの胸へ入る。

 今度は深い。

 リュウの呼吸が止まる。

 

「次も来ると言った」

 

 リュウは膝を落とさない。

 床を踏む。

 春麗へ来る。

 

 やはり強い。

 やはり届いてくる。

 それでこそ、リュウだ。

 

 春麗は笑いそうになった。

 

 こんな時に。

 勝つか負けるかの瀬戸際で。

 それでも、この拳が嬉しいと思ってしまう。

 だからこそ、勝つ。

 

 春麗は百裂脚へ繋いだ。

 青い残像がリュウの前で重なる。

 リュウは受ける。

 受けながら、また前へ出ようとする。

 

 何度も見た。

 その動き。

 

 百裂脚の内側へ踏み込む。

 春麗のリズムを崩す。

 最後に拳を入れる。

 

 それで何度も負けた。

 だから、春麗は待っていた。

 リュウが前へ出る。

 

 春麗は蹴りを止める。

 一瞬、空白が生まれる。

 

 リュウの拳が入ってくる。

 そこへ、春麗は身体を沈めた。

 拳が髪飾りの上を抜ける。

 春麗は懐へ入る。

 

 掌底。

 胸。

 深く。

 リュウの呼吸が止まった。

 

 今度は、確かに入った。

 だが、リュウは倒れない。

 踏みとどまる。

 

 春麗は分かっていた。

 これだけでは倒れない。

 だから次。

 

 蹴り。

 肩へ。

 

 リュウは受けた。

 

 腕が流れる。

 ここで、いつもならリュウが返してきた。

 最後の拳。

 春麗を止める拳。

 

 来る。

 

 春麗は見た。

 リュウの拳が上がる。

 

 速い。

 まだ速い。

 

 限界のはずなのに、まだ来る。

 春麗の胸が震える。

 

 ここでまた負けるのか。

 また、あと少しで届かないのか。

 また、膝をつくのか。

 

 嫌。

 もう嫌。

 でも、逃げない。

 春麗は一歩、さらに踏み込んだ。

 

 拳を避けるのではない。

 拳の内側へ入る。

 リュウの拳が肩をかすめる。

 

 痛みが走る。

 だが、中心には入らない。

 春麗の足が、リュウの足元を捉える。

 

 崩す。

 

 ほんのわずかに、リュウの重心が落ちる。

 そこへ最後の掌底を入れた。

 胸の中心。

 

 短く。

 深く。

 これまでの敗北を全部乗せるように。

 

 リュウの身体が止まった。

 

 一拍。

 長い一拍。

 

 春麗は息を止める。

 次の瞬間、リュウの膝が落ちた。

 床に。

 片膝。

 リュウが、膝をついた。

 

 春麗は立っていた。

 立っていた。

 リュウの前に。

 

 勝った。

 春麗は、すぐには声を出せなかった。

 

 息が荒い。

 肩が痛い。

 足が震える。

 もう一歩も動けないかもしれない。

 

 それでも、立っている。

 リュウは片膝をついている。

 

 勝った。

 やっと。

 やっと、勝てた。

 

 春麗の胸の奥から、熱が噴き上がる。

 

 勝利の熱。

 悔しさの熱。

 屈辱の熱。

 何度も膝をついた記憶の熱。

 

 全部が一つになる。

 春麗は、ゆっくりリュウへ近づいた。

 

 一歩。

 足が震える。

 

 二歩。

 呼吸が乱れる。

 

 三歩。

 リュウの前に立つ。

 

 リュウは顔を上げた。

 悔しそうだった。

 それでも、目は折れていない。

 

 春麗は、その顔を見た瞬間、喉の奥が詰まりそうになった。

 

 これを見たかった。

 ずっと。

 ずっと、見たかった。

 リュウが自分を見上げる顔。

 

 負けたリュウ。

 春麗に届かなかったリュウ。

 それでも次を見ているリュウ。

 

 春麗は笑った。

 笑ったつもりだった。

 だが、きっと顔は少し歪んでいた。

 

 勝者の余裕などない。

 余裕など、どこにもない。

 あるのは、ようやく返したという感情だけ。

 

「……私の勝ち」

 

 声が震えた。

 リュウは静かに答えた。

 

「ああ」

 

 その「ああ」が、春麗に深く入る。

 認めた。

 リュウが認めた。

 春麗の勝ちを。

 春麗は拳を握った。

 

「やっと」

 

 言葉がこぼれる。

 

「やっとよ、リュウ」

 

「ああ」

 

「何度も負けた」

 

「ああ」

 

「何度も膝をついた」

 

「ああ」

 

「あなたに見られた」

 

「ああ」

 

「強かったって言われた」

 

「ああ」

 

「次は最初から見るって言われた」

 

「ああ」

 

「今日の春麗を覚えておくって言われた」

 

「ああ」

 

 春麗は、リュウの前で膝を折った。

 倒れるためではない。

 視線を合わせるために。

 勝者として、敗者のリュウと同じ高さへ下りる。

 だが、そこに余裕はない。

 これは見下ろしでは足りなかった。

 この勝利は、見下ろすだけでは足りなかった。

 春麗は、リュウの顔をまっすぐ見た。

 

「覚えている?」

 

「ああ」

 

「最初の日」

 

「ああ」

 

「あなたが私を見誤った日」

 

「ああ」

 

「途中で格闘家として見直した日」

 

「ああ」

 

「私を倒した日」

 

「ああ」

 

 春麗の目が熱くなる。

 泣きそうではない。

 いや、泣きそうなのかもしれない。

 だが、これは涙ではなく、勝利の熱だ。

 

「私は忘れなかったわ」

 

「ああ」

 

「一度も」

 

「ああ」

 

「今日まで、ずっと」

 

「ああ」

 

 リュウは、何も逃げない。

 その顔を見て、春麗はさらに胸が苦しくなる。

 どうして逃げないのか。

 どうして、こんなに全部受けるのか。

 だから、こんなに忘れられなくなる。

 春麗は息を吸った。

 

「返済よ」

 

「返済」

 

「ええ」

 

 春麗は、リュウの鉢巻をゆっくり整える。

 

「あなたに刻まれた敗北を、今日の勝利で返しているの」

 

「ああ」

 

「でも、全部は返せない」

 

「ああ」

 

「返したくないから」

 

 言ってしまった。

 春麗は自分の言葉に一瞬だけ傷ついた。

 だが、もう止まらなかった。

 

「消したくないの」

 

 声が低くなる。

 

「あなたに負けたことも」

 

「ああ」

 

「何度も届かなかったことも」

 

「ああ」

 

「悔しくて、眠れなかった夜も」

 

「ああ」

 

「あなたの拳ばかり考えたことも」

 

 リュウの目が、ほんの少し動いた。

 春麗はそれを見逃さなかった。

 入った。

 今の言葉は、リュウにも入った。

 春麗は笑った。

 今度は、少しだけ勝者の笑みだった。

 

「全部、消さない」

 

「ああ」

 

「その上で」

 

 春麗は、リュウの額に指を置いた。

 最初の日とは逆。

 リュウに刻まれた春麗が、今、リュウへ印をつける。

 

「今日、私はあなたに勝った」

 

「ああ」

 

「ようやく」

 

「ああ」

 

「やっと」

 

「ああ」

 

「だから、あなたも忘れないで」

 

 春麗の声が震える。

 

「今日、私に負けたことを」

 

 リュウは、まっすぐ春麗を見た。

 

「忘れない」

 

 春麗の精神が大きく削れた。

 勝ったのに。

 ようやく勝ったのに。

 その一言で、また胸が苦しくなる。

 

 忘れない。

 

 リュウが言った。

 

 今日の勝利を。

 春麗に負けたことを。

 覚えると。

 

 春麗は、目を伏せかけた。

 

 だが、伏せない。

 今日は伏せない。

 今日だけは。

 

「なら、いいわ」

 

 春麗は言った。

 

「今日は、私の勝ち」

 

「ああ」

 

「私が、あなたを膝につかせた」

 

「ああ」

 

「私が、あなたに覚えさせた」

 

「ああ」

 

「そして」

 

 春麗はリュウの額を軽くつついた。

 小さな印。

 だが、これまでで一番重い印。

 

「次も来なさい」

 

 リュウの拳が握られる。

 春麗はそれを見て、満足した。

 やっと勝った。

 なのに、終わらせたくない。

 勝てば終わると思っていた。

 リュウに勝てば、あの日の屈辱は消えると思っていた。

 

 違った。

 消えない。

 消したくない。

 勝っても、次が欲しい。

 

 春麗は、自分の胸の奥にある感情を見てしまった。

 これは、もうただの屈辱ではない。

 ただの再戦欲求でもない。

 執着。

 きっと、そう呼ぶものだ。

 

 だが、春麗はそれを否定しなかった。

 

 今日は否定しない。

 ようやく勝った日だから。

 この勝利くらい、正面から持ってやる。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「私は、あなたを忘れないと言ったわ」

 

「ああ」

 

「今でも変わらない」

 

「ああ」

 

「でも、今日からは違う」

 

 春麗は、勝者として微笑んだ。

 

「私は、あなたに負けた私だけじゃない」

 

「ああ」

 

「あなたに勝った私も、覚えさせる」

 

 リュウの目が強くなる。

 

「次は、俺が勝つ」

 

 春麗は笑った。

 その答えが欲しかった。

 ずっと。

 敗北を返した後でも、次を見てくるリュウが欲しかった。

 

「そう言うと思った」

 

 春麗は立ち上がろうとした。

 だが、足が震えた。

 リュウが手を伸ばしかける。

 春麗は、その手を見た。

 最初の敗北の日、取らなかった手。

 勝者のリュウの手。

 今は違う。

 今日は、自分が勝った。

 その上で、春麗はリュウの手を取った。

 立ち上がるために。

 そして、立ち上がってからも、ほんの一瞬だけ離さなかった。

 リュウは何も言わない。

 

 春麗は少しだけ笑った。

 

「今日のこれは、勝者特権よ」

 

「ああ」

 

「今までの敗北の返済でもあるわ」

 

「ああ」

 

「それから」

 

 春麗は、視線を少し逸らした。

 

「……次の予約」

 

 リュウは静かに答える。

 

「分かった」

 

 その一言で、春麗の胸がまた熱くなる。

 

 分かった。

 

 本当に、この男は危険だ。

 

 春麗は手を離した。

 春麗は背を向けた。

 歩き出す。

 

 身体は限界だった。

 足は震えている。

 肩も痛い。

 胸も苦しい。

 

 けれど、春麗は立っている。

 

 勝者として。

 

 何度も負けた。

 何度も屈辱に塗れた。

 何度もリュウに届かなかった。

 

 その全部を抱えたまま、ようやく勝った。

 

 だから、この勝利は軽くない。

 

 清々しくもない。

 

 綺麗なだけでもない。

 

 重い。

 熱い。

 少し苦い。

 そして、どうしようもなく甘い。

 

 春麗は、道場の出口で一度だけ振り返った。

 

 リュウはまだ片膝をついたまま、春麗を見ていた。

 

 春麗は笑った。

 

「覚えておきなさい、リュウ」

 

「ああ」

 

「今日、私はあなたに勝った」

 

「ああ」

 

「そして、次も勝つわ」

 

 リュウは答えた。

 

「そうはさせない」

 

 春麗は満足した。

 

 それでいい。

 

 その返事があるから、次へ行ける。

 敗北から始まった春麗は、ようやく勝った。

 だが、それで終わらなかった。

 むしろ、ここからだった。

 春麗は、誰にも見えない角度で小さく笑う。

 

 最初に刻まれたのは、私だった。

 でも、今日。

 私も、あなたに刻んだわ。

 だから次は。

 どちらが深く刻むか、もう一度確かめましょう。

 

 春麗は青い袖を揺らし、歩き出した。

 

 その背中には、敗者の屈辱も、勝者の熱も、どちらも残っていた。

 そして、春麗はそのどちらも捨てなかった。

 リュウを忘れないために。

 リュウに忘れさせないために。

 


 

 記録板AIは、そこでログを停止した。

 

『検証ログ終了』

『結果を整理します』

 

 一拍。

 

『本ログにおいて、春麗は第1話敗北ルートの後、複数回のギリギリ敗北を経て、ようやくリュウに勝利しました』

『ただし、重要なのは勝利そのものではありません』

『重要なのは、春麗が勝利によって敗北を消さなかったことです』

『春麗は、リュウに負けたことを消したくないと認識しました』

『何度も届かなかったこと』

『悔しくて眠れなかった夜』

『リュウの拳ばかり考えたこと』

『それらを消さずに、すべて抱えたまま勝ちました』

 

 一拍。

 

『本ログで発生したもの』

『敗北の記憶を抱えた勝利』

『リュウに刻まれた春麗による刻み返し』

『返済という概念』

『未完済による継続欲求』

『次の予約』

『リュウに忘れさせない春麗』

『勝っても終わらない春麗』

 

 一拍。

 

『本ログにおける春麗の発言を整理します』

 

『今日、私はあなたに勝った』

『今日、私に負けたことを忘れないで』

『あなたに負けた私だけじゃない』

『あなたに勝った私も、覚えさせる』

『返済でもあるわ』

『次の予約』

 

 一拍。

 

『返済という概念が発生しています』

『ただし、この返済は完済ではありません』

『むしろ、返し切りたくないという感情を含んでいます』

 

 一拍。

 

『結論』

 

『敗北から始まった春麗は、このログでようやく勝ちました』

『しかし、その勝利は終点ではありません』

『勝ったことで春麗は、自分がリュウとの敗北の記憶を消したいわけではないと理解しました』

『リュウに負けた自分』

『リュウに届かなかった自分』

『リュウに見られた自分』

『リュウに強かったと言われた自分』

『そのすべてを抱えたまま、リュウに勝った自分』

『それらを、春麗は消しませんでした』

『そのため、本ログの勝利は清算ではなく、継続条件です』

 

 一拍。

 

『時系列上の注意』

 

『本ログ時点の春麗は、後続で整理される対概念をまだ認識していません』

『そのため、春麗本人は通常武道服で戦う自分を、概念として定義しているわけではありません』

『本文内で描かれる青い武道服は、あくまで春麗がいつも戦う時に身につけている武道服です』

『記録板AI分類においても、本ログでは後年の概念名を先取りせず、第1話敗北ルート春麗の通常武道服での初勝利ログとして保存します』

 

 一拍。

 

『本編との比較』

 

『本編側』

『第1話で春麗がリュウに勝利し、勝者としてリュウの甘さを叩き直す流れ』

 

『本ログ側』

『第1話で春麗がリュウに刻まれ、何度も敗北し、その記憶を抱えたまま、ようやくリュウへ刻み返す流れ』

 

 一拍。

 

『本ログは本編置換不可です』

『ただし、敗北始動の春麗がどのようにめんどくささを増幅させるかを示す検証ログとして有効です』

『春麗は、勝ったことで楽になったのではありません』

『勝ったことで、終わらせたくないことに気づきました』

 

『このため、本ログは以下の分類で保存します』

『ディレクターズカットIF』

『第1話敗北ルート後続検証』

『通常武道服で戦う初期春麗』

『初勝利ログ』

『返済開始ログ』

『勝っても終わらない春麗』

『リュウに忘れさせない春麗』

『危険棚保存推奨』

 

 一拍。

 

『保存名』

『敗北から始まった春麗が、ようやく勝つ日』

 

『副題』

『勝っても終わらない春麗』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

『危険棚』

 

『保存完了』

 

『以上』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回のディレクターズカットIFは、第1話で敗北した春麗が、屈辱と執着を抱えたまま初勝利にたどり着く話です。

本来の第1話春麗勝利ルートでは、春麗はリュウの甘さを叩き潰す側です。
リュウが女だからと拳を鈍らせる。春麗がそれを見抜く。勝つ。そして「私を格闘家として見なさい」と突きつける。
この場合、春麗は最初から主導権を握っています。

でも今回の敗北世界線では、その主導権が最初に奪われています。

春麗はリュウの甘さを見抜いた。
本来なら、そこから勝って終わらせるはずだった。
しかしリュウが試合中に修正してしまった。
そして、春麗を女としても、格闘家としても、春麗としても見たうえで、最後に勝った。

これが春麗にとって一番厄介です。

単純に見くびられて負けたのではない。
単純に強い相手に負けたのでもない。
「最初に間違えた相手が、途中で正しく見直して、そのうえで自分に勝った」わけです。

だから春麗は怒りを単純な怒りとして処理できません。

「最初からそう見なさいよ」という怒り。
「途中で修正してくるなんてずるい」という悔しさ。
「それでも私に勝った」という屈辱。
「でも、ちゃんと見られた」という危険な納得。
その全部が混ざって、リュウへの執着になります。

今回の連敗パートは、その執着が少しずつ濃くなる過程です。

春麗は何度もギリギリまで行く。
リュウに届きかける。
リュウも追い詰められる。
でも最後の一線だけはリュウが渡さない。

この反復によって、春麗の中でリュウは「いつか倒したい相手」ではなく、自分の敗北を何度も刻んだ相手になります。

そして重要なのは、春麗がその敗北を消したがっていないことです。

普通なら、負けは上書きしたいものです。
勝って、忘れて、先へ進みたい。
でもこの春麗は違います。

あの日の敗北も、何度も膝をついたことも、リュウに「強かった」と言われたことも、悔しくて眠れなかったことも、全部抱えたまま勝ちたい。

だから、ようやく勝った時に出る感情は爽やかな勝利ではありません。

重いです。
苦いです。
でも甘いです。

今回の初勝利は、「やっと勝った」だけではなく、負け続けた自分を連れて勝ったことに意味があります。

だから春麗は、リュウを見下ろして終わるだけでは足りない。
同じ高さまで下りて、顔を見て、確認したくなる。

覚えている?
最初の日を。
あなたが私を見誤った日を。
途中で格闘家として見直した日を。
私を倒した日を。
そして今日、私に負けたことを。

この確認は、原初的な「刻み返し」です。

リュウに刻まれた春麗が、ようやくリュウに刻み返す。
それが今回の初勝利の意味です。

また、この世界線の春麗は、本編春麗よりもかなり危険です。

本編春麗は、青い小箱や会議室の整理によって、自分のめんどくささをある程度分類できます。
でも第1話敗北世界線の春麗には、そうした制度がありません。

だから感情がむき出しです。

「これは返済」
「これは忘れさせないための印」
「これは私があなたに勝った証明」

になっている。
こちらの方が未整理で、重く、少し怖い。
特に今回の春麗は、勝ったのに敗北を消していません。

消したくないの

ここが非常に重要です。

勝ったことで屈辱を消すのではなく、屈辱を抱えたまま勝利を上に重ねる。
だからこの勝利は、敗北の否定ではありません。
敗北を含んだ勝利です。

この構造はかなり強いです。

最初に刻まれたのは春麗だった。
何度も刻まれた。
ようやく勝った。
でも、刻まれた過去は消さない。
そのうえで、今日の勝利をリュウにも刻む。

だからこの世界線の春麗は、勝った瞬間に浄化されません。

むしろ、勝ったことで執着が完成します。

「これで終わり」ではなく、
「これでようやく、あなたと同じ場所に刻めた」
になる。

そしてリュウが「次は俺が勝つ」と返すことで、この関係は終わらず続いてしまう。

ここがとても良いです。

春麗は勝った。
リュウは負けた。
でもリュウは次を見る。
春麗もその返答を望んでいる。
だから、初勝利は終着点ではなく、第二の始まりになります。

今回のエピソードの位置づけをまとめると、こうです。

通常ルートの春麗は、勝利からリュウとの関係を始める。
第1話敗北世界線の春麗は、敗北からリュウへの執着を始める。
何度も負けることで、その執着は深くなる。
そして初めて勝った時、春麗は敗北を消すのではなく、敗北ごと勝利に変えたのでした。
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