また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルートの後続検証です』
『時系列上は、敗北から始まった春麗が、ようやくリュウに初勝利した直後に位置します』
『以下、検証ログを開始します』
勝った。
その事実だけを、春麗は帰り道の間、何度も胸の中で確かめていた。
リュウに。
ようやく。
初めて。
あの日から、ずっと届かなかった相手に。
春麗は、自室の扉を閉めた。
鍵をかける。
背中を扉に預ける。
その瞬間、身体から力が抜けた。
「……勝った」
声に出してみる。
小さな声だった。
誰かに聞かせるためではない。
自分の耳で確かめるための声だった。
春麗は、ゆっくり息を吐いた。
肩が痛い。
腕が重い。
足もまだ少し震えている。
勝ったと言っても、余裕などなかった。
最後の一撃は、本当に紙一重だった。
リュウの拳は、春麗の中心へ届きかけていた。
あと半歩。
あと一拍。
あとほんの少し春麗の反応が遅れていたら、また膝をついていたのは自分だった。
それくらい、ギリギリだった。
だからこそ、勝利は本物だった。
リュウは手を抜いていなかった。
それは、春麗が一番よく分かっている。
拳は正直だった。
踏み込みに迷いはなかった。
春麗を倒すために来ていた。
今日も勝つつもりで来ていた。
そのリュウに、春麗は勝った。
「……勝ったのよ」
もう一度言う。
今度は、少しだけ強く。
春麗は扉から背を離し、部屋の中央まで歩いた。
窓の外は暗い。
街の音も遠い。
ここには誰もいない。
リュウもいない。
だから、ようやく勝利の実感が遅れてやって来る。
試合場では、まだ熱があった。
息も荒かった。
リュウが目の前にいた。
片膝をついたリュウが、自分を見上げていた。
その視線があったから、春麗は立っていられた。
勝者として。
ようやく勝った者として。
だが、自室に戻った今。
熱が少しずつ冷めていく。
冷めた分だけ、別のものが浮かび上がってくる。
最初の試合の記憶。
リュウが、ほんの一瞬だけ拳を鈍らせた試合。
春麗はそれを見抜いた。
女だから。
壊してはいけないものを見るように。
格闘家として見ているくせに、その奥で一瞬だけ躊躇した。
許せなかった。
叩き潰すつもりだった。
その甘さを。
その見誤りを。
その中途半端な視線を。
だが、リュウは試合の中で変わった。
拳の鈍りを消した。
春麗を一人の格闘かとして見直した。
女として見たことをなかったことにはせず、それでも格闘家として真正面から来た。
そして、勝った。
片膝をついたのは、春麗だった。
あの時の床の冷たさを、春麗はまだ覚えている。
膝に伝わる衝撃。
喉の奥に残った息。
悔しさ。
屈辱。
怒り。
そして、リュウの声。
強かった。
慰めではなかった。
だから、余計に許せなかった。
それからも、負けた。
二度目も。
三度目も。
その次も。
毎回、ギリギリまで追い詰めた末の敗北だった。
もう少しだった。
届きかけた。
勝てると思った瞬間もあった。
それでも、最後に立っていたのはリュウだった。
春麗は何度も膝をついた。
そのたびにリュウは春麗を見た。
勝者としてではなく。
見下すのでもなく。
ただ、まっすぐに。
そして言った。
強かった。
春麗は、その言葉を何度も持ち帰った。
持ち帰りたくなどなかったのに。
眠る前に思い出した。
朝起きた時にも残っていた。
訓練中に、ふと蘇った。
次の試合の前に、胸の奥で響いた。
強かった。
でも負けた。
強かったのに、負けた。
春麗はベッドの端に腰を下ろした。
手を見る。
今日、リュウに勝った手。
最後の掌底を入れた手。
そして。
リュウの額に触れた手。
「…………」
春麗の呼吸が止まった。
今、思い出した。
いや、忘れていたわけではない。
むしろ、帰り道の間ずっと覚えていた。
けれど、部屋に戻るまでは、その行為に名前をつけていなかった。
勝ったから。
ようやく勝ったから。
あの日からずっと刻まれていたものを、やっと返せたから。
リュウが片膝をついて、自分を見上げていたから。
だから、近づいた。
見下ろすだけでは足りなかった。
同じ高さまで膝を折った。
リュウの顔を見た。
悔しそうだった。
でも目は折れていなかった。
次を見ていた。
その顔を見て、春麗は胸が熱くなった。
そして、指を伸ばした。
リュウの額へ。
軽く触れた。
印をつけるように。
今日、私はあなたに勝った。
忘れないで。
たしかに、そう思った。
思っただけではない。
言った。
春麗は、両手で顔を覆った。
「……待って」
今になって、身体の奥から熱が上がってくる。
試合の熱ではない。
勝利の熱でもない。
もっと危険な熱。
精神に、遅れて直撃する種類の熱。
「私、何をしたの……?」
指の隙間から、声が漏れる。
リュウに勝った。
そこまではいい。
いや、よくはない。
とても大きなことだ。
でも、それは格闘家としての勝利だ。
問題は、その後だ。
なぜ近づいたのか。
なぜ膝を折ったのか。
なぜ同じ目線になったのか。
なぜ額に触れたのか。
なぜ、忘れないで、などと言ったのか。
春麗は、顔を覆ったまま固まった。
大胆。
その言葉が浮かんだ瞬間、さらに精神が削れた。
「……大胆、だったわよね?」
誰に確認しているのか分からない。
部屋には誰もいない。
だが、誰かに聞かずにはいられなかった。
あれは、かなり大胆だったのではないか。
勝ったからといって、相手の額に指を置く必要があるのか?
しかも、リュウに。
何度も自分を倒した相手に。
ようやく勝てた相手に。
自分を見誤り、見直し、そのうえで勝った相手に。
そのリュウに、自分から近づいて。
同じ目線の高さになって。
顔を見て。
額に触れて。
忘れないで、と言った。
「……言ったわね」
春麗はベッドに倒れ込んだ。
仰向けになる。
天井を見る。
見ても、リュウの顔が消えない。
片膝をついたリュウ。
悔しそうな顔。
それでも折れていない目。
春麗の指が額に触れた時、逃げなかったリュウ。
そして。
「忘れない」
春麗は、枕を掴んだ。
「言った……」
リュウは言った。
忘れない。
春麗が、忘れないでと言ったから。
リュウは、忘れないと答えた。
短く。
まっすぐに。
余計な飾りもなく。
だからこそ、春麗の中に入ってきた。
勝ったのは自分なのに。
印をつけたのも自分なのに。
あの一言で、どうして自分がこんなに削られているのか。
「おかしいでしょう……」
春麗は枕を胸に抱えた。
勝った。
やっと勝った。
自分が勝者だった。
リュウは片膝をついていた。
それなのに、部屋に戻った今、春麗の精神は急速に削られている。
試合中よりも危ない。
あの時は、リュウの拳を受けても立っていられた。
今は、リュウの「忘れない」を思い出すだけで危ない。
春麗は目を閉じた。
記憶が順番に戻ってくる。
最初の敗北。
春麗を見誤ったリュウ。
試合中に見直したリュウ。
春麗に勝ったリュウ。
二度目の敗北。
三度目。
何度も繰り返したギリギリの敗北。
悔しくて眠れなかった夜。
リュウの拳を思い出しながら、自分の動きを何度も修正した朝。
次こそ勝つと思った試合。
それでも負けた試合。
強かったと言われた声。
忘れたくても忘れられない顔。
そして、今日。
ようやく勝った。
リュウの膝が落ちた。
春麗は立っていた。
あの瞬間、胸の奥で何かが切れた。
それまで張り詰めていたもの。
負け続けた時間。
何度も膝をついた記憶。
リュウに刻まれた敗北。
全部が、一気に押し寄せてきた。
だから、近づいた。
だから、触れた。
だから、印をつけた。
あれは衝動だった。
でも、ただの衝動ではなかった。
ずっとしたかったことだったのではないか?
そう思った瞬間、春麗は枕に顔を埋めた。
「違う」
すぐ否定する。
「違うわ。そうじゃない」
では、何なのか。
返済。
そう。
返済だ。
リュウに刻まれたから、刻み返した。
自分だけが覚えているのは嫌だった。
自分だけが悔しさを持っているのは嫌だった。
リュウにも、今日の敗北を覚えていてほしかった。
だから、印をつけた。
それだけ。
それだけのはず。
「……本当に?」
自分の声が、自分に聞き返す。
春麗は答えられなかった。
たしかに返済だった。
だが、それだけなら、言葉だけでよかったはずだ。
今日、私は勝った。
覚えておきなさい。
それで済んだはずだ。
なぜ触れた。
なぜ額だった。
なぜ、あんなに近い距離まで行った。
なぜリュウの目を見た。
なぜ、忘れないでと言った。
なぜ、リュウが忘れないと答えた時、胸が痛くなった。
春麗は枕から顔を上げた。
視界が少し滲んでいる。
泣いてはいない。
そういうことにしておく。
「……私は」
言いかけて、止まる。
私は、リュウに何を望んでいたのか。
勝ちたかった。
それは確かだ。
何度も負けたから。
悔しかったから。
あの日の敗北を返したかったから。
でも、それだけではない。
春麗は気づいてしまう。
自分は、リュウに勝ちたかった。
そして、勝った自分をリュウに覚えてほしかった。
負けた春麗だけではなく。
届かなかった春麗だけではなく。
何度も膝をついた春麗だけではなく。
今日、リュウに勝った春麗を。
ちゃんと。
リュウの中に残したかった。
春麗は胸を押さえた。
精神が大きく削れる。
「……重い」
自分で言って、自分でさらに傷つく。
重い。
かなり重い。
だが、否定できない。
勝っただけでは足りなかった。
リュウに負けを認めさせるだけでも足りなかった。
覚えてほしかった。
忘れないと言ってほしかった。
そして、実際に言われた。
忘れない。
春麗は、また枕を抱えた。
「言わせたのは、私だけど……」
そう。
言わせたのは自分だ。
忘れないで、と言ったのは春麗だ。
リュウはそれに答えただけ。
それなのに、答えられた側の春麗がここまで削れている。
理不尽だ。
だが、春麗自身が作った状況だ。
自業自得。
その言葉が浮かび、春麗はまた顔を熱くした。
「……自業自得って、何よ」
誰も責めていない。
リュウも責めていない。
むしろリュウは、正面から受けただけだ。
春麗の印も。
春麗の言葉も。
春麗の勝利も。
全部、受けた。
そして忘れないと言った。
逃げなかった。
そのことが、春麗には苦しい。
逃げられたら、怒れた。
冗談にされたら、切り捨てられた。
意味が分からないと言われたら、説明せずに済んだ。
だが、リュウは受けた。
ああ、と言った。
忘れない、と言った。
だから、春麗は逃げ場を失った。
「……次、どうするのよ」
春麗は天井を見上げる。
次。
当然のように、次のことを考えている自分がいる。
今日勝ったばかりなのに。
やっと勝ったばかりなのに。
もう、次を考えている。
リュウは来るだろうか。
来る。
きっと来る。
負けても折れていなかった。
悔しそうだった。
次を見ていた。
春麗がそうだったように。
リュウも、次に来る。
春麗は、胸がまた熱くなるのを感じた。
次にリュウが来たら。
リュウは、今日の印を覚えているだろうか。
春麗が額に触れたことを。
忘れないでと言ったことを。
今日、春麗に負けたことを。
覚えていると言われたら、どうするのか。
春麗は、枕で顔を隠した。
「無理」
小さく呟く。
無理だ。
もし次に会って、リュウが普通に言ったら。
この前の印は覚えている。
そんなことを言われたら。
春麗の精神は持たない。
だが。
忘れていたら。
それはそれで、許せない。
春麗は枕を少しだけ下げた。
「……面倒くさい」
自分で言って、深く納得した。
覚えていたら困る。
忘れていたら許せない。
これは、かなり面倒くさい。
だが、それが今の春麗だった。
あの日、リュウに敗北を刻まれた。
何度も負け続けた。
ようやく勝った。
勝者として印をつけた。
そして今、その大胆さに自室で撃ち抜かれている。
春麗は、ゆっくり起き上がった。
机の前に座る。
鏡が目に入る。
そこには、青い武道服ではない自分がいる。
試合場の勝者ではない。
リュウの前で印をつけた春麗でもない。
ただ、自室に戻って精神に遅効性ダメージを受けている女がいた。
春麗は鏡の中の自分を見た。
「……勝ったのよ」
言い聞かせる。
「勝った。私は、リュウに勝った」
それは本当だ。
だが、その後が問題だ。
「印をつけただけ」
言ってみる。
あまり説得力がない。
「返済よ」
少しはまし。
「勝者として、当然の確認」
無理がある。
「今日、私が勝ったことを覚えさせただけ」
かなり重い。
春麗は机に突っ伏した。
「全部、重いじゃない……」
精神がさらに削れる。
だが、不思議と後悔はなかった。
大胆だった。
重かった。
かなり危なかった。
でも、やらなければよかったとは思えない。
もしあの瞬間に戻っても、きっとまた近づく。
きっとまた膝を折る。
きっとまたリュウの額に指を置く。
そして言う。
今日、私はあなたに勝った。
忘れないで。
春麗は、机に額をつけたまま目を閉じた。
負け続けた日々は消えない。
今日の勝利で全部が帳消しになったわけではない。
けれど、今日、ひとつ返した。
リュウに刻まれていた自分が、リュウへ刻み返した。
それは、やはり必要だった。
必要だったから、した。
大胆だったけれど。
恥ずかしいけれど。
精神に大ダメージだけれど。
春麗は、深く息を吐いた。
「……次は」
言いかけて、止まる。
次は、どうするのか。
また勝てるとは限らない。
むしろ、負けるかもしれない。
リュウは必ず修正してくる。
今日の敗北を覚えて、次はもっと深く来る。
春麗がようやく勝った一撃も、次は読まれるかもしれない。
それが現実だ。
今日の勝利は、永遠の優位ではない。
たった一つの白星。
だが、その一つは本物だ。
だから、大事にすればいい。
勝ち越しなど考えない。
連勝など考えない。
まずは、今日の勝利を持つ。
今日、リュウに印をつけた自分を、なんとか持つ。
春麗は顔を上げた。
鏡の中の自分は、まだ少し赤い顔をしている。
春麗はその自分に向かって、小さく言った。
「……次に会っても、普通にしなさい」
無理そうだった。
かなり無理そうだった。
だが、言うだけは言っておく。
「聞かれても、ただの印だと言いなさい」
これも怪しい。
「忘れないと言われても、落ちない」
もっと怪しい。
春麗は、しばらく鏡を見つめた後、小さく笑った。
自分でも呆れるくらい、面倒な顔だった。
でも、その顔は、負け続けていた頃の自分とは少し違っていた。
敗北だけではない。
今日の勝利がある。
リュウに刻まれた自分だけではない。
リュウに印を残した自分がいる。
春麗は立ち上がり、窓の外を見た。
夜は静かだった。
リュウも、今頃どこかで今日の試合を思い返しているのだろうか。
春麗の印を。
額に触れた指を。
忘れないでと言った声を。
そして、自分が負けたことを。
「……覚えていなさいよ」
小さく呟く。
言ってから、春麗はまた顔を熱くした。
「だから、重いのよ……」
それでも、取り消さなかった。
忘れてほしくない。
それは、もう認めるしかなかった。
春麗は静かに目を閉じる。
精神は大きく削られたまま。
けれど、倒れはしない。
今日の勝利が、まだ胸の奥に残っている。
大胆すぎる印も。
リュウの「忘れない」も。
全部、まだ持てる。
持つしかない。
春麗は、夜の窓辺で小さく息を吐いた。
リュウ。
あなたが最初に私へ刻んだ。
だから、今日、私もあなたへ刻み返した。
それだけ。
それだけのはず。
そう言い聞かせながら。
春麗は、次にリュウと会った時、自分の指がまたあの額を思い出してしまう予感から、最後まで逃げられなかった。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『本ログは、敗北始動の青が初勝利した後、その勝利の印を自室で受け止め直す内省ログです』
『春麗は勝ちました』
『しかし、勝ったことで楽になったわけではありません』
『勝ったことで、自分がリュウに何を望んでいたのかを認識しました』
『リュウに勝ちたかった』
『リュウに今日の勝利を覚えてほしかった』
『リュウに、自分に負けたことを忘れないでほしかった』
『その願いの重さに、春麗は夜になって被弾しました』
一拍。
『最終分類』
『ディレクターズカットIF』
『第1話敗北ルート後続検証』
『初勝利後内省ログ』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回の内省回はかなり必要な「現実化」の回です。
このエピソードの一番大きなポイントは、春麗がようやく勝った後に、勝利そのものではなく、勝利後の自分の行動に撃ち抜かれている ところです。
試合場では、勝利の熱があります。
ずっと負け続けてきたリュウが片膝をついている。
自分は立っている。
ようやく勝った。
その瞬間は、勢いで「印」をつけられる。
でも自室に戻ると、リュウはいない。
勝利の熱も少し冷める。
そこで初めて、「私は何をしたの?」となる。
ここが非常に春麗らしいです。
リュウに勝った。
そこまでは格闘家として処理できる。
でも、リュウの前で膝を折って、同じ目線になって、額に触れて、「忘れないで」と言った。
これは格闘家としての勝利確認だけでは済まない。
春麗自身も、それに気づいてしまう。
返済。
刻み返し。
勝者としての確認。
今日の勝利を覚えさせただけ。
そうやって分類しようとするのですが、どれも微妙に重い。
だから最後に、
全部、重いじゃない……
となる。
この自己ツッコミがすごく大事です。
春麗は、自分の行動の意味の重さを理解している。理解してしまうから精神が削れる。
また、この回でよかったのは、春麗が「やらなければよかった」とは思っていない点です。
大胆だった。
恥ずかしい。
精神に大ダメージ。
かなり重い。
でも、後悔はしていない。
ここがこの春麗の本質です。
もしあの瞬間に戻っても、また近づく。
また膝を折る。
また額に触れる。
また「忘れないで」と言う。
つまり、印は衝動だったけれど、不要な衝動ではなかった。
春麗にとって必要な行為だった。
この「必要だったから、した」という整理が非常に良いです。
なぜ必要だったのか。
それは、春麗がリュウに負け続けた時間を、ただ消したかったわけではないからです。
初勝利で全部を帳消しにする話ではない。
むしろ、負け続けた記憶があるからこそ、今日の勝利をリュウにも覚えてほしかった。
ここが今回の核心です。
春麗は、リュウに勝ちたかった。
でもそれだけではない。
リュウに勝った春麗を、リュウの中に残したかった。
これはもう単なる競技上の勝敗ではありません。
かなり個人的な欲求です。
そして、この個人的な欲求に気づいたから、春麗は「重い」と感じる。
この回の春麗は、自分のめんどくささをかなり自覚寸前です。
ただし「好意」とはまだ言えない。
彼女の中ではまだ、屈辱、返済、記憶、勝利、印という言葉で処理している。
でも執筆者視点では、もうかなり危うい場所まで来ています。
特に、
覚えていたら困る。
忘れていたら許せない。
ここは非常にめんどくさい春麗です。
リュウが次に会った時に「この前の印は覚えている」と言ったら精神HPが落ちる。
でも、もし忘れていたら許せない。
これは完全に「自分の行動を相手の中に残したい」感情です。
つまり、リュウの記憶の中に自分の場所を確保したがっている。
この世界線の春麗にとって、印は物理的な接触ではなく、記憶へのマーキングです。
額に触れたこと自体よりも、
「今日、私はあなたに勝った」
「忘れないで」
「忘れない」
このやり取りをリュウの中に残すことが重要。
だから自室に戻ってから、精神的に来る。
また、リュウが逃げなかったことも大きいです。
もしリュウが戸惑ったり、茶化したり、拒んだりすれば、春麗は怒りや恥ずかしさに逃げられます。
でもリュウは全部受けた。
印も。
勝利も。
「忘れないで」も。
そして、ただ短く、
忘れない
と返した。
これが春麗への最大ダメージになっています。
勝ったのは春麗。
攻めたのも春麗。
印をつけたのも春麗。
それなのに、リュウの「忘れない」で春麗が撃ち抜かれる。
春麗が一方的に勝者として支配しているわけではない。
リュウの誠実な受け止め方が、春麗を逆に逃げられなくしている。
次はまた負けるかもしれない。
リュウは必ず修正してくる。
今日勝てた一撃も、次は読まれるかもしれない。
春麗もそれを分かっている。
だから、今回の勝利はたった一つの本物の白星 として扱われています。
「今日は一つ勝った。でも次は分からない。だからこそ今日の勝利を持つ」
という現実感がある。
この一勝は、春麗を無敵にしません。
でも、春麗を少し変えます。
負け続けていた春麗ではなくなった。
リュウに刻まれただけの春麗でもなくなった。
リュウに印を残した春麗になった。
この変化が静かに大きいです。
今回のエピソードの役割を整理すると、こうです。
第1話敗北でリュウに刻まれる。
何度もギリギリ負けて、リュウへの執着が深まる。
ようやく初勝利する。
勢いでリュウへ印をつける。
帰宅後、その大胆さと重さに気づいて精神を削られる。
でも後悔はしない。
次に会うのが怖いのに、リュウが覚えていることを望んでしまう。
春麗が一歩踏み込んだあと、その一歩の意味を自分で理解してしまい、後から倒れかける。
この遅効性ダメージが、春麗のめんどくささを非常に綺麗に出しています。
結論として、今回のエピソードは 「勝利の余韻」ではなく「勝利後の自爆」回 です。
春麗はリュウに勝った。
印もつけた。
勝者として踏み込んだ。
しかし、その踏み込みの意味が夜になって戻ってくる。
そして、春麗は思う。
大胆だった。
重かった。
でも、必要だった。
覚えていてほしい。
でも覚えていると言われたら耐えられない。
この矛盾こそ、この第1話敗北世界線の春麗の一番おいしい部分だと思います。